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無欲から生まれた欲



※「誘う唇」の続きです。


「やっぱり、アンタの唇を見てると変な気分になる。」


其れは、仕事の合間の休憩から戻る道すがら、出逢い頭に言われた言葉だった。

何時もの仏頂面をぶら下げた顔で、でも少しだけ困惑が入り交じったような、そんな困った風な表情で返答を求めるたぬさん。

会話の内容から察するに、恐らく、この間の遣り取りについての延長な話だろう。

だがしかし、いきなりそんな話題を吹っ掛けられた私は、憚らずに思いっ切り動揺した様を晒した。


『うぇ…っ?な、何、急に……っ?』
「だーかーら、アンタに貰ったリップ付けてても特に変わんなくて、乾燥だとかケアしてるとかが原因じゃなかったってー話だ。」
『え…、ええぇ〜……っ?じゃ、ど、どうしろってんですかぁ…?』
「俺の唇がどうあろうと関係は無ぇんだよ。要は、アンタの唇じゃなきゃ駄目だったって事だろ。」
『はぇ………?いや、意味解んないんすけど…。てか、前にも言ったけど、たぬさん言う事がストレート過ぎるよ……っ。もうちょいオブラートに包んで言おうとかって考えは無いのか…?あと付け加えるなら、内容が内容なだけに、こんな誰にでも聞かれそうな場所でそんなデリケートな話題出さないの。…まぁ、自分の事故にあんま気にしてないのかもしんないけども。』


偶々、他の人は誰も居なくて、偶然にも私達だけだったから良かったものの…もう少し、そういう点についての躾というか、お勉強的なものをさせた方が良いのやら?

目下考えるべき思考とは別に、そんな事を考える。

手には、休憩の合間に受け取った頼んでいた資料の巻物とおかわりの紅茶が入ったマグカップ。

前方には、真っ直ぐと此方を見遣ったまま譲らないたぬさん。


(…進行方向を妨げられてちゃ、仕方がないか。)


あまり気の向かない案件ではあるものの、彼も大切な自身の部下の一人だ。

そんな彼が人の身体について悩んでいる事があるのなら、与えた身である分、此処は一つ聞いてやっても良いかと心を決める。

それでも、一応仕事の最中である事には変わらないので、小さく溜め息を吐くに留めて了承の意を伝える。


『…解ったよ。話聞いてあげるから、一先ず部屋に行こう。一度、手に持ってる物も置きたいしね。』
「おう。」
『けど、まだ仕事は終わってないから、今やってるのが一区切り付いてからで良い?』
「おう、其れで構わねぇよ。」
『なら、部屋向かうついでに、たぬさんの分のお茶貰ってきなよ。どうせ、今やってんの片付くまで待ってんの暇だろうし、話するのにお茶はあった方が良いでしょ?』


そう告げると、話を聞いてくれると解ったからか、大人しく従ったたぬさんはその場から身を退けてくれた。

道が通れるようになった事で、止めていた足を再び動かし始める。

さて、改めて話をするとは言ったが、どうしようか。

特に何の手立ても無しに進めてしまった故、考え無しである。

まぁ、対策のしようが無い訳ではないので、考えればそれなりに対応は出来るとは思うのだが…話の内容が内容なだけに、此方も幾分憚られるのだ。

こんな時に限って乙女の恥じらい的なものが出てこなくても良いだろうに。

しかし、女の身として生まれた以上、仕方がない事なのかもしれない。

加えて、互いに成人した見た目であるという点においても、そういった話題が何時しか飛んでくる可能性が無い訳ではない事も。


『…非常に口にし難い話だ…。』
「何のお話ですか?」
『いや…ちょっとした私事な話だよ。』
「何か悩み事ですか…?相談事なら、お聞きしますよ?」
『ん、大丈夫。そういうんじゃないから、前田君は気にしないで…?あ、そうだ。後でたぬさんが話があるって事で部屋に来るけど、今やってる分が片付いてから話すから。それまでたぬさんも此処で待つだろうけど、気にしないでね。たぬさんとお話する時になったら、ちょっと退室してもらう事になるかもだけど…良いかな?』
「そういう事でしたら、解りました。同田貫さんとお話する時分になりましたら、お声がけください。」
『ありがとう、前田君。』


聞き分けが良く察しの良い前田君の頭を撫でつつ、中断していた仕事を再開した。

再び仕事に手を付け始めたところで、件のたぬさんが部屋へと入室してくる。

前田君には前以て話を通してあったので、彼との受け答えもすんなり済んでいるようだった。

そうして、ある程度仕事を進め、そろそろ約束の一区切り付く頃になったところで、近侍で共に作業をしてくれていた前田君へ声をかける。


『よし…。それじゃ、申し訳ないけど、前田君…。』
「はい、お話のお時間ですね。解っています。僕は退室しますので、僕の事はお構い無く、ごゆっくりお話なさってくださいね。」
『仕事もまだ途中なのに、ごめんね?』
「いえ。皆さんのお話を聞くというのも、本丸の主である主君の務めですから。では、僕は別室に控えてますので、何かあればまたお声がけください。」
『うん。終わったら呼びに行くね。』


気遣いに満ちた言葉に、きちんと一礼してから退室していった前田君。

見た目は小さくとも礼儀正しく紳士的なのは、粟田口派の特徴故か。

別に心を傾けている訳ではないが、惚れ惚れしてしまうのは何故だろうか。

いかん、思考がズレた。


『ではでは、お待たせしましたね、たぬさん。』
「んじゃ、早速話に入っか。」


一時仕事は中断して、座布団を突き合わせ、互いに体勢を向き合わせる。


『で、話の内容だったけど…私の唇見てると何か変な気分になるっていう話で良かったんだっけ?』
「おう。」
『何て返したら良いんだかなぁ〜…っ。ぶっちゃけ、その変な気分がたぬさんにとって良い意味なのか悪い意味なのか解んないんだよね。直球で聞くけど、そこんとこどうなんすか…?』
「あ゙…?どうって言われてもなぁ…俺自身もよく解んねぇんだよ。良い意味か悪い意味かってなったら、たぶん悪い気はしてねぇんだろうけど…。」
『ゔ〜む…どうしたものか…。何となく、事の方向性は予測付くのですけど、その方向性については私もあまり自信が無いというか、疎いと言いますかなぁ…うん。まぁ、そんなところなんだよね。』
「は…?どういう事だよ?」
『えっとね、言ってしまうと…もしかすると、たぬさんが悩んでる事の方向性は、男女のいろは…要は、色恋沙汰若しくは男性故の本能・生理現象なのではないか、と…。』
「………は?」


そう言うと、たぬさんは固まるように言葉を失った。

うん…でも、たぬさん自身の事だから、ちゃんと自分と向き合って解決しない限り、事は解決しないからね。

男女のいろはについてなんか、私自身ですら疎い話題なんだから。

…というか、ぶっちゃけ避けてきた話題だけど。

だって、色恋沙汰とかの話題なんて、私にとって縁遠い話題だったし。

恋愛なんて、生まれてこのかた二十数年一度もした事が無いのだし。

つまり、彼氏居ない歴=年齢。

そりゃ疎いし、何か自分の中で興味薄くて避けてた話題ですよ。

まぁ、あと刀剣男士との恋愛とか、実際やってる方居るのは知ってるけど、現実的には面倒な事になり兼ねないから避けた方が良いとお上に言われてるからねぇ…。

とかって自分の中で考えてたら、すっかり話を持ちかけてきた当人のたぬさんを放っておいてしまった。

内心焦って慌ててたぬさんの方を見遣ると、下を俯いたまま腕組みして考え込んでいた。

たぬさん自体もずっと無言だったから、つい自分の世界に入りかけていたよ…危ない危ない。


『で…何かしら自分の中で答えらしきものは出たかい?』
「うーん…いまいち理解はしてねぇが、自己分析してみたところ…たぶん、俺はアンタの事を少なくとも好ましい奴だと思ってるらしい…。」
『え…。』
「んでもって、どうやら色恋沙汰的意味でも、アンタの事を対象と見てるみてぇだな…。」
『は……?』
「で、男と女のいろは的意味でも、俺はアンタしか対象に見てねぇらしい。」
『What…?』
「つまり…俺は、アンタの事を主従関係云々を抜いて好いてるって事だな。」


なん、だ、と…?

あまりの状況に絶句してしまった私は、淡々と物事を語ったたぬさんの事を凝視した。

自己分析した結果、事を理解したたぬさんはすっきりしたのか、それまで俯かせていた頭を徐に上げた。

其れだけの動作なのに、異様に反応してしまった私は変に身体をビクつかせる。

やばい、コレはものごっつ動揺してるぞ…っ。

いやいや、何動揺してんだ自分!

別に、どうもしないで良い場面だろう今のは…!!

変に動揺してしまっている私の方を、たぬさんが真っ直ぐに視線をぶつけてくる。

これまでも思ってたけど、たぬさんって人の事見る時真っ直ぐ見てくるよね…!

今程思う事は無かったけども!!

気まずい事この上無い状況に、思わず顔を背けてしまうのを今だけは許せ。


「…と、いう事だが…どうすんだ?」
『え…っ!?な、何をですかな…!?』
「何でそんなに動揺してんだよ。アレか?初心とか言うつもりか…?」
『つ、つもりも何も…っ、私、恋愛関係は一切未経験なんで初心に決まってるじゃないですか…っ。』
「え?そうだったのか…?」
『え?』


互いに固まり、妙な間が空いた。

そして、気まず過ぎる沈黙が降りた後に其れを破ったのは、たぬさんだった。


「…意外だな。てっきり、俺は一度くらい誰かと付き合ったりしてんのかと思ってた。アンタくらい顔が良いなら、周りの男は声かけるんじゃねーかと…。」
『いや、無いでしょ!俺の何処見て言ってんの…!?俺みたいな奴、其処ら辺何処にでも居るからね!?それに、私どちらかと言うと近寄り難いタイプらしいし。』
「俺はそうは思わねぇけどな。ソイツ等の見る目がねぇだけじゃねーか?」
『おっま…っ、何でそんな事軽く言うかな…!って、な、何故此方に近付くのかな?』
「ぁあ?何でって…アンタの事好きだって解ったからだろ。」
『めっちゃ急だな…ッ!!そんで近過ぎる距離故に慣れねぇな!?つか、マジで近いッッッ!!』
「あ゙?んなモンその内慣れるだろ。それよか…。」
『うわわわわ…っ!?近い近い近いぃーッ!!』


人一人分くらい余裕に空いてたスペースを急ににじり寄ってきたたぬさん。

突然詰められた距離に、座っていた足を崩しつつ身を仰け反らせるが、それ程空いていなかった距離故にすぐに詰め寄られた。

近寄ってきたたぬさんは、不意に私の方へと指を伸ばしてきて触れようとする。

何か急な展開過ぎて色々と限界な私は、其れを寸でで遮った。


『ちょ…っ、待って待って…!次は何するつもりですか!?』
「何って、さっきの話の続きだよ。始めに言ったろ?アンタの唇見てたら変な気分になるって。其れってさ、アンタの事好きだから、アンタに触れたいとか口付けてぇとかって感情から来る気持ちって事だろ…?要は、アンタに懸想を抱いてる訳だ。なら、さっさと口吸いするなり何なりすりゃ、話は早ぇ。」
『私の意思は…ッ!!そこに私の意思はねぇのか…ッッッ!?』
「あん…?今恥ずかしがって逃げようとしてる時点で決まってんじゃねーのかよ。アンタ自身、少なからず俺の事好いてるんだろ…?事実、俺が好いてるって言った途端、顔真っ赤になってるぜ?隠してるつもりかもしんねぇけどな。」


ニヤリと間近で笑んだたぬさんの威力や否や、脳内でビッグバンでも起こったがように爆発が起こっている。

もう何を言っているのか、自分でもよく解らなくなってきて、いよいよ色々とマズイぞ。

混乱に内心ぐるぐると目を回していると、塞いでいた腕を掴まれ、顎を掴まれる。

既にキャパオーバーで涙目になっている顔を上げさせられて、更に羞恥が増した。


「っつー訳だから、アンタの唇、俺が貰っても良いよな?」


もう零距離にまで近寄られていて返事を返す余裕すらも無い状況で、うん、との肯定を示す暇なんか無かったのであった。


執筆日:2019.01.23