愛しい呼び名を乞う
「―ねぇ、
ふと彼の名を呼ぶ。
すると、また以前の“審神者と刀の主従関係だった頃”の呼び方で呼んでしまう事があった。
別に、今の呼び名に慣れていない訳ではない。
まぁ、ちょっとまだ舌に馴染み切っていない感はあるが…。
何でか不意に昔の呼び名が口を突いて出る事があるだけだ。
今やすっかりお互いただ人の恋人同士という仲なのに。
馴染んで染み付いてしまったもの…癖、というヤツだろうか。
視線を落としていた誌面から顔を上げて彼の方を見てみると、何処となく不満げに顔を顰めた彼がムスッとした口調で口を開いた。
「…そうじゃねぇだろうよ」
「あぁ…うん、御免ね。すっかり癖付いちゃってたもんだから、つい」
「いや、まぁ…そりゃ分かってんだけどさァ。…今更変に前の呼び方されんのもちょっとなぁ……って」
「うん、呼ばれた側としちゃ微妙だよね。御免て。悪気は無かったんだから許してちょ」
そう言って隣に腰掛けていた彼の頭に手を伸ばし、わしわしと頭を撫でてやれば、少なからず機嫌は改善されたようである。
しかし、やはりまだ不満だったのか、撫でる手は止めずに此方をジト目で見つめてきた彼がぼやく。
「名前…もっかい呼んでくれよ…」
「え?…は、うん。どうしたの、藤原氏よ…?」
「いやだから、そうじゃなくてさァ…」
ムッと口を尖らせてあからさまに不満を訴えてくる反応に、要領を得なかった思考が「うん?」と首を傾げた。
そうじゃないならば何と呼ぶのが正解だったの?
視線のみでそう訴えかけてみたら、彼は恥ずかしげに目を逸らして口を開く。
「…苗字じゃなくてさァ、」
まるで、『その先は言わずとも分かるだろう、察してくれよ馬鹿…っ』とばかりに露骨な態度で言われて、初めて彼の意図を理解した。
嗚呼、そうか。
茶化しとか無しで、今の呼び名で呼び直すのが正解だったのか。
自分から呼んで欲しい名前を呼んでくれと
柄にもない事をしている自覚が有り過ぎて気まずいのか、目を逸らす彼の頬は仄かに赤く染まっていた。
全くなんて可愛らしい真似をしてくれるのやら。
私自身、未だに彼の名を下の名前で呼ぶのを恥じらっていたから、お互い様か。
撫でていた手を止めて赤く染まった彼の頬に手を伸ばすと、擽ったげに目を細めて応じる。
どうやら嫌ではないらしい。
そのまま柔くむにむにと頬に触れ、刀の時から残る傷痕を慈しむように撫ぜた。
すると、その如何にもな触れ方に堪え切れなかったように私の手を掴んだ彼がまたジトリとした目を向けてきた。
嗚呼、なんて可愛らしい反応を返してくれるのか。
とうとう緩んだ口許が彼の望む呼び名を口にした。
「ふふふっ…なぁに、まささん?」
「…初めからそう呼んどきゃあ良いんだよ…っ」
「んふふ、御免て…っ。お詫びに私からキス一回だけしてあげるから、其れで許してよ」
そう言って膝の上に置いていた雑誌を他所に退けて彼と向き合い、彼の首に両手を絡ませれば、其れに応じた彼が私の身を引き寄せて覆い被さるように抱き付いてきた。
「一回だけで足りるか、バァーカ」
「あら、欲しがりなんだから。…でも、良いよ。好きなだけキスして」
一先ず、さっきは機嫌を損ねさせて御免ねのキスを贈ったら、宣言通り物足りないという態度で更なる口付けを求められた。
知らない内にこんなにも求められていたなんて、幸せ過ぎて参っちゃうな。
息継ぎをする合間に「まささん、」と愛しさを込めて呼べば、応えるように口付けを深くした彼が私を掻き抱く。
愛し愛され尽くすって、きっとこういう事を言うんだろうなぁ。
甘やかな熱に思考を溶かされてハートを飛ばしまくる頭は、すっかり馬鹿になったみたいに彼の事だけを求めて縋った。
次第にソファーへと傾く躰はそのままに彼を受け入れていれば、服の裾から手を差し込んでくる彼が居た。
まだ真っ昼間なのに。
部屋も明るいままカーテンも閉めていないままなのに、やらしい事始めちゃう気なんだ。
でも、今の流れを塞き止める気も起きないから、仕方なくこのまま抱かれてしまおう。
全部全部、彼に委ねて溶かされてしまうように。
参考元:「君の名前を呼んでみた」(641554)