真逆の逆様


 ――或る日、彼の人は私にこう問うてきた。
『君は、何故、死にたいと思いながら、未だ息をし生きているのかね?』
 夕暮れ時の事だったように思う。

 ――黄昏時、誰そ彼時。
 その時の刻を示す言葉は幾らか他にも表現し得るものはあった。兎に角、その中のいずれかに該当する頃の刻であったと記憶している。
 彼の人は、窓辺から差し込む夕陽の朱に染まりながら、其れに背を向け影を作りながら私に続けてこう言った。
『もう一つ、君に対して気になる事を挙げよう。君が思うに……この世で美しいものとするものとは、何かね? 其れが今、私は、最も気になって気になってしょうがない事柄だ。さあ、時間は幾らでもある。君が今思う“答え”とするものを答えたまえ』
 其れは、何とも一方的且つ勝手な問答で、他人の心の内など考えもしない傲慢な問いかけであった。
 私は其れに一瞬眉根を寄せながら、しかし、すぐに真顔という無表情に戻り、目の前に居る顔を見つめる。
 上手い事夕陽の光に遮られているのか、の人の顔には影が差していて、その表情を詳しく窺い見る事は出来なかった。だが、その口許に笑みが形作られていたのだけは、何となく雰囲気から窺い知れた。
 の人は、ほんに可笑しな質問をしてくる。
「その問とは、必ずしも答えなくてはならぬものなのですか……?」
『必ずでなくとも良いさ。ただ、君が"今"感じ得るもの……思いの欠片を吐露してくれれば、其れで良い』
 何とも不思議な空間だったように思う。何とも不可思議で、不気味で、無機質な其れに、私は同期するように答えを口にしていった。
「……まず、初めの問の……“何故、死にたいと思いながらも、未だ息をし生き続けているのか”についてならば、其れは至極単純な事です。私に死ぬ度胸も無ければ、其れを実行に移す器量も無い、覚悟が無いからです」
『ほう。……では、“もう死ぬ事は諦めた”という事なのかね?』
「いいえ……私は、たぶん、屹度きっと、未だ死ぬ事を諦めてはいないと思います」
『ほう。其れは何故かね?』
「何故ならば、人は時が経てば何時いつしか死ぬものだと解り得ていますが、実際の現実では、思った以上に死ぬ事よりも生きている事の方が辛いもの……。よって、いず私は、また何処かしらで生きる事を諦め、死を選ぼうとするでしょう。ですから、現状、この先の未来に何の希望も見出せないまま、無駄に息を続け、日々を貪るように生き続けるのです……っ」
『そうかそうか。其れは其れは、実に滑稽な生き方だな。見様によっては無様だとも見て取れるし……また別の見方によっては、人が生きていく為に何かへ抗いながらも答えを導き出しつつ先へと進んでいく……まるで旅人のような美しい生き方だ。――嗚呼、言っておくが、此れは別に侮辱などではないぞ? ただの賛辞であり、称賛に過ぎない。頼むから、勘違いはしないでくれ給えよ』
 夕暮れ時の朱に囚われた空間に、淡々とした単調な声音が響いた。
 の人が目の前で壇上の机に肘を付き、手を組んで此方を見つめてくる。
『では……次に問うた事に対する君の回答は、どんなものかな?』
 目の前にある顔が、至極愉しそうに口端をにんまりと持ち上げた。
 私は、其れをただ無表情に見つめ返す。
「私が思うに、この世で美しいものとは……生きとし生ける人々が織り成すもの全て、でしょうか……」
『ほう、つまりは……生きとし生ける者達の生命の輝きこそが、この世で最も美しいとするもの……という事かね?』
「少なからず、“今”の私は、そう思います……」
『成程。其れは素晴らしい答えだな。うむ、実に面白い回答だ。予想外の回答であったよ』
 の人は実に愉快そうにからからと口を大きく開けて笑った。笑って、後に続けてこう言った。
『うむ……しかしながら、私は全くの逆の事を考えたよ。ええ、ええ。まこと、真逆の答えをね』
「真逆、ですか……?」
『私が君に対し問いかけた問に対して、私が抱いた真逆の答えというものを、君は知りたいと思うかね?』
「まぁ……その返し振りからしてみれば」
『ふふふ、君は実に素直……またの言い方を、愚直且つ真面目で宜しい。良いだろう! 私が君に対して問いかけた問への、私自身の回答をお教え聴かせてしんぜよう』
 大振りな動きで腰掛けていた椅子から立ち上がり、たった今居た壇上より鷹揚に降りてくると、私のすぐ側に立って言った。
『私がこの世で最も美しいものとするものはねぇ……まさに、人の死というものなのさ……っ!』
「人の生ではなく……人の死に美を見出した、という事ですか?」
『嗚呼、そうともさ。だって、そうだろう? 人とは、皆揃っていつかは寿命を迎え、死する時が来る。其れは遅かれ早かれ、皆同じだ。死なんていつ何時だってやって来るものだ。其れこそ、常に隣り合わせであるように、死とは自身のすぐ側に潜んでいる……。此れは、誰にだって当て嵌まる事であり、平等なものだ。其れ故に、生と死は表裏一体のもの……。生が表側とするのなら、その裏側は死となる。生の裏側には、何時いつだって死が隠れ潜んでいるものなのだよ。……お解り頂けたかね?』
「ええ、全く……。貴方が、大層風変りの変人で変わった人格中身をお持ちであるという事は」
『ははははっ、其れは結構。君の評価は実に面白い。気に入ったよ。是非とも、此れより先に待ち得る事柄についての様々な見解を、君とは語り合っていきたいと思うね』
 一方的にそう言って勝手に問答を投げ掛け喋ってくるだけの人は、そんな風に笑ってまた勝手な事を宣うのである。其れに対し、私は特に答える事は無く、無言を突き返した。そうした時、の人は目の前の真正面へとやって来て、わざわざ間近にまで顔を近付けてこう告げるのだ。
『――なあ、迷える子羊よ……。この世とは、実に矛盾で溢れた矛盾だらけの世界だ。そんな世界の中で、君はどう足掻き、藻掻きつつ生きていくつもりかね? この世の中は矛盾だらけだ。其れは其れは理不尽な程に、境界が曖昧な程にねぇ。だが、其れが摂理というものだ。世の中に生きとし生ける者達は、皆その矛盾を抱えながら生きている。君もまた同じなのだよ。勿論、私も然りさ。誰しもが、この世の中の矛盾を抱えながら生きている。生きるも死ぬも曖昧、生きたいのか死にたいのかも曖昧……。君も同様、“死にたいのに生きたい”という感情を抱え生きている……此れは、まこと矛盾を指すものだ。私もまた、“生きたいが死に憧れを持つ者”だ。皆、同じ矛盾を抱えている。君は、果たして、此れをどう理解し得たのかな……?』
 にんまり顔が、目前でまた問いかけた。
 私はただ黙すだけである。“だんまり”というのも、答えの内なのだ。
 の人は満足そうに笑って、前のめりに乗り出していた上半身を退かせる。
『直に日が暮れる……。さあ、明日もくだらぬ日々が待っている。語り合いは、またの機会にするとしようか』
 まるで、教鞭を執る教師のように振る舞っていたの人が、身を翻して再び壇上へと上がって言う。
『では、また逢おう。迷える子羊よ――』
 夕闇に溶け込むように、の人の影が薄まっていく。元より影が出来て遮られていた顔だ、すぐに相手がどんな顔だったのかも判らなくなる程に見えなくなった。そうして、の人は霧の如く夕闇の暗がりへ溶け込んで散り、消えていった。

 そもが、の人は、一体何だったのだろうか。
 人だったのか、はたまた、誰そ彼時が見せた妖か、別の何かか。
 然程気にならない事にはさっさと蓋をして、どうでも良い事を考える。
 夕闇に溶けた筈の影が言う。
『――我等は、常に真逆の立場に居る者なのだよ。君が光側に居るとしたらば、私はその反対側の影に居る。君が生を謳うのならば、私は死を謳う。我等は常に真逆、相反する者……。そして、君はその矛盾を抱えし者だ。私は君で……君は私だよ』
 ――真逆の逆様に連なる者は斯く語る。


後書き
※原文は此方より。
初出日:2020.07.20/加筆修正日:2024.05.04