神のお遣い様
或る時、人里に一頭のニホンカモシカが迷い込んできた。
まだ幼く若い個体であった事から推察して、恐らく縄張り争いに負けて該当のニホンカモシカが居た生息地域から追い出された事によって偶々現れただけか、もしくは好奇心旺盛且つ餌を求めて人里へ下りてきたものではないか。――と、夕方の報道番組を賑わせた。同時に、そのニホンカモシカが出現した地域の住民達が、報道陣の敷かれる人々の生垣の向こう側から野次馬のように群がって騒ぎ立てているのが目に入った。
ニホンカモシカとは、国の特別天然記念物に指定される生き物である。故に、他の田畑を荒らしたりする害獣達のようには扱えない。だから、皆、口々に困ったやら、どうしたものかと口にし、頭を悩ませていた。特別天然記念物というだけで、下手に手出しも駆除も出来ないのだ。仮に、うっかり下手な手出しをすれば、怒ったニホンカモシカに立派な角でグサリと刺され襲い掛かられかねない。
ニホンカモシカは、比較的大人しい性格で、滅多な事がない限りは人を襲ったりもしない、攻撃的な動物ではないが、相手が野生動物である以上は、安易に触れてはならないし、変に刺激を与えてもならない。よって、もし近場にニホンカモシカが現れた際の基本的な対処法としては、そっと離れた場所から様子を見守るに徹し、迂闊に近寄ろうとはしない事である。
此れに、近隣住民達の憩いの場であった公園は、人々の立ち入りを制限する意図として、一時的に規制線が張られ封鎖された。野次馬として群がる近隣住民達は、其れを遠巻きに見ているだけだった。
突然日中堂々と住宅街の一角へ出没した一頭のニホンカモシカ。其れは、まだ体も小さく角もそんなに長くはない、若い
ニホンカモシカとは、嘗て昔に乱獲などにより個体数が減った事で、国の特別天然記念物へと指定された動物の一種だ。その神々しい見た目と雰囲気から、某有名アニメ映画のキャラクターモデルとしても起用された程、その場に佇んでいるだけで美しいと言われてきた生き物である。けれども、あまりに突然人里へと現れたものだから、近隣住民達は困惑気味に「早くどっかへ行ってくれないものかしら」と口にした。其れも当然と言えば、そうである。何故ならば、彼が出没してしまった場所は、人が多く居る住宅街の一角であったからだ。
周りの人達の目から見た景色は、突然人里へ現れた挙句すぐに山へ帰るでもなく公園という憩いの場に居座られて迷惑そうであったが。自分の目には、全くそうは映っていなかった。あれは、恐らく、思いもよらず人里へ迷い込んでしまって途方に暮れて困っている――そんな風に見えたからだ。まだ比較的若い個体である事も加味して
諸説は有るが、所によっては、ニホンカモシカという動物は神聖視され、神様或いは神の遣いとされているらしい。いつの日だったが、本かテレビ番組といった媒体で見聞きした記憶がある。その記憶の蓋が、今この時に開かれたのは単なる偶然だと思うが。自分が思うに、あの若い
すっかり夜となり、家々の明かりも消え、ぽつぽつと等間隔に存在する街灯以外の明かりは何も無い、とっぷりとした暗闇が支配する深夜帯。頃合いを見て、家族の者が寝静まっているのを確認した後に、こっそりと家を抜け出し、規制線の張られた公園内を目指した。
神聖な者を相手にするのに懐中電灯では雰囲気にそぐわないと思い、趣味で購入した間接照明用のランタンの灯りを持って、辺りを照らしながら真夜中の閑静な街中を歩いて行く。すると、程なくして、目的地へと到着した。一応、念には念をと辺りを警戒するように見渡してみるも、昼間の時と違って人っ子一人すら居やしなかった。昼間は、あんなにも警察等が警備の目を光らせ、報道陣が縄を張るように公園の周りを囲う如く野次馬も含めて人で
しめしめと思いつつ、自分以外は誰も居ない事を良い事に規制線の張られた公園内へと侵入した。内心は、緊張とドキドキでいっぱいで、今にも口から心臓が飛び出てしまいそうな程であった。此れ程に非日常な空気に触れる機会は、この時以外にそう無かろうと思われる。
耳の良い動物であるニホンカモシカは、音に聡い。故に、此方が公園内へ侵入する前の時点から聞き耳を立てていた模様で、足音が己の居る場所へと近付いてくるのを察するなり、眠りから覚めたように伏せていた頭を上げた。そして、目と目が合った。
警戒を抱かれないよう慎重に、けれども寝静まった近隣住民達の眠りは妨げぬようにそっと、静かに一定の距離まで近寄ると、敬意を払って
「お休みのところへ、申し訳なく
獣の視線と人の子の視線とが、一直線に交わる。ピクリ、彼の耳が動いて、暫しその場に沈黙が降りた。
敵意が無い事が伝わったのだろう。休めていた体を起こして立ち上がった彼が、コツリコツリ、蹄の音を立てて近寄って来た。すぐ側で立ち止まると、此方を見上げて視線を交わしてくる。どうやら、此方の意図が正しく伝わったらしかった。
内心、ちょっとだけホッとして、けれども緊張の糸は解かず、片手に
「山への道は此方になります。逸れないよう、
そう告げて、通り抜けやすいように規制線を持ち上げてやり、公園の外へと導いた。
それからは、夜の道を、若い
静かな住宅街を抜け、人里離れた山側へと道を逸れていく。次第に、山の入口となる
道中、嘗て遠い昔の記憶の中の自分が、山野を駆けて遊んでいた事を思い起こしていた。山道も今や人の手があまり入らなくなった所為で草がぼうぼうになり、すっかり獣道と化していたが、山に生きる生き物達ならば平気で通って行けるだろう。
「着きました。此処が、山の入口となります。後は、この道を真っ直ぐ駆け登って行けば、神のお遣い様の
山の入口を指し示し、最後に別れの挨拶としてそう告げれば、彼は敬意を払って一礼を返したのちに、一目散に獣道と化した山道を駆けて去って行った。本当に一度も振り返る事無く、真っ直ぐと駆けて行った姿は、野に生きる自然の姿そのものであった。
――どうか、無事に
そう祈って、此方も後ろを振り返る事無く、真っ直ぐ帰路に着いた。
翌日、世間を一時的に賑わせたニホンカモシカは、帰巣本能の強い生き物であった事から、夜の内に自力で独りでに山へと帰って行ったのだろうと結論付けられ。以降、人々の関心は余所事へと逸れていき、次第に“一頭のニホンカモシカが住宅街に迷い込んだ”出来事は忘れ去られていった。ただの一人の、人の子の記憶以外からは。
後書き
※原文は此方より。
執筆日:2025.06.05/加筆修正日:2025.06.06
初出日:2025.06.10