慎也と暇潰し



智己と立場を同じくした、アニマル・セラピーの狼、慎也。

彼女の家に来て早数日、特に何事も無く長閑な時を過ごしていた。

家に来たその日に、たくさん余っているからと適当に案内された部屋。

彼女の住む家は、嘗て民宿を営んでいたものらしく、それなりに広く大きいものだ。

和洋折衷を取り込んでいるのか、外観は木造建築であるが、中は所々造り変えられており、洋室なフローリングの部屋もある。

慎也は、その内の一室を使わせてもらっているのであった。

彼は暇そうにベッドに寄り掛かり、マットレスを敷いた床の上に直に座り込んでいた。

手元にあるのは、とある分厚いハードカバーの本。

如何にも小難しそうな内容の書かれた本である。

勿論、これは彼が持参した己の本である。

読んでいて、時々眠気が来るのか、欠伸を噛み殺しながら読んでいた。


『―慎也ぁ〜……入っても良い…?』


廊下に通ずる扉の向こうから、この家の主に呼びかけられた。

だいぶ敬語ではなくなってきた彼女は、時折こうして、自分から話しかけてくるようになり、心を開き始めてきたのだった。

それを日に日に感じている慎也は、怖そうに見える表情筋を和らげるのである。

慎也は彼女の声に応じ、読んでいた本を閉じて、戸を開けるべく立ち上がる。

戸を開けてやると、其処には、たった今自分で開けて入ろうとしていたのか、中途半端に手を伸ばしている彼女が突っ立っていた。


「…何だ、暇潰しにでも来たのか?」
『うん…。なんか今日、何も遣る事無くて、変に時間持て余しちゃって…っ。』
「そうか。まぁ、入れ。アンタが面白いと思うような物は何もないがな。」


入室を許可すると、僅かに顔を綻ばせて嬉しそうに入ってくる未有。

以前よりも、幾分、笑う回数が増えたようだ。

智己と二人で過ごしていた日の事についても、あれから色々と聞いた慎也は、温かい目で経過を見守っている。

智己と同様、観察力に優れている彼は、最近になって、たった数日共に過ごしただけではあるが、彼女の微妙な感情変化が分かるようになってきたのであった。

今の声音から察するに、それなりに機嫌が良い時のものである事が分かる。

慎也は、己の質素な部屋にある寝台を指し、其処に彼女を座らせた。


「こんな殺風景な男の部屋に来て、楽しいか…?」
『んー…結構楽しいよ…?慎也と話すと、面白いし。』
「それは喜ばしい事だが…些か、女の身として無防備過ぎやしないか…?相手が俺だから良いかもしれんが、普通なら、簡単に男の部屋に上がり込んだりなんてしないだろうし、したらしたで、アンタみたいに無防備極まりなく何の構えも無しに居たら…その内襲われるぞ?」
『私を襲うような人、そうそう身近に居ないから安心しなよ。もし居たとしても…そん時はソイツをぶん殴るか、蹴り飛ばすかして伸せば良いし。又は、急所を狙って撃沈させて、返り討ちにすれば良し…っ!ってね。』
「…………アンタ、本当に女だよな?」
『そうですけど…何、どうしたの?今更、実は男でしたーなんて阿呆な事言わないよ。…というか、そもそもが私を狙うような人って、どんな人なの…?絶対変に変わった人とか、かなりマニアックな趣味の変態さんくらいなんじゃないの…。もし、本当に私を襲おうと考えてる人が居たのなら、その人の思考回路は理解出来ないね。趣味悪いんじゃないの?ってぐらいしか言えないわ。』


彼女の発言に、苦い顔をして黙り込む慎也。

自身の股間が、一瞬、異様に冷えたというのは言うまでもなかった。


『…ん?本読んでたの…?』
「え……?あ、あぁ…。」
『何か難しそうな本だね〜…。ハードカバーの本だ。』


テーブルに置いてあった本に気付いた彼女は、それを手に取り、眺め始めた。

彼の方はというと、先程の会話でダメージを食らっていたのか、呆然と固まっていたらしい…。

一瞬反応に遅れ、返ってきた返事には微妙な間があった。


『ねぇ、これ面白い…?』
「まぁな…。ご主人にとっちゃ、少し難しい内容かもしれないが。」
『…むぅ…っ。何か馬鹿にされた気がする……。確かに、こういう感じの如何にも哲学的・文学的な本は読まないけど…。分厚過ぎて途中で飽きそうな気がするのと、あんま小難しいのは得意じゃないから。でも、比較的他の同じような学生さんよりかは本読む方だと思うよ。』
「ご主人も、本はよく読む方なのか…?」
『うん…っ。主に文庫本とかだけど…。アニメやコミックのノベライズだけに限らず、ハードカバーの物も読んだりするよ。基本、興味があれば、色々と手に取って読んでる。本読むのは好きだから…学校行くついでに寄る時とか一人で出掛ける時は、よく本屋に寄ってるかな…?気になる本は、買う前にチラリとでも読んで、内容チェックしときたいからね。』
「今のご時世…読書は紙媒体よりも、電子書籍の方を利用する事の方が多いだろう?アンタみたいに若い学生の年代なら、特に。」
『ううん…っ。私は、電子タイプの物よりも紙媒体で直に手元でページを捲りながら読む本の方が好み。電子タイプの物が悪いって事はないんだけど…なんて言うのかな。何となく、こう…味気無く感じちゃうんだよね。紙媒体の方が、読んでてきちんと物語が頭の中に入っていく気がするし、ちゃんと読んでるって感覚がするんだよなぁ…。電子書籍は、読んでもすぐに内容が頭から抜け出ていっちゃうような感じがするんだよね。…あ、悪までこれは私個人の考えだから。別に、電子書籍好きの人を否定する意図は無いから。』
「嗚呼…その点については、分かってる。しかし、意外だな…。アンタも紙の本の方を好むのか。」
『そんなに意外そうに見えたかな…?』
「アンタぐらいの年代なら、まだ小難しい紙の本よりも漫画とかそういった方に意識が傾くんじゃないかな、と思ってただけさ。馬鹿にしてる訳でも、貶してる訳でもない。」
『う〜ん……確かに、漫画もよく読むけども…漫画も紙媒体で読むからこそ面白く思えるし。私が読むジャンルは、大体が少年漫画かファンタジー系に偏るからなぁ〜…。稀に少女漫画も読むけど。ほとんどが前者だね。』
「今、アンタのお気に入りの作品はどんな作品なんだ…?」
『えーっと、それって漫画の方への質問なの?それとも、小説本の方?』
「何方でも。アンタが答えやすい方の答えで構わない。」
『う〜む……っ。漫画で言ったら…正に王道ファンタジー、魔法や魔術、妖精といった類のものを題材としたお話を描いた物語…かな?その中には、人外×少女ってジャンルも含まれるんだよ。』
「へぇ…。聞くだけだと、漫画というよりも小説とかの内容でも在りそうな作品なんだな。」
『実は、その漫画…今結構話題を呼んでましてね…!内容が凄く面白い事から、かなりの人気作品となっていて、今では海外からも人気を呼ぶ程面白い作品だと有名なのですよ…っ!』
「そりゃ面白そうな漫画だな…。普段、俺が読んでいるような小説の内容とはジャンルを画しているが、偶にはそういったジャンルの物を読んでみるのも良さそうだ。今度貸してもらっても良いか…?」
『良いよ…っ!寧ろ、是非是非読んでみて…!面白い作品は、皆に広めて布教していき仲間が増えていく事が素晴らしき事だと私は思う訳よ…っ。だから、今すぐにでも貸してあげるよ!巻数それなりに出てるから、数冊まとめて貸す事も出来るけど…どうする?』
「いや…、今すぐじゃなくて良いよ。先に、今読んでる本を読み上げたいしな。それに、読みたくなったら、アンタのとこまで直接借りに行くさ。」
『…そう?じゃあ、読みたくなった時は言ってね。持っていくから。』
「嗚呼…。楽しみにしとくよ。」


少しずつだが、自己主張を出来るようになった未有。

話を聞いてもらえる相手が居るだけでこんなにも変われるのかと、彼女自身、内心驚いているのだった。

家族に対しても、本心を隠し、心を閉ざしてきたのに…。

それが、少しでも心許せる相手が出来て、精神的に落ち着いてきたというところなのだろう。

智己と出逢うまでは、日々が精神的に不安で常に周りの目を気にし、何時も情緒不安定だったという。

その為、家に閉じ籠るようになってしまっていたらしい…。

だが、今は金雀枝に加え、智己と慎也も加わり、頼もしい限りなのである。

一見、怖そうな男に見える慎也だが、こう見えて、意外と頼りがいのある世話焼きの心優しいお兄さんなのだ。

かなり慣れてきたとはいえ、未だ残るぎこちなさを取り除こうと、彼女が怯えないように努めて接している。


『えっと…この本のタイトルは…、【人間不平等起源論】…?』
「18世紀にフランスで活躍した政治哲学者ジャン=ジャック・ルソーが、1757年に著作した本だ。人間の社会における不平等の起源と、それが何処まで許容出来るかについて思考を深めた作品。それなりの名書だと思うが…。」
『…ふ〜ん、私は読んだ事無いや…。取り敢えず、何か難しそうな本だなぁ〜っていう事は分かった。…てか、よく覚えてるね、慎也。』
「気になるなら、読んでみるか…?」
『いや、うーん…。遠慮しとこうかな…と思ったけど、ちょっとだけなら…いっか。』


そう言って、未有は慎也のベッドの上で胡座をかき、パラパラとページを捲り始める。

その女らしくのない座り方に、文句の一つでも言ってやろうかと考えた彼だったが、何処か楽しそうに読む彼女の表情を見て、やめた。

今は、彼女の好きにさせようと考え直したのだ。

彼は黙って、静かに本を読む彼女の隣に腰かける。

偶に、難しそうな顔をして読んでいる彼女に、優しく微笑む。

その時の眼差しは、とても温かく、心から見守っているようであった。


―少しすると、本の内容を読まずに、適当にページを捲り出した未有。

何かを察した慎也は、フッと軽く笑って話しかけた。


「…もう飽きたんじゃないのか?」
『……何か…本読んでるだけじゃ、暇…。』
「それなら…そろそろ夕暮れ時だし、散歩にでも行くか…?」
『散歩…?』
「あぁ。とっつぁんも連れてな。」


慎也がそう言ってやれば、きょとんとする未有。

だが、言葉を理解した瞬間、ぱぁ…っ!と明るくなる表情。

「行く…っ!」と元気良く返し、読んでいた本を閉じると、しっかりと両手で手渡してきた。

それを受け取った慎也は、「すぐに準備するから待ってろ。」と告げ、出掛ける用意を始める。

彼女も嬉しそうに立ち上がって、「私、智己に声かけてくるね!」と、早々に部屋を出て行ってしまった。

なかなかに退屈しない面白い奴だ、と思った慎也だったが…。

敢えて口にはせず、静かに徐々に変わっていく彼女の様子を微笑ましく見守るのであった。


加筆修正日:2019.03.22


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