#17:回想
阿笠さんに告げていた通り、その日は時間も遅かったので翌日に病院へ診てもらいに行った。
かなり強く打っていた為、不安はあったものの、検査した結果はただの脳震盪であると診断された。
ついでに言えば、適切な処置で応急手当をされていたお陰で、たんこぶを作った程度の軽傷で済んだ。
まぁ、ぶっちゃけ言うなら、そのたんこぶと言えども、かなり痛いのだが…。
しかし、一日中冷やし続けていたら大分マシにはなったのであった。
―束の間の気の休める日常が帰ってきた事で、梨トは少しばかり気を緩める。
例えそれが、一日だけの一時的なものだとしても、彼女にとっては貴重な心休める時間だった。
特に何事も起こらず、平和な刻の流れに、梨トはふと幼い頃の記憶を甦らせていた。
先日の件にて、子供達と出逢った際に言われた言葉が、ずっと頭の隅に残っていたのである。
―“梨トさんって言うんですね!素敵なお名前です…!”
それは、顔にそばかすのある、光彦と名乗った少年の言葉であった。
(…あの時の言葉…前にも似たような事を言われた気がするんだけど、誰だったかな……?すぐには思い出せないな…いつ頃の記憶だろう。)
ぼんやりとそんな事を考えている内に、眠りの淵に立っていたようで…。
船を漕ぎ始めた思考は、そのまま深き所へ落ちていった。
―まだあどけなさの残る子供の声がする…。
子供の頃の自分の声だ。
その姿は、背丈が低く、童顔も相まってめちゃくちゃ幼い顔付きである。
更に、発せられる声は、もう大人である今の自分と比べて少し高く、声変わり前のワントーン高い声だった。
顔付きや声音から察して、中学に上がったばかりぐらいの頃の私だろうか…。
近くに、父の声がする。
父親らしい、低く厳格な声だ。
ぽふりっ、頭の上に乗せられた大きな手は、今じゃ感じる事も出来ない…懐かしい父の掌。
頭上で何言か交わされた会話。
よく見れば、父の目の前には男が居た。
記憶の中の一部なのか、その姿は朧気で、曖昧になっている。
分かるのは…男は、見上げる程高い身長に、上下真っ黒の服装を身に纏っているという事。
そして、男にしては長い艶やかな黒髪に…トレードマークとでも言うような黒きニット帽に、目の下の濃い隈。
端から見たら完全にヤバイ奴だと思ったが、父は、そんな彼と親しげに話していた。
ジッと見つめる私の視線に気付いたのか、男は微かに微笑むと、此方と目線を合わせる為か、わざわざ屈み込んでくれた。
バッチリ視線が交われば、堅気の人間ではない鋭さを持った目と合う。
それは、美しく綺麗な深いエメラルドの色をした瞳だった。
「―君が…、彼の自慢の愛娘さんかな?」
初対面の人間には苦手意識が働き、口には出さないものの、こくり、と頷いた自分。
何処か癖のある、耳の奥に響く低音だった。
聴いていて、とても心地好く、落ち着く声である。
「お嬢さんのお名前を訊いても良いかな…?」
人見知りとまではいかないが、父の背に寄り添い、隠れ気味だった私を安心させるような口調で話しかけてきた。
『…小杜梨トです。宜しくお願いします…っ。』
自己紹介ついでに頭も下げれば、男は感心したように言葉を漏らした。
「ホォ…。律儀に会釈までしてくれるとは、なかなか出来た娘じゃないか。」
「だろう…?俺の可愛い愛娘さ。」
「フ…ッ、ウチのじゃじゃ馬娘にも見習って欲しいぐらいだな。」
隣に居る父が、誇らしげに嬉しそうに声を明るくさせて言った。
男も、私が礼儀正しく挨拶したのを気に入ったのか、笑みを深くする。
「梨トか…。良い名だな。とても君に似合った名だ。大切にしろよ。」
『…っ!…はい…っ!』
その時、初めて自分の名前を褒められた事が凄く嬉しかった私は、はにかんで返事をした。
すると、男は優しく頭を撫でてくれた。
父と似て不器用な手付きではあったが、とても温かみのある掌だった。
それが心地好かった私は、初対面というのも忘れ擦り寄っていったのを覚えている。
その様子に、父が冗談混じりに、「おいおい…そんなに気を許されたら、妬いてしまうだろう…?」と苦笑していた。
「この人は安心出来る人だ。」と警戒を解いた私は、男を見上げて、名前を訊ねた。
「俺の名前か…?そうだな…。今告げられる名としたら…、――、…だな。」
忘れてしまった部分なのか…、名前の部分だけが空白のように聞こえる。
「機会があれば…また逢う事もあるだろう。君のお父さんとは、仲良くさせてもらっているからな。」
ポンポンッ、と軽く乗せられた手が跳ねる。
見かけに依らず随分と優しげな男は、目を細めて笑う。
どうやら、口で物を言うより、目で物を語る人らしい。
彼はまた父と何言か言葉を交わした後、何処かへ去って行ってしまった。
その背に背負われた大きな黒いバッグは、今になって分かるが…恐らくあれは、ライフルケース。
しかし、何も知らなかった頃の私は、特に疑問などを抱かず、普通に見送ったのであった。
その上、私はあの時、男に対して本名を名乗ってしまっていた。
ほぼ条件反射の無意識で口にしたものであったが、私は、確実に漏らしてはならない機密を喋ってしまったのだった。
今であったなら、重大な失態となっていたであろう事も、記憶の中の自分は、まだ純粋で何色にも染まっていない無邪気な子供…。
この世に巣食う闇の存在など、知り得なかったのである。
―ピチチチチ…ッ。
意識の遠くで、鳥の囀ずる鳴き声が聞こえた。
ゆっくりと浮上した意識に目を覚ますと…いつぞやの時のように、遥都が窓のカーテンを開けて此方を振り向いた。
「…起きたか。おはよう。」
『……ん…、おはよう…。』
「どうした…?」
『…んー……何か懐かしい夢を見てたみたいで…。』
「そうか…。それは、どんな夢だったんだ?」
『んっと…中学に上がったばっかの頃だと思うんだけど…。ある男の人と“父さん”が親しげに話してる夢だった…。』
のそりと起き上がると、ベッドに近寄ってきた遥都へ告げる。
「ホォ…。その男というのは、一体誰なんだ?」
『それが……昔の記憶だったせいか、所々曖昧で…よく憶えてなかったみたい…。ぼんやりとした存在でしか出てこなかったよ。』
「まぁ、夢とはそんなものだが…。名前くらい憶えてるんじゃないのか?」
『むぅー…その肝心な名前の所が丁度忘れちゃってて…。誰だったっけなぁ………?』
うーんと頭を捻り悩む彼女の横で、彼は、真剣な眼差しを投げかけていたのだった。
加筆修正日:2019.11.30