雨風は露に濡れる



―其れは、勤めていた仕事を辞めてからの心の慰めに始めた事であった。

色々と散々な目に遭って辞めた仕事。

入社して一年半程しか経っていなかった。

だがしかし、身に余るハードな仕事故に、職場での人間関係も相俟って身も心も磨り減ってしまった。

辞めた理由は多岐に渡るが、何よりも家庭と仕事に板挟みにされてしまった事が最もな理由だったと思う。

今や、その時の感情とがごちゃ混ぜになって、何れが最もな理由だったかは曖昧だが。

ただ、ひたすらに願ったのは、この苦しみから解放されたいという事だった。

仕事を辞めて、苦しみから漸く解放されたかと思えば、精神を蝕む職場での嫌な記憶。

考えまい、思い出しまいとしようとするも、意図せずに脳裏に過り、私を苦しめた。

だから、何か心を繋ぐ物が欲しいと、以前から聞いていた審神者業なるものに手を出した。

世間一般的には知られていない、ごく一部の人間が知るお役所勤めなる仕事。

簡単なように見えて、実はかなり難しく、様々な憶測と葛藤が飛び交う世界だ。

意を決して、或る画面をクリックする。

すると、時の政府とか言う処に遣える管狐が画面上に現れる。

簡単な面接を終え、「貴女には、審神者になる上での素質が十分にあります。きっと、素晴らしい審神者になれる事でしょう。」と、何とも表面上且つ形だけのお誉めの言葉を貰い、担当となる者の政府の遣いを待った。

程無くして、自身の本丸担当となる管狐が画面上に現れる。


「お初にお目にかかります。時の政府より、本日付けで貴女様の本丸の担当をする事になりました、こんのすけと申します。以後、お見知りおきを。早速ですが、まずは、これから本丸を運営するにおいての注意事項がございます。」


少しの緊張感を胸に抱きながら、何事も説明無くしては始まらぬだろうと、小さな彼を見つめて頷く。

まぁ、何処にでもよくあるような内容で、幾つかの留意点等を聞き入れながら、心の中では別の事を考えていた。

色んな感情が綯い交ぜになって、一つに落ち着かなかったというのは覚えている。


「それでは、此方で名乗るお名前をお決めください。出来れば、本名と分からぬものをお願い致します。」
『はい…、分かりました。(たぶん…神隠しがどうとか、ってヤツだろうね…。)』


取り敢えず、前々から考えていた名前を審神者名とし、本格的に審神者となる為の準備をこなす。


「次に、貴女様が本拠地とする所属国を決めてください。現在、空きがあるのは…備中国、陸奥国、筑前国、伯耆国、肥後国、周防国、肥前国、越前国の八つとなります。その内、空きが少ないのが、備中国と陸奥国と筑前国。後の五つは、まだ空きに余裕がありますよ。」


本拠地の地域を示すのだろう、古き日本の地名が描かれた地図らしき物を、未来の技術で映し出されたモニターで見せられる。

暫し逡巡し、迷った末に、比較的まだ空きのある陸奥国へと決めた。


―其れから、面接に合格した事で軽い適性検査をこなした後に、時の政府施設へと直接赴き、其処で身を清める事になり、綺麗な布で水気を拭ってから清水で浄められた衣服を身に纏う。

審神者とは、神職に纏わる者で、女性の正装は巫女服を着る事になっているそうだ。


「…其れでは、主様の本丸へとご案内させて頂きますね。しっかりと付いて来てくださいまし。」


まだ初めという事もあり、常に本丸に常駐する訳ではないが、本人の意思でその気になれば常駐も可能との事だった。

昨今では、現世の仕事との兼任も主流となっているようで、結構気軽に勤める事が出来るようである。


(思っていた程、厳しくはないのかな…。)


こんのすけから此れからの流れを聞きつつ、回廊を進む。


「主様は…今のところ、常駐なされるおつもりなんですか?」
『え…?まだ、はっきりとは決めてないんですけど…どうしてですか?』
「常駐されない場合は、端末か、代わりの身代わりとなる依代を通して、本丸への指示を行う事が出来るからですよ。先程申した通り、昨今は現世の仕事との兼任をされる方も多いですからね。そういった審神者様方をサポートする為、仕事を遣りやすいようにと政府が処置を取っているのです。なので、あまり堅苦しく思われなくても良いのですよ。」


足元の少し先を行く小さな管狐が、もふもふとした尻尾をふりふりと振りながら此方を仰ぎ見る。


「敵対する時間遡行軍は、今こうしているこの時も正しき歴史を侵略しようと迫ってきています。其れに対抗するには、人手が足らないのですよ。政府は、常に人手不足状態なのです。だから、猫の手も借りたい程で、審神者の素質がある方ならば、人でなくとも動物でも何でも構わないという指針になってきていて…。」
『………。(万年人手不足故にブラック化してきてるとはよく聞いていたけど…。まぁ、全部が全部本当ではないと思うし、悪まで噂上での話であって、本当かどうかは不明な訳だ。)』
「…ので、常に常駐されなくとも、審神者様の依代となる物を置いておけば、その依代が代わりとなって刀剣男士達に指示を出してくれるのです。中には、代理人を置く方もいらっしゃいますが、大抵は何かしらのトラブルが起きて、最悪本丸を乗っ取られたり何たりで崩壊…、なんて事になったりですねー。」
『めちゃくちゃやばい出来事なのに、物凄い淡々とぶっちゃけますね…!(こちとらチキンな上にコミュ障患ってんだから、余計な脅しは止めてくれよ…ッ!!)』


既知の事とはいえ、今まさにその生業へと足を踏み入れようとしている新人に、何て事ぶちまけてくれてんだ、この管狐。

平然とした顔してるけど、実は常日頃から政府に対する鬱憤でも溜まっているのか。


「大丈夫です。そういうのは、ごく一部の本丸で起きた事ですから。貴女様の本丸では、そういった事は起こりませんよ。」
『…何で、そうはっきりと言い切れるんですか…?』
「貴女様の目を見ていれば分かります。」


不意に言われた事が理解出来ずに、首を傾げる。


「貴女様は、とてもお優しいお心をお持ちの御方のようですから。」


淡々とした口調で言われた言葉が、心の奥底へと落ちていく。


「…着きましたよ。此処が、貴女様の本丸となります。そして、此方が初期刀となる刀を選ぶ部屋です。」


案内された一つの部屋に通され、中へ入ると、五振りの刀が展示品の如く刀掛けに掛けられて、それぞれ透明な箱の中に入れられていた。


「既にご存知でしょうが、初期刀として選べる刀は全部で五振りあります。この内の何れか一振りだけ、ご自身のパートナーとなる刀をお選びください。名前の時と同様、一度決めてしまうと二度と変える事は出来ませんので、ご注意くださいね。」


一応、心の中ではどの刀にしようかという事は、既に決めていた。

だが、試しにだけ…それぞれの刀一振り一振りずつに触れてみて、感触を確かめてみる。

感触から、最終的に二振りに絞り込み、二つを並べて見比べてみる。

そうして、心の内で頷き、やはり最初から心に決めていたとする一振りを手にした。


「本当に、其方の刀で宜しいですか…?」
『…はい。この子に決めます。』


手に取ったのは、深みのある艶やかな赤い鞘に、映える黒の装飾の付いた刀である。

手に馴染むような不思議な感覚に、無意識に私は心の中で「宜しくね。」と彼に語りかけていた。


「では…今から、その初期刀となる刀を喚び起こしてみましょう。これから行うのは、顕現と言って、刀に宿った付喪神をその刀を依代にしてこの場に喚び起こす儀式となります。別名、神降ろしという作業ですので、最初の内は力を使うのに慣れていないのもありますし、多少疲れてしまうかもしれませんが、ご安心を。慣れない内は大変でしょうが、時期に慣れていきましょう。さぁ、その刀へ呼びかけるように意識を集中して、力を流し込んでみてください…!」


こんのすけに言われた通りに、刀に手を翳して力を流し込んでみる。

成程、目に見える形ではない為に感覚でしか物を言えないが、確かに、内側から何かが流れ出ていく感覚がする。

此れは、疲れるのも無理はなさそうだ。

すぐに慣れろというのは難しい話だろう。


「主様、貴女様の初期刀が顕現されますよ…!」


その言葉の後に、目の前が一瞬カッと光で満たされた。

目を凝らした先で水面に落ちた、一つの花を付けた桜の枝。

瞬間、ぶわりと桜吹雪が辺り一面に舞い、一つの影が姿を現した。


「―俺、加州清光。川の下の子、河原の子ってね。扱いにくいが性能はピカイチ、何時でも使いこなせて可愛がってくれて…あと着飾ってくれる人、大募集してるよ?」


ひらりと舞った桜の花弁。

ふわりと落ち着いた紅の襟巻きに、凛とした佇まいの黒い装いの華奢な男の子。


『…可愛い。』
「え…っ?」


思わず口を突いて出た言葉に、顕現したばかりの彼がちょっとだけ驚いたような表情を見せた。


「主様…?」
『…あっ、えと…っ、何でもない!気にしないで…っ!』


こんのすけがきょとんとした表情で首を傾げて此方を見たが、わたわたと慌てて手を振って誤魔化す。

元々、彼が可愛いだろうという事は周知の事であったが、まさか此れ程までに可愛いとは…。

既に可愛さがカンストしていて動揺する。

どうしよう、思った以上の可愛さだ。

コレ、完全に女子力負けてるわ…。

そんな思考を頭の片隅で繰り広げていると、すっと歩み寄ってきてくれた彼。

視線を合わせると、彼は真っ直ぐに此方を見つめてきた。


「アンタが、俺の主って訳ね?んじゃ、これから宜しくね。あーるじ…!」
『ッ…!わ、私の方こそ…っ、審神者始めたばっかの未熟者だし、色々不安定なコミュ障野郎だけど……!一生懸命精進していくから、一緒に頑張っていこうね!私の初期刀として、これから宜しくね、清光…っ!!』


互いに交わし合った握手。

何故かは分からないけれども、何だか胸が熱くなって、泣きそうになった。


「さぁ、貴女様の審神者生活が始まりますよ…!彼等と共に頑張っていきましょう!」


こんのすけの気持ちを鼓舞する声が聞こえる。

隣には、寄り添って此れからを支えてくれる初期刀の清光が居る。

あんなにも暗かった世界が、明るくなり始めた。

色が付き始めた世界は、此れからに希望を持たせてくれた。


―其れが、私の最も大切とする彼…初期刀、清光との出逢いだった。


執筆日:2018.07.31
加筆修正日:2020.03.10

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