安眠顔の訳




 おや、と思った。リビングの部屋へ入ってすぐに目に入った光景に、キョトンとした顔を向けたのち、極力音を立てないように意識して静かに近寄って覗き込む。
(寝てる……。しかも、めっちゃ健やかにスヤスヤと寝とるやん……カワ)
 表すなら幾らでも言葉は浮かんできた。可愛い、あどけない、如何にも安心しきってますと言った感じの無防備さ、The・安眠顔。思ってもみないタイミングで拝む事となった彼の寝顔を覗き込んで、思い付く限りの言葉を頭の中で並べ立てては己の乏しい語彙力を自覚してぐぬぬと唇を噛み締める。取り敢えず、表現は何だって良い。午睡だろうが転た寝だろうがお昼寝だろうが構やしねぇ。彼の安眠を妨げるべきではない事だけは確かだ。そう結論付けて、ソファーの肘掛け部分へそっと腰掛け、改めて彼の寝顔を見下ろした。
(随分と緩み切ったお顔……。警戒心を何処ぞに置いてきたのかってくらいに無警戒じゃん。おまけに、男の癖して綺麗な顔しちゃってさ。こうして見ると、ムカつくくらいに整った顔してんじゃん、腹立つ〜。よくよく見たら睫毛もバシバシに長くて、コレで垂れ目且つ笑うと眉尻下げてふにゃっと笑うんだから何しても許されるヤツ〜! 何だったら私も許しちゃう〜!)
 くだらない事を考えて、ふはっ、と吐息だけの笑いを漏らして。その吐息でうっかり眠る彼の前髪を揺らしてしまったから、おっといけないと慌てて口元を手で押さえた。起こしてしまったかな、と窺い見るも、変わらず彼は夢の中でスヤスヤと気持ち良さげな寝息を立てていて安心する。
 思わず、子供みたいな寝顔を曝す姿に笑みが溢れた。
「全く……何も掛けないで寝たら風邪引くでしょうに。150歳にもなってソファーでクッション枕に本読みながら寝落ちだなんて、嘘みたいな平和さじゃん」
 叶う事なら、こんな平和とも言える日常が何時いつまでも続きますように。無理な願いならば、せめて、もう少しだけ長くこの時間よ続いてくれ。
 口では小言じみた事を垂れながらも、愛しくて堪らないといった風な気持ちを溢れさせた表情で見つめる。気付けば、寝ているのを良い事に彼の顔に掛かる髪へと手を伸ばして触れて好きに弄くる。手遊びに癖のある彼の髪の毛を指に絡めて遊んだり、頭を撫でるように手梳きで梳いてみたり。此処までの事をしたら、彼の事だからてっきり起きるものと予想していたのだけれど、予想に反して深く眠っている様子の彼は熟睡中である。
 あまりにも起きないものだから、段々とつまんなくなってきてしまって。終いには、このまま自力で目覚めるまでゆっくり寝かしておくつもりでいたのから反転して、だらしなく緩んだ柔らかい頬を突付いてあからさまに妨害行為を働く。
何時いつから寝てるか知らないけどさぁ、人前であんまり無防備過ぎるのも良くないと思うんですけど〜? 起きない事を良い事に、あんな事やこんな事されても文句言えないぞぉ? 良いのか? やっちゃうぞ? 何されても知らないぞ……っ!」
 寝ていると分かって悪い顔をして脅しにもならない文句を口にしてやるも、返ってくるは静かな寝息だけという無反応。あっそう。そっちがその気なら、こっちも好きにさせてもらいますわ。スンッと表情を削ぎ落として、ムスッと口元をひん曲げて不機嫌面を作った。
 取り敢えず、今は何をしても起きないという事が分かったので、其れなら其れで勝手に遊ばせて頂こうと開き直る。先程まで髪先で遊んでいた手を頬へ持っていき、ぐにゅりと少しだけ力を加えて抓(つね)る。そして、ちょっとだけ引っ張ってみたりして、よく伸びると縦横に引っ張ったのちに離した。勿論、そこそこ力加減はしているので痛くはない筈だ。
 突付くのは先程試して飽きたので、無防備にも緩く開いた口元へと標的を移し、少しかさついた唇を指の腹で撫ぜた。男の人でも唇は乾燥するから、切れたりする前にリップクリームなどで保湿したら良いのに。そんな事を思いながら、乾燥してかさつく下唇を眺めていたら、切れた後で治りかけの傷があるのに気付いた。やっぱり、切れてるじゃないか。己の物で構わないのなら、薬用の物且つメントール入りでスースーとするが、何もしないよりはマシだろう。寝てる内に施してやろうか。そのリップクリームだが、何処に仕舞っていたっけな。確か、持ち歩き用のポーチの中に入れたままにしていなかったかと、芋蔓式に記憶を思い出しながらすっかり思考を傾けていたら、ふと徐ろに彼の口元がむにゃりと動いて――。
 下唇に添えたままだった親指をはむり、と咥えられてしまった。瞬間、思考回路はショートを起こして、脳内背景には爆発を起こした映像が広がる。次いで、思考は宇宙猫と化し、現状を飲み込めず固まった。頭の中で大量のクエスチョンマークが発生し思考を埋め尽くす中、何をどうしたら良いのかと目をぐるぐると回していたら、またもや寝惚けた彼がやらかしてくれた。
 今度は、咥え込んだ指をそのまま反射でちゅうちゅうと赤ちゃんのソレみたく吸い始めたではないか。記憶が確かなら、此れは眠っている人間が起こす反射的行動で、特別可笑しな話ではない。ただ、彼がやるとなると、些か脳味噌が爆発四散する勢いで理性が飛びそう。其れくらいにはマズイ事である。待って、お願いだから待って、控えめに言って死にそう。何が無理って心臓が保たなくて無理。
 ドッドッドッドッと凄まじい音を立てる心音などお構い無しに安らかな寝顔でちゅうちゅうと己の指を吸う、齢150歳男児、人間台風ヒューマノイド・タイフーンと称される人型の自律型プラント。此れで人畜無害な訳が無かった、そうだった。このままじゃ私の理性が保たないから、頼む起きてくれ。己から仕掛けておいて自業自得だが、予想打にしない事が起きて軽くプチパニックである。時間にして数秒程しか経ってなかろうとも、己の理性は限界値を訴えていて涙目となっていた。
「お願いだからヴァッシュ起きてぇ〜……ッ!」
 情けなくも懇願するような響きの声を漏らせば、寸分の間を空けて微かに目蓋が震えた。程無くして、緩く持ち上げられた目蓋の先に覗いたのは、未だ夢見心地な寝惚け眼だった。彼はまだ夢の淵を漂っているようで、ぼんやりとした意識で緩慢に瞬きをすると、天井越しに自分を見下ろす此方の存在に気が付いたらしい。
「ルツ……? 帰ってたんだ……?」
「おはよう、可愛い眠り姫さん。目が覚めてすぐのところ悪いんだけど、私の指離してもらっても良いかな……? 出来れば今すぐに」
「へ……? あれ……僕、いつの間に君の指しゃぶって……??」
 寝起きてすぐで頭が覚醒していないのか、ポヤポヤとした顔で小首を傾げた彼に、大変複雑極まりない感情を押し殺して居た堪れなさでいっぱいなところ声を絞り出して答える。
「あー、うん……。切っ掛けは、たぶん私が寝てるところへ悪戯しようとしたのが原因だから、ヴァッシュは何も悪くないよ……」
「でっ、でも、無意識にやった事とは言え、君を困らせるような事をしたかった訳じゃなくて……っ! その、気を悪くしたなら謝るよ! 御免!」
「う〜ん、ヴァッシュ良い子過ぎるかな……? 反比例して、何だか私の悪い子感が浮き彫りになりそうで泣きそう。いや、私が悪いんだけど。……兎も角、ヴァッシュは何も悪くないから。まだ眠いのなら、此処じゃなくベッドに行きなよ。あと、寝る時はなるべく何か掛けて寝なね。風邪引いちゃうかもだから」
「あぁ、うん……心配掛けたみたいで御免ね。気遣ってくれて有難う。ルツは優しいね」
「ヴッ!! 今の今でソレは響くからヤメテ……ッ」
「ええっ!? どうしちゃったのルツ!?」
「ドウモシナイヨ……コレは定期で起こる発作だから気にしないで……っ」
「えぇっ……気にするなっていう方が無理あるよ〜」
「ハハハッ……良いの、コレは放っておいて……寧ろ触れないでもらえた方が有難いわ」
「えっと、君がそう言うのなら……?」
 ヲタクムーヴを起こして心臓を押さえるポーズを取ったら変に心配されてしまったので、問題無い事を雑に説明してこの話題を締める事にした。100年以上生きていても、中身は純粋無垢なままだから、屹度きっと天然なんだよ。だから、悪いのは自分。彼は無実。捕まるのは私です、お巡りさん。ヘイ、ポリスメン。私は此処だぞ。おら、さっさとお縄に付けろよ。
 なんて思考を明後日な方向に飛ばして、先程の衝撃事件から目を背けるように現実逃避をして。思考回路がまともに復活した頃に思い出したようにポーチに仕舞っていたリップクリームを取り出して、徐ろに彼へと差し出してやった。すると、彼はよく分かっていない顔でキョトンと首を捻って此方を見つめ返す。
「なぁに、コレ……?」
「リップクリーム。私の使いかけで良かったら使って」
「えっ……? どういう事? 何で僕にコレを……??」
「唇、乾燥してカサカサになってるでしょ。季節柄、保湿してやらないとまた切るよ。唇の端、切れた跡残ってたから」
「あ〜……もしかして其れで僕、君の指しゃぶってた感じ?」
「……そういう事にしておいて」
「え。何、今の間は……?」
「気にしないでクダサイ、お願いします」
「えぇ……何なのさ、急に〜……」
「何でもないから! 其れ、使って唇の荒れ治しな! 用は其れだけ!! じゃね!!」
「あっ、ちょっと待っ――!」
 彼が何か呼び止める言葉を最後まで聞かずに、足早に自室へと逃げ込んでガチャリと鍵を掛けた。こうすれば、中へまで追ってくる事はあるまい。暫しの平穏が訪れて、長々と溜め息を吐き出した。ついでに、ドアに付けていた背中をそのままズルズルと落として部屋の出入口前でしゃがみ込む。
(やら、かし、たぁーーーッッッ!! コレ、完っっっ全に寝込み襲った形にならない!? 私不審者じゃん!! うわあ゙ぁ゙ーっ、我ながら無いわー!! コレさぁ、お兄様なナイブズにバレたら極刑コースなのでは?? 絶対そうじゃん、重度のブラコン野郎だもん確実に処される御免なさい私が犯人です殺すならせめて優しくお願いしますえーん!!)
 早速気付いてしまったヤバイ事実に自ら自首して死ぬ運命を察して嘆いた。推しが幸せに笑っていてくれるなら失くすのも惜しくはない命だけども、そうじゃない。奴に無惨にも八つ裂きにされる運命になる未来だけは避けたい。さて、近い内に訪れるであろう未来をどう回避すべきか悩んでいると、不意に後ろ背にしていたドアの向こう側からコンコンコンッとノックされる音が響いて思考の海から意識を浮上させた。何か用向きだろうか。不思議に思いつつ、ドアの施錠ロックを解除してガチャリと隙間程開いて顔を覗かせる。すると、灯りも点けぬままだった暗い室内に明るいリビングの灯りが長身の彼越しに射し込み、反射的に目を細めた。
「わっ……部屋真っ暗にしたまま居たの? 目悪くなっちゃうよ?」
「何でもないから……っ。えっと、ヴァッシュは何用で声かけて来たの?」
「あぁ、うん。僕の用は、さっきの御礼を言いに」
「御礼って……何の?」
「リップクリームくれた御礼だよ。僕、こういうの全く持ってなかったから助かったよ。有難うっ」
「別に、其れくらい大した事ないから、わざわざ御礼言う程でも……」
「僕としては嬉しかったから、御礼言っておきたかったんだ。ふふっ、此れでまた君との思い出が増えたや!」
「リップクリーム一つあげたくらいで大袈裟な……っ」
「君にとって大した事じゃなくとも、僕にとってはかけがえのない事だからさ。本当に有難う。コレ、思い出した時に塗るね!」
「うーん、出来たら毎晩夜寝る前に塗り込むと効果あるよ。その方が荒れも早く治るだろうし」
「そうなんだ。じゃあ、今夜寝る前に忘れず塗る事にするよ」
 にこやかに笑った彼に控えめな笑みを返して、もう用は済んだかなと勝手に解釈して。さっきのさっきでまだ恥ずかしくてさっさとドアを閉めようとしたら、彼の義手の方の手と足を隙間に挟まれて閉じられなくなってしまった。えっ、急に何。
 訳が分からなくて困惑した風に目をパチクリと瞬かせて彼の方を見上げれば、彼がサングラス越しに目を細めて此方を見る視線と合う。その視線の妙に帯びた熱と色に、直感的に勘付いてしまった野生の本能が逃げ腰に室内へ退却する事を選ぶ。何故なのかは分からずとも、体が勝手に反応しただけだ。
 此方が逃げ腰になっている事に目敏く察した彼は、すかさず長い腕と脚を活かして此方を捕まえようと距離を詰めた。よろよろと数歩後ろへ下がっただけの距離などすぐに埋まる訳で、何となく体の前に差し出していた己の腕はあっという間に彼の腕に捕らえられてしまった。わあ、流石長身。腕の長さも長いや。抵抗のての字も出来ぬ内に彼の懐へと抱き込まれてしまえば、後は何も出来る事は無い。
「ふふっ、捕まえた」
「……私捕まえて何がしたいの、ヴァッシュ」
「うん? 別に、特に意味なんか無いよ。強いて言うなら、君が逃げようとしたから、何となく懐に閉じ込めてギュッてしたくなっただけ」
「天使かな……??」
「えぇ……僕は天使なんてそんな良いものにはなれないよ〜。僕は、ただのヴァッシュ・ザ・スタンピード。別名、人間台風ヒューマノイド・タイフーンさ」
 そう言って彼は小さく笑って、捕らえた私の顔を後ろからむにゅりと持ち上げ、半ば強引にも視線を合わせた。其れを咎めるでもなく、ただただされるがままを許していれば、彼はサングラスの向こうにある瞳をとろりと蕩けさせて甘く微笑んだ。
「ふふっ……君は随分と可愛い悪戯をしてくれるねぇ」
「え…………その口振りは、もしや……ずっと起きてた? えっ、何時いつから??」
「んーっと、君が僕の頬をツンツン突付いてきた辺りぐらいからぼんやりと意識は起きてたかな?」
「其れってつまりほぼ最初からじゃんか〜〜〜ッ!! はぁ〜っ、死にたい……ッ。いっそ殺してくれ」
「可愛い悪戯されたくらいで殺したりする訳ないだろ!! 物騒だなぁっ!!」
「じゃあ、せめて穴に埋まらせてくれ……!! 恥ずかしくて死にそうなんだよぅ!!」
「ハイハイ。じゃあ、今はコレで勘弁してくれる?」
「んぶっ」
 徐ろにコートの前を広げたかと思えば、自身を巻き込んでガバリッと勢い良く抱き締められた。瞬間、私の顔面は彼の固い胸筋へとぶつかる。勢いが付いていただけに地味に痛かった事は遺憾の意である。鼻先をぶつけた事も含めてジトリとした視線を向ければ、自覚はあるのか、申し訳なさそうな顔をして誤魔化すように頬を掻きながら乾いた笑みを漏らした。
「自分から言っておきながら今更言い訳じみた話だけども……実は、君の指をしゃぶってた時は半分くらい寝惚けてて、本当に無意識でやらかした事だから……っ。其処だけは目を瞑って頂ければ……!」
「あ……やっぱ、アレは寝惚けた上での反射やったんやね。吃驚したぁ……。アレを自覚した上でやってたとしたら、飛んだあざとさだと罵るところだったよ」
「うん、君に変な罪を着せられる前に自白して良かった……」
「ふ〜ん……ところで、用って其れだけ?」
 何処となく腑に落ちなくて彼の懐へ閉じ込められたまま見上げる形で首を傾げれば、何故か彼が一瞬息を詰まらせる様子を見せた事に更に不思議さが増した。ジッと視線を投げ続ければ、観念したように口を割った彼がもにょもにょと語り出す。
「ん゙っと……君があまりにも可愛い真似を仕出かしてくれるから、ちょっと男の性としての部分が働いちゃって…………えへっ」
「……見た目成人男性な癖して如何せん顔が良過ぎるから可愛い顔しても許されるなチクショー」
「えッ、何突然の罵倒……?? 僕、何か君の気に障る事した??」
「あ、そっちの心配はしなくとも大丈夫よ。雑に意訳すると、単にヴァッシュが可愛くて仕方ないな〜って事を呟いただけだから」
「えぇ……僕、男なんだけど……。可愛いのはルツの方でしょ?」
「ハハハ、何を仰るのやら。何処の誰が可愛いって??」
「ルツの事だよ。僕の可愛い可愛い彼女さんっ!」
 寝言は寝てから言ってくれと言い返すつもりが、飛びきりの笑顔で爆弾を投下されたので大人しく爆ぜた。此れだから天然たらしは怖いんだ。女は漏れ無く可愛いの一言で簡単にコロッと行っちまうのよ、私も含めてなぁ!
 謎の悔しさから歯を食い縛ってギリリとさせていたらば、不意に見上げていた顔が至近距離に近付いていて。気付いた時には、鼻先が触れ合う距離に居て、何なら唇は零距離で触れ合っていた。軽く合わさる程度に押し当てられた柔らかい温度。時間にして数秒程だろうが、その間無意識に止まっていた呼吸は、彼が唇を離したと自覚した途端に息を吹き返した。
 どうしてキスなんかしたの。言外にそう言わんばかりの目で訴えかければ、彼が擽ったそうに目を細めて笑みを漏らす。
「御免、君があまりにも可愛かったから……ついしたくなっちゃった。ふふっ……此れでお相子様だね?」
「ッ…………そういう、不意打ちにするところ、狡い……」
「うん、狡くて御免。でも、君も嫌がらなかったから良いかなって」
「調子に乗らない……っ」
「イデデデッ……! 悪かったってば! もう勝手に許可無くキスしたりしないから機嫌直して……!」
 恨みを込めて長い足先をギュムリと踏み付けると、其れなりの力を込めていたからか痛がった彼が悲鳴を上げた。その反応に溜飲を下げて、ふんっ、と鼻息を漏らす。
「むぅ……。まぁ、唇の荒れ治ったら……キス、許しても良いよ」
「良かった〜。君に嫌われる事だけは避けたいからね! 善処するよ!」
 たぶん、途中からは狸寝入りしていたんだろうが、その時に触れた彼の唇はかさついていたので、今しがたキスした際にそう感じなかったのは恐らく先程渡していたリップクリームを塗った後だったからだろう。キス直後で湿る己の唇を舐めると微妙にスースーするから、たぶん予想は間違っていない筈。
 またまや思考の海に沈みかけていたら、何やら視線を感じたので其方を見れば、彼が何か言いたげな顔を向けていた。何とも微妙な顔付きに怪訝に思い、直球に問う。
「何、その顔……何か言いたい事あるなら聞くけど?」
「いや……キスした直後に唇ペロッと舐めるから、誘ってるのかと……」
「は?」
「うん、君の事だから違うだろうとは思ったけども。無自覚でもキスした直後にソレされると、こう〜男心にグッと来るものがあるから……出来れば自重して欲しい。歯止め利かなくなりそうだから」
「は??」
「あと、僕を心配して気遣いでくれた物なんだろうけど……其れなりに気のある男に対して使いかけのリップクリーム渡すのは今回限りにして欲しい。その、色々と悶々と考えたりしちゃうから……っ」
「……色々って、何」
「え゙ッッッ。……色々は、色々だよ……! 例えば、ほら……! き、君と、か、間接キスしちゃうみたいだなぁ〜なん、て…………ッ」
 彼が言い終わらぬ内に、彼が言いたかった事の内容を理解して、途端にボンッと爆発する勢いで顔を真っ赤に染めた。直後、私は彼の腕の中から出ようとジタバタと藻掻き、彼の胸を突っぱねようとした。だが、幾ら力を込めてもビクともせず、体幹のしっかりしている彼は一ミリ足りともブレてくれなかった。不意を突く事も叶わなかった。解せぬ。此れが男女の力量差というものか、ドチクショー。
 暴れ出した私にわたわたとしながらも圧倒的力量差で完敗させた彼が頭上で戸惑いの声を落とす。
「ご、御免てぇ〜っ!! 改めて口に出したらこうなると思って言い出せなかったんだよぉ!!」
「恥ずかしい奴め……! そういう事は思っても口に出すんじゃねーよ、お馬鹿ァ!!」
「もぉ〜っ、また君の口の悪いところが出てるぞ? 僕の前だから許すけど、ナイの前では最悪殺されかねないから絶対にやめてね。分かったかい?」
「君のお兄様のブラコンぶりは重々理解しておりますので、頼むからリークだけはヤメテお願いしますまだ死にたくない……!!」
「安心して。僕だって君の事を死なせるつもりはないから。もし、ナイが突然いきなり押し掛けてきて君を害そうと手を掛けても、僕が必ずこの身に代えても守ってみせるから」
「ヒィンッ、ヴァッシュが言うと洒落になんねぇ! ヴァッシュだって生きてなきゃ嫌だからね!! 自己犠牲も程々に!! ヴァッシュの代わりなんて居やしないんだからな!!」
「ははっ、有難う。君の為にも長生きしなきゃね……って、僕既に100歳超えるお爺ちゃんだけど」
「ヴァッシュが何歳だろうと好きなものは好きで変わらないからァ!! 私はどんなヴァッシュだろうと愛し抜く覚悟です!!」
「わぁ、スッゴイ熱烈だなぁ。でも、そっかぁ……どんな僕だろうと、僕が幾つになろうと、君は僕の事を愛してくれるんだね。なら、僕はその愛に報いるように努力しなきゃだ。手始めに、愛してるってお返ししなきゃだね? ルツ、僕の可愛くて格好良いダーリン」
「ぉ゙あ゙ッ。無理、好きィ……ッッッ!!」
「はははっ、知ってるよ。僕も、君の事が大好きだよ、ルツ」
「み゙ッッッ」
 最後は言葉にならない鳴き声を上げたところまでしか覚えていないけれども、彼が何時いつまでも平和に幸せそうに笑っていてくれたなら何だって構やしないのだ。


執筆日:2024.03.20
公開日:2024.03.21


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