其れは海のように
綺麗な青だった。


 昨晩の内に仕掛けた網に魚が掛かっていないかを見に行った、ある日の事だった。
「あれま。何かデッカイのが引っ掛かっとるのぉ。何じゃ、ありゃあ?」
 大漁とまでは行かずとも、食い扶持ぶち分の魚がそこそこ取れれば、其れで十分と考えて出掛けた。日が昇り始める前の早朝帯の事である。
 網を仕掛けた地点へ行くと、何やら人ひとり分程の大きさの物が引っ掛かって藻掻いていた。何者かが近付く気配と思わず口をいて出た大きな独り言で、此方の存在に気が付いたらしき其れは、より一層存在感を主張するようにジタバタと暴れ始める。そんなに暴れては、余計に網が絡まって抜け出せなくなるだろうに。「馬鹿な奴だなぁ」なんて思いつつ、浅瀬の方まで網を引き寄せ、罠に掛かった哀れな奴を浜辺まで打ち上げさせた。途端、酷く慌てた風に更に暴れる様子を見せ始めた為、先程零した時同様に大きな独り言を呟いた。
「こりゃ。そげぇに暴れたら、余計に網さ引っ掛かっちまうだろが。今出してやっけ、大人しくせぇ」
 半ば言い聞かせるように言えば、人の言葉を解すらしき其れは、さっきまでの暴れ様が嘘みたいに大人しくなった。変に尾鰭おひれや鱗の凹凸おうとつに引っ掛かってしまっていた網を丁寧に解いてやれば、後は海へ返すだけである。
「ほれ、引っ掛かっとった網は全部取ってやったぞい。おぇさ、こんなちっこい漁師網に掛かるなんて鈍臭ぇ奴だな? 本来此れに掛かるべきは、ただの魚っこだによぅ。あげぇに派手に暴れられちまったら網さ破れちまうけ、もう二度と掛かるんじゃねぇぞ」
 そう言って、さっさと元居た海へ帰るよう促せば、其れは不思議そうに此方を見返して首を傾げた。まるで、「自分の事を捕って喰う予定だったのでは……?」とでも言いたげに。人魚なんてものを食べてしまったら、其れこそ罰が当たりそうだ。だから、言ってやったのだ。
「おらぁ、人魚さなんぞ食わねぇぞ。んなモン食っちまったら、罰当たりだっつって、神さんから祟られらぁ。そいつぁ勘弁願いてぇけな。じゃけ、他ん奴等に見付かっちまう前に早う海さぇれ。本物ホンモンの漁師さに見付かったら、網で捕獲されるだけじゃ済まねぇべ。そげぇなりたくなきゃ、素直におれん言う事聞いとくこったな」
 暗に「本当に捕って喰らわれたくなくば、さっさと自分の前から消えろ」と言い含めて告げれば、己が囚われの身となって捌かれるところを想像したのだろう。ゾッとしたのか、サァーッと青褪めた顔で身震いしたかと思えば、わたわたダバダバと地を這って浜辺から浅瀬へと潜っていった。脅しのつもりで言った訳ではないが、あれだけ言えば、もう二度と陸に上がる事もあるまい。
 さて、破れて駄目になった網の代わりに、釣り道具かもり突き用の道具でも取りに一度家まで引き返そうか。
「にしても……本当に人魚さなんてモンがこの世に居たとはなぁ。人魚さなんぞ、つ国の絵本や昔話ぐれぇでしか知らねかったによぅ。世の中何があっか分かんねぇなぁ。……まぁ、おれが住んでるトコにも、人魚に纏わる伝承っつーのか、伝説じみた話は残ってっけどよぉ。生きてる内にお目にかかるなんざ、だぁれも思わねぇって。……にしても、綺麗だったなぁ。あんなに綺麗な青色は生まれて初めて見ただよ。あれが、海に生きる者の青色なんかねぇ? 不思議なくれぇ綺麗だったなぁ……」
 誰に聞かせるでもなく、いつもの如く大きな独り言を呟いて、浜辺を後にした。その時の己の呟きを、とっくの昔に去ったと思っていた人魚が、まだ浅瀬に残り、水面へ顔を出して聞いていたとは思いもせずに。


■□■□■□■□■□■


 次の日である。
 昨日人魚が網に掛かっていた地点へ、釣り道具を手に魚を捕りに来たら、何故か立派で新鮮な捕れたての魚が、大きなかご一杯に入り切るだけ沢山詰め込まれて置かれていた。まさに、大漁と言わんばかりの様子に、釣り道具片手に唖然と眺める。すると、活きの良い大振りの魚が一匹、ビチビチと元気に跳ね、籠の一番上から浜辺の砂の上へと落ちた。地面に落ちても尚、元気な魚は、ビチビチビチビチと跳ねて存在感を主張させた。
 予想打にしていなかった事が起こって、半ば呆然と突っ立っていると、不意に視界の隅に青い何かが過ぎって、其方へと意識が向く。僅かに首を動かして視点を移せば、昨日見たばかりの人魚が浅瀬の水面から顔を出して、「どうだ! 凄いだろう! 驚いただろう! えっへん!」と何処となく自慢気に胸を張って主張していた。どうやら、昨日助けた事への御礼のつもりらしい。其れにしたっても、量が多過ぎる。どれだけ捕ってきたのやら。加減というものを知らないのだろうか。たぶん、知らないのだろうな。何せ、相手は人外だ。人のことわりなぞ、知ったこっちゃないだろう。
「昨日助けた時の礼のつもりか何か知らねぇけどよぅ……こげぇにいっぺー持って来られたって、消費に困るべ。生魚はただでさえ腐りやすいけ、放っとくとすーぐに悪くなるんだべ? 量だって、一遍いっぺんにこげぇも消費出来ねぇよぅ。確かに、家族分食わさにゃならんけ、そこそこん量捕らにゃ食い扶持ぶちだって足りねぇけどもさぁ? 幾ら何でも多過ぎるべ、こりゃあ……。感謝してくれんのは嬉しいけどもよ……加減ってモンを考えちくれや」
 あまりの大漁っぷりに呆れて説教じみた愚痴を垂れれば、御礼のつもりでした事が何か間違っていたらしい事に気付いた模様で、あわあわと焦った様子で目を泳がせた。とことん人の世界を知らなさ過ぎるようである。
 波打ち際まで近寄り、片手を腰に当てて分かりやすく説教を垂れてやった。
「良いか? 幾ら御礼さしたかったけて言うても、人の世にゃ加減てモンがあるんじゃ。其れは、皆が仲良う暮らしてく上でも大っ事なこったなんだべ? おぇさんが、おれに助けてもらった事が嬉しかったんは分かった。でも、こげぇにいっぺー貰っちまったら、流石に貰い過ぎになっちまうさね。人の世の中にゃあ、何かをするには必ず対価を支払わにゃならんっていう決まりがあるさよ。何事だろうと、貰い過ぎはいけねぇって教えだ。此れを破ると、貰い過ぎた対価を別の何かで払わなきゃならねくなる。分かるか?」
 問えば、分かったような分かってないような曖昧な表情を浮かべる半面、目だけは真剣な顔をして、コクコクと必死に頷く。何だか、童を相手にしている気分になってきて、何とも言えない気持ちになってきた。
 兎も角、貰い過ぎは色々な意味で良くないからと、籠の三分の一は海へ返す事を告げる。
「家族の食い扶持分があれば良いだけじゃけ、後の分は海へ返すぞい。おぇさんからの感謝の気持ちは、十分伝わっとるけの。本当は気持ちだけでも良かったんじゃが、こげぇも御礼されちもうたら、断るんも悪いしのぉ。何じゃ、よう見たら、魚だけじゃのうて貝も捕ってくれとったんけ? おぇさ、ちっこい網に掛かるくれぇ鈍臭ぇ奴かと思うちょったが、案外器用なんじゃなぁ。けども、捕り過ぎは駄目じゃけの? 貝や魚じゃって生き物じゃ。数を捕り過ぎれば、個体数が減って、その内絶滅してしまいかねん。そうなりゃ、漁師等やおれ達の食い扶持がうなって困る。其れはイカン。何事も加減を知らなイカンべ? 分かったか?」
 再度、童へと言い含めるように言えば、人魚はコクコクと何度も頷いて理解を示した。分かったなら良し。
 溢れんばかりに入っていた魚と貝の量の嵩が少し減った事で、漸く背負いやすくなった程であった。本当に立派な大振りの魚と貝が大漁に入っていたものだ。此れだけ立派な魚も貝も、滅多に見ないもので、正直驚きが勝った。
「人魚って、貝とか魚とかも食べるんか?」
「ゔ?」
「おれが知ってる知識だと、人魚ってのは、“貝も魚も友達で餌じゃない”って考えだと思ってたんじゃが……違うんかぁ。てっきり、海藻とか食べて暮らしてるのかとばっかり……」
「――其れは、たぶん、人の書いたお伽噺だろ? 人魚だって、貝や魚も食べるさー。でなきゃ、精が付かないだろ? 鱗持ち・・・の仲間達の事は食べないけど、ただの魚や貝程度なら食べるよー。偶に、肉も食うけど。そういうのは、海に悪さする奴等だったり、海に落ちて陸に上がれなくなったような奴等だからさー。人には人のことわりがあるように、海には海のことわりがあるんだなぁ。俺達は、その中で暮らして、こうして生きてきたって訳」
「……おぇさ、普通に喋れたんけ??」
「いきなり喋ったら驚かせちゃうと思って黙ってたんだけど、其れももういっかなーって思ってさ! 吃驚したかい?」
「こんなん、驚かねぇ方が無理あるべさ……。しこたまおったまげただよ」
「あははっ! 吃驚させちゃって御免よー!」
 突然人の言葉を話し始めた人魚は、にぱっと笑って笑顔を見せた。途端、開いた口から鋭いギザ歯が見えて、「人為らざる者である証左を目撃してしまったな……」という心地に至った。直接口には出さなかったけれども。
「おぇさ……本当に人語を操るのが上手ぇな?」
「そうかなー? 此れでも、仲間内の中じゃ、まだまだ未熟で下手っぴな方なんだけど」
「何で喋れたのに口利かなかったんだ?」
「其れは……本来、俺達人魚の声は人の耳には毒だからだよ。俺達の声や歌声には人を惑わす力があるから、迂闊に下手に喋ったり口を利いたり出来ないんさー。たぶんだけど、そういうの、人が書いたお伽噺でも聞かないかい?」
「あー……そういやぁ、昔読んだつ国の絵本にそげぇな感じの事が書いてあったようななかったような……?」
「俺が今喋ってるのは、俺を助けてくれた優しい人である君相手なら、大丈夫かなって判断したからだよ。実際、君は、俺の遣り過ぎた御礼に対しての説教を説いてみせはしたけど、俺を捕まえて見世物にしたりするような意思はちっとも見せなかった。だから、信頼に値すると思ったのさー。あっ、でも、他の人間達には、俺と話した事は内緒にしてくれよ? 何か遭っても困るからさー」
「言い触らかすような真似はしねぇよぅ。ただでさえ、人魚なんてモン、伝説級の生き物なんだからよぉ。下手な真似して祟られるのは勘弁じゃし、他の奴には何も言うちょらんけ安心せぇ」
「良かったー! 君は、やっぱり優しい人だね。信じたのは間違いじゃなかったんだなぁ……」
 あまりの出来事が重なって、うっかり時間を忘れて話し込んでいれば、すっかり日が昇ってしまっている事に気付き、使わずにいた釣り道具を持ったまま「あ゙ーっ!」と声を上げた。その声に驚いた人魚は、思わず慌てて海の中へと潜り、一寸ばかし経ってからそっと顔だけを水面より出して問う。
「急に大声を出して何事だい……?」
「朝日昇っちまってんじゃん! 早う家さぇって飯炊きしねぇと、オカン達にどやされちまう……っ!! あんまし飯が遅いと、下ん子等が泣いて騒ぎ出しちまうけ、急がにゃ……っ!! 此れ、本当に有難うよ!! んだば、おらぁ此れにて失礼すっだ!! 別れの挨拶がおざなりですまねぇが、許してけろ〜っ!!」
「あっ、待って! まだ話したい事が……! ――って、行っちゃった…………足速いなぁ。あっという間に豆粒程の小ささまで行っちゃったや。俺も、ひれじゃなくて足があれば、追い駆けれたのかな……なんて、言ってもしょうがないかぁ。……でも、良いなー、足……。俺も、あんな風に走れるようになれるかな? いつか、あの人みたいに足が付いたら、前に読んだお伽噺みたいな追い駆けっことかしてみたいなぁー……」
 人魚を助けた御礼に貰った大籠おおかごを背負うなり、嵐のように去って行った。思った以上に海辺で時間を過ごしてしまっていたらしい。切羽詰まるように海辺を後にすれば、その場に残された人魚は浅瀬の水面より顔だけを出したまま、ポツリと呟いた。
「あっ……そういやぁ、名前、訊くの忘れてたなー。まぁ、また会えたら、その時に訊けばいっかぁ」
 尚、飛んで帰るように持ち帰った大漁の立派な貝と魚のお陰で、飯炊きが遅れた事に対するお説教は免除され、内心ホッと息をくのだった。


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 その後、数日間は雨が降り、漁に出られない日が続いた。その間の内に、盛大な穴空きを作っていた網の修繕を行い、ついでに、内職の繕い物もせっせと作り上げ、自宅内で出来る仕事をこなして稼ぎの糧にした。勿論、家に居るという事は、弟妹きょうだい達の面倒を見るのも仕事の内である。
 雨が止んで晴れ間が出れば、溜まっていた洗濯物を干したり、内職で出来上がった品物を納品しに行ったりと家と外を行き来して、少し疲れてしまった。けれども、弟妹きょうだいが多い分、食い扶持ぶちは必要だ。その為には、少しでも日銭を稼がなければならなかった。
 今日は数日振りの快晴日で、雲一つ無い晴れの日だったお陰様で、溜まりに溜まっていた洗濯物が一気に乾いて良かった。内職で作った品物も全て納品し終わったし、明日は漁に出られるかもしれない。小さな小船でも、沖の方まで出てしまえば、そこそこ魚は釣れる。ついでに、網も仕掛けておけば、飯の足しになる分は捕れるだろう。夜の内に仕掛けて、明日朝イチで見に行こう。思い立ったが吉日である。
 修繕し終わって綺麗に穴の塞がったちっこい網を持って、家を出る。出掛けに母より、「こんな夜更けに何処へ行こうってんだい?」と心配した声をかけられたが。いつもの調子で、「明日も晴れそうじゃけ、いつもの穴場に網仕掛けに行くだけだべ。心配せんでも、すぐ戻るち。明日の朝イチで回収しに行けば、腹の足しが増えるかもしれねぇけさ」と返せば、そう言えばそうだったなといった風に納得して見送られた。雨で時化しける時のみ漁を休むが、そうでない限りは食い扶持稼ぎに漁へ出るのが、お決まりパターンの生活だった。
 夜の海は、ただただ静かだ。凪いだ風と小波さざなみの音が支配するのみの空間。波打ち際で夜風に当たりながら、数日前に出会った人魚の事を思い返していた。
(もし、明日漁に出たら、また会えるじゃろうか……? まぁ、そんなしょっちゅう会える方がまれなんだろうがよぉ。また、会いたいなぁ……会って、あの綺麗な青色を眺めてみてぇや。海が波打つ時みてぇな長ぇ髪の毛に、宝石みてぇにキラキラした二つの目ん玉に、日の光が反射して輝く鱗を帯びた尾っぽ。あんまし綺麗過ぎるモンじゃけ、鮮明に目に焼き付いて離れねぇや……。昔読んだつ国のお伽噺に出て来た登場人物と、本当に相見える事が出来るたぁ、世の中何が起こっか分かんねぇなぁ)
 決して裕福とは言い難い暮らしだが、地方も地方の田舎での暮らしも悪くないものだと思っている。懐は寂しくとも、心は満たされているし、腹を満たせる食べ物があるだけマシだ。世の中、空腹が過ぎる程食うに困って飢餓で死んでいく人も少なくない。其れを踏まえると、雨風を凌げる家屋があって、きちんとした食事が摂れて、命の洗濯である風呂にも入れて、暖かい布団で眠る事が出来る内は、十分幸福な事だ。だから、例え世間の目から見たら貧しい生活だと映ったとしても、不幸ではない。
 其れでも、時には我が儘な欲を願ってしまう事だってある。何故ならば、己は欲深き人として生まれてしまったから。人は、生来より欲深き生き物である。故に、出会う機会そのものが希少で極々稀である人魚との邂逅を再び願ってしまう。
 屹度きっと、この願いは許されざるものだ。理性が、そう告げている。其れでもと願ってしまうのは、恐らく、本能的に惹かれる何かがあるからだと確信じみたものがあった。
 その日の夜は、無事に網を仕掛け終えるなり、家へと帰って、次の日の漁に備えて早めに寝付いた。


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 翌朝、日が昇る少し前の薄暗い時間帯に漁へ出る為、浜辺までやって来た。昨晩仕掛けた網に魚が掛かっているか確認する為でもある。予想通り、網には朝飯の足しには十分な程の魚が掛かっていた。此れは、見込んでいたよりも大漁と言って良い方だろう。
 背負ってきた空っぽの籠を下ろして、波打ち際まで足を浸からせて網を引っ張る。浜まで引っ張り上げれば、後は網に掛かった魚を丁寧に外して籠へと入れるだけ。網漁の方で数がまかなえなさそうだった場合は、小船を出して沖の方まで出て魚釣りをする予定であったが、見込んでいた以上に大漁だったので、此れならわざわざ船を出してまで漁に出る必要もあるまい。そう思いながら、網から魚を取り外しては籠の中へとポイポイ投げ入れるのを、半ば流れ作業のように行っていた。そんな折である。
 不意に、視界の端に例の青色がチラついた気がして、顔を上げた。すると、其処には、海の色を彷彿とさせる長い長い髪の毛を水の中へ浸からせるようにして浅瀬に立つ青年が居た。凪いだ二つの瞳には、海をそのまま石の形に閉じ込めた如し輝きがあった。水の中でうねる長い髪の毛は、揺らめく水面と一緒に泳いでいる。昇り始めた日の光が反射してキラキラとする様は、己の知っている人魚の其れと同じだった。
 思わず、言葉も失って見惚れていたら、其奴はにぱっと笑って喋り出した。
「やぁ、また会ったねぇ。屹度きっと、また会えるんじゃないかと思ってたから、こうしてまた会えて嬉しいさー!」
「……えっ……あ、もしかして……もしかしなくとも、あん時の人魚かい……? えっ、何でおぇさ、足付いて立ってんだ?? 綺麗な鱗やひれの付いた尾っぽは、どうしたんだべや!?」
「あははっ! そんなに驚いてくれるとは、こっちも驚かせ甲斐があって良かったよー! 足……というか、人間の姿については、族長から許可を貰ったから陸に上がれるようになったって訳! 此れで、何時いつでも君の元へ会いに行けるし、好きなだけ話す事も出来るさー!」
「何たって、海の姿捨ててまで陸に上がったんだい!?」
「其れは……俺が君という人に一目惚れしちゃったから、かな」
「へっ……? 一目惚れ……とな……??」
「うん。もう、君に首ったけってくらいには、俺、君の事が好きになっちゃったのさー。だからよ……俺、君と結婚したくて陸まで上がって来ちゃった! あっ、誤解ないように言っておくけど、人魚の姿は海の中に戻れば元に戻れるから! 今は、敢えて人間の姿で話がしたくて、陸の上での姿を取ってるってだけ! 心配しなくとも、ちゃんと元の姿には戻れるから安心してよ!」
「あ、あぁ……何だ、元の姿に戻れるのか……。つーかよ、そもそも海と陸で姿形って変えられるモンなのけ?」
「うーんっと、海に生きる奴等全員がその限りじゃあないけども。少なくとも、俺や俺の仲間達みたいな鱗持ち・・・とか、似たような奴等は海と陸で姿を変える事が出来るよ。古来より、海と陸は繋がりが深いからねー。特に、昔から人との縁を結んできた俺達みたいなのは、元々両方の姿形を持って生まれるのさ。まぁ、陸に上がる奴は、物好き扱いはされるけど、人の子との交流は昔から続いてる事だし、腫れ物扱い程まで酷い扱い受ける訳ではないから、どっちにしろ安心してくれて良いよー!」
「ち……ちょ、ちょっと情報過多で状況飲み込めんけ、一旦待っちくれや……ッ。情報が多過ぎて処理が追っ付かんて……」
「あはっ! まぁ、最初は誰しも驚くところだから、混乱するのも無理ないかなー? 大丈夫、君が落ち着くまで待つから、ゆっくり噛み砕いてくれて良いよーっ。あ、でも、先に魚片付けちゃわないと逃げちゃうね。残りの魚は此れだけ? 君の足元に置いてある籠に入れちゃえば良いかい?」
「え? あー、うん……後は其れだけじゃけ、そうしてもらえっと助かるけんども……」
「じゃあ、俺が代わりに残りの分やっちゃうねー! 活きの良い魚が沢山捕れたみたいで良かったねぇーっ」
 与えられた情報の多さに戸惑いつつ、ゆっくり噛み砕いている内に、網に残っていた僅かな魚をあっさり手早くポポイッと籠の中へと投げ入れてしまう、推定元人魚の青年。魚は鮮度が命だ。故に、漁を終えたら素早く家へと帰って血抜きをして、捌いて三枚に下ろして、朝飯の準備に取り掛かる。其れがいつものパターン化した流れだった。けれど、何時いつに無い出来事が起きた事で、頭が正常に働いてくれないばかりか、思うように動けすら出来ないでいた。
 己の戸惑いを察してか、青年は、少しだけしょぼくれた顔をして問うてきた。
「えっと……もしかして、迷惑だったかい……? 君の意思も訊かずして勝手に来ちゃったからさー……困らせちゃったかな……っ」
「迷惑だとか思ってないべ!? ただ……色んな事が一気に起こり過ぎて、ちょっと混乱してるけよぅ……。でも、此れだけは言わせて欲しいだよ」
「うん……? 何だい?」
「おらぁ、おぇさとまた会えて、すっげぇ嬉しいんだ。……もしかすっと、此処に来たら、また会えるんでねぇかなって思ってたけよぉ……。何だか、今、不思議な気持ちなんだぁ。こげぇのを、夢見心地って言うんかねぇ……?」
 慣れない戸惑いと気恥ずかしさ混じりにそう告げれば、がばりと力強い抱擁で以て抱き締められた。其れにまた逐一驚いて、「へあっ!??」なんて間抜けな変な声が出たのは大目に見てくれないだろうか。
「あ、あのっ、あの……! そげぇいきなり抱き締めたりなんかされたら、心臓に悪いったらないけ、せめて前置きの一言か何かくれんと困るべ!?」
「…………い、」
「はぇ……? な、何て??」
「尊い……! 君ってば、何でそんなに可愛いの!? そんな事言われちゃあ、男としての気持ちが抑え切れないって……!! 頼むから、ちゃんと返事する前にそんな可愛い事言うの止めてくれよーっ!」
「え、えぇ……っ、すんげぇ理不尽だべや……。つーかよぉ、男としての気持ちって何のこったべ?」
「そりゃあ……好きな子相手にしたオスとしての本能というか、煩悩とでも言えば良いのかな……兎に角、そんな感じで、好きな気持ちを抑えられなくなりそうだって事さーっ!」
「いまいちピンと来ねぇ答えだなぁ……っ」
「じゃあ、こうすれば分かるかい?」
「へ? うわっ!? ぶへ……っ!!」
 直後、波打ち際の砂の上へと押し倒された。驚いて目を白黒させている内に視界が反転して、朝焼けの空が真上に来たと思ったらすぐに海の色いっぱいで視界が染められた。
「どう? 此れで少しは理解出来た?」
「……あー……うん……。やっぱり、おぇさの色は、何時いつ見ても海の色まんまみてぇで綺麗だなぁ……」
「ッ……其れ、口説き文句として受け取っても良いのかい?」
「え? あ、そっか……今、そげぇな話してたんだっけか」
「まさかだけど……今の無自覚だった訳?」
「いやぁ〜……悪気はねかったんだべ? ただぁ、おれ、おぇさの色が一目見た時から瞼の裏に焼き付いて離れない程好きになっちまっててさぁ。じゃけぇ、つい見惚れちまったんだなぁ。許してけろ」
「……今の、さっきの俺の言葉への返事として受け取っても良いの……?」
「んー……んだなぁ。おれもおぇさも、お互い好き合ってるって事は、そげぇなこっただな!」
「ッ〜〜〜! ああっもう……! 意地らしい程に可愛過ぎるんだから!! 生涯を懸けて幸せにすると誓うさーっ!!」
「はははっ……もう十分に幸せなんだがなぁ」
 そうして、数分程二人重なったまま砂浜で転がっていれば、次第に日が昇って朝日が海辺全体を照らし始める。其れにハッとして、上に被さった青年の存在もそっちのけで勢い良く起き上がるなり、側に置いたままの籠の存在へと意識が向いた。既視感のあるデジャヴである。
「やべっ……!! 魚早う捌かんと鮮度が落ちてまう!! あと、早うぇって飯炊きせにゃ、朝飯抜きにされてまう!! オカン怒らせたら面倒なんじゃっ!!」
「ちょっ……俺の存在は!?」
「すまんけど、今は一刻も早う家にぇって飯炊きせにゃならんけ、また今度改めて頼むべ〜!!」
「そっ、そんなぁ……!! 満を持して遥々陸にまで上がってきてこんなオチはないよーっ!! 流石に今回ばかりは付いて行くからね!?」
「ええっ!? 家族に何て説明させる気さね!?」
「“君に助けてもらったあの日から恋に落ちました、哀れな元人魚です”って、嘘偽り無く全部ぶっちゃけてやるさぁー!!」
「飛んだ腹いせだな!? 何の恨みがあってそげぇな事するだよ!?」
「強いて言うなら、君がまだ名前すら教えてくれないから当て付けで言ってみてるって訳!!」
「おれも、まだおぇさの名前知らねぇのに、そげぇな言われ様はねぇや!」
「俺の海での名前は、人の言語では言葉に出来ないから、君に陸での名前を付けてもらおうと思って、告白ついでに陸に上がってきたのさー!! なのに、君ってば、話そっちのけで家へ帰ろうとするんだもんよーっ!!」
「ええっ!! おれがおぇさの名付け親になれって言うんけ!?」
「こんなにも君の事好きで好きで堪らなくて、一分一秒足りとも離れたくない程一緒に居たいと思い焦がれてるのに、駄目なのかい!?」
「其れ今始めて聞いたよぉっっっ!!」
 なんて小っ恥ずかしい事を大声でぶち撒けてくれるのやら。顔から火が出そうとは、この事を言うのだろうか。こんなにも大声で騒いでしまえば、屹度きっと、海からそんなに離れていない自宅にまで響いている事だろう。すぐ近くの近隣付近に他の家屋が無くて良かったと、この時ばかり思う事はない。
「其れで、俺に陸での名前は付けて貰えるのかい!?」
「何でそげぇに急かすかいね!? 急に言われたって、出て来るモンも出て来る訳ねぇべさ!!」
「君の家に辿り着く前に名付けて欲しいから急いてるんだよー!! でなきゃ、君の家族と会った時に名乗れないじゃないかぁ!!」
「だぁーっもう!! せからしかねぇ!! そったら、おぇさの名前は、碧海へきかいという言葉から取って【あお】だ!! 此れで気に入らねんなら後は知らん!! 自分で考えれっ!!」
 半ば自棄っぱちながらも直感で思い付いた名前を叫ぶように告げれば、途端大人しくなった背後の存在に、やけに静かになったなと振り返って後悔した。正しくは、無事に名付けて貰えた事に感極まって黙りこくってしまっていただけで、その名前があまりにも自分を想った名前だと気付いた瞬間、嬉しさ余って勢い良く飛び付こうとしていたところだったのだ。
 直後、大きな影が真上から覆い被さってくるのを察して、危機感に身構えると、予想に反して、伸し掛かって来るであろう圧は来ず、代わりに勢い良く抱きかかえられたのだった。
「碧、碧かぁ……っ! とっても良い名前だね!! 気に入ったよー!! 素敵な名前を付けてくれて有難うねっ!!」
「お、おぉぅ……っ、」
「其れで其れで? 君の名前は何て言うんだい?」
「お、おれの名前なんて、何処にでもありふれた名前で、わざわざ名乗る程のモンでもないんだがなぁ……っ」
「俺に名前をくれたのに、君の名前は教えてくれない訳? 其れって不公平じゃないかい?」
 己の事を大層大事そうに抱き抱えたまま、そんな事を拗ねた風に宣った青年へ、改めて名乗るのも気恥ずかしくて、今にも消え入りそうな蚊の鳴くような小声でボソリと告げる。
「…………ぎ、」
「んんっ、何て?? 声が小さ過ぎてよく聞こえなかったからさー。悪いんだけど、もう一回言ってくれないかい?」
「じゃ、じゃけぇ、なぎだってば……!」
「凪……! 素晴らしい名前じゃないか!! 俺達、とっても気が合いそうでお似合いのカップルみたいだなーっ!! 碧に凪、響きも相俟って、凄く似合いのカップルだよ!! そうは思わないかい!?」
「こっ、これ以上は恥ずかしいから降ろしてけろ…………ッ!!」
「んふふっ! 折角せっかくだから、このままお家まで運んであげようねー! 何せ、これから俺と君は夫婦めおとになるんだもんよー! 正式な誓いは日を改めて立てるけど、取り敢えず今日のところは、このままお宅訪問させてくれよーっ!」
「ひえぇ……っ!? か、勘弁してけろ〜!!」
「何で可愛いお顔隠すのさー? 勿体ないから、隠さないで欲しいなぁ?」
「む、無理……っ、絶対ぇ赤うなっとるもん! 火が出そうなくれぇ熱いの、自分でも分かっとるもん!! じゃけぇ、これ以上は見せられんだよぉ〜っ!!」
「えー、可愛いのに隠すなんて勿体ないさー? 今見てるのは俺だけなんだから、見せてよ。ねっ?」
「ゔぅ゙っ…………一瞬だけだよ?」
「うん。一瞬だけでも良いから、俺に見せて」
 必死で隠していた顔を覆っていた両手をそろぉっと下げれば、途端視界を埋め尽くすは、眩しい程の満面の笑みを浮かべた青年の美しい微笑みだった。いっそ、目がチカチカしそうである。
「うん、やっぱり可愛いねぇ。俺の花嫁さんが、この世で一等可愛くて尊いものだよ。目に入れても痛くないさー。俺の大事な、愛しい愛しいかなさんかなさん花嫁さんみーゆみさんだぁ。大好きだしいっぺーしちやんし愛してるよかなさんどーさぁ
「え、んん……?? 最後の方、何て言ったんだ?? そもそも何語で喋ったんだ?? 今の海の言葉か何かか??」
「ふふっ。今は分からなくとも良いよ。いつか、その内、凪にも分かるようになる時が来るからさー。其れまでは、俺だけの秘密って事で……!」
「ず、狡いべ、そげぇな事言うんはぁ……っ! 卑怯だぞ! 今すぐ教えれ!!」
「俺は良いけど、今すぐ聞いて後悔しないかい? たぶんだけど、今までの遣り取りだけで爆発しそうな程真っ赤になってるようじゃあ、聞いた瞬間気絶しそうな気がするけどなぁー」
「や、やっぱ良いデス……」
 そうして、何だかんだ二人は仲睦まじげに自宅へ帰宅する事となるのであった。
 勿論、突然婿候補なる人物を連れて戻ってきた娘に、両親はしこたま吃驚して腰を抜かすわぎっくり腰になるわでてんやわんやで、下の弟妹きょうだい達は新しいにーにが出来ると知って大層はしゃぎ回ったのは言うまでもなく。けれど、不思議と誰一人異論を唱える者は居らず、皆揃って二人の門出に祝福の言葉をかけるのだった。恵まれた家庭と縁という出会いに感謝を。


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 正式な誓いとやらは、またの後日の機会に日を改めて執り行う事となったが。極々ごくごくまれで数奇な運命から出会い、晴れて夫婦めおととして結ばれた二人は、その夜、初めて人の姿で陸に上がった青年ととこを並べて、眠くなるまで他愛ない話に講じる事にした。
 その折に、昼間の名付け親となった話題から、青年の本当の名前とやらを知りたくなって、おもむろに問うてみる。
「なぁ、あお……まだ起きてるかぇ?」
「うん? 起きてるけど、どうかしたかい……?」
「ふと気になったんだけどさぁ……碧の本当の名前って、何て言うんだ?」
「俺の本当の名前っていうと……海の方での名前って事かな?」
「うん……。昼間訊いた時は、人の言葉じゃ理解出来ねぇ音だとかどーとかって言ってたっけか」
「そうさー。よく覚えてたねぇ。……其れで? なぎは、知りたいって事かな? 俺の、海での本当の名前を」
「うん。たぶん、人の発する音とは異なるじゃろうけ、碌に聞き取れんかもしれんがよ。其れでも、一度は聞いておきてぇと思ってさぁ」
「ふふっ……好きな人にそう言ってもらえるのって、何だか嬉しいやら擽ったいやらでむず痒くなるなー……っ。良いよ。俺の本当の名前、凪だけに教えてあげる」
 そう言って、含み笑いを浮かべた青年は、隣同士に並べてある布団はそのままに、枕ごと身を寄せて、内緒話をするように耳元へ唇を寄せて囁いた。
「俺の海の名前はね……【繧「繧コ繝シ繝ォ】――って言うんだ」
「ゔんん?? 御免、もう一遍お願いしても良いかい?」
「良いよー。俺の海での名前は、【繧「繧コ繝シ繝ォ】――って言うのさー。分かったかい?」
「んえ゙ぇ゙……残念ながら、分かんなかったや……。音としては確かに伝わってるんだども、言葉としては理解が出来ねぇって言ったら伝わるかいね……?」
「あ゙ー、うん。まぁ、そんな事だろうとは思ったから、気にしなくて良いよーっ。陸の世界で生きる人間には、海の世界で生きる者達の言語は理解しづらいものだからさー。此ればっかりは仕方ないって」
「おぇさが気にしなくっても、おれが気にするだよ……。折角せっかく好きな人の名前教えてもらったってのにさぁ……其れを聞き取れないばかりか、理解も出来ねぇなんて、つまんねぇべよ。おれの名前は正確に伝えられんのになぁ……碧の本当の名前が呼べねぇのは、ちょっと寂しいべ……」
 昼間の時とは対照的に、今度は自分の方がしょぼくれていると、察した青年から柔く抱き寄せられ、米神こめかみに口付けを貰った。次いで、口を開いた青年が言う。
「そう言ってもらえるだけで、俺は幸せだよ。大丈夫、俺と過ごしてく内に海の言葉にも慣れてくだろうから、心配要らないさー。ちなみに、此処だけの話なんだけどね……俺の海での名前って、凪が付けてくれた名前とそう変わらない意味の言葉なんだぁー。へへへっ……だからよー、凪が俺に“碧”って名前付けてくれた時、すっごく嬉しかったんさーっ。海の言葉は理解出来なくとも、陸の言葉で同じ意味を飾る事は出来るんだって知れてさ。滅茶苦茶嬉しかったんだ……っ。実は、今もまだちょっとドキドキしてる」
「そうなのけ……?」
「うんっ……だからよー、安心して一緒に寝ちゃおうって訳! もう夜も随分と遅いしねー。今日は、今までで一番たっくさん話せて良かったよ……明日も、いっぱいお喋り出来たら嬉しいなぁー……」
 最後の方は、ムニャムニャと眠たげな音で言葉を紡いでいた。其れをしっかりと聞き届けた後、青年に被せていた掛け布団を肩まで引っ張り上げてやってから、ぴとっと体をくっつけて眠りに就くのだった。
 眠りながら、潮の香りが鼻先を掠めた気がしたのは、屹度きっと、隣で眠る青年からする匂いだったからかもしれない。嗅ぎ慣れた海の匂いは、不思議と居心地が良く、深い眠りへといざなうのであった。


後書き
※支部の小説企画『執筆応援プロジェクト〜青〜』へ参加及び投稿した作品となります(リンク先は作者の垢頁へと飛びます)。
※原文は此方より。
執筆日:2025.07.08/加筆修正日:2025.07.18
初出日:2025.07.18/公開日:2025.09.11