淡散


※一部、物語進行上の描写により、創作のオリジナル怪人キャラが登場致します。
※以上を踏まえた上で、どうぞ。


 あれは、そう……今よりほんの少し前の記憶だ。
 私が、まだ未熟で、この世の可笑しさと恐ろしさを知らずに、何処か他人事として捉え過ごしていた頃の話。
あの頃は、ただ社会の歯車の中でどうにか芽を出そうと、必死に駆け摺り回ってはダメ出しを受け、心身共に消耗し切っていた。
 何かをしていなければ怒られる。何かしていても、“なっていない”と頭ごなしに怒鳴られる。そんな、特別何かを得る事の無い、ただ延々と同じ事の繰り返しの日々。正直、もう厭になっていたんだと思う。
 何も変わらない、単に同じ事を繰り返すだけの流れ作業のような日々。まるで変化に乏しい毎日。心の慰みとしていた友人との時間も、社会の狗として忙殺されるだけで居たら、其れすらの時間さえ設ける余裕も無くなって。その内、少し前までは連絡を取り合っていた筈の友人とも疎遠となり、気付けば、社会の枠組みから孤立していたのだ。
 気付いた時には、一人ぼっちで、頼れる相手など誰一人として居なくなっていた。その事を、寂しいと思う気持ちはあったけれど、しかしながら、仕事をこなさなければ成果は上がらず、また、そんな気持ちを抱く余裕すらも次第に無くなっていた。
 そうして、何もかもに疲れ果てた暁に、私は思い知ったのだ。この世の残酷さと、生きづらくなってしまった社会の重さを。

 毎日ただ会社へ出勤して、シフトの間みっちり働いて、上司に怒鳴られては同僚に白い目で見られたり陰口を言われて。仕事が終わる頃には外は真っ暗で、一日という時間が終わろうとしていた。
 毎朝早く起きては急いで御飯を掻き込み、社会人のたしなみと口酸っぱく刷り込まれたマナーとして最低限の化粧を施し、リクルートスーツに袖を通して家を出て行く日々。その後は、走って通勤ラッシュで混む電車へと駆け込み、お世辞にも心地好いとは言えない満員電車で暫し揺られて、最寄り駅に着いたら遅刻しないようほぼほぼ競歩のような早足で会社までの道のりを急ぐ。そうして、多忙な時間が終われば、また急ぎ電車へと駆け込み、満員電車で揺られる時間を過ごす。其れ等全ての時間をクリアした果てに、漸く何もかもから解放される気がした。お陰様で、日常の最低限の家事すらこなす気力も無い。
 帰ったら仕事着を脱いで、家着に着替えるついでに洗濯機を動かし、軽く化粧を落として御飯の用意をする傍らで今朝食べて行った食器を洗い、適当に食事を済ませたら適当に風呂を済ませて、後は寝るだけ。あまりに疲労が溜まっている時は、最悪御飯も食べぬまま、化粧だけ何とか落として布団へinするだけだ。街ですれ違う同年代の輝く他の女性等と比べたら、枯れ切ったも同然の生活スタイルであった。
 そんな日々を続けていたら、当然糸が切れる瞬間は訪れて。連日の不眠症が祟って些細な点で仕事でミスを犯し、上司にこっぴどく叱られた或る日、私は生を諦めた。ただ毎日を消費するだけの日々に疲れたのだ。
 ぶっちゃけ、幾ら福利厚生が機能していようとも、会社内の雰囲気が最悪ならば、存在するだけ無駄である。どうせ、周りの人間達の愚痴の捌け口にされるだけなのだ。人間関係など、期待出来る筈も無い。
 こんな日々、もう厭だ。生きるのに疲れた。何かをするのも、何かに振り回されるのも、もう沢山だ。こんな日々が続くだけの毎日なら、生きていたくない。生きる価値も無い。
 その日は、比較的上がりの早い日で、仕事終わりの帰宅途中にあるスーパーへ寄り、比較的安価なお弁当を適当に選んで帰路に着いた。相変わらずの満員電車で不快な思いをしつつも我慢しながら何とか最後まで揺られ続け、最寄り駅を降りる。其処から自宅までの距離は然程離れてはいなかったが、その短い距離すら歩く事を放棄したくなるくらい果てしなく長い道のりに思えた。
 そんな時だ。窶れた私の前に怪人が現れたのは。意識を向けた時には、目の前に居て、一瞬何が起きたかなんて事も分からなくて。何も理解出来ない内に、恐ろしい姿をした怪人は下卑た笑みを浮かべて、臭い息を吐き出しながら汚い言葉を撒き散らし始める。
 思考は止まったまま、その先の事など何も考える事は出来なくて、ただ怪人から浴びせられる理不尽の極みみたいな罵倒を聞き流す事しか出来なくて。其処で初めて、自分の感情が既に擦り切れ死んでしまっている事に気付いた。
 何だかやけに巨大な体躯でやたら圧迫感の強い怪人は、私のあまりの無反応さが気に障り面白くなくなったのか。其れまでただ汚い言葉を並べ立てるだけであった時間から打って変わって、鋭く尖った刃の付いた大きくて太い腕を振り翳した。その様を見て、私は悟った。嗚呼、私は此処で死ぬんだと……。
 今、此処で奴の手に掛かれば死ねるのかな。死んだら、私を蝕み絡み付いて離さないしがらみの類いから全て解放されるのかな。死ねば、何もかもから解放されて、楽になれるのかな。なら――、殺されても良いや。どうせ、もう生きるのにさえ疲れ果てていたところだ。生きるも死ぬも苦痛ならば、今此処で一瞬で殺してもらえば良い。
 そう決意して、私は久方振りという程使っていなかった表情筋を動かし、小さく笑みを浮かべてこう言った。
「――良いよ、殺しても。どうせ、もう生きるのに疲れてたんだ。楽になるなら何だって良いよ。私の事、好きなように甚振って殺して。でも、出来る事なら、痛みも感じぬくらい一瞬でお願いしたいな。だって、死ぬ時くらいは楽で居たいじゃない……?」
 不気味なくらいに異様な空気を放っていたのだろう。自ら死を望み両手を差し出す私に、其れまでの余裕綽々とした態度を一変させ、あからさま異質な物でも見るみたいにドン引きし、一歩引き下がった。
 そして、トドメの一言が此方である。
「え゛…………っ、率直に言って引くんだけど。俺様は、俺様の姿に恐れ慄き右往左往しながら阿鼻叫喚する様を眺めるのが趣味なの。殺戮は二の次なんで、そういうのは他所当たってくれる? 俺様そういうの専門外だし。窓口違いだから。そんなに死にたいなら、自分で死ぬか、他の奴に当たってくれ。俺様は知らん。ちぇっ……せっかくの興が冷めたぜ。お前相手すんのめんどくなったから行くわ。じゃあな。どっかで好きに野垂れ死んでな」
 まるで私の存在など無かったかのように、「あばよ」との一言を残して去って行こうと、私の真横を通り過ぎた直後。怪人は跡形も無く粉砕され、その場には怪人が存在したという少しの残骸と体液がべっとり絵の具をぶち撒けたみたいに広がるのみ。
 盛大に巻き添え食らって頭から全身返り血を被った私は、衝撃にビクリと体を跳ねさせ、恐る恐る背後を振り返る。すると、其処には、私よりかは幾分マシだけれどもやはり同様に返り血を浴びた男の人が立っていた。其れも、拳を構えたまま、平然とした様子で。
 恐らく、彼が先の怪人を殺ったのだろう。何の変哲も無い水色のジャージを身に纏った、何処にでも居そうな平凡な見た目の黒髪の青年は、私へと手を差し伸べて言った。
「散々な目に遭っちまったなぁ。けど、もう怖い奴は居ないぞ。俺が倒したからな。大丈夫か? 怪我とか無いか? というか、何か悪ィ……盛大に返り血浴びせちまって……。えーっと、必要なら、クリーニング代くらいは弁償するんで、其れで勘弁してもらえる……?」
 まさに、正義のヒーローそのもののように、突然の彼の登場は劇的に私へと影響を与えた。物凄い巻き添えを食らった上に、スーツも髪も返り血でビチョビチョの泥々状態であったが、目の前はチカチカと目映い輝きに満ち溢れていた。
 茫然自失として棒立ち且つ無反応で動かない女に、彼は自身のやらかし加減にショックを受けて動けなくなっていると勘違いしたのか、とてつもなく焦った様子でその場を取り繕おうと早口で謝罪の言葉を捲し立てた。
「あ゛ーっ、御免! 本っ当に御免! 何で俺謝ってっか分かんねぇーけど、取り敢えず御免!! この通りだから……っ!!」
 掌を合わせて必死に頭を下げる彼に促されるように復活した思考が最初に導き出した答えは、何ともその場にそぐわぬ言葉だった。
「ぁ………………さっき買ったお弁当、無事かな…………」
 漸く捻り出された感想が、あまりにちぐはぐ過ぎた為か。一瞬、呆気に取られたような表情で此方を見てきたものの、事の重要さに気付いたらしき男は、戦慄した如く顔を青ざめさせ、再び慌てた風に口を開いてきた。
「おわぁーっ!! 大事な飯おじゃんにしてスマァーンッッッ!! 其れ、今日の夕飯だよな!? 此れからお家帰って食う予定だった飯だよな!!? 怪人に襲われかけた挙げ句盛大な巻き添え食っちまった上に、せっかく買った筈の弁当まで台無しって――アワワワワッ……」
 男が別の意味で心配する中、私は片手に提げたまんまだったスーパーのビニール袋を漁り、中に入っていた今晩の夕飯であるお弁当が無事かを確認した。幸いにも、ビニールが全て塞いでいてくれたお陰で、電車に乗る前に買ったお弁当は奇跡的にも無事だった。一先ず、その事に安堵し、改めて私は目の前に居る正義の味方へ向き直り言った。
「奇跡的にも無事だったみたいなんで、大丈夫です。大変なところを助けて頂き、有難うございました。このご恩は、いずれまた何処かでお会いした日にでもさせてくださいね」
「えっ……? いや……でも、せめてクリーニング代くらいは払っ……」
「助けて頂いたのに、お代だなんて飛んでもない……っ。どうせ、もうだいぶ着古して草臥れてたスーツですし。此れを機に一新するか…………いや、いっそ仕事辞めるか」
「えっ??」
「どうせ死にたくなる程お先真っ暗なんだし、何処で働いていようが今更なんだから、あんな糞でブラックな会社辞めちまえば良いんだ。そうだよ、何でこんな事気付けなかったんだろ……っ。もっと早くに気付けたら……っつって。まぁ、所詮愚図で要領も悪いダメダメな駄目人間なんだし、私なんかが今更居なくなったって何も変わらんだろ。うん、絶対にそうだわ。……よしっ、明日出勤したら朝イチで辞表提出しよう! そうしよう!」
「えーっと、あの……お気は確かで?」
「えっ? あぁ、すみません、何か一人でいきなりごちゃごちゃ呟いちゃって。あっ、お弁当の件もスーツの件も大丈夫ですから、ご心配には及びません。寧ろ、此方こそ何もお返し出来ない状態で、大変申し訳ございません……っ」
「えっ!? いやいや、別に御礼とか良いから! 怪人やっつけたりとか、俺が好きでやってるだけだから! 寧ろ、何か巻き込んだ感じでスマン!!」
「いえ、ですが、危機的状況を救って頂いて何も返さないというのは、どうしても私の気持ちが済まないので……っ。かと言って、今すぐ何か代わりに差し出せる物も無いですし……体で支払うなんてそんな無謀且つ重たい事は逆に困るでしょうし……っ。んーっと、そっ、そうだ……! 今度、日を改めた際にでも、御飯奢らせてください! どうか、せめて其れくらいはお返しさせて頂ければ、幸いに思う所存でしてっ……!! もし、其方さえご迷惑で無ければ……今度、お昼でも夜でも、ご都合の合う日取りとお時間で、御飯奢らせて頂けませんでしょうか?」
 無い頭を捻って何とか出した代替案が其れだった。その案を聞くなり、彼はあっさりとした返事を返してきた。
「えっ? 飯奢ってくれんの? やったあー。じゃあ、アンタが良さげな適当な日教えてくれよ。俺、基本的いつも暇だから、予定がら空きで何も入ってねぇし。あっ、でも明日は近所のスーパーが特売セールの日だから、ちょっと無理かも。其れ以外の日なら、何時いつだって構わねぇぞ」
 そう言うなり、少しばかり焦ったように己の服の内側をまさぐると、目的の物を見付けたのか明るい表情に変わり、お世辞にも綺麗とは言い難いクシャクシャの皺くちゃハンカチを差し出してくる。そして、自身の頭を指差して、こう言った。
「はい、コレ。ハンカチ。大したフォローにはならんだろうが、髪の毛くらいはコレでちったぁマシになるだろうからさ。流石に、そんまま帰んのは気持ち悪いだろ? 良かったら使って」
「あ…………っ、有難う、ございます……」
 久方振りに触れた他者からの優しさに、今更ながら涙腺が緩み、不意に一粒の涙が頬を伝った。その様子にギョッと目を剥いて驚いた男は、咄嗟に対応し切れず、盛大に狼狽した態度を見せる。
「うぉわっ!? えっ!! そんな今の対応悪かったか!? 其れとも、俺何か不味い事しちゃった感じ!? えええぇっ……ととっ、取り敢えずこのハンカチ使って良いから!! なっ!? た、頼むから泣かないでくれ〜っ! そうじゃないと、俺、周りから女の子泣かした酷い奴だと思われちゃうから……!!」
「ぅ゛っ……す、すみません突然……っ。何か、急に緊張の糸が解けたというか……兎に角、泣くつもりなんて一切無かったんです。けどっ……突然降ってきた優しさに、何でか、今までを押し留めてきた色んな感情が、一気に崩れちゃったみたいで……っ。本当に、すみません…………こんな、面倒臭い奴で呆れちゃいましたよね? 本当、何から何までご迷惑お掛けしてしまって、誠にすみませっ…………!」
「何でアンタが謝るんだ? アンタ、何も悪い事してないだろ? 何をそんなに気にしてんのか知らねぇけど……少なくとも、俺は、今の事を迷惑だなんて此れっぽっちも思ってねぇーから。確かに、突然泣かれて驚きはしたけどさ。本当に其れだけで、他は特に何とも思ってねぇから。寧ろ、怪人から助けただけでこんなにも感謝されて、真面目に恩を返そうとするアンタは良い奴だよ」
 着飾る事を知らないような真っ直ぐとした言葉に、ふと腑に落ちたみたく此れまでの何もかもがストンッと落ちて。あんなに生を呪い、この世に生まれてきた事を後悔するような真っ暗闇の底に居た筈が、こんなにも簡単に光射す明るいところへ引っ張り上げてもらえるだなんて。
 もう少しくらいなら、頑張って生きてみても良いのかな……そんな気持ちが胸の内に芽生えた頃には、自然と私は笑っていた。
「あの……今更ながらではあるのですが、貴方様のお名前をお聞きしても良いですか……? せめて、自分の命を救ってくれた人の名前くらいは、覚えておきたいなと思いましたので」
「うん? 俺の名前……? サイタマだけど。ちなみに、趣味でヒーローをやっている者だ。宜しくな」
「サイタマさんって言うんですね。私は、レオと言います。此方こそ、宜しくお願いしますね。其れから……改めまして、この度は、私の命を救って頂き有難うございました」
「うん、其れはもう良いから。話変わるんだけど……もう時間も遅いけど、レオの家ってこっから近いのか? もし遠くて離れてるって事なら、近くまで送っていくけど……」
「いえ、此処からすぐの距離に在りますので……どうぞお構い無く。お気持ちだけ頂いておきますね。ただでさえお引き留めしている中、此れ以上のご負担をお掛けするのは避けたいですし……っ。本当に何から何までお気遣い頂き、有難うございます」
「いやいや、巻き込んじまったのはコッチなんだし。そんな頭下げられるような事は何もしてねぇーってば……っ」
 丁寧に感謝の気持ちを述べるべく腰を折って綺麗なお辞儀を決めれば、逆に申し訳なさそうに返す言葉が頭上へと降ってくる。本当に根の良い人だ。
 私は頭を上げ、ジャケットの内ポケットに仕舞っていた仕事用の名刺を取り出し、急ぎその空いたスペースである裏側へ自分の私用且つ個人的連絡先を書き記すと、呆然とする彼へ差し出す。
「此方、私の名刺です。まぁ、明日辞める予定の仕事先で使っていた名刺になるんですけど……そっちはもう関係無くなるので、その点については全て無視して頂いて……っ。裏側に私の連絡先を明記致しましたので、何か御用の際は其方までご連絡ください」
「あー、わざわざご丁寧にどうも……。けど、俺、携帯とかの類い一切持ち歩かねぇし、家にも固定電話とか置いてねぇから、あんま意味無いと思うぞ」
「えっ……じゃあ、今度御礼する際の確認方法などは、一体どうしたら…………」
「あっ、アレだったら、書く物貸してくれたら俺ん家の住所教えるから、直接来てくれ。其れか、最悪、そっちの都合の良い日さえ決めてくれりゃ、此処で待っとくから。其れでも良いか?」
 今時の現代人としては珍しく携帯端末を持ち歩かない人だったが、その分、他の人達とは違う魅力を持つ人であった。
 私は言われた通りに、まだ持っていた余り分の名刺と手にしていた筆記具に名刺ケースを下敷き代わりに差し出し、サラサラと書かれて返ってきた物を受け取る。其れを確認するように一度目を落として頷き、下げていた視線を上げて笑みを浮かべた。
「確かに頂きました。それじゃあ、今度御礼に参る際は、此方の住所まで」
「何か今更不安になってきたんだけど、本当に其れで良かったのか……? 別に見返りなんて求めてないから、御礼とか必要無いと思ってたんだけど……」
「再三言うようでしつこく思われるかもしれませんが、私が御礼をするのは、純粋なる感謝の気持ちを何かしらの形で示したかったに過ぎません。ですから、サイタマさんはお気になさらないでください」
「言いづらいんだけどさぁ、その“サイタマさん”っての止めてくんねぇ? 何か慣れなくて変な感じするし。俺の事呼ぶ程度で敬称付けたりとか、んな風に畏まる必要も無ェから。普通に呼び捨てで構わねぇよ」
「えっと……じゃあ、此れからは“サイタマ”って呼ぶ事にする……っ」
「おう。じゃっ、俺アッチだから。もうすっかり暗くなっちまって時間も遅ェから、家まで近くても気を付けて帰れよ。最後に、今日のところは本当色々とすまんかった」
「ううん。それじゃまたね、サイタマ」
 偶然助けてくれた青年ことサイタマと別れ、再び帰路へと着いた私は、見るからに悲惨な惨状の見た目なのも気にする事無く家路へ着いた。
 そうして、玄関先で朝とは違って諸々酷い有り様と化した衣服を脱ぎ捨てると、彼の手より握らされたハンカチの存在をすっかり忘れていた事を思い出す。
「あっ……サイタマのハンカチ、そんまま借りて帰ってきちゃった……っ。けど、まいっか。綺麗に洗ってから今度会う日にでも返そう。今は何よりも先ず風呂だわ。うわ、薄暗い外じゃよく分かんなかったけど、明るいとこで改めて見たら予想以上に酷ェしきったね……っ。うーえ、凄ェベットベトじゃん……。しかも、地味に臭いしッ……こりゃもう駄目だな。クリーニング云々以前にもう着たくないわ、こんなん。早よ諸々済まして飯食って寝よ……。んで、急拵えでも良いから辞表書いて、明日朝イチ本部長に提出しよ。明日以降の事は、明日以降に考えよ……っ。今日はもう疲れたわ、色んな意味で。何か色々と考える気力も無い……」
 そんなこんな一人呟いて、風呂へ入って全身綺麗に清めてから御飯を食べ。片付けは後回しに、ネットから適当な資料を引っ張ってきて辞表を書き上げたところで、漸く布団に入って就寝した。

 翌日、予備のリクルートスーツに身を包み、昨夜の残骸もそのままに、毎朝のルーティンをこなして家を出た。昨日までと違うのは、心持ち余裕が生まれ、何処か清々しい面持ちで居た事だろうか。
 昨夜宣言した通り、会社へ出勤するなり上司の元へ向かうと、気持ち申し訳なさそうな空気を醸し出しながら辞表を叩き付け……否、きちんとした手順で以て受理されるよう提出した。結果、提出した辞表はちゃんと受理され、突然の辞職宣言に、周りからはただでさえ白い目で見られていたのから更に陰口や小言で罵られたが、今日限りで辞める会社の事なぞ知った事かと開き直り。大して引き継ぐような仕事も無かったが、一応は会社の規則に則って自分の担当していた仕事を近しい立場の人間へ引き継ぎ作業を行った。
 そうして、シフトに指定されている通りの業務時間を終えるなり、私は手短に挨拶を済まし、会社を退社した。恐らく、今後金輪際お世話になる事など無いと心の中で吐き捨て、昨日と同じように帰路に着く。途中、帰り道の電車内で、怪人の出現が原因とか何とかで各ラインの公共交通機関が止められた旨を車内放送で聞き、長時間足止めを食らうも、どうせ明日から暫くはフリーなんだし何も急ぐ事は無いかと愚痴一つ漏らさず、ただ淡々と家路に着いた。
 そして、玄関の扉を開いて、廊下の電気を点けた事で思い出す。
「うわ。昨日そんままにしてたの忘れてた……っ。コレ、どうしたら良いんだろ……。取り敢えず、燃えるゴミの日にでも出せば良いんかね? たぶん、分別は燃えるゴミで合ってんだろ……。最悪、不燃物に回せば良いか? まぁ、どっちにせよ廃棄だから何でも良いな。一先ず、ゴミ捨て用のビニールにでも突っ込んどこ。あ、でも、流石に素手んまま触んのは嫌だから、使い捨てのゴム手してからにすっか。俺ってばアッタマ良い〜っ!」
 ふんふんと鼻歌さえ聞こえてきそうなくらい上機嫌な調子で、一度は死んだかに思えた感情を取り戻した姿が、其処にはあったのである。
 其れが、私が彼と初めて会った時の記憶であり、私が今に至る切っ掛けとなった事が起こった最初の記憶だ。


 ――時は現在へ戻り、此れまでの話へ静かに耳を傾けていた、彼の弟子たる青年が口を開く。
「……成程。そのような経緯を経た事で先生と出会い、今の関係を築いてきたという訳か。流石は先生だ……っ、やはり俺の師はサイタマ先生しか居ない……!」
「何か俺の名前挙げられてるみたいだけど、二人で何の話してんの……?」
 師匠たる彼を尊敬して止まないジェノスが興奮した様子で感想を零していると、話の内容が気になったらしいサイタマがひょっこりと姿を現した。其れに対し、私はにこりと微笑みを浮かべて、気安い態度で以て言葉を返す。
「俺がどうやってお前と知り合ったかの経緯を訊かれたから、初めて出会うに至った経緯を一から簡潔に説明してただけさね」
「ふーん。別にそんな昔のエピソード聞いたって、大して面白くも何とも無いだろ?」
「いえ、俺が知らない、俺が出会う前の先生の事を知る良い機会になりましたよ! 非常に為になるお話でした!! 是非とも、今後の機会へと活かす為にも、貴重な資料として全て記録させて頂きます……っ!」
「あっそう。まぁ、好きにしたら良いんじゃねーの?」
 己の事だと言うのに、然して興味も無さげな素っ気ない返事を返し、片肘を付いて耳糞を穿ほじるサイタマ。そんなやる気の欠片も見えぬ彼だが、こう見えて、嘗て出会った時よりも遥かに強い力を手に入れ、今やプロのヒーローとして日々戦っているのだから尊敬する。
 まぁ、嘗てと違う点で大いに異なる事を挙げるとすれば……強さを追求するあまり、毛根が死滅し、今や見事に立派なスキンヘッドヘアへと化してしまった事だろうか。
 感情が抜け落ちたような間抜けな表情を浮かべて、何をするという訳でも無しに、目の前の恐ろしい程までの速さで筆を動かし白いページを次々と埋めていく弟子の様子を眺める彼を。斜め横の位置から何とはなしに無言で見つめていれば、その視線に気付いたらしき彼が徐に此方へ振り向き、口を開く。
「ん……? どうかしたか、レオ?」
「うんにゃ、何でも無いよ」
「そっ?」
 あの日、あの時、彼に出会わなければ、きっと私は何かしらの形で死んでいた事だろう。その運命を変えたのは、他の誰でもない、彼という存在なのだ。
 今の私が在るのは、彼と出会ったが切っ掛けである。故に、今も尚、私は心の底で感謝し続けている。あの日、怪人すらも見捨てた私なんかを見付けて、救ってくれて、有難うと――。
 決しておごる事の無き真っ直ぐとした強さは、今も私を支えてくれる力である……その事は、私の中だけの秘密である。


執筆日:2023.02.23