命が流れ出す
駆け付けた時には遅くて、大切な人達の内の二人が傷付いた。
その片っ方なんかは、もう一人の方を庇う為に犠牲になったのだろう。
躰の半分が吹き飛んだ彼は虫の息で、血塗れで地に伏せ転がっていた。
もうじきその命も終えるのだろうと直感的に思った。
私より先に駆け付けていた筈のあの人は、既に此処には居ない。
奴を追ってこの場を去ったのだろう。
なら、私が代わりにこの場に留まろうか。
気休めにも何の解決にもならぬだろうが、せめてもの最期の時くらい寄り添っていてやりたかったから。
血の海に沈む彼の身が横たわる側に汚れてしまうのも厭わずに身を屈めて声をかけた。
『…死ぬのか、とっつぁん。』
「………まぁ…、こんな状況になってりゃあな…もう長くは持たないって事ぐらい分かるだろうよ……。」
『…そうかい……でも、流石はとっつぁんという感じの散り際だったと思うよ。最愛の息子の命だけは守り切ったんだからな。』
「……ははは…っ、そりゃ当たり前に決まってんだろう…?こんなでも…一応“一人の親だった”訳なんだからなぁ……自分の子供すら守れずして、親だなんて名乗れるか………。」
『嗚呼…、とっつぁんは立派な“父親”だったよ。私達の……一係皆の良い父親だったさ。』
そう告げた時の彼は、死に前だというのに非道く嬉しそうに顔を綻ばせて笑みを浮かべていた。
彼の最愛の息子は、今私の隣ですっかり取り乱した様子で泣き崩れている。
あの“ガミガミ眼鏡”な宜野座監視官が、だ。
肉親の死に際に立ち会う事になるとあっては、流石の彼も築いてきた砦の壁を壊して向き合うか。
まぁ、全うな人の子ならば当然であるか。
双方満身創痍な身の二人に寄り添いながら、何処か他人事の様に達観してこの場の現状を分析し眺めていた。
今の今まで生きていた人の身の内を巡っていた血潮から流れ出たものが地に付けた掌と膝を汚す。
横たわる彼の身から流れ出た赤い其れは、まだ温かく湿っていた。
―命が、流れ出ている…。
そんな風に思ってしまった。
こんな状況なのに、哀しきかな、何故か不思議と涙が出てくる事は無かった。
『…貴方の遺した未来と息子さんは、私達が責任を持って引き受けるよ。――今までお疲れ様でした、我が同僚且つ惜しき人、征陸執行官。どうか、最期の時くらいは安らかにお眠りください…。』
この期に及んで、何が“安らかにお眠りください”だ。
どの口がそんな事を言えるのか。
きっと傷を受けた瞬間は痛かっただろう、最愛の妻と息子を遺してあの世に行く事は辛かっただろう。
庇う事の出来ない致命傷を負ったが故の立場上の殉職。
こんな形で憎くても大好きだった父親を亡くす事になろうだなんて、宜野さん自身も思いもしなかっただろう。
誰を恨んだとて憎んだとて、このシビュラの在る世界に生きる限りは変わらぬ事実だ。
何処まで行っても、この世は残酷で、其れでいて美しく…きっと誰かが今この時死んだとしても、世界の明日は変わらずに回り続けていくのである。
―亡くすには惜しい人を喪くした。
そんな薄っぺらい感想が喉まで出かかったけれども、飲み込んだ。
今、そんな薄情な台詞を口に出来る程気安い現状ではない。
私達が今最も成すべき事は何か。
其れは分かり切っている。
奴の確保に努めなければならない為に、今立ち止まっている暇はないのだ。
人員は限られている。
事態は深刻さを窮めているが、応援を呼べる状況でもない。
どうせ、この場で留まっていても事態が動くのは分かっているが、しかしやはり現状誰かが動かねば始まらない。
この場で冷静に動ける者は、今私一人しか居ない。
ならば、私が動くしかないのだ。
彼が動けなくなってしまった代わりに、私が宜野さんの怪我の応急処置を行わなくては。
重傷としか言い様のない怪我を負った上司の止血をする為に、身に纏っていた上着のジャケットを脱いで其れを傷口を覆う止血帯代わりに使う。
怪我が酷くて出血も多い。
このまま放っておいたら、失血死で死んでしまう可能性だってある。
何より、潰れた片腕を無理矢理引き千切った様な状態、放っておけば化膿してしまうに決まっている。
緊急処置用の医療ドローンが到着するまででも出来る限りの応急処置をしなくては。
無惨にも散ってしまった彼の亡骸が横たわる傍らで、彼が遺した最愛の息子の怪我の処置を行う。
その間の私は、黙々とただ淡々と手を動かし、上司の命を繋ぐ為だけに動いていた。
手当てを受ける宜野さんはすっかり正気を失ったまま、譫言の様に彼への言葉を投げかけながら私を急かした。
「おい…、俺の手当てなんて後で幾らでも出来るから……親父の、征陸の手当てを先に頼む…っ。」
『………酷な事だとは分かってるけど…、もう無理だよ。手当てしたところで、とっつぁんは助からない…。残念だけど、諦めて。』
「…な、何を言ってるんだ……さっきまでお前と会話してたじゃないか…まだ、間に合うかもしれないだろ…?だから、俺よりも親父の手当てを……っ、」
『…宜野さん。』
「彼奴の躰は半分が吹き飛んでしまったんだ……でも、今の技術なら何とか出来るかも…っ、」
『宜野さん、』
「だから頼む…っ、俺の親父を助けてくr…!」
『―宜野座監視官ッ!』
上司の言葉を遮る様に声を荒げると、漸く焦点を合わせた――彼とよく似た瞳が此方を向いた。
『…過ぎてしまった時間は元には戻せないのと同じで、死んでしまった人を蘇らせる事も出来ないよ。今は気休めな事を言っても、逆に貴方の神経を逆撫でする事にしかならないだろうから敢えて言うけど…、――現実から目を背けるな。今、本当に己が成すべき事は何なのか、其れを思い出せ。宜野座監視官。』
ただでさえ不安定だった彼の心根を揺さぶり崩してしまっただろうか。
何とか己を繋ぎ止めようとしていた蜘蛛の糸を、私は断ち切った。
彼の瞳が揺らぎ、心のダムが再び決壊する。
これまで必死に押し留めてきたものさえも溢れさせる様に声を殺して咽び泣き始める。
其れを慰めるだけの技量を私は持っていない。
せめてもの施しとして、絶望の淵に立たされた上司の心根に寄り添う様にその場に留まり、あやした。
きっと何の救いにもならないだろうし、彼の手向けにも成り得ないだろうが、死した彼が安らかに眠れる様に目蓋を閉じさせ、最低限の身形を整えさせ、静かに手を合わせて冥福を祈った。
私の手も、彼の息子の手も、彼の血で汚れてしまった。
息子である宜野さんに至っては、その汚れは顔にまで及んでいる。
私の服も既に彼の血がたっぷりと滲んで重くなっている。
気分もすっかり重怠くなってしまった。
後味の悪過ぎる事件であった。
明日もまたちゃんと目覚める事が出来るだろうか。
彼の死を悼んで沈む人達の渦の中心で、私は息をしながら彼の息子を支え、彼の亡骸の処置と事件の後始末を行うのだった。
執筆日:2020.10.30
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