3.風邪(1)
弱っている所を見ると絆される、って聞くけど…、まさにその通り。な、気がする。
土曜日の夕方。
夕飯の買い物を終えて間もなく自宅に着く。という時、聞き慣れた声が少し遠くから耳に入って来た。
「ちゃんと横になってなさい!」
「ああ…」
「何かあったら連絡するのよ」
「分かっている」
「じゃあ、行って来ます。いい? 寝てるのよ?」
「ああ。分かった…」
忙しない一君のお母さんの声。
少し掠れ気味の一君の声。
ガチャン、と玄関ドアが閉まる特有の音が聞こえ、続いてコツコツとパンプスの音。
「……、こん、にちは」
「あら、ユイちゃん。今帰り?」
「はい、……今からお仕事ですか?」
「そうなの、急に夜勤入っちゃって…、交代の人もお休みでね」
畳掛けるように事情を話し出す一君のお母さん。
いつもならここで、“そうですか”なんて適当に挨拶して家に帰るんだけど…、なぜか私は、自分を止める事が出来ず、口を開いた…。
「一君…、どうしたんですか…?」
「ん? 一? そうそう、珍しく風邪なんかひいちゃってね。あの子ったら、こんな時にも図書館に行こうとするから寝てなさいって怒ってたのよ」
「………」
本当に、こんな時にまで勉強しようなんて、真面目な所に笑みが零れ、思わず噴き出してしまった。
「一君、らしいですね」
「融通がきかなくて参るわ」
「私、ちょうど図書館に用があるので、ついでに借りたい本聞いてきましょうか?」
「もう遅いから、良いわよ」
「……あ…、今日、返却日なんです」
だから“ついで”ですから。と付け加えると一君のお母さんも “…そうねぇ…”と言いながら腕時計に視線を落とした。
「あらら、行かなくちゃ、んー、じゃあ、ユイちゃん、お願いしちゃっていいかしら?」
「はい」
「ありがとう、鍵はいつもの処に在るから! ごめんね!」
余程電車の時間が迫ってしまっていたんだろう、かなりの急ぎ足でその場を去って行ってしまった。
本当は図書館に用なんて無い。
だけど私は自分の気持ちをやはり止める事が出来なかった。
「…………」
彼のお母さんに、ゆるゆると振っていた手をのろのろと下げて、早鐘を打つ心臓辺りを抑えて深く息を吐き出し、踵を返し、ゆっくりと彼の家へ向かった。
きっとまだ眠りにはついていないだろう。
鍵の隠し場所は把握しているものの、やはり余所のお宅。
一度だけインターホンを押して反応がなかったら鍵をお借りしよう、とボタンを押した。
ピンポーン、と電子音のあと数秒、インターホンのスピーカー越しにカタ…、カタ、というプラスチック音が聞こえ、続いて聞こえたのは掠れた彼の声。
「………、はい」
「ごめんなさい、……ユイ、です」
「!!」
受話器でも落としたのだろうか、ガタガタガタッとスピーカー越しに激しい音が聞こえ、慌しい足音と共に玄関ドアの鍵の回る音。
ドアから顔を出した一君はすごく驚いていて、私の姿を認めた途端、珍しく目を見開いて少し固まっていた。
「な、…一体……」
そんなに動揺しなくても、と思うくらいに一君は言葉に詰まり、何を言っているのか分からない状態。
寝ていたからか、上下黒のスエットを着ていて、普段カチッとした格好しか見ていない私は、あまりの驚きぶりと、見慣れない格好で冷静な彼がここまで動揺する姿を見られて、さっき自らの申し出を少しばかり後悔した自分を撤回した。
「具合悪いのに、ごめんね。さっきおばさんに会って……。図書館に用があるんでしょ? 私も、丁度用があるから、タイトル分かるなら……ついでに借りてこようか、と思って…」
「………」
しどろもどろになって私は今インターホンを押した経緯を話した。
正直言って、一君に自らこう言う事を進言した事は初めて。
いつも彼の思うままにしてきていた私からの言葉だ、とても驚いているんだろう…。
沈黙が長くて、私は出過ぎた真似をしたか、と少し彼に対していつも抱く緊張感を纏えば、
「、っ……」
腕を引かれ、熱に冒された熱い身体に包まれる。
「は、じめ…、くん……」
「ユイ……」
分からない…、どうしてこうなっているのか。
「本など……」
「…え……?」
掠れた一君の声が、消え入りそうな程小さくて、私は聞き逃さない様に耳を傾けた。
「…いら、ん……」
「でも、必要、なんでしょ……?」
「いい…」
「……!」
そう言って、私を抱き締める腕の力を強める一君。
「どうし、たの……」
熱の所為なのか、甘えてくる一君が珍しく、私はまたあの時のように一君の背に手を回した。
でもこのまま玄関先で抱き合っていても埒が明かないし彼の具合の事も有る。
一君の背を宥める様に擦り、胸を押して少し身体を離した。
「部屋に戻って、もう横になった方が良い、よ…」
「………」
私の言葉が受け入れられない一君は、ふる、と一度首を横に振って引き離した身体をまた寄せて私を抱き締める…。
一体、どうしちゃったんだろう……。
―――――――――――――――――
初めて入る一君の部屋。
まぁ、想像通りと言うか、シンプルな部屋。
高さを揃えた本が綺麗に列を成していて、本人の性格を表すようなスッキリと片付いた本棚。
大学で使っている鞄と教科書だろうか、小さなテーブルにきちんとまた並べられ、シンプルなプラスチックのペンケースが勤勉さと謙虚さを表していた。
「ベッド、入って…」
「…っ」
熱の所為か身体中が痛むのだろう。
眉間に皺を集め、ゆっくりと、痛みに堪えながらベッドに身を沈め、私はそっと上掛けを彼にかけ、数回胸のあたりをぽんぽん、と叩いた。
彼の母が置いたものか、しゅんしゅんと加湿器が機械的な音を鳴らし、無音になっていしまいそうな彼の部屋に単調なBGMを齎す。
「……、う」
「あたま、痛む…?」
冷却材とか用立てようか…、余所様のお宅のものを勝手に探し、使うのはたはり気が引けてしまう。
自宅に取りに行こうか思慮していると、一君から口を開いた。
「メール…」
「え…?」
意図していなかった言葉に、少し反応が遅れ、何の事か首を傾げていると深く息を吐いた一君が言葉を続けた。
「来て、いないか…?」
「あっ」
漸く一君の言葉の意味を呑み込めた私は、普段あまり携帯を使わないため、今日初めて携帯を家に置いてきてしまった事に気付く。
「………、へん、じが…無かっ、た…」
「……ごめんね」
確かに一君から来る着信やメールには必ず返信していたから、今回返事をしなかったのは、彼にとっては有り得ない事だったのかもしれない。
ただ、頻繁にメールし合う仲なんかじゃないから、私はどうして一君がそんなに返信しなかった事に拘っていたのか理解できなかった。
返信しなかった事も、携帯を持っていなかった事も責める訳でもなく一君はそれ以上喋らずに、熱の籠った視線を私に静かに送る。
「………っ」
だけど…、私はその濁りのない真っ直ぐな眼差しに苦しさを覚え、一くんの視線から一秒でも早く逃れたくなって、買い物袋を持ち直して立ちあがった。
「一回、携帯取りに家に戻るよ…、これも置いてきたいし。眠ってて? …ね?」
「……」
吐息までも熱に冒されていそうな位、荒い呼吸で、いつもは白い陶磁器の様な肌も赤く紅が差して、そんな一君に見詰められている。と言うだけで私の胸は早鐘を打つ。
「ユイ……」
「……、まってて…、戻って、来るから…」
そんな視線を私に送らないで…、
「……ッ」
「………」
一君の返事も待たずに、私は黙ったまま部屋を後にした。