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誘う唇



何で彼奴の唇を見ると心がざわめくのか、解らなかった。

元々、俺は刀であって、今でも自分は武器だって気持ちの方が強いから、人の感情の機微とか俗なものには疎かった。

だから、ふと最近感じるようになったこの違和感がよく解らず、頭を悩ませた。

俺はこの本丸に来てだいぶ長いが、未だに人の事が解らなかった。

正確に言えば、理解しようともしなかったと言うべきだろうが。

ともかく、今向けた視線の先にある奴の…主の唇を見た瞬間にざわついた訳を知りたい。

が、何となくこういう話題を誰かに問うのは憚られて、他のそういう事に詳しそうな奴に訊くのも訊けないままでいた。

どうにかして、自分の内で解決出来ないものか。

無い頭を捻っては悩んで、それに納得し得る相応しい答えを出せず、結局俺達に人の身を与えた主自身に問う事にした。


「なぁ、主…ちょっと良いか?」
『はいな。ちょいとお待ちなせぇや。』


夜も更けて短刀共が主から離れ、主が一人になる時間を狙って部屋に訪ねれば、中でごそごそと物を片付ける音と共に奴独特の気の抜けた返事が返ってきた。

主は偶に、何処のとも知れぬ言葉遣いで喋る時がある。

以前、その変な言葉遣いは何だと問うたら、アニメやら漫画やらの色々な影響を受けたせいだと言っていた。

相変わらず、変な奴という印象は拭えねぇ。

暫くして、散らかしていた物を片し終えたのか、入室して良いとの了承が返ってくる。

其れに対して、「入るぞ。」と短く断りを入れてから部屋に入った。


「何か音してたけど…何してたんだ?」
『ん〜、ちょっとした物の整理?』
「こんな時間にか?」
『あはは〜っ、ふと思い出した物を見たくなって探してたら、何処仕舞ってたか忘れちゃってて…。駄目だなぁ、まだ若いのに…すっかり物覚えが悪くなっちゃって。嫌だわ〜、オバサンくさくなっちゃうとか。』
「あっそ…。俺には関係無ぇが、あんま夜寝る前なんかに物整理なんかすんなよ。大きい物音とか立てて短刀の奴等が起きてきたらどうすんだ?」
『すまん…。どうしても気になっちゃったら眠れないと思ってさ。次は気を付けるよ。』


風呂からも上がって寝る準備も済ませてたのか、主は既に寝間着の格好だった。

最近はめっきり寒くなっちまったせいで、俺達とは違う現世から持ってきたっつう洋装のぱじゃま…?とか言うヤツだったか、もこもことしてて暖かそうなのを着てた。

其れでも寒いのか、肩には半纏が掛けられていた。

部屋の中も、冷え切った廊下とは違って何処か暖かかった事に入ってから気付く。

まだ一年として季節を巡ってないこの本丸で過ごしてきて初めて迎えた冬というものだったが、別段悪い気はしなかった。

寒さで身体が思うように動かなくなるってのは、正直面倒くせぇ事だと人の身を得て思ったりしたけど、動きゃあったまるんだと解ればどうとでもなると思った。

冬というものを初めて迎えたが故に解った事だが、ウチの主は冬になると寒がりになるらしい。

着込みまくって着膨れするから、遠くから見たら丸っこい何かが動いてるようにしか見えねぇ。

言ったら怒るかもしんねぇから言わないでおくが。

そんな下らない事を頭の片隅で考えながら眺めてると、急に黙っちまったからか、不思議に思った主が首を傾げた。


『…?何か私に用があって訪ねてきたんじゃないの?たぬさん。』
「あ?お、おぉ…そうだった。」
『何の用か解りましぇんけど、ワテに出来る事なら何でも聞きまっせ!』


また訳の解らねぇ喋り方で俺の返事を仰いだ。

頼むから、その変な喋り方やめてくれ…調子狂うから。


「あ゙ー、まどろっこしいのは苦手だから単刀直入に言うが…怒んなよ?」
『用件にもよるけど…まぁ、どうぞ。』
「…最近、アンタを見てるとアンタの唇が気になって仕方ねぇ。」
『は…………?』


胸の内で思っていた事を要約して口にすれば、主は素っ頓狂な声を出して目を見開いていた。

言葉が足りなさ過ぎたか。

心なしか身を引いている奴に対して、言葉を付け加えた。


「あ゙〜…別に、アンタの事を取って喰おうとか、そういうのじゃねーから。何っつーのかな…こう、何か気になるんだよ!…たぶん。何て言い表しゃあ良いのか、言葉で表現すんのが苦手な俺にはどう言や良いのか解んねぇ…っ!」
『……え〜っと、つまり…よくは解らないけど何か気になって仕方がない、という事でおk…?』
「嗚呼…それで良いよ。俺にも解んねぇから。」
『うーん…問題は、何で気になるかだよね?』
「おう…。俺は人の事なんざ疎いから、人であるアンタに訊いた方が早ぇと思ったんだよ。」
『おおぅふ…っ、愚直にも真っ直ぐ過ぎるぞたぬさんよ…。』


あまりにも直接的過ぎる物言いで聞いたら、些か呆れたような反応をもらった。

だが、人の事に疎い俺には解んねぇんだからしょうがねーだろ。

そういう風にしか訊けない自分も悪いってのは解ってるけどよ…。

俺に問われてうんうんと一頻り頭を捻っていた主は、ふと何かの答えに思い至ったのか、俺の方を見て考え込む時の姿勢を取った。


『もしかすると…私の唇がテカテカ光って見えるから、とかじゃないかな…?』
「…あー……言われてみるとそうかもしんねぇ。」
『たぶん、そうだよ。ほら、ここ最近めっきり寒くなっちゃったから、空気物凄く乾燥するじゃない…?それで、ケアしとかないと痛い目遭うからって、リップクリームっていう一種の保湿ケア用のお薬的な物を塗ってたのよ。』
「りっぷくりぃむ……。」
『うん。コレ塗ってると、油物食べた時みたいに唇テカテカして見えるたりするんだけどね。唇の乾燥を防いだり出来るし、私が使ってるのはいつも薬用のリップだから、乾燥で唇切れたりとかしても使える生薬みたいな物にもなるの。』
「へぇ…。」
『だから、それで気になっちゃったんじゃない…?冬は、何もケアしてなかったら乾燥してカサカサになっちゃうし。リップ塗ってたら、何時でも潤ってて、例え大口開けて欠伸したとしてもビキッ!てひび割れたりしないもんね〜。』
「例えが大口開けての欠伸かよ…。」
『え〜、でもついやらかしちゃわない?油断しててさ。』


確かに、俺に人の身を与えた奴自身に言われて気が付く事に、内心頷く俺が居た。

だが、まだ何となく腑に落ちないというか、納得しきれてない俺も居た。

いまいち理解してないっつー面をしてたんだろう、奴が俺の頬に向かって手を伸ばしてきた。


『まぁ、たぶんとは言ったから、自分自身よく解ってないのに言われたってよく解んないだろうけど。たぬさん、一度もケアとかしたりしてないだろうから…ほら、唇の端々切れたまんま。おまけに、乾燥しまくってガサガサだし、切れたとこから血滲んでるのも放置してるから固まっちゃってるし。』
「っおい、変に触るなって…!イテェッ。」
『嗚呼、ほら言った側からひび割れ出来ちゃってる…。幾ら男と言えども、ある程度はちゃんとケアしとかないと痛い目見るよ…?』
「んなモンどうだって良いんだよ。俺は武器なんだから、見た目とか気にしたってしょうがねぇだろ?俺は見目を整えるとか気にしねぇし、どうでも良い。武器は戦えりゃあ其れで良いんだよ…。」
『そんなん言ってるから、こんな傷だらけになるまで唇放っておいたんでしょ…?もう、少しは頭の片隅にでも入れときなさいな。こんなガサガサになるまで放っとくなんて…よく痛くなかったね?』
「戦で傷負うのに比べりゃ屁でもねぇし、掠り傷の内にも入らねぇよ。…ってか、触るなって!あと近ぇっ!」
『今私が触って痛いのは、何の対処もしてこなかったたぬさんの自業自得だよ。全く、ちょっとは清光達を見習いなよね…?唇だって、ちゃんと保護しないと冬は乾燥しちゃって痛いんだから。丁度、買い置きの二個入りのヤツあったから、其れ一個あげるよ。』


俺の傷だらけの顔に触れてジロジロ間近で見てくるモンだから、気が気じゃなくて落ち着かねぇ。

早く離れろと顰めっ面で応対していると、何を思ったのか、部屋の片隅に移動し奴が使ってるとか言うりっぷくりぃむやらを取り出してきた。


『はい、コレ。たぬさんの事だから、あんまりマメに付けるって事はしないだろうけど、せめて寝る前くらいは付けてケアしてね。じゃないと、見るだけで痛々しいくらい唇ガッサガサに荒れてるから。』
「いや、俺にはんなの必要無ぇって…。」
『どうせ、たぬさんももう寝るんだろうから、来たついでに塗っといてあげるよ。ほら、ちょっと此方来な?』
「良いって、んなモン…っ。」
『こら、動かない。じっとしてろ!』
「ゔぇ゙っ、沁みる…ッ。」
『喋るなぁー。そりゃ、こんだけ荒れてりゃ沁みるに決まってんでしょ?』


また俺の顔を引っ掴んだかと思ったら固定されて、リップとか言うヤツを唇に塗られる。

あまりにも奴が至近距離で近いせいで、心臓が暴れて血が沸騰するみたいに身体が熱くなる。

何で此奴が近付いただけでこんな意識してんだ、俺…ッ。

喋るのも封じられて、数秒間大人しく唇を突き出すみたいな形で固まっていると、気が済んだのか、主は漸く俺から離れた。

唇に何かが塗られた感触で違和感が半端ない。


「…何かスースーする…。」
『メントール入ってるからね。私のは、ド定番の薬用リップだから、無色無香料の完全保湿用だよ。ただ、何処にでも売ってる普通の安いヤツだから、保湿力高い良いヤツと比べたら少し劣るけど。まぁ、あんまりベタベタしないのは良いんだけどね。』
「何か薄荷みてぇな匂いだな…。」
『当たらずも遠からず、かな…?まぁ、近い匂いはするよね。メントールって湿布薬にも入ってるし。』
「ふぅん…。」


塗った後に、奴が持ってるスタンド式タイプとか言う鏡で口許を見せられた。

すると、ここ最近見ていた奴みたいに唇がテカテカと光っていた。

うん…言われた通り、酷ぇ荒れ様だった。

我ながら此れはヤベェわ…。

ふと、奴の口許を見て思った。


「あれ…アンタは今付けてねぇんだな?」
『嗚呼、うん。ご飯食べたり色々した後で取れちゃったし、その後も塗ってなかったから。何時も大体寝る直前に付ける事が多いし。』
「触ってみても良いか…?」
『へ…?』


奴の返事を聞かない内に手を伸ばした。

すると、思っていた以上に柔らかで俺とは違い潤った唇に触れた。

触れた関係で、奴の吐息が俺の指に掛かる。

心なしか、胸の内がざわりとざわめいて頭の奥が妙に冴えた気がした。

触れた唇は、当然血が通っている為に赤く温かく、それでいて柔らかかった。

暫し、ふにふにと奴の唇を弄くって感触を楽しむ。

その間、主は動揺したように動けず、ぎこちない表情のまま固まっていた。


「………何かそそるな、この血の通った赤さって。」
『は………!?』


二度目となる素っ頓狂な声を上げる主。

面白いくらいに吃驚したような顔しやがって、其れでも主かよ…?と問いたくなった。

まぁ…奴の唇に直接触れて、気分が良かったのは事実だ。

何でか解んねぇけど、モヤモヤと悩んでた事が解決してすっきりしたところで、奴の唇から手を離す。

離した後も、主は呆けた顔のままだった。


「…っうし、用は済んだ。問題も解決したし、部屋戻って寝るわ。嗚呼、此れ…ありがたくもらってくな。」
『お、おぅ…。』
「んじゃ、おやすみー。アンタも、風邪引かねぇようにちゃんと布団着て寝ろよ。」
『あ、うん…寝ます…。おやすみんしゃい…。』


自室に戻ってから、主に貰ったリップクリームを机の引き出しに仕舞う。

遣る事も無いからさっさと寝ようと寝る用意をしていたら、同室の御手杵に問われた。


「何か機嫌良さげだなぁ…良い事でもあったのか?」
「あ?何で…?」
「だって、今のアンタすげぇ笑ってるもん。」


…まぁ、気分が良かったのは否定しない。


執筆日:2019.01.03