慎也との生活



前話にて、狡噛慎也と名乗る、ある特殊な性質を持った狼と出逢い(飛び付かれた上に思い切り吹っ飛ばされ、後頭部と背中等を強打、挙げ句の果てに存在をスルーされたが)、また少し賑やかになった家。

今まで独りぼっちであった未有にとって、それは喜ばしい事な筈だったのだが、いまいち素直に喜べない状況なのであった。

原因は言わずもがな…。

目の前に居る、この男のせいなのである。


「………なぁ、何時になったら機嫌を直してもらえるんだ…?」
『………………。』
「良い加減、機嫌を直してもらえないだろうか…?無視され続ける俺にとっては地味に辛いし、傷付くんだが…。」
『…………そんなの知りません。』


この有り様である。

出逢い方が最悪過ぎて、まだ色々とデリケートに扱わなければならない少女にとって、当然の塩対応だった。

最も、これでも全くの他人行儀に接していないらしいのが、せめてもの優しさ(欠片程度)である。

狡噛という男にとっては、微塵にも伝わってはいないのであろうが。


―あの後、智己の手により、山に入った為に付いたノミやらダニ等を一掃処理され、身体に付着した汚れを完全に落とされ、全身丸洗いの綺麗にされてから漸く家へと上がらせてもらえたのが…つい数十分前。

しかし、狡噛が改めての謝罪も含めて話しかけるも、無言を突き返し、漸く口を開いたかと思えばこの返し。

未だ、全くまともに会話をしてもらえない状態にあるのだった。

無視され続ける事に、流石に堪え兼ねた男は、取り敢えず声をかけたのだが…。

彼女は一度も目を合わせる事がしないどころか、明後日の方向を向いたまま膝を抱えて踞っていた。

彼女は、別にこの狼が嫌いな訳ではない。

ただ、まだ初対面の者である為に警戒心が強く、ATフィールド(心の壁)を全開にしているだけなのだ。

少し時間が経ち、日を追えば、その内、徐々に心を開いてくれるのである。

しかし、そういう事も含め、彼女の諸々な事情を知らない狡噛は、ただ持ち前のスキルを持ってしてもなかなか心を開いてもらえない事に溜め息を吐いていた。

半ば、諦めモードである。

否、半分心が折れかかっていたのだった。

そこへ、唯一の救い手である智己がお茶を乗せた盆を持って現れる。


「まぁだこの状態が続いてたのか…ご主人。良い加減、許してやったらどうだ…?」


呆れの声を漏らした智己は、助け船を出すように優しく未有へと話しかけた。

その声に、漸く狡噛の居る方向へと首を向けた彼女。

しかし、その視線が捉えるは、智己のみである。

未有は智己の持ってきたお茶に対し手を伸ばして、「頂戴。」と短く返事をした。

その様子を見た智己は、仕方ないなとばかりに苦笑を漏らししつつ、「ほい、どうぞ。」と言ってお茶を手渡す。

それに対し、「ありがとう。」と返した彼女の反応に、「些か差別されてないか…?」と眉間に皺を寄せた狡噛。


「…何でとっつぁんは良くて、俺はダメなんだ…。」
「ご主人は、色々と訳有って心を閉ざしてる子供だぞ。心の奥底に抱える闇が深過ぎて、自身を保つだけでも精一杯なんだろうさ…。俺だって、これでも努力した方だぞ?初めの時なんか、なかなか笑ってくれなくてな…。そりゃ苦労したさ。でもな、そんなもの…ご主人の抱えるモンに比べたら、何とも小さいモンなんだよ。」
「…………。」


静かに諭すように、智己は彼女の事を見つめながら語ってゆく。

事情を知らないとはいえ、他人の踏み込むべきではない領域に軽々しく踏み入ろうとしていた己を恥じた狡噛。

彼は、部屋の隅に寄り踞る彼女を改めて見つめた。

未有は、二人だけの会話があるだろうと気遣ってか、耳にイヤホンを嵌めて、周りとの音をシャットアウトしていた。

腕は畳にだらりと下げ、手元の音楽プレイヤーの画面を見つめているのか、俯いている為、今の彼女の表情を窺い知る事は出来ない。

しかし、僅かに見える彼女の眸は、何処か虚ろで暗く、光を映す事を嫌っているようで、陰が差しているのは分かり得たのである。

その眸で、何を見、何を映してきたのか…。

何となく察し、言葉を紡ごうとしかけていた口を噤んだ。

智己も、それを黙って理解し、ゆるりと自身の姿を変え犬の姿に戻ると、彼女の側へと優しく擦り寄った。

それに顔を上げ、無言でイヤホンを外す未有。

僅かに目元は緩み、柔らかく小さく弧を描かれた口許。

未有は、擦り寄って来た智己の頭を抱き寄せ、自分の額をくっ付けるようにし、心地好さそうに半ば気持ちを落ち着かせるようにその身を寄せた。

静かに様子を見守っていた狡噛は少々驚き、知り合いの容易く人の心を開かせるスキルに、ただただ経験の差を感じるのであった。


「…やっぱり、とっつぁんには敵わないな。」
「はは…っ、そんなこたねぇよ。…それよか、ご主人。そろそろ俺ばっかじゃなくて、コウの相手もしてやってくれないか…?アイツは俺より若いんだ。そう意地張らずに、仲良くしてやってくれよ。」
『………噛み付いたりしない?』


か細く呟かれた言葉は、微かに不安を混じらせたもの。

しかし、その返答に可笑しそうに笑い出す智己。

未だ狡噛が狼の姿を取ったままであるとでも思っていたのか、又は、単に狼だから故に思ってしまった事なのか。

一方、笑われた彼女は眉間に皺を寄せ、何故笑うんだと言わんばかりに軽く睨んだ。

まだ笑いながらも、彼女を狡噛の方へ向かせようと頭で腰を押した智己。


「コウは、物分かりの良い賢い狼だ。そう易々と人の手に噛み付いたりなんざしねぇよ。勿論、ご主人に危害を加えるような輩がいたら、迷わず牙を剥くがな。…俺と同じような奴さ。」


狡噛は、自分の事を言われているとは露知らず、彼の甲斐甲斐しくも世話焼きなところを見て、「どっかの誰かさんに、この父親らしい姿を見せてやりたいよ…。」と、内心思っていたのだった。

取り敢えず、彼に促されるまま、仕方なしといったように漸く狡噛と目を合わせた未有。

そこで初めて気付いた事柄に、驚きの反応を見せた。


『…!……あれ…、人の姿になってる…?』
「ずっと、コウの方を見向きもしなかったからなぁ〜。気付いてなかったろ…?」
『うん……気付いてなかった…っ。』
「………ソレ、地味にヘコむんだが…。」


彼女の“今初めて気付きました”というような反応に、狡噛は顔を顰め、項垂れた。

彼は、二十代後半…若しくは三十路程くらいの男性の姿をしていた。

狼の時にそっくりな髪質で、もっさりとした真っ黒な黒髪。

衣服の上からでも分かる程、無駄のない引き締まった身体付きだった。

やっとの事で、目を合わせてくれた未有。

初めて狡噛の人間としての姿を見て、驚き固まっている。


『…狼さんの時も黒かったし…人の姿も全体的に黒かったから、全く気付かなかったや。』
「寧ろ、今の今まで本当に気付いてなかったという事に、俺は驚いてるんだが………。」
『うわぁ…っ、凄ーい…!智己の時も吃驚したけど、本当に人の姿になれちゃうんだね?変身というか、姿が変わる瞬間、見てみたかったなぁ〜…っ。』
「何だ…そんなに変わる瞬間が気になるのか?まぁ、気が向いたら、何時でも見せてやるさ。」
『…えっと、狡噛さん…でしたっけ…?結構若そうですけど…歳、お幾つなんですか…?』
「ん…?そうだな…。今の年齢を人の年齢的に言うと、28くらいか…?俺は狼だからな。とっつぁんは確か、54くらい、だったか…?」
「嗚呼。まぁ、人で言うと大体そのくらいだろうな。」
『へぇ〜…、そうだったんだ…。知らなかった。というか、年齢訊くのは何か失礼だと思ってたから訊いてなかったよ…。』


幾らか警戒を解いてくれたのか、対話に応じ始める未有。

しかし、まだ慣れないのかぎこちなく、初めて智己と逢った時同様に敬語で話している。

それを聞いた狡噛は、彼女に対し、口を開いた。


「その“狡噛さん”っていうの、ちと堅いな…。もっと砕けた感じに呼んでくれて構わない。俺もとっつぁんと同じく、暫くの間、此処で住まわせてもらうつもりなんだ。だから、ご主人様のアンタが、好きなように呼んでくれ。」
『ぅ゛、う゛〜ん……っ。でも、こればっかりはすぐには抜けないと思うので…慣れるまでは、ちょっと…っ。』
「今すぐに直せとは言わないさ。ゆっくりで良い…。徐々に敬語を外していってくれたら、それで良い。」
『…えと…っ。…ねぇ、智己…?金雀枝さんは、狡噛さんの事、何て呼んでた?』
「要か…?コウの事は、名前で“シンヤ”って呼んでたと思うが…。」


ふと、隣に寄り添う、いつの間にか人の姿に戻っていた智己を見上げ、問うた未有。

智己は、自分達が何時も居た施設にて慕う主的人物、「金雀枝要」の事を思い浮かべて言った。


「わざわざ、彼奴の呼び方に合わせて呼ばなくても良いんだぞ…?」
『ううん…。単純に、そっちの方が呼びやすいかなぁ、って思ったから。』
「…そうか。それなら、良いんだが。」
『じゃ、じゃあ、狡噛さん…っ。私からの呼び名は、慎也…で良いですか?』
「嗚呼。アンタが呼びやすいと思うなら、それで。改めて、これから宜しくな、ご主人。」
『…は、はい……っ、此方こそ、宜しくなのです…っ。』


右手を差し出され、戸惑いながらも、緊張した面持ちで狡噛と握手を交わす。

…こうして、新しく慎也を加えての生活が始まるのである。


「…そういえば、ご主人。とっつぁんへの呼び方も、名前で呼んでたんだな…?」
『へ……?あれ、そういや…いつの間にか名前で呼んでたや…。何でだろ?』
「はっはっは…っ!別に、とっつぁんでも智己でも、未有が呼びやすいものなら何でも構わんさ…っ。」
「…偶々、俺が呼んでた呼び方と同じだったから変えた…とかじゃないよな……?」


何となく気になったのか、自信無さげに問う慎也。

一瞬、きょとんとして彼の顔を見つめ返した彼女。

少しだけ考えた後、誤魔化すように明後日の方向を向いた未有はこう呟いた。


『ん〜…もしかしたら、そうなのかもしれない…かな?』


無自覚なのだろうが…。

慎也に対して、何とも酷い扱いな彼女である。

まぁ、何であれ…一先ず、出逢いの一件に関しては仲直りが出来た二人なのであった。


加筆修正日:2019.03.22


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