#11:緋色の視線



―それは、何でもない日で、平凡な日常を送っていた筈の一日であった。

彼女との約束を守る為…。

或る少女の近くに身を置き、何時でも奴等から護れるよう、目を光らせていた。

東都大学院へ通う、工学部所属の大学院生“沖矢昴”という名の男として、彼女の周りに居る小学生の子供達と戯れたり、料理を作ったりなど。

事件が起きたりする事以外は、そんな日常な日々を送る、平和な毎日だった。


―奴等、狼の一員が現れるまでは…。

今日は偶々夕飯を作ろうとした手前、食材が足りなくなっている事に気付き、近くのスーパーへ買い出しに行こうと外出したのだった。

米花町のとある通りの交差点で信号待ちをしていると、突然、小さな衝撃と共に背に誰かがぶつかってきた。

「何かな…?」と後ろを振り向けば、大学生程と思われる女性が、片手に着信音を鳴らしたままの携帯を持って慌てて謝ってきた。

様子を見るからに、恐らく、着信が入った事に気付き、バッグの中から携帯を取り出そうとしたものの…。

予想外に底の方に落ち込んでいて、取り出すのに手間取っていたら前方への注意が逸れ、自分とぶつかってしまった…というところだろう。

相手は自分より若い女性であり、すぐに謝ってきたのもあったので、特に咎める事もせず、ただ。


「―この辺りは、交差点や車通りの多い道ですので、気を付けてくださいね。」


…と、告げた。

彼女の方も十分理解はしていたようで、律儀にペコリと頭を下げ、会話を終えた。

その後、斜め後ろで携帯のディスプレイを開き、着信相手を確認した女性。

チラ…ッ、と少し様子を観察する程度に見ていたのだが、ディスプレイを見つめる彼女の表情が一変した様子に気付き、思わず緊張を走らせた。

何かのトラブルにでも巻き込まれているのか、はたまた事件か…。

妙な胸騒ぎがして、「まさかな…。」という嫌な予感を振り払い、彼女の様子を窺った。

すると、緊張した面持ちで彼女は電話に出て、相手の言葉を待っているようだった。

しかし、相手の言葉を聞いた途端、怯えたような表情になった様子を見て不吉な予感を感じて、彼女の通話する声に耳を澄ました。

次の瞬間、耳を疑いたくなる言葉が聞こえ、思わず彼女の方を顧みた。


『―もしかして、ベルモット…?』


まさかの人物の名前が上がり、最も外れて欲しかった予感が当たってしまったようだ。

現状況を整理する為、もう少し情報が欲しく、用心深く会話に耳を澄ます。


『………OK。但し、色々と条件は付けさせてもらいますよ。自由が利かないのって嫌いですし…何より、縛られるのは大嫌いなので…。で…?私はこれからどうすれば良いんですか?』


何かを依頼されたのか、了承の意を伝える女性。

ちらり、と信号の変わり具合を確認すると、自身の真横に並んできた。

よく見える位置に来てくれたおかげで、彼女が例の女との会話の終始緊張した面持ちで、加えて何処か慎重に言葉を選んで話している事が分かった。

会話の内容を聞いていると、彼女は、どうやらあの女によって引き込まれたらしい事が分かった。

だが、次に聞こえてきた言葉に引っ掛かりを覚え、彼女の様子を探る。


『大学の帰りなので、米花町の辺りですが…。』


彼女は、確かにそう告げた。

米花町で、この道を通るような大学は一つしかない…。

米花大学だ。

つまり、彼女は、大学に通っている本物の学生という事になる。

場合によっては、学生を装っているだけ、という可能性もあるが。

彼女の様子を見るからに、そのような“フリ”をしている様子は見受けられない。


―まさか、俺の正体がバレたのか…?

しかし、もしそうなら…未だ組織に潜入している彼女から連絡がある筈だ。

…もう暫く、彼女の動向を観察する必要がありそうだ。


そう思い、信号が青に変わって歩き出した彼女の後を、こっそり付けていった。

しかし、あまりにも警戒された為、途中で道を逸れ、当初の目的であったスーパーへと向かう道を進む。

恐らく、彼女は、これから例の女に逢いに行くのだろう。


―成る程…。

此方側にも、勘の鋭い輩が放たれたという事か。


上等だ、というような笑みが込み上げ、眼鏡を直すように見せかけ、片手で顔を覆い隠す。

目的であったスーパーが見えてきたところで、僅かに漏れていた殺気を消した。

そして、何事も無かったように装い、店へと入店するのだった。


―時刻は、午前二時を過ぎた頃…。

薄暗い部屋の中、パソコンのディスプレイを眺める彼の端末が、ブルブルと震えた。

酒を飲んでいたのか、傾けていたグラスをテーブルへ置き、着信画面を確認する。

すると、画面には非通知の番号が表示されていた。

未登録の番号である。

彼は構わず通話ボタンを押すと、着信に出た。


「―…はい。」


しかし、彼の喉から発せられた声は、昼間聞いたものとは別の男のものであった。

だが、通話相手は、特に訝しむ事無く話し始める。


<―…私、水無玲奈よ。今、ちょっと良いかしら…?>


相手は、何故か、彼の有名な女性アナウンサーの名を名乗った。

だが、此方も気にせず、言葉を返した。


「あぁ。何か真新しい情報でも入ったのかな…?」
<ええ…。時間も遅いから、手短に話すわね。組織のメンバーに、新たな人物が加えられたわ。>
「ホォ…。ソイツは、どんな奴なんだ…?」


男はディスプレイを見つめたまま、頬杖を付き、次の言葉を待つ。


<現役大学生をやってるらしい、若い女よ…。コードネームは、キティ。外見は、何処にでも居そうな普通の女の子よ。主に、情報収集などを担当するらしいけど…それ以外で詳しい事は、まだ分かってないわ。>
「いや、それだけでも十分な情報だよ。相手が学生という身分であるなら、此方が身を潜めているエリアにも簡単に入り込めるからな…。」
<…今はそれだけ。また何か新しい情報が入り次第、そっちの組織か、貴方の方へ直接連絡するわ。…それじゃ。>
「あぁ…。情報提供、感謝するよ。」


そう言って通話を切った後、男は浮かべていた笑みを深めて立ち上がった。

男が視線を向けた先のディスプレイには、昼間に出逢った女性とよく似た少女に、その父親らしき姿が写った写真が映し出されていた。

写真に写る少女は、昼間の女性よりも幾分幼いもののように見える。


―とうとう、奴等が動き始めたか…。

狼共の手に落ちる前に、手を打たなければな。


窓際に歩み寄った男は、窓の向こうに見える景色を眺める。


―彼と交わした約束を、果たす刻が来たようだ…。


不敵に笑んだ男の眼鏡の奥が、鋭く煌めいた。

此処に、密やかに闘志を燃やす者が居たのであった。


執筆日:2016.06.08
加筆修正日:2019.11.28

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