感情が迷子になる日



ふとした時に、置いてきた筈の、今更思い出さなくても良い過去の悔恨がひょっこり顔を覗かせて私の精神を蝕もうと侵食してきたりする。

そういう時、私の中に居る呪いが心底愉快そうに顔を歪めてほくそ笑むのだ。

『人間という生き物は、斯くも何時の時代も愚か且つ馬鹿な脳味噌をしているものよなァ。故に、狭小な器に収まる生を持て余しておるわ』

…という風に。

そうだよ。

所詮私は愚かな人間の一人でしか過ぎず、狭小な器で以てしてその身には余りある負の感情の塊である呪いを宿した弱きちっぽけな畜生だ。

もうずっと昔から自覚済み、分かり切っている事であった。

其れでも、時々そんな抱えるには大き過ぎる其れ等の感情を持て余し、押し潰されそうになるのだ。

今更過去の事をどうこうなど出来ようも無いというのに。

考えるだけ無駄、馬鹿で阿呆のやる事である。

だけれど、時折意識が思考とは裏腹に、精神が器と乖離を謀るように過去の悔恨を脳裏に甦らせ、負の感情を揺り起こそうとする。

厭だ、止めろ、考えるな。

そう必死に念じて抗おうとして、不自然に乱れようとし始める呼吸を落ち着けようと思考を切り替え、別の事へと塗り替えようと努める。

そうこうしてようやっと内側でさざなみ立つドス黒い感情の渦を落ち着ける事が出来るのだ。

でも、偶に自分自身では上手く制御が出来ずに感情の箍が外れる事もある。

そういう時は大抵、内側から繋がれている糸が切れたみたいに押し留めていた心の器としてのキャパシティーが決壊して感情が馬鹿になったみたいに泣き出したりする。

―今が其れだった。

或る一定の期間、情緒が不安定になりやすい期間になんか入ったりすると時偶見られる光景でもあった。

普段は、寮の自室の奥深くに籠って押し留めているのだが、其れでもどうにもならないような時が来る。

そんな時は、短くない付き合いをしてきた私の半保護者である、我が担任の先生――五条悟の元へ頼るのである。

ただでさえ不安定で意識がぐらつく時は、何故か彼の側に居ると不思議と落ち着いていき、ほどけていた糸が繋ぎ直されていくような感覚に陥るのだ。

だから、私は無様で情けない面をなるべく晒さないように大きなフードの付いた服を着て、誰にも会わないように人目を避けて彼の元へ向かう。

丁度、今回は運良く任務も出張も無く高専の教員用寮の私室に居るとの事だった。

私は迷わず彼の元だけを目指して真っ直ぐと突き進んでいた。

他の事には一切脇目も振らない。

途中、意識に無い外れで誰かと擦れ違った気もしないでもなかったが、関わってやる余裕を持ち得なかったので俄然スルーの完全無視を決め込んで通り過ぎていった。

何となく、虎杖だったような気がしなくもないけど、もし後で問われた時は一応謝っておこう。

理由を訊かれても困るし話す気は一切無いけども。

無人に思える程静かな通路を横切って、目的の部屋前へとやって来る。

そして、無言で控えめなノック音を数回響かせる。

勿論、アポ無しの訪問である。

だが、こういう事はもう何度もあった事だったから、特別何か連絡する必要は無い。

逆に、そういう時の訪問だから伝わるものがある。

仮に、彼がどうしても不在の時は恵やパンダ先輩に頼ったりしている。

まぁ、此方は要らぬ迷惑は掛けたくないからという理由から極力頼らないようにしてはいるが、どうしてもダメな時っていうのは誰しもにも起きるものだ。

つまり、そういう時のみ頼らせてもらっているという事である。

彼等とも其れなりの付き合いの長さがあるから頼める事だ。

しかし、今回は本元本命の彼が在中している。

ならば、頼らない他に選択肢は浮かばない。

何故ならば、誰かに頼らざるを得ない程ダメになっている時だからだ。

ノックを数回、適度な間隔を空けてドアを叩けば、中から気怠げな声が聞こえてきて、見上げねば見えぬ巨体がのっそりとドアを開いて隙間程顔を覗かせる。

今回は少し出るまでに時間が掛かっていた且つ少し不機嫌そうな棘のある気怠げな低い声から、どうやら今しがたまで寝ていたところだったらしい。

せっかく休んでいたところ邪魔してしまって非常に申し訳なく思うが、私も私で他人に構っていられる程余裕を持っていないのだ。

許せ、とまでは言わないが大目に見てもらえないだろうか…。

そんな感情を滲ませて、目深く被ったフードの下から彼の目を見つめた。


「………何?僕、今寝てたんだけど…下らない理由での呼び出しなら容赦無くぶっ殺すよ」
「……………御免、毎度迷惑承知で頼み込んで……無理なら無理で出直すから…。せっかくのお休み中だったとこ邪魔して御免ね。――じゃ…、」
「いやいや…、自分じゃどうしてもダメだったから僕のとこ頼りに来たんでしょ?悪かったって…ッ。僕も此処んとこ学長の荒い人パシリで色んなとこ飛び回ってばっかだったから疲れ溜まっててさぁ…久し振りに取れたゆっくりとした休日だったから、つい苛々としちゃってちょっと当たり気味に喋っちゃっただけ。…莎草は何も悪くないよ。変に当たっちゃって御免ね?ハイ、来ても良いよ。おいで」


片目分だけ目隠しのアイマスクを浮かして此方を見つめてきた彼が、寝惚け眼から覚醒した様子を見せた後、目線を和らげて手招いた。

其れに導かれるように私は彼へと手を伸ばして懐に緩く抱き留められる。

次いで、愚図る幼子おさなごがするように彼の腹に自身の顔を擦り付けて縋り付く。

私が室内へと入り切った事で、薄く開かれていたドアがガチャン…ッ、と小さな音を立てて閉まった。

フード越しに彼が私の頭を優しく撫でてくれる感覚が伝わる。

もう其れだけで今までギリギリ保てていた程度の虚勢は瓦解し、糸は切れたように涙腺を緩めてしまった。

堪え切れず零れてしまった嗚咽が噛み殺し切れずに喉を突いて出ていく。

ポンポン、と優しいリズムで彼が柔く背中を叩く。

其れに甘えてより甘えるように年甲斐もなく彼に抱き付いて愚図った。

その間、頭上では常に無い程優しくほぐされた声音が柔らかに私へ囁きかけてくれていた。


「―大丈夫…、僕はちゃんと側に付いててやるから。好きなだけ吐き出しな…。何事も溜め込むのは良くないからねー…っ。莎草はよく頑張ってるよー…っ、偉い偉い…!だぁーいじょーぶっ、誰も莎草の事嫌ってなんかないからねぇ〜…?追い出したりなんてもしないから…というか、そんな勝手な事、僕が絶対に許さないから。…だから、莎草は莎草で頑張ってるっての知ってる僕には隠さなくて良いよ。無理しないで、全部吐き出しちゃいなぁー…っ。ホラホラ、もっと大声出して泣き叫んでも良いんだよ〜?どうせ隣の部屋には誰も居ないから。今更遠慮なんかしないで思いっ切り泣いた泣いたぁー…っ!莎草の其れは、ただの本能的な防衛本能の一つだからね…何も後ろめたく思う必要は無いんだから、今泣ける時に泣いときな」


優しく響く低音が心地好くて、次第にぐちゃぐちゃに絡まっていた感情の糸達が解けて元通りに結び直されていくのをぼんやりと感じる。

いつの間にか頭を覆い隠していた筈のフードは外されていて、彼の骨張った大きな手が直接髪の毛を梳くように頭を撫でていた。

次第に落ち着いていく感情の揺れに比例して、壊れたみたいに溢れてきていた泪も収まってくる。

そうすると、彼は決まってベッドに腰掛けた自身の上に私を幼子の如く下ろしてひたすら私が落ち着き切るまで頭を撫でまくる。

彼の大きな掌に撫でられるのは好きだし落ち着くから、とても心地が好かった。

彼のお陰で色々とだいぶ落ち着いてきた私は、未だすんすんと鼻は啜っていたものの、流石にここまで来るとまともな理性が戻ってきて、唐突に無性に恥ずかしくなってくるのだ。

故に、一度頭を撫でる彼の手を掴んで止め、彼の膝上から下り、彼のすぐ隣位置へと腰を下ろした。

其れに、彼は少しだけ不満げな色を乗せて私を見た。


「もうちょっと長く甘えててくれても良かったんだよぉ〜…?」
「いや…流石にもうだいぶ落ち着いてきたし、やっぱし自分の本年齢を思うと…、ね…。この歳で幼子と同じ扱いは恥ずいよ…」
「え〜っ、僕は全然気にしないのにぃ〜…!あ、体重の重さ気にしてるんだったら尚更気にしなくても良いよぉ〜っ!莎草くらいの体重なら余裕で二人分くらい抱えれる自信あるから!何なら、悠仁と比べっこしてみる…?軽さで言うなら断然莎草の優勝決まりだよんっ!」
「いや、しなくても言いから……っ。――今回も、その…有難うね、悟。お陰で、何時もの如く元の自分取り戻せた」
「…ん、そりゃあ良うござんした。莎草の力になれたんなら良かったよ。また自分見失いそうになった時は何時でもおいで…?僕が連れ戻したげるから。もし、その時僕が居なくて暫く戻らない時とかなら、恵や悠仁達頼っても良いから……独りきりで抱え込もうとだけはしないでよ。莎草の事だから、下手をして中の呪いに飲み込まれ兼ねないからさ…。そうなったら、止めるの大変だから。コレ、ちゃんと守れるよね…?僕との約束」
「……うん…、大丈夫。悟との約束は破らないようにしてるから…。もし、また飲み込まれかけたら、私の事呼びかけて戻してね…?」
「莎草が僕の事忘れずに呼ぶなり頼ってくれたらね。莎草が求めてくれたら、何時でも何処でも飛んでいってあげるんだから。何時も言ってるでしょ…?」
「…うん…っ、有難う、悟」
「ん。分かったなら良いの。――取り敢えず…その顔酷いからどうにかしてきな?僕のタオル貸してあげるから、洗面所で顔洗っておいで」
「…毎度思うけど、泣き止んだ途端の扱いの落差が酷い……グッピーが余裕で風邪引くレベルだよ、ソレ…っ」
「だって、コレが僕なりの気遣いなんだも〜ん!嫌なら他所当たりなよ?まっ、その当たる他所様が在ればだけどねぇ〜っ!ふひひ…っ!」


せっかくの空気をぶち壊してくれたこの男、やはり酷い奴だ。

だが、この不器用なぶち壊し方で何時もの私にすっかり戻りかけているのだから仕様がない。

だから、きっと、つい口を返したとしても許されるのだ。


「……うん、相変わらずのクソっぷりで安心したや」
「おいコラ、今のどーいう意味だ。人がせっかくの休みの時間を割いて慰めてやったのに…もう次頼まれたって聞いてやんないぞ〜っ?」
「その時は恵かパンダ先輩達頼るから良いよ。…んじゃ、もう十分世話掛けたんで、私そろそろ自室の方に戻……っ、」
「待って!御免て、冗談だって…!頼むからその顔もうちょいどうにかしてから出てって…っ!!じゃないと、万が一莎草が僕の部屋から出てくるとこ誰かに目撃されてたら多大な誤解受けちゃうから…っ!!自分の教え子、しかも幼気いたいけな女の子を泣かしちゃったみたいに思われちゃうから!!僕滅茶苦茶サイテー男に成り果てちゃうからぁ…っっっ!!」
「………そんなに酷いか、私の泣き顔……」
「うん。ぶっちゃけ直視は憚られる惨状な程顔やば、」


―ボクシャア…ッッッ!!


無駄だと分かってたけど、つい苛付いて感情より先に手が出て目の前の腹を殴りかかってしまった。

まぁ、当然こんな安い安易な攻撃が彼に届く筈も無く、彼に触れる手前の無限に塞き止められていた。

クソ…ッ、分かっててニヤつくふざけた面が恨めしく憎たらしい。

が、始めから敵う筈も無い事は理解しているので素直に諦め、彼から乱雑にぶん取ったタオルを手に洗面所へと向かうのだった。

其処で鏡を覗き込んだら、確かに形容し難い程にぐちゃぐちゃに酷い顔が面に下がっていて、内心さっき彼より頂いたリアクションに納得してしまった。

よって、有難くご厚意に甘えて顔を綺麗に整えさせて頂く機会をもらう事にしたのであった。


―後日、やはりあの時誰かと擦れ違った気がしたのは気のせいではなかったようで、虎杖からあの日の件を軽く問われてしまった。

偶々その場に居合わせてしまった恵は何となく察して口を噤んでいたが、何も知らないだろう虎杖に何て説明してやろうかと至難していると、背後からその馬鹿デカイ身長を最大限に利用して私の頭に腕を置き、体重を掛けてきた彼があっけらかんとにこやかに口を開いて暴露しやがった。


「あ〜っ、この子ね、実は昔から凄い寂しがり屋の甘えたがりの子でねぇ〜…。中の呪いの関係で偶に情緒不安定になる時があってさ、そういう時は油断しちゃうと呪いの方に意識引っ張られちゃうから、そうならないようにストッパーが壊れない内に信頼に足る誰かしらんとこに頼りに行くのよ〜っ。で、落ち着くまで側に居てもらったり、泣き止むまで宥めてもらったりってね…!そんな訳だから、今後どうしても僕が忙しくて帰ってこれない内にそうなった場合、君達が代わりに面倒見てあげてね!まぁ、恵は既に何度か面倒見てあげた事あるから対処の仕方も慣れてて特別な説明も要らないだろうけど」
「え゙…っ、や…まぁ、そう、ですけど………ッ。(この人、人が恥ずかしいと思ってる様な事を平気で暴露しやがったぞ…!コワ…ッ)」
「ちょっと、悟!!何勝手に全部喋ってくれちゃってんの…っ!?」
「へぇ〜っ、狗尾って意外と可愛いとこあんじゃん?でも、呪いのせいで其れって大変じゃね…?何かあれば俺、力になるから遠慮無く頼ってよ!呪い持ち同士、色々持ちつ持たれつで頑張って行こうぜ…!」
「良かったねぇ〜、莎草!早速心強い助っ人が増えたよ…っ!同じ呪い持ちの悠仁なら頼る相手に不足無し!良かったじゃん!!コレで僕の負担も減るしで万事解決…っ!!いやぁ〜っ、やっぱ話す事は話しとくのが一番だねぇ〜!」
「クッソ…!!やっぱコイツの息の根一遍止めてやりたいわ…ッ!!無理だけどッッッ!!」


腹の底から腸煮え繰り返る程苛付いたけど、何においても奴には勝てぬと分かり切っていたので地団駄を踏んでグルルル…ッ、と喉を低く唸らせるだけに留まらせるのだった。

やはり、五条悟許すまじ…!!