ほんとうに、ただ、なんでもない日のこと



 土砂降りの雨の中、私はびしょ濡れになりながら教会へと一人走っていた。
 傘はない。だって今日は一日晴れの予定だったし、雨の気配なんてなかったし。

「……通り雨なんて、ついてない……」

 すぐに止む雨なら雨宿りをすることも考えたが、ちょうど周りにそんな軒下などもなくて……教会まではもう少し、走り抜けてしまおうなんて甘いことを考えたのが運の尽きだった。
 まさか、こんなに、ひどくなるとは。

「た、ただいまぁ〜……」

 礼拝堂──ではなく、裏口に。普段なら堂々と正面の扉から入るのだが今日ばかりはやめておく。恐らくこんなぐちゃぐちゃの靴で中を歩くと、彼に怒られてしまうから。

「──おかえり」
「うぇ……っ!?」

 空に放ったはずの言葉に返答が返ってきたことに驚いて顔を跳ね上げると、目の前に白い何かが降ってきた。私がそれを落とさないようにと慌てて両手で支えるのを見て、彼が小さく鼻を鳴らす。

「わ、わ……! えっ、なんで……」

 いつもは礼拝堂か彼の私室にいるはずの男、言峰綺礼がそこに立っていて、しかも、今投げて寄越したのはどうやらタオルのようであるらしい。それがあまりにも想定外だったもので、私は思わずそんな言葉を口にした。

「何故もなにも、そのまま入れば床が汚れるだろう、一体誰が掃除すると思っているのかね」

 多分、私だと思いますけど。

 そんなことは口にはせず、私は素直に「そうだね、ありがとう」と言ってそのタオルで紙に滴る水滴をすくい取る。……汚れるのが嫌、という理由だとしても、彼が私の帰りを待っていてくれたという事実はそれなりに私の心を躍らせた。ううん、できればそんなこと気づかれたくはないけれど。

 それに、そういう彼の、なんというか……彼のことを善良な神父だと思っている人には絶対に見せない、善人ではないところ、というやつを見せてくれているのは、私(を含む限られた人)だけだという自負もまた、私の頬を赤くする要因になっていた。

「なんだ、突然おかしな顔をして」
「……んへへ、なんでもない」

 にやける顔を隠すようにしながら、濡れて気持ちの悪い靴を履き替える。服や頭から水が垂れない程度に拭いた後、自分の部屋へ向かい彼の横を通り過ぎようとしたところで、彼に「待て」と腕を掴まれ、私の胸はさらに高鳴った。

「なっ、なっ、なっ、なに……!?」
「きちんと拭け、風邪をひくぞ」

 そう言った彼の手がタオルを被ったままの私の頭に伸びる。そのまま強い力でがしがしと頭を揺すられ、私は困惑したまま、なすがままに右へ左へ揺れていた。この決して優しくはない粗雑な手つきに私がまた胸の内をときめかせているのは、この適当に扱われている感じがまた親密さを感じさせるというかなんというか。いえ、決してそういう扱いを好むマゾヒスト的な事ではないのです。ええ、断じて。

 優しくされたのが嬉しい、雑に扱われるのが嬉しい。その二つは一見矛盾しているかもしれないが、私にとっては同じことだ。

 そもそも彼が自発的に私のことを想って何かをするということはありえないわけで、つまりは私の帰りを待ってくれていたのもタオルを用意してくれたのも今髪を拭いてくれているのも自分の都合と義務感からくる行動なわけで。
 だけど、その義務感で仕方なしに差し伸べられる手も、その際に無感情に向けられる彼の顔も、呆れたようなため息さえ私は愛しくて──なにより、それが親切≠ネどではないと理解できる数少ない人間でいられるのは、なんとも、気分が良いものだ。

「へへ、ありがと……」
「……お前が病に倒れた後、看病することになるのは面倒だからな」
「そっかぁ」

 多分、本心からそう言ってるんだろうという事はわかった上で、私はもう一度「ありがとう」と呟いた。
 少し、彼の眉間の皺が濃くなった気がする。それもそうだろう、別に彼は感謝の言葉も私が喜ぶことも期待していたわけではなかっただろうし。

 ……あぁ、できることならば、私が嬉しい時、彼の喜びもそこにあるならこれほど幸福なこともなかったのに。

「……もう大丈夫! そんなに長いこと雨に打たれてたわけじゃないし……これくらいじゃ風邪なんかひかないよ!」

 ぐ、と胸の前で両手を握りしめ、にこりと笑って彼を見上げる。彼は特に表情を変えることなく「そうか」といって私から身体を離した。……少し、名残惜しい。

「じゃあ、私部屋に、」
「いや、その前に台所に来い──温かい飲み物を用意してある」
「………………えっ…………?」

 思わず、手にしていたタオルを落とした。

「あたっ……あたたたたかいのみもの、って、なんで」
「要らなければそれはそれで構わんが」
「いる! いる、けど……っ!」

 ──何故!? なぜ、彼はそんなことを……!?

 今までの彼の行動は理解ができる、そうする理由があるからだ、けれど、寒空の下帰ってきた私に温かな飲み物を用意しておくなんて言うのは──義務感から善良な保護者たる振る舞いをしようとしてくれているとしても──いささか過剰サービスなのでは……!?

(いや、嬉しいけども! う、嬉しいけども!!)

 一人であたふたと焦ったり喜んだり困ったりしている私を見下ろしていた彼が──ふ、と、その口角を愉快そうに歪ませる。

「私の親切≠ミとつでそこまで心を揺さぶられる様を見るのは、なかなかに愉快だな」
「な、っ、あっ……!?」

 ──なるほど、そういう、やつですか!

 この男、私が混乱するとわかって世話を焼いたわけだ! それで慌てふためく私を見て愉しむために!

「ぐ、ぐぬ……! も、もう! ありがたくいただくからね!」

 彼が笑ってくれたのは嬉しいが、揶揄われているのはやはりなんだか居心地が悪い。口元を隠すようにして笑っている彼に背を向けて、私は早速彼の用意した飲み物とやらを取りに台所へと駆け出した。

 馬鹿みたいに顔が熱くて、馬鹿みたいに心臓がうるさくて──うまく言えないけど、こんななんでもない日が、嬉しくて愛しくて大切だ。そんなことばかりが、私の頭を占めていた。
 


 ──マグカップの中身がブラックコーヒーだったのは、やっぱり、たぶん、苦いものが苦手な私への嫌がらせだったんだろう。




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