其れは、きっと不埒な響きのせい
たぶん、きっと、あまりにも日常的に沢山耳にしていた言葉だったから。其れで、いつの間にか、自分の中にも馴染むように刷り込まれて行って。
先生、先生、サイタマ先生と。何だかんだ結局一緒につるむようになって(半強制的に押し掛けた故だが)、子分みたいに可愛がる、まだギリ十代の域を出ないジェノスが彼の事を呼ばわる。まぁ、本当の事を述べると、彼の弟子として正式に認められているので、師の後をすっかり懐いて付いて回る青年こと“鬼サイボーグ”は年相応のように見えた。
兎に角、毎日毎日、師を慕って一日に何度も呼ばわるから。そのせいか、いつの間にか私の中でも同様の方程式が出来つつあって。
不意に、ジェノスではなく私自身が彼の名を呼ぼうと口に出した瞬間、実際に舌に乗せられた音は私の中のものではなく。当然、呼ばれた側にも違和感という形で以て伝わった。
「ねぇ、
「えっ……?」
呼んだ直後、彼の明らかに不自然な反応に、うっかり弟子のが移ってしまったのだと理解した。呼んだ後に理解するだなんて、全く馬鹿らしいにも程があるのだけれど。其れでも、ついうっかり自然と口が動き、舌に音が馴染んでしまうくらいには聞き慣れた呼び名であった。
本来は、弟子であるジェノスが彼を呼ばわる時限定の呼称であった筈なのに。どうも、うっかり言い間違ってしまうくらいには馴染んでしまっている響きだったらしい。故に、呼んだ側の自分は確かに間違えた感覚を覚えたが、しかし、あまりの馴染み様に脳がバグを起こしてしまったようだ。
怪訝な顔で反応を示した彼に対し、咄嗟に、呼び間違えた事への罪悪感と少しの羞恥心から、控えめの謝罪を告ぐ。
「やっ……な、何か御免っ……今のはミスったわ」
「いや……別に良いんだけどさ……お前からそう呼ばれると、何か微妙な感じがするというか、端的に言ってエロく聞こえるから、ちょっと吃驚したのと同時に、今此処に彼奴が居なくて良かったと心底思った」
「何やて工藤??」
「は? 誰だ其れ。俺はサイタマだ。“工藤”なんて奴、某有名探偵漫画の主人公以外に知らん」
「いや、一応は知っとるんかい……って、今はそっちにノリ突っ込みしとる場合じゃなかったわ……っ。ちょっと衝撃的過ぎて一瞬耳疑ったんだけど……お前さ、今何て返した……?」
「え? だから、俺の名前はサイタマだって、」
「違う、そうじゃない。其れよりも一個前の台詞の方……!」
「えぇ? あー……もしかして、レオの発言にエロく聞こえたとかどーとかって返した事の方か?」
「そう、其れ! 何なの、その“エロイ”って……どういう意味さ?」
「いや……別に深い意味は無ェよ。ただ、何となくそう聞こえただけで」
「弟子のジェノス君が毎日いつも言ってる響きと然して変わらない筈だと思うのだけど……っ。実際、今日もそう呼んでるの聞いたし、出掛ける前も一言声かけて出て行く際に聞いたし。寧ろ、こっちがついうっかり移っちゃうくらいには耳に馴染み過ぎてるんだが」
「うん。其れは聞いてすぐに理解出来たから、別に問題とも思ってない。単純に言い間違っちゃったんだなぁ〜って思っただけで、呼び間違えた事に関しては全く問題じゃねぇーんだよ。ただ俺の中での問題で……ジェノスじゃなく、お前が言うと何かエロく聞こえんの……っ。ただ其れだけだよ」
改めて聞き返しても、やっぱり分からなくて、複雑な感情が渦を巻く。腑に落ちない思いで彼を見つめれば、彼は何故か居心地悪そうに目を逸らして呟いた。
「もしかして、俺……何か責められてる?」
「いや、別にそういう意図は無いけども……」
「ならさ……今の直後で俺の事じっと見つめてくんの、止めてくんない? 率直に言って気まずい……」
「何か御免」
その後も何故か腑に落ちないまま、ぐるぐるとよく分からない感情と戦っていると、買い物に出ていて不在だったジェノスが帰宅する。弟子が帰宅してからも、何となく気まずい空気の流れる師の様子を察したジェノスが、単刀直入に問うてきた。
「先生、先程から何か様子が可笑しい様ですが、どうかされましたか?」
「えっ? いや、別に何も無ェけど」
「そうですか……」
直接訊いても納得の行く返答を貰えなかった事が腑に落ちなかったのか、其れとなく台所の奥の方へ私を引っ張り問い質してくる。
「おい、レオ。俺が買い物に出掛けていた間、先生に何があったのか詳しく教えてくれ」
「あ゛ー……たぶん、俺の迂闊な発言のせいかもしれん……っ」
「何だと? お前、俺が不在の間、先生に何を言ったんだ?」
「いや……端に、彼奴の事呼ぶ際にうっかり呼び間違えちゃっただけで……っ」
「其れで、お前は何と言って呼び間違えたんだ?」
「えっと、ついうっかりジェノス君のが移って、“サイタマ先生”と……。そしたら、其れ聞いたサイタマが、俺がそう呼ぶと何かエロく聞こえるとかなんだそうで…………。別に、そういう意図は全く含んでなかったと思うのだけど……何でか其れ以来、サイタマ氏は俺に対して微妙な態度を取り続けておりまして。俺としては、大変遺憾なものと思っている次第です……!」
「………………」
物凄く怖い顔で脅し……否、ガン見という名の凝視でプレッシャーを与えられたので、素直に正直に事実を告白すれば、ジェノスは不意に口を閉ざして無言となった。そして、黙ったままリビングの方へ戻ると、師匠たる彼の元へ正面切って切り込む事にしたらしく、今しがた聞いた旨を直球で質問していた。
「先生、お話があるのですが」
「ん? どうしたジェノス?」
「今しがたレオから聞いたのですが……俺がいつも先生の事を呼ぶ際の、この“サイタマ先生”という呼び方を、何故レオが同じように呼んだだけでエロイなどと捉えたのか、ご説明頂けますか?」
「ブフォッッッ!? ゲホッ……おっま、さっきの話ジェノスに話したのか!?」
「いや、だって、あんな怖い顔して訊かれちゃ答えない訳にはいきませんって」
「だからって、此奴相手に事細かに説明するのとか嫌だぞ!!」
「何故ですか、先生? どうして俺相手では説明出来ないんですか? 答えてください先生」
「お前がまだ未成年だからこっちは色々と配慮しようとしてんの!! 男なら色々あんだろ!? 察しろよ……っ!!」
「いえ、先生、今のご時世に合わせると、俺も立派な成人扱いです。ですので、そのような点で配慮して頂く必要はありません。さぁ、此れで遠慮無く話せますよね? どうぞ、存分にご説明を」
「急にメタい事言い出すの止めろォッ!!」
「すみません……しかし、先生が気にされている様でしたので、其れならばと思っての発言でした。すみません、余計な一言でしたね。……其れで、話を戻しますが、何故レオが先生の事を“サイタマ先生”と呼ぶと駄目なんでしょうか?」
「お前っ、話蒸し返すなよ……っ」
逃げ切れるかに思えたが、こと師の事となると一直線になる為、やはり逃がしてはもらえなかった様だ。ついでに、私自身では聞けなかった回答が返ってくる事に期待しよう。
そうして、弟子の背後に控える形で話を聞いていれば、唐突に私と弟子二人同時に話題を振られた。
「じゃあ、分かりやすく直接音として聞いてもらえば、たぶん、何となくでも俺の言いたい事が伝わると思う……。ので、先ずはジェノス、いつも通りの感じで俺の事呼んでみろ」
「はい。サイタマ先生。……此れで宜しいですか?」
「ん。じゃあ、次、レオの番な。さっきみたく同じように呼んでみ」
「えっ……? サイタマ先生……此れで良いの?」
「今のを踏まえてもっかいジェノスに問う。今の聞き比べて、何か分かったか?」
「そうですね……単語としての音として受け取るだけであれば、全く同じように聞こえたと思いました。……が、何でしょう……恐らく、響きなどそういった類いのものが、何となく違う……という感覚認識を覚えた気がしますね」
「俺が言いたかったのは、つまりそういう事なの。此れで何となく意味は分かっただろ? レオがお前と全く同じ風に呼んでも、捉え様によっては如何様にも感覚が違ってくる訳。つー訳だから……レオ、お前は金輪際絶対俺の事“先生”って呼ぶな。鈍ちんなお前の為に言うけど、お前が呼ぶと何か卑猥な感じに聞こえっから。次呼んだら、エロイ事仕返しされるかもって覚えとけ。良いな?」
「よく分からんが、取り敢えず分かったよ……。けど、やっぱ解せんわ。何で俺がジェノス君みたく呼んだらアウトなの? 卑猥って何?」
「其れは自分の性別に聞いてくれ! 俺は知らんっ……!」
答えるだけ答えたら、彼は不貞腐れたように不貞寝してしまった。
結局、答えは曖昧で、解せない感覚は残ったまま一日を終えるのであった。
公開日:2023.02.28