お祭囃子



―チリリン…ッ、と柔らかな風に揺られて、風鈴が涼やかな音を鳴らした。

季節は夏も八月、お盆の時期。

夕暮れ時で、あんなに暑く照り付けていた太陽も沈み始め、涼しくなる頃合いに蜩が元気に鳴き始める。


『―…ねぇ、母さん。何なの?これ…。』


梨トが、自身の部屋の床に置かれた物を指し示して、問う。


「え…?何って…浴衣だけど。」
『だから、何で。』


当然の事のように答えた佳奈絵かなえは、キョトンとした表情で首を傾げた。


―いや、だから、何故その浴衣が私の部屋に置かれているんだ、って事を訊いてるんだが…。


そんな思いを込めた視線を投げかけると、「あぁ。」といった様子で気付いた彼女は言葉を返した。


「今夜、盆踊りがあるでしょう?それに参加する為に用意したものよ。ついでに、近くでお祭やってるみたいだし?其処にも行こうかなって思って。」
『いや、そもそも参加するもしないも、何にも聞いてないんだけど…。』
「せっかく開催されるものなんだから、参加しましょう!浴衣もあるんだし。こんな機会じゃなきゃ、着る機会無いでしょ?」
『確かに、そうだけども…。』


釈然としない気持ちで渋る様子を見せると、キラリと目を光らせた佳奈絵は、にっこりと微笑み彼女に言った。


「私が盆踊りの事教えたら、“お父さん”、行くって言ってたわよ?」
『えっ!?マジで…!?』
「ええ。ちなみに、あの人は甚平さん着て行くって。浴衣もあるけど、去年着たし…。今年は、甚平さんの方が動きやすいだろうから、ってよ〜。」
『ははは…っ。“父さん”、何気にあの姿楽しんでるよね…。』


乾いた笑みを浮かべて、呆れを漏らす梨ト。

まだ何かあるのか、佳奈絵は愉しげな様子で話を続けた。


「あぁ。あと、コナン君達も参加するって聞いたわよ〜?それを聞いて、彼も参加するつもりみたいねぇ。」
『え…?彼って…、もしや、赤井さ……っ!』
「そっ。秀君こと沖矢昴君もね!」
『嘘でしょ…!?あの首元隠した格好の人が、どうやって参加するの…っ!?』
「さぁ〜…?それは、どうにかするんじゃなぁい?」
『どういうつもりだ?あの人…。』


疑問しか浮かばない話だった。

何処か企んだような笑みを浮かべた彼女は、「ふふふ…っ!」と笑いを含ませて去っていく。

何なのだろうか…?

謎な思いのまま、軽く夕食を済ませ、シャワーを浴びて、出掛ける準備を始めるのである。

シャワーを浴びる前、佳奈絵は何処かへ出掛けに行っていたようだが、すぐに戻ってきて、梨トや遥都はるとの着付けをした。

浴衣を身に付け、家を出るまでの間、暫しゆっくりとしていると、唐突に来客を告げるチャイムが鳴った。


「…誰か来たようだな。」
『こんな時間に誰だろう…?コナン君かなぁ?』


小首を傾げながら、梨トは玄関へと向かった。

浴衣を着ている為に歩きづらく、速くは進めずにゆっくりとした歩みで玄関へ辿り着く。

ドアノブに手を掛け、ゆっくりと扉を開けると…。


『…………え?』


一瞬、思考が停止して、身体の動きがフリーズした。


「―こんばんは、梨トさん。とても可愛らしいお姿ですね。それに、君によく似合う色だ。一目見ただけで、視線を奪われてしまいましたよ。」
『え……っ、ぁ、す、昴…さん……?』


彼女が口にした通り、扉を開けた先には、夕方噂した沖矢昴が立っていた。

しかも、浴衣姿で。

首元は、お洒落にもストールを巻いて隠していた。


「せっかくなので、一緒に行きたいなぁ…と思いまして、お迎えに上がりました。準備は、もう終わっていらっしゃいましたか?」
『あ、はぁ…。私は、終わってますが…。』


呆然とした様子で立ち尽くし、彼の姿をガン見する。

すると、少し照れたようにはにかんだ彼が、頬を掻きながら呟いた。


「あぁ…もしかして、浴衣を着てきたのが意外でしたか…?僕も、最初は私服で行こうとしていたのですが、君のお母様がいらっしゃってですね。着付けをしてあげるから是非着て行ってくれ、と言われてしまって…。それに、何やら凄くやる気満々なご様子だった事もあって、勢いに圧されて頷いたら、この浴衣姿に。」
『な、何かウチの母がご迷惑をお掛けしたようで…、その、す、すみません…っ。』
「いえ、久し振りにこんな涼しげな格好を出来たので、嬉しいですよ。君のお母様には感謝しなければなりませんね。せっかくの機会を頂けた事もありますし。有難うございます。この浴衣は、きちんと洗濯した後、丁寧に包んでからお返ししますね。」
『あ、はいっ。それはどうも、何時でも構いませんから…!』


軽く会話に応じながらも、彼の見慣れぬ姿に、つい目が離せずに観察し続けていると。


「………あのー、そんなにマジマジと見つめられると恥ずかしいのですが…。」
『へ………っ?あ…っ、えと、その、すみません…っ!あんまりにもナチュラルに着こなしていらっしゃったので、つい……っ!!』
「いえいえ、梨トさんにそんな熱い視線を送られるとは思っていなかったもので…とても嬉しいです。」


にこり、と爽やかに微笑んだ昴。

珍しく涼しげな格好と普段に無い程の大人な色気にてられて、思わず顔を仄かに赤らめた梨ト。

ぎこちなく視線を逸らし、顔を俯かせた。

その後ろからやって来た遥都が、甚平さんを着て、腕を組んだ状態で歩み寄ってきた。


「おぉ、よく似合ってるじゃないか。そいつは、俺が昔着た事のある浴衣だな。」
「やはり、そうでしたか。サイズが凄くピッタリだったので、もしや…と思っていましたが、当たりでしたね。」
「はは…っ。まぁ、今の姿じゃ、そいつは着れないからな。遠慮せず着てやってくれ。」


そう言って、用意されていた下駄を履き、彼女の横を擦り抜ける。

続いて、準備を終えた佳奈絵が浴衣を身に纏って出てきた。


「あら…っ!秀君、迎えに来てくれたの?」
「ええ。せっかくですから、一緒に行こうかな、と。あと…今は沖矢昴ですよ。」
「あら、そうなのっ。わざわざありがとね〜。じゃあ、仲良く行ってらっしゃいな!ホラ、梨ト、早く…っ!」
『えっ?』


唐突に背中を押され、「おっととと…っ、」とつんのめっていると、優しく受け止め支えてくれた彼が「大丈夫ですか…?」と声をかける。

慌てて身を離して礼を述べた。

背後で含み笑う声が聞こえたが、ギロリと一睨みしてから歩き出した。


―目的の場所に来ると、踊りは既に始まっていて、幾人もの人達が輪になって踊っていた。

その中に、見慣れた子供達の姿を見付けると、向こうから声をかけられた。


「あ…っ!梨トさんだぁーっ!!」
「おっ!本当だ!昴の兄ちゃんも居るぞ!!」
「こんばんはぁ〜っ!!お二人も参加しに来られたんですかぁーっ?」
『こんばんは〜、皆…っ!私達も参加する予定で来たんだよーっ。次の踊りから参加するから、良かったら一緒に踊ろうねぇ〜!』
「はぁーい!!お待ちしてまぁーすっ!!」


元気良く返事を返した少年探偵団の子供達は、にこにこと楽しそうに踊っていた。

太鼓や笛の音など、毎年この盆踊りで使われる曲が流れている。

今、流れていた曲が途切れ、終わりを告げると、隣で立っていた昴が手を差し伸べてきた。


「さぁ、次は僕達も踊りに参加ですね。行きましょうか。」
『そう、ですけど…何かその誘い方、舞踏会とかダンスパーティーでやる遣り方みたいですよ…?』
「おや。そう感じましたか…?これは失礼。ですが…今は動きづらい浴衣を着ていますし、履き慣れない草履を履いていらっしゃいますから、此方がエスコートした方が良いと思って。」
『はははー…。私、ハーフと言えども日本人だから、貴方よりは浴衣も着慣れてるし、草履も履き慣れてるんですがねぇー…。』


またしても乾いた笑みを浮かべながらも、素直に彼の手を取る梨ト。

少し離れた場所で見ていた佳奈絵が、それに微笑んだのは此処だけの話…。

二人一緒に輪に混ざると、すぐさま寄ってきた少年探偵団の子達。


「えへへっ、これで梨トさん達とも踊れるね!」
「昴の兄ちゃん、珍しいな!浴衣着てるなんてようっ。でも、首元に何か覆ってて暑くねぇか?」
「知らないんですか、元太君?今日の昴さんは、今時のお洒落でストールを巻いてるんですよ!これは列記としたファッションなんです…!」
「へぇ〜っ、格好良いね!昴さん!」
「有難う。そういう歩美ちゃんも、いつになく可愛らしいね。」
『(わぁお…っ、サラリと子供にまで口説き文句…。)あら、コナン君っ。今来たの?』
「うん!梨トさんは、昴さんと一緒に来たんだね?」
「あらあら、お熱い事ね。」
『哀ちゃん、それ誤解…。』


わいわいとはしゃぐ子供達と言葉を交えながら、曲に合わせて踊っていく。

輪の端っこの方で踊っていたら、隣で踊る昴がこそり、と話しかけてきた。

その内容は、今日彼と初めて逢った時に抱いた疑問点の事であった。


「先程から、ずっと此方を見ては首元の布を気にしていらっしゃいますね?」
『あ、すみません…っ。どうしてストールを巻くに至ったのか、気になってしまって…。』
「これは、君のお母様が授けてくれた作戦なんですよ。」
『え?母さんが…?』
「ええ…っ。浴衣を着ていても、然り気無くファッションの一部として首元を隠せる方法としてね。とある日本の漫画で、猫の頭をした彼氏が出てくるものがあるらしくて…。そのキャラクターは、人の成りに猫の頭をしているらしく、境目は謎とされていて…どうも、今の僕のようにいつも首元を隠しているそうなんだ。で…、そのキャラクターが、浴衣を着ている回の時にストールを巻いて首元を隠していたから、それを参考にしたらしい。」
『へ、へぇ〜…そうだったんですかぁ。納得しました…っ。(つーか、ソレ…私の漫画じゃん…。)』


とは言え、彼にとっては最善の策となったし、何よりバッチリ似合っているから問題は無いのだろう。

緩やかに回る円の中、皆が音に合わせて踊る。

ちらり、と見遣った先で“弟”の遥都と母の佳奈絵が、一緒になって踊る姿があった。

二人共、珍しく楽しそうで何よりだ。


暫く踊っていれば、再び曲が途切れ、次の踊りの前に休憩が入った。

子供達は、一目散に飲み物の出る所まで駆けて行く。


『暑いのに、子供は元気だねぇ…。』
「僕達も、何か飲み物を貰いに行きますか?」
『そうですねー…。けど、今は混んでるので、もう少ししてからにした方が良いでしょうね。』
「…ふむ。では、僕が君の分まで取ってきましょう。何が宜しいですか?」
『ん〜っと、じゃあ…カルピスで。毎年出てるの知ってるので。』
「カルピスですね?分かりました。では、ちょっと待っててください。」
『あっ、前以て言っときますけど、お酒も出てるからって子供達の前で気安く飲んだりしないでくださいね…!』
「分かってますよ、梨トさん。」


クスリ…ッ、と小さく微笑むと、人混みの中を掻き分けて行く彼。

すると、梨トは近くにあった木の下へ移動し、少し人混みから離れた。

陽が落ちてから涼しくなったとはいえ、今の時期の夜はまだ暑く、しかも、踊った事により余計に熱を持った為、暑い。

堪らず、梨トは持参していた団扇でぱたぱたと仰いだ。

汗もかいたので、襟元を少しだけ緩め、風を送る。

そうしていると、飲み物を手に持った彼が戻ってきた。

そして、彼女の無防備な姿を目にし、固まった。


『あっ。昴さーんっ!こっちですよ〜!』
「………ハッ。あ、はいっ!すみません…っ。」
『いえいえ。あんまりにも暑くて人も凄かったので、少し避けてたんです。先に言えば良かったですね、すみません。飲み物、有難うございます…っ。』
「はい、どういたしまして…。」


言葉少なになりながらも、持っていた飲み物を手渡した昴。

受け取った彼女は、一度、扇いでいた団扇を後ろの帯に挿し込み、仕舞う。

そうして手にした飲み物をごきゅごきゅ、と飲み始めた。

コップを傾ける際、自然と上を向くのだが、その時、汗が首元を伝い、見る人によっては艶かしく映った。


『っぷはー!やっぱ暑いと喉乾きますね!!そういえば、昴さんは、飲み物何にされたんですか?』
「…あぁ、僕ですか?僕は、無難に麦茶にしました。ひんやり冷えてて美味しいですよ。」
『夏と言えば麦茶ですもんね〜っ!キンキンに冷えた麦茶、夏には最高ですよ。』
「ええ…、そうですね…っ。」


ぎこちない返事を返しながら、眼鏡を直す昴。

少し下を向いているが為、表情は隠れてよく見えないが、一瞬だけ垣間見えた雰囲気は、呆れたような感じを纏っており、それでいて何処か鋭いものを感じさせた。

素早く辺りに視線を走らせれば、数人の男の視線が彼女に向いている。

小さく溜め息を吐くと、徐に首元に手をやり、ストールの下に手を突っ込み、機械を弄って口にした。


「―少しは周りに気を配ったらどうなんだ、お嬢さん。」
『え………?』


突然、彼本来の声で話しかけられ、驚いた梨トは目を瞬かせた。

飲み終えて空になっていたプラスチックのコップを、いつの間にか掻っ攫われ、スタスタと自分の分も捨てに行く彼。

何事か分からないまま呆然と立ち尽くしていると、他の人間が寄ってくる前に近くで様子を見ていたコナンがこっそり近寄ってきた。


「梨トさん梨トさん…っ。」
『わっ、コナン君…!どうしたの?小声なんかで話して…。』
「浴衣、着崩れてない…?今すぐ直した方が良いよ。特に襟元。」
『ゔぇ゙っ!!マジでか…!?』


そう教えてくれたコナンは、伝えたら伝えたでそそくさとその場を立ち去った。

慌ててあわあわと襟元を正そうとしていると、足早に戻ってきた彼の手によって正される。

その空気が些か不機嫌なように感じた彼女は、ちょっとばかし気圧されながらも口を開いた。


『あのぉ〜…もしかして、怒ってます…?』
「……別に、怒ったりはしていないが?」
『ぇ…でも、何か怒ってるような空気というか…。』
「…君が女性というなら、もう少し危機感というものを持って欲しいと思っているだけだ。」
『えと…ご、ごめんなさい……っ。』


若干怒りを含んだ声音に萎んでいると、襟元を正し終えた彼が頭上で盛大な溜め息を吐く声がした。


―あれ…そんなに呆れる程ですか?


そう思い、勘違いした方向にしょんぼりしかけていると、ふと耳元を掠めた生温かい吐息。


「―先程のように色気を纏わせた格好をしていたら、それこそ男を誘い兼ねないものだったぞ…?まぁ、恐らく君にそんな意図は無かっただろうし、無自覚だっただろうが…。あのままの格好では、間違いを起こした飢えた獣共が喜んで襲い掛かっていただろうな?」
『ひぇ…っ!?』
「俺が離れている内に群がられなくて良かったな。」


そう言って離れた昴氏…もとい、赤井秀一。

耳元で喋りかけられた衝撃で顔を真っ赤に染めた彼女は、反射的にズザザァッ、と距離を取る。

そして、恥ずかしさのあまり、口をぱくぱくと開閉させ、耳元を押さえた。

あまり見ぬ反応に「フ…ッ。」と笑みを浮かべると、再び口を開いた。


「そんな顔をするな。安心しろ。俺が側に居る限り、下賤な奴等には指一本さえ届かせんよ。だから、俺の側から離れるな。良いな…?」
『は…っ、はいぃ…っ!!』


脅すつもりは無かったが、先程の言葉で若干涙目になってしまった彼女は、必死に頷き、しかと腕にしがみ付いてきた。

またしても無意識な行動だが、相手が自分というのもあり、敢えて何も言わずに放っておいた。


休憩が終わったので、また子供達と会って話すかもしれない時の為に元の声に戻しておき、また踊りの輪に戻る。

そうして、何曲かの曲に合わせて踊り、盆踊りは終了した。

彼は、梨トの母親である佳奈絵から、“この近くでお祭りをやっているらしいから、終わったら帰りにそっちに寄ってから帰ると良い。”と言われていたのもあり、彼女の手を引き、二人揃って賑やかな音のする方へと向かう事にした。

ちなみに、少年探偵団の子供達は、夜も遅い時間である事から、その場で解散するオチとなった。

お祭り会場に着けば、規模はそれ程大きくはないが、色々な屋台や出店が建ち並んでいる。

時間帯的には大分遅い時間となっているが、まだ沢山の人で賑わっていた。


『わぁ〜っ!結構な人がまだ居ますね!!皆お祭り好きだなぁ…って、かく言う私もそうだけどな。』
「さて、何処から回りますか?」
『う〜ん、そうですねぇ…。まずは、かき氷屋さんから!さっきまで踊ってて暑いですし!』
「かき氷屋さんなら、此処から二、三軒先に行った所にありますね。」
『そうと決まれば、レッツラゴーッ!!』
「あ…!待ってください…っ!」


テンション高々に颯爽と人混みの中へ突っ込もうとした梨ト。

それに慌てた彼は、唐突に彼女の手首を掴んで、自身の方へと引き寄せた。

驚いた彼女は、引き寄せられた体勢のまま、後ろの彼を顧みた。


『どうしたんですか、昴さん…?』
「いえ…先程忠告したのに、先に行かれかけてしまわれたので…っ。」
『あ、すみません…!つい…っ。』
「お気持ちは分かりますが、これだけ人が居るんですから。注意してください?」
『あい、気を付けます…。』


一旦、少しだけ冷静に戻った梨トは、改めて二人で行こうと彼を待つ。

しかし、ふと何かを考え始めた昴は、顎に手を当て、顔を俯かせた。

それに気付いた梨トは、取り敢えず、彼が何か発するのを待った。

短い時間の間、俯いていたが、不意に顔を上げる。

だが、その視線は斜め下…。

彼女の首筋に向いていた。


『…あの〜、昴さん?どうかされたんですか…?』
「あぁ…、ちょっと考え事をしていましてね。万が一、君が僕から離れても、変な虫が寄り付かないようにする良い方法を思い付いたんです。」
『えっ!?それって、どんな方法ですか…!?』
「何、簡単な事ですよ。」


そう言って、彼は意味深にニッコリと微笑んだ。

そして、彼女の身体を自身の正面になるように向ける。

指示された通り、素直に従う梨ト。

これで準備は整ったらしい。


『えっと…こうやって立っているだけで良いんですか?』
「はい、君はそのまま大人しくしていてください。」
『はーいっ。』
「少し痛むかもしれませんが、すぐに済みますので…失礼させて頂きますね?」
『あい、どぞー。(ん…?少し痛むかもしれないって何でだろ…?)』


何の警戒も無く、大人しく彼の目の前でスタンバる梨ト。

そんな彼女の肩に右手を置き、そっともう片方の手を後頭部へ添えると、悪戯な笑みを浮かべ、耳元に口を寄せてこう言った。


「―出来るだけ、声は出さないように頼むぞ…?」
『ぇ………っ?』


どういう事か意味が分からずに彼に問おうとして、彼の表情を窺おうとした瞬間。

突然、首筋に生温かい感触が走り、思わず吃驚した梨トは盛大に肩を跳ねさせた。


『え…っ!?あ、あの…っ、昴さん……っっっ!?』


動揺して声をかけるも、返事は無し。

代わりに、先程とは違う感触が首筋に走って、小さく漏れかけた声を慌てて抑えた。

今まで感じた事の無い、擽ったいようなむず痒いような、変な感覚にザワリと粟立つ肌。

次いで、ピリリッ、と走った痛みに、「ぃ……っ!」と小さな声が漏れた。

そこで漸く離れた昴だが、珍しく開かれた彼の瞳と目が合い、再び身を固まらせる梨ト。

理由は、その瞳にチラついた大人な色欲にタジタジとなってしまったからである。

しかし、身を引こうにも、未だ彼の手は後頭部と肩に置かれたままだ。

即ち、逃げ場は無い。

絶望的立ち位置に、顔を真っ赤に染めながらも口許を引き攣らせる彼女は、唯一の抵抗として、首筋を押さえ睨み付けた。


『何っつー事してくれてんですか!?昴さ…っ、いや、赤井さん…っっっ!!』
「何って…少々痕を付けさせてもらっただけだが?」
『いや、だから、何でキスマークなんて方法取ったんですかって訊いてんですよぉ…ッ!!』
「今思い付いた方法が、偶々それしか無かったんだ。まぁ、一番手っ取り早いし、何より、最も効果的な方法だったからな。」
『もっと他に方法あったでしょ!!赤井さ、もごぉっ!?』
「その名前を大声で呼ぶんじゃない。もし奴等が近くに居てバレたらどうする…?」


思い切り口を塞がれた為にまともに喋れない彼女は、余計に憤慨し、「むむむむんむむーむむぅぅぅっ!!(訳:赤井さんのせいですぅぅぅっ!!)」と叫んだ。

何て言っているのか分からず、辺りへの警戒を緩めた彼は、塞いでいた手を退けた。

息もまともに吸えなかった彼女は、それに盛大に息を吐く。


「まぁ…痕を付けたと言っても、襟で隠れて見えない場所に付けたから安心しろ。普通にしていたら見えない筈だからな。」
『それでも、見えちゃったらどうするんですか!?』
「見えても良いように付けたものだ。」
『だからって、何でド定番ネタを使ってくるんですかぁ〜ッッッ!!』


そうぼやいて、恥ずかしさのあまり泣きそうになっていると、そのままの体勢だったところをグッ、と引き寄せられて耳元で呟かれた。


「あまり煽るような反応をしないでくれ。でないと…、
―理性が利かなくなりますから。」


彼の中に潜む狼を呼び起こしてしまったかに思われる瞬間だった。


執筆日:2016.08.15
加筆修正日:2020.05.19

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