命の継ぎ方
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電子の波の中を漂い、とある一件の原因となった特異点を調査及び観測を行っていた一匹の管狐は、ポツリ、呟いた。
「――かの方は、もう使えませんね……。恐らく、審神者としての能力及び霊力は、全て失っているに等しいでしょう。おまけに、記憶も失っている状態では、無理な干渉も出来ません。……何方にせよ、此れ以上辿るのは厳しそうですね。今現在でも探る側の此方の負荷はかなり激しく、消耗も酷い……。此れは、早急に上へ報告して、現調査を打ち切ってもらう他ありませんね。此れ以上は時間の無駄です。時間とは無限ではない……。有限である限り、短き時間の中で、我々は我々に出来る事を――仕事を、全うせねば……っ」
電子の海に潜っていた管狐の粒子が、元の姿へ再構築するように集まっていく。
よく見かける、見慣れた姿に戻ると、彼はぴこぴこと尻尾を揺らしながら、自身が得た調査結果を手に当該本丸管轄課の部署へと赴いていった。
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――時は、長閑で緩やかな時間の流れる小さな町の一角に戻る。
先程まで雲の切れ間から日の光が射すような穏やかな空色をしていた筈が、急激にその空模様を変えたかと思うと。あっという間に薄暗い雲が立ち込めていき、激しい雷の音を轟かせ、ビカビカと稲光を光らせ始めた。
その耳障りな劈くような雷鳴を背景に、薄型パッド式の端末を開いて言語の勉強をしながら居眠りしていた彼女が目を覚ます。
彼女の側から片時も離れぬよう、隣で本を片手にずっと様子を見守っていた伽羅は、視界を紙面から彼女へと移すと、優しげな手付きで愛しき者の頬を撫ぜた。
「流石に目が覚めたか……。おはよう」
寝惚け眼もそのままに、片目を瞑らせたまま、傍らに置いていたスケッチブックを手に文字を書き綴る。白紙に黒字で書かれた文章には、こう書かれていた。
――“私、何時の間に寝落ちてた? 途中までは、ちゃんと意識あったんだけど……。ちなみに、今って何時か分かる? あと、私が寝転けてからどのくらいの時間が経ったかも教えて頂けたら嬉しいのだけれど”……と。
此れを静かに読み取った伽羅は、柔らかな口調で答えていく。
「お前が寝落ちてからそんなに時間は経っていないが……まぁ、見積もっても精々三十分程度くらいだろう。……あと、今の時刻についてだが、今は昼の十三時半を過ぎた頃だ。心配しなくとも、お前はそんなに寝ていない」
またサラサラと滑る筆に、綴られた文字が返事を返す。
――“そっか。教えてくれて有難う。にしても、雷酷いね。さっきからすっごいゴロゴロいってるし。大丈夫かな?”
「洗濯物の心配なら要らん。天気が崩れる前に取り込んでおいたからな。雷がこの家に落ちないかどうかの心配もしなくて良い……。避雷針があるからには、此処に落ちる事はない」
――“じゃあ、大丈夫なんだね。良かったぁ〜。でも、停電とかになったら怖いし、ショートが原因で機械系壊れても大変だから、要らないコードとかのプラグ、コンセントから引っこ抜いとかなきゃね。”
使うかもと思って挿しっ放しにしていた端末の充電器コードをプチンッ、と引き抜いて、端末の側に片付けた葵はホッと息を吐いて元の位置へ戻り、腰掛け直す。そして、つい先程まで居眠りしていたのを思い出したかのように欠伸を漏らして、眠たげに目を瞬かせ蕩けさせた。
そんな彼女の様子に見兼ねたのか、伽羅は其れまでずっと読み続けていた本を閉じ、口を開く。
「寝足りないんだろう……? 少しだけベッドで横になって休んできたらどうだ。勉強熱心なのは別に構わんが、あまり根を詰め過ぎるのも良くないだろ。……其れに、今日はあまり本調子じゃないんじゃないか? 今朝から少し顔色が優れなかったぞ。まぁ、理由はこの天候変化で察せられるがな……。気象病やらと、天候次第で体調を左右されるとは、アンタも苦労する……っ」
この言葉に、彼女は小さく音も無く笑って、また言葉を書き綴った。其処には、“伊達に一緒に暮らしてないだけはあるよね”との愛らしい殺し文句が綴られていた。此れには、流石の彼もポーカーフェイスを崩さざるを得なかったようで、一瞬だけ明後日の方向へ顔を背けると小さく咳払いをして誤魔化した。
「ッ……。この後、特にやる事が無いというなら、今日はもう休め。必要なら俺が動く……。だから、お前は無理せず寝てろ」
この対応に、彼女はクスクスと小刻みに肩を揺らして笑った。次いで、スケッチブックへ筆を滑らせ、返事を書き記す。
――“はぁーい、大人しくベッドに行って寝てきまぁーっす! 寝ると言っても、軽く一、二時間とかの数時間寝るだけだからね! 本調子じゃないって言っても、雨降るせいによる片頭痛起こしてるだけだし。いつもの事だから、心配しないで。”
「……良いから、寝てろ。今全力で眠いって顔してるぞ、お前……。おまけに、“今すぐ横になって寝たいです”とまで書かれてるな」
彼の返答に、分かりやすく動揺した風に驚いてみせ、自分の顔をペタペタと触る。全く分かりやすくて、逆に助かるものだ。如何にも、“そんな眠そうな顔してた!?”と言う顔である。此れには、少しばかり呆れを滲ませた顔で返した。
「思い切りしてたぞ。……俺が側に付いててやるから、安心して寝てろ」
俄に不安そうな表情を浮かべていた葵にそう告げて、ひょい、と身軽に抱え上げると、寝室の部屋まで運ぶ。そっと寝台の上へ降ろして横にならせたらば、サッと布団を掛け、傍らの空きスペースに腰を下ろして、安心させるように彼女の髪を撫でてやる。
いつもの如き彼のその優しさを擽ったげに受け入れる葵は、眠気からも目を蕩けさせて嬉しそうに口許を綻ばせた。まるで、“伽羅が側に居るなら、雷なんかも怖くなくなるようだ”と言いたげに……。
「此れだけの雷だ……暫くの内は五月蝿くて眠れんかもしれんが、所詮寝付くまでの話だ。気にせず目を瞑っていれば、直に眠たくなる……」
眠る手前故、ペンを握る事は控えたが、代わりに彼の手を取って柔く握った彼女はふにゃりと微笑む。“伽羅が居るなら、どんなに雷が鳴ってても安心して眠れそう”、だと……。
そんな愛しき彼女へ、彼は小さく微笑んで言った。
「……そうか」
何気無く伝わる気持ちに笑みを浮かべた彼は、そのまま彼女の髪を愛おしげに撫でつつ、彼女の眠りを深きものへと誘った。
次第に、窓越しに轟く雷鳴もチカチカと視界を刺すような稲光さえも気にならなくなるくらい意識を睡魔に飲まれ、泥の中に沈むように夢の世界へと旅立った葵。其処まで行き着けば、もう安心だろう。
規則正しい寝息を立てながら、健やかな寝顔を覗かせる葵。しかし、そのかんばせに乗る顔色は、やはり常と比べて少し優れない色合いであった。血色が薄く白けてしまっている頬の色みに、少しでも赤みが戻るようにと己の掌を添わせて体温を移す。
気休めにしかならなくとも構わない。ただ、大切な彼女の身を案じるが故に、早く善くなれとまじないを掛けるが如く、彼女が再び目を覚ますその時まで側を離れぬのであった。
そんな二人を他所に、空模様は更なる悪化の兆しを見せ、雨を降らせ始める。ザァザァー……ッ、と大きな音を立てながら大量の雨が曇天の空から降ってくる。時折、雷鳴も轟かせながら降る雨は風も強く、ガタガタと窓を揺らし、硝子戸に雨を叩き付けていくのだった。
だが、部屋の中の風景は、其処だけ空間が切り取られたかのように穏やかな時間が流れていたのであった。
――そんな彼女等が居る一幕の裏側で、とある場所では正反対の時の流れが流れていたとは知らずに……。
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まさに緊迫、一触即発すら起こり兼ねないピリピリとした空気の中、時の政府より遣わされた管狐が、淡々とした事務的口調で事の顛末を告げる。
「当該本丸の審神者様は、現時点を以て審神者としての力を失った事を理由に、当本丸の主という立場から退き審神者職を解任、及び只人と戻られました事を此処にご報告致します。よって、当本丸は解体後、再編成したのちに後任の審神者様へ入ってもらう形になります。当該本丸の刀剣男士様方には、それぞれ期限までに刀解か他本丸への譲渡の意思をお決め頂きたく思います。私共の方は、規則に則った上で、恙無く解体作業等手続きを進めて参りますので。何かあれば、当該本丸担当を勤めます私の方まで仰ってくださいませ。――其れでは、以上を持ちまして、ご報告と致します。何かご質問等ありますでしょうか?」
何とも冷たく胸が空くような心地のする重たく苦しい空気が、大広間の内に垂れ込めた。
そんな中、その本丸の初期刀を務めていた山姥切国広が静かに手を挙げ、口を開く。
「――俺達の主は……今、何処に居る?」
「そのご質問への回答は、控えさせて頂きます。大変申し訳ございません」
「では……質問を変えよう。……彼女が、今、どうしているのかだけでも、知る事は出来ないだろうか? 失踪した時の様子が……どうしても気になって、心配で胸が潰れそうなくらいに不安なんだ……っ。頼む……っ、せめて、主が今息災なのかどうかだけでも、教えてもらえないだろうか……?」
「……息災か否か、という事のみについてでしたら、良いでしょう。此方の主様は、今この時もご健在であられます。仮にも元審神者様であったという観点から、時の政府より現在進行形も監視下に置かれておりますので、身の安全は保証されているとお考えください。我々は常に敵情勢の事を配慮して努めております故、ご心配には及びません。――質問は以上でしょうか?」
「僕からも一つ……いや、時間が許す限り幾つか訊ねても良いかな……?」
「はい、構いません。どうぞ、ご納得が行くようになされてくださって結構です」
至極淡々と事務的に返すこんのすけへ、また一振りと手を挙げた燭台切光忠が厳しい顔付きで口を開く。其れにもまた、事務的に返したこんのすけに、“まるでただのロボットみたいじゃないか”という感想を抱くも口にはせず、代わりにずっと訊きたかった内容について触れた。
「まず一つ目の質問だ……。主が、ある日忽然と本丸から姿を消した時、とある刀も一振り同時に居なくなった筈なんだけど……君達政府側は、其れをきちんと認知しているのかな?」
「……はい。その件につきましては、当該本丸の審神者様失踪の件と同じく認知している情報です」
「では、その行方不明になった刀は……彼は、今、何処に居るの? 其れについての情報は、既に掴めているの、いないの、どっちだい?」
「当該本丸から両件の通報を受けた後、すぐに捜索を開始致しましたところ、該当の刀は此方の本丸が在る時空とは別次元の元に居る事が判明致しました。……しかし、彼は既に刀剣男士という枠組みからは外れたところに居る存在……。よって、我々政府は此れ以上の詮索及び調査は出来ないと判断し、断念致しました。お力が及ばず、誠に申し訳ございません」
「……謝罪なんか要らないよ。僕が今聞きたいのは、そんな事じゃない……っ。彼は――伽羅ちゃんは、今、何処で何をしているの……? 本丸がこんな事になっているのに……もしかして、伽羅ちゃんは彼女と……主と一緒に居るのかい?」
「憶測にしか過ぎませんが……恐らくは、その通りかと。ですが、私共による調査時、彼の存在ははっきりと認識出来ましたが、元審神者様となる存在の方はうっすらとしか掴めず、レーダーの観測結果から、彼と限りなく近い場所には存在している模様……とだけ判明した形になります」
「……そう、……彼は、彼女と一緒なんだね……。其れが分かっただけでも、少し安心したよ……有難う」
「いえ……。手続きの他、刀剣男士様方へ説明する事もまた我々の仕事ですから、お気になさらず」
その後、“他に何か質問はありますか?”と述べた管狐の言葉に、声を上げる者は誰一振りとして居なかった。
皆、認めたくなくとも、心の内では最初から答えは分かっていたのだ。だが、最後の最後まで諦めたくはなくて、敢えて口にする事はしなかった事実。しかし、今日この日、政府からの通達が来た事で認めざるを得なくなったのである。
或る一振りの刀と共に審神者は失踪。その行方は、恐らく屹度、政府の方も掴み兼ねて居るのだろう。故に、はっきりと事細かな詳細を告げる事を避けたのだ――否、秘密裏に事情が絡み合うが故に、明確に告げる事を憚られたのである。時の政府とて、一枚岩とは言い難いのが現体制である。
政治とは、どの世界でもどの時代でも、表側の面と裏側の面とを持っている。今回の一件は、偶々その裏側に面する一件だったに過ぎない。
通達に来た時点で、最早初めからこの本丸の審神者は居なくなった者として扱い、処理した政府の遣り口は、彼等本丸の者達にとっては冷酷でいて、また残酷な遣り方として映ったかもしれない。だが、今こうしている内にも時は変わらず刻まれ、“歴史を守る”という戦争は熾烈を窮めている。つまりは、戦火の真っ只中に彼等は居たのだった。一人の人間と一振りの刀が居なくなった……そんな事のみにかまけている暇など、当然として無い。だから、皆、必要以上に口を開きはしなかったのだ。
定められた使命の下、各々の存在意義を再び問われ、その答えによってその先の運命が変わる。“歴史を守る”事を変わらず優先するならば、任務続投……顕現はそのままに他の本丸へと所持権利を譲渡され、一時的に管理を時の政府へと移される。もしくは、“此れ以上の任務の続投は不可”と断念したらば、顕現は解かれて刀解され、分霊として存在していた御霊は本霊の元に還る。――その何方かだ。
彼等は決断し、期限最終日までにそれぞれ半数ずつでそれぞれの答えを出し、本丸解体の件を受け入れた。期限は二週間後に定められた。
政府より遣わされた管狐は必要事項を告げ終えると、その身を翻し、本来管轄の場である巣へと帰っていった。彼の存在が去った後の本丸は、ただただ暗く、葬式のように静寂で沈んだ空気であった。
そんな中、一振り庭先へと下り立ち、空元気のような調子で言葉を発した鶴丸国永が、とある刀の名を呼んで言った。
「はぁ〜……っ、皆暗過ぎるぞ……! まるで、墓場へ並ぶ葬列と何ら変わりない空気じゃないか! あんまりにも暗過ぎて息が詰まって敵わん……っ。――なぁ、光坊、ちょっと気分転換にでも一緒に裏山を散歩しに行かないか?」
「え…………? 鶴さん、悪いけど……とてもじゃないけれど、今はそんな気分にはなれそうにないから、一人だけで行ってきなよ…………」
「良いから、ちょっとばかし付き合ってくれるだけで良いんだ。歩きながら少し話でもしないか……? そしたら、ちったぁ気だって紛れるだろう。なぁ、光坊」
永くを生きてきたが故の諭しであるのだろう。少しばかり強引にも思える圧を視線に乗せて訴えかけてきた。此れに、堪え切れず折れる他無かった燭台切は、長く深い溜め息を一つ吐き出す事で気分を切り替える事にし、立ち上がる。そうして、鶴丸の提案を飲むように庭先を二振り静かに歩き始めた。
暫くの間、彼等は何言も口を利かずに歩いた。特に目的があるでもなく、何とは無しに気晴らしに裏山を目指して歩き進め、本丸敷地内の遠く離れた端へと着いた頃である。
其れまでずっと黙りを決め込んでいた筈の鶴丸が、徐に口を開いていった。
「――なぁ、光坊……お前、まだ個刃専用端末機、持ってたよなぁ?」
普段では聞かないその硬い声に、緊張を走らせた燭台切は、同様に硬い声音で以て返事を返した。
「えっ……? 確かに、僕はまだ自分専用の端末機を持ったままだけども……其れが、どうかしたのかい?」
「もし、其れが現時点でもまだ使える状態にあるのなら、一つ試したい事があるんだ。……どうする? 恐らく、俺が今考えている事は、政府からしてみればやって欲しくは無い事だ。最悪、刀解待った無しの処分を下されるかもしれん……。危険な賭けとなるが、乗る覚悟はあるかい? 無ければ、何も聞かず、端末だけを俺に寄越してくれ。そして、俺からは何も聞かなかったのだという態度を貫き通せ。良いな? ……此れは、最初で最後に残された、最悪の手段だ。乗るも乗らぬも、お前次第さ」
最低限の忠告は告げたぞ、と言わんばかりに胸元へ人差し指を突き付けた鶴丸。答えは、有るようで無いようなものだった。
燭台切は、暫し瞑目して熟考したのちに、静かに決意新たに眼を開いた。
「……良いよ。乗ろうじゃないか、その史上最悪の賭けってヤツに。其れで、少しでもこの先が変わるのなら、僕は道を切り開く方を取りたい」
少しの揺らぎも無い、確固たる意思を宿して射抜く視線に、鶴丸はにやりと悪い顔で微笑んで頷く。
「交渉成立……って事だな。此れより、お前さんは俺がする事の片棒を担ぐ事になる訳だが……本当に良いのかい? 断る術もあったと思うが」
「鶴さんが何を言おうと、僕はもう決めた事だから、僕だけ逃がそうったってそうはいかないよ」
「ははっ、上等上等……! そしたら、今から俺が行おうとしている事の説明に入ろう。……こんだけ離れてりゃ、下手に尾行とかも無い限り、あの場に残ってる奴等にゃバレないだろう」
意味深長な物言いに、ハッとして辺りを見渡して気配を探る燭台切。そのあからさまな様子に可笑しそうに笑い声を立てた鶴丸は、声を潜めて続ける。
「大丈夫だ。今んところ、俺達以外には誰も居ないみたいだぜ」
「そう……っ。其れで……鶴さんの考えってのは、どういう……?」
「至って簡単な方法になるんだが……今光坊が所持してる端末を使って、伽羅坊へ直接コンタクトを取ってみる――ってな計画だ。上手く行くかの保証は何処にも無い。伽羅坊がまだ端末を持ったままで居たら……というケースに賭けるのみだ。ほぼほぼ博打に過ぎん遣り方だろう……。だが、伽羅坊への連絡手段は、今のところ此れぐらいしか思い付かん。最悪、無駄な足掻きで終わるかもなァ……」
苦々しく告げる彼の言葉に、燭台切は痛ましい顔付きで訴えた。
「其れでも……僕は縋りたいよ……っ。伽羅ちゃんに繋がる何かしらの糸があるのなら、僕は其れに縋りたい……!」
「……なら、決行するとしようか。とりま、簡易的にでも結界を張った上でやるとするか。途中、何があるか分からんからな。審神者の真似事に過ぎずとも、何事も備え有れば憂い無しってな……!」
そう明るく言い放った鶴丸は、本丸に待機する者達に気付かれぬよう気配を殺した状態で結界を張る。簡易的とは言え、一端の付喪神が作った結界である。そんじょそこらにある小石で突いたくらいでは、容易には破れぬ仕様だ。
まさに、“備え有れば憂い無し”の光景に、燭台切は感嘆の声を上げた。
「凄いね、鶴さん……! いつの間にこんな事出来るようになったんだい?」
「まぁ、永く生きてれば、此れくらいちょちょいのちょいってな! ――さっ、始めるとしようぜ。吉と出るか、凶と出るかの大勝負を……っ」
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――その地では、変わらず雨が降り続けていた。
悪天候なのは変わらない様子で、激しい雷雨が窓を打ち付けている。稲光は鋭く、薄暗き空を裂くかのように地へと走っていた。
そんな窓の外の景色を、親の仇でも見るように睨み付けていた男が居た。この家の家主の青年である。
彼には、愛しい人が居た。この世の何事からも守りたい程に、大層大事な人が。
その人こそ、今傍らのベッドでスヤスヤと微睡む女性である。彼女の名を、葵と言った。彼が名付けた名前だ。
今居る小さな田舎町に至るまでの全ての記憶を喪い、言葉も失った哀れな女性。何処にも行き場の無い彼女へ救いの手を差し伸べ、拾ったのも、また彼であった。
何が其処までそうさせるのか。答えは、彼のみぞ知るところであった。
――不意に、使い古した様子の傷だらけの携帯端末が懐で震えた。誰からかより架かった電話だろう。彼女を起こしてしまわぬ内に出てやろうと、画面に表示された番号を見遣るも、其処には“通知不可”の文字のみが表示されていた。
彼の眉間がピクリと動く。
出るか否か、迷う間も着信音は鳴り続けている。あまり長考しては、眠る彼女を起こしてしまうだろう。
仕方なしに、彼は通話ボタンを押し、ゆっくりとした動作で耳に端末を押し当てた。
「――もしもし……」
硬い声で応答の言葉を紡ぐ。通話口からは、暫くノイズ掛かった機械音だけが鳴り響いていたが、其れが落ち着くと、初めて人の声らしきものが聴こえてきた。
『――メーデーメーデー。此方、午時本丸所属刀剣男士の端末機より通信中。此方の音声が無事に聴こえたならば、応答願う。メーデーメーデー、聴こえているか……? 聴こえているのなら、何でも良い、応答してくれ』
彼の耳に、久方振りに聴く旧知の声が届いた。その事に、彼は暫く沈黙を貫き通していたが、やがて耳障りなノイズみたいに同じ文言を繰り返す音声が癪に障ったのか、遮るように言葉を発した。
「――今更、俺に一体何の用だ……?」
怒りさえ滲んだ、不愉快極まりないと言わんばかりの地を這う声音が通話口へと響く。其れに対し、向こう側も静かに低い声で以て返答を寄越してきた。
『……暫く口を利かない内に、随分な物言いをするようになったじゃないか。なぁ、伽羅坊よ……?』
「……生憎、俺からお前達へ何も言う事は無いし、其れは此れから先も変わらずずっとだ。分かったなら、しょうもない連絡を寄越してくるな……っ。鬱陶しい。控えめに言って目障りだ」
彼の口から、今まで聞いた事の無いような冷たい声が零れる。しかし、電話口の相手は其れだけの事ではめげないのか、尚も通話を続けた。
『其処に、彼女も……主も居るのかい? だから、そんなつれない事を言うんだろう?』
彼は答えない。此処での沈黙は、肯定を意味していた。
通話口の方から、先程とは打って変わって別の男の声が響いてくる。
『――伽羅ちゃん、いきなりこんな形で連絡して御免ね。どうしても気になって心配だったから……もし、君がまだ例の端末を持ったままだったら、に賭けてみたんだ。……良かった、久し振りに端末越しにでも声が聴けて……。元気そうで、安心したよ』
通話口から聴こえてきた声に、彼は再び沈黙を返した。其れに構わず、通話口の声は訴える。
『……ねぇ、君は今、何処に居るんだい? 主は、一緒なのかい……? もし、一緒なら……せめて一声だけでも、声を聴かせてもらう事は出来るかい?』
「…………仮に出来たとして、アンタはどうするつもりだ?」
『別に、どうするつもりも無いよ……。ただ、君と同じく元気にしてるかなって知りたかっただけ。……無理そうなら、素直に諦めるよ』
彼は、暫し沈黙を作り、口を閉ざした。相手側も静かに応答を待つ。
少しだけ気を許したかのように溜め息を吐き出した彼が、再び口を利いて言葉を告げる。
「……残念ながら、アンタの意に添う事は出来ない。……というのも、肝心の本人が、現在進行形で眠っているところなんでな。今は天候のせいで体調が優れん事もある。よって、わざわざ一声聴かせてやる為に起こす事は却下だ。すまないが、このまま休ませてやって欲しい……。――此処に来るまでに、相当しんどい思いをしたんだろうな……。俺も声を聴きたいとは願うが、今や彼女は失語症を患っていて言葉を話せない状態にある。おまけに、親から授かった自分自身の名前を含め、其れまで生きてきた記憶全てを失っている……。診断は、記憶喪失に加えての失語症…………酷いもんだろう? 嘗て本丸で見たように意志疎通を取る事は不可能に近しい。……其れでも、お前達は彼女を求めるのか?」
『ッ……!? ――そ、んな、事って…………!!』
「認めたくはないか……? だが、今俺が告げた事は、全て真実だ。嘘偽りは無いと誓うが……其れでも疑いたければ、好きにするが良い」
通話口の先で彼の言葉を聴いていた者二人が、時を同じくして絶句したのを聞き届ける。
彼は敢えて現実を突き付けるように言葉を続けた。
「例の管狐が何処まで情報を開示したのかは知らんが……どのみち、審神者として復帰する事は不可能に等しいだろう。過去の記憶全てと一緒に、審神者であった事も忘れ去っているだけに留まらず……彼女は、審神者として必要な資格・条件全てを失っている状態にある。お前達を顕現させ続ける霊力なんてものは、疾うの昔に喪失してしまっているんだよ……。恐らく、今も変わらずお前達が顕現し続けて居られるのは、知らず知らずの内に政府の方が手を回しているからだろうな。……まだ、何か言いたい事はあるか?」
『――お前は……伽羅坊は、此れからどうして行くつもりなんだ……?』
「其れこそ問うまでも無い、愚問というヤツだろう……? とうとう焼きでも回っちまったのか、国永?」
『いや……その、何だ…………思っていた以上に深刻な状況である事を突き付けられて、軽くショックに陥っている状態というのかな……っ。取り敢えずは、そんな感じで……! 冗談抜きに、そのぉ……すまん…………っ』
率直な謝罪の言葉を受けて、彼は虚ろな表情を浮かべて窓の外を見遣った。次いで、ボソリと小さく呟く。
「謝罪なんか貰ってもな…………現実が何か変わる訳でもなし……。手は尽くしたつもりだったが、思っていた以上に何もかもが手遅れだったんだ……。全部、後手に回ってたんだよ……俺達はな」
寂しげな音で以て零された言葉は、恐らく、彼が内だけに留めていた本音なのだろう。その証拠に、今の声を受話器越しに聴いた男が心配の声を発し、彼の名前を呼んだ。
『伽羅ちゃん……?』
「……もう、此れ以上用が無いのなら、電話を切るぞ。あまり長電話をしても、彼女を起こしてしまい兼ねんからな……。其れに、お前達の方も、政府に黙って連絡を取ったと後々知れちゃ堪ったもんじゃないだろう?」
『其れはそうかもしれないけれど、僕達はまだ君に訊きたい事が――ッ!』
突如、唐突に音声が途切れ、ブツリブツリとの機械的ノイズが混じった先で、音は遠いが、微かに今しがたまで通話していた内の一人が誰かと言い争うような音声が割って入ってくる。其れに、つい此方も焦った口調で、「おい……っ! 何があった!? 応答しろ!!」と声を荒立たせてしまった。すぐにハッと思い至り、態度を改め、背後の彼女の方を振り返る。
幸い、彼女の眠りは深かったのか、此方の事態には気付いていない様子で、まだ夢の中であった。その事に安堵し、胸を撫で下ろしたタイミングで通話先の通信状態が回復したのか、再び端末越しに音声が聴こえてきた。
しかし、その声は、今しがたまで聴いていた二人の声とは明らかに別人のものであったのである。先程とはまた別の意味で聴き覚えのある声に、彼は端末越しにも関わらず警戒を抱いた。
『――いやはや……少々荒っぽい手を使ってしまってすまなんだや。しかしながら、こうでもせんと、お主とはこの先も話をする事が叶わぬと思うてな……? 急に割って入ってきて、さぞかし驚いた事だろう。驚かせてすまなかった』
声の主は、半ば一方的に話しかけてきた。彼は、ただ無言を返して、黙って先を促すかのように音声を聴くに徹する。
『……事情は既に聴かせてもらったぞ。主の現状の件、誠に心痛む事であり、悲しく思う……。そのように変わり果ててしまった原因は、我々にも一因があるのだろう。謝って済むような事ではないと分かっておるが……気休めでも構わん、気持ちとしても、一度皆を代表して謝らせておくれ。そして、お主が俺達の代理として、代わりに伝えてやって欲しい……。“主の事を、ほんに労ってやれずにすまなかった……助けを乞う気持ちに応えてやれずに、すまなかった”、……と――』
悔しげに堪える吐息と共に、彼の口から強く歯を食い縛る歯軋りの音が聞こえてきた。其れを受話器越しに聞き届けた者は、努めて静かに冷静に言葉を紡いだ。
『俺が一時的に通話を変わってもらうよう強引に割って入ったのには、お主に直接問わねばならぬ事があって故だ……。あのこんのすけとて把握出来なかった、お主と主二人が同時に消えた瞬間の由について問いたい。……あの日、お主と主の間に、何があった? 何故、どのようにして、お前達二人は本丸より消え、現世とも全く異なる異次元に居る……? 此れは、主の刀であった本丸一同が知るべき権利を保持する事だ。同じ本丸で共に長くはない時間を過ごしてきた同士たる大倶利伽羅よ……どうか、応えてはくれまいか?』
端末を力強く握り締めたが故に、ミシリッと軋む嫌な音が通話越しにも響く。此れには、流石に黙らざるを得ぬと判断したのか、暫し通話口は沈黙し、ただ通信中の微かなノイズ音のみが聴こえてきた。
今一度、背後の彼女の様子を振り返り見る。未だ静かに眠り続ける彼女の寝顔は安らかなものだ。
其れに励まされた訳ではないが、事実を伝える決意を固めたのか、一度深呼吸を挟んだのちに会話を再開し始めた。
「……彼女が起きぬまでの間だけと限定させてくれるのなら、話せる分だけは話してやろう……っ」
『うむ……。協力、感謝致す』
「と言っても……そんなに多くは語れんぞ。俺も知る範囲内でしか話せないんでな」
『其れでも構わんさ。俺達は、ただ……主を含めたお前達の事を案じたいだけなのだ……』
『――三日月さんの言う通りだよ、伽羅ちゃん……。君の知る範囲でも構わない……っ、どうか、教えてはもらえないかな?』
再び聴こえてきた男の声に、彼は促される形で一つの話を語り始めた。
「……正直に言って、俺が気付いた時には、もう手遅れなところにまで主は心を病んでしまっていた……。あのまま放っておいたら、手段はどうであれ、確実に死んでしまうと悟った…………。だから、彼奴が望むままに、“此処では無い何処か遠く離れた場所”へ連れ去ってやった。方法としては、神隠しに近しい形となるだろう……。彼奴の真名を握る事で、一度、俺の神域へと連れ込み。其れから、俺の霊力――もとい、神通力を駆使して、別の地点へ飛ぶ……。その代償に、彼女は自身の器に刻まれた名と記憶を失い、声をも喪う事となった。俺も、既に、ただの“刀剣男士”という枠組みからはかけ離れた存在となっている事だろう……。そうなる事でしか、彼女を救う事が出来なかった…………ただ其れだけに過ぎんが」
『…………そうか』
「――話は以上だ……。此れ以上、俺が語れる事は無い。……連絡も、二度として来るな。この端末も、もう劣化が酷いんでな……。下手に回収の手が伸びる前に破棄するつもりだ。…………最後に、本丸の奴等に達者で居ろよ、と伝えてくれ……。俺からは、以上だ」
『うむ…………時間の迫る中、我等の問いに応えてくれて感謝する。――主共々、この先もどうか達者でな』
別れの挨拶を最後に通信は切れたのか、通話の切れた音だけが空しく端末から響いてくる。其れを皮切りに、彼は通話を終了させ、窓辺の方まで歩み寄ると、激しい雨模様であるにも関わらず窓を開け、遥か彼方の外へと端末を投げ捨てた。直後、稲光が空を裂き、投げた端末を貫く。恐らく、もう使い物にはならなくなっている事だろう。だが、其れで良かったのだった。
少々乱暴に勢い良く音を立てて窓を閉めると、その音が目覚める切っ掛けとなったのか、其れまで眠っていた筈の彼女が起きてしまったようだ。すかさず、彼女の側へ駆け寄り、彼女の体調の善し悪しを問うた。
「すまんっ……起こしてしまったか。体調はどうだ……? 少しは、マシになったか?」
何やらやけに慌てた様子の彼が不思議で、寝起きも相俟ってふにゃりと笑む事でしか返事を返せない。けれど、その無防備極まりない、平穏そのものの姿を感じ取れて……。何故か、無性に抱き締めたくなって、未だ寝惚け眼の彼女を腕の中へ閉じ込めた。そんな彼の性急とも取れる求めに驚き、すっかり眠気が吹っ飛んでしまったらしい彼女はひたすらに目をぱちくりと瞬かせた。
かけられる言葉は何も無い。けれども、自身が眠る内に何事か彼の中で変化があったのかもしれない。そんな雰囲気を察し、彼女は無言で彼を抱き締め返し、胸元に擦り寄った。そうして、一頻り気が済んだ頃を見計らって、彼女は彼の両頬を包むようにして覗き込み、口パクで意思を発する。
――“私は大丈夫だよ”、と……。
その言葉に、彼は泣きそうな程に顔を歪めて、額を合わせてきた。
「葵……っ、頼むから……二度と俺の前から消えようとなんてしないでくれ…………っ。例え、お前自身は憶えていなくとも、お前の中では既に失われてしまっていた事だとしても……俺が全て憶えておくから、どうか此れ以上自分を喪わないでいてやってくれ…………っ」
切にと願う声音に、彼女はよく分からぬままであっても頷くように、目蓋を伏せてコツンと彼の額と触れ合わせた。少しでも彼の不安が、恐れが、打ち消される事を祈って。静かに寄り添い、共に時間を共有した。
暫くして、落ち着きを取り戻した伽羅が、ぽつりぽつりと心の内を語り出した。
「変に取り乱したりなんてして悪かったな……。その、お前が少しの間眠っている内に、古い端末の方へ連絡が入ってな……久々に懐かしい声を聴いたよ。相手は、お前も知っている奴等だった……。まぁ、お前は忘れてしまった事かもしれないが…………通話先で、お前の事について謝られた。其れと、お前への伝言を預かってくれと言付かった故……約束通りに、その言葉を伝えようと思う。――“主の事を、ほんに労ってやれずにすまなかった。助けを乞う気持ちに応えてやれずに、すまなかった”……と。俺は確かに伝えたからな」
ただ一人一方的な喋りとなるのは、最早慣れた事であったが……やはり、愛しき存在の声が聴けないという事実は、とてつもなく悲しい事だと改めて感じて、自嘲の笑みが漏れる。そうなってしまったのも、己の責任であろうに、何を今更被害者振っているのか……。
ふと、彼女の方から何もリアクションが返って来ぬと気付き、伏せていた視線を上げて正面を見た。すると、彼女は静かに涙を流して泣いていた。知らず知らずの内に頬を濡らしてしまったかのように。感情を置き去りにしてしまったの如く、ただ呆然と涙を頬へ流れ落ちるまま伝わせていた。
彼は、声をかけた。
「葵……?」
嘗てそうしたように、毀れ物を扱うように優しく掌を伸ばし、指先でそっと涙を拭ってやる。そしたらば、其れまで何も発せれなかった彼女が、僅かに小さくの掠れ声だが、確かに言葉を音として発したのだった。
「――ぁ…………っ、」
葵は、その時、初めて声を発せたのだ。ただの一音のみで、その時のたった一度切りでしか無かったかもしれぬとも。彼女は確かに、その時ばかりは、まるで嘗てを思い出したかのように涙して、泣いた。
彼は、其れを見守る事しか出来なかったが。
二人は、此処で、確かに息衝いている事を改めて思い知るのだった。
執筆日:2023.01.28