溢れたものはもう救えない
キッチンで食事の準備をするサンジさんと過ごす時間は、もうすっかり日課になっている。昼食の時間より少し早めにダイニングへ向かう足取りは、もう癖になっていた。サンジさんが淹れてくれたコーヒーを啜りながら、料理をする姿を眺める。手伝いを申し出たこともあったが、彼は頑としてさせてくれない。会話は多くはない、ただただ私がサンジさんを見ているだけ。それだけの時間だった。
この時間が、好きだ。
何も起きない、ただ音と香りだけがある。世界が、静かに回っているような気がする。
湯気の向こうで包丁の音が規則正しく響く。トン、トン、トン。波の揺れに合わせて少しだけリズムが変わるのも、もう聞き慣れた。サンジさんがキッチンに立つ時間を、当たり前みたいに隣で過ごすようになった。私は食べることを楽しめない。食事の場で笑うクルーたちを眺めるたび、胸の奥が少しだけざらりとする。でも、サンジさんが料理をしている時だけは___あのざらつきが、少しだけ和らぐ気がした。
彼の手元から生まれる音、香り、湯気の立ち方。それら全部が、まるでひとつの物語みたいに感じられる。味わえなくても、彼の"料理への想い"はちゃんと伝わってくる気がした。
サンジさんが誰かのために火を入れる瞬間、そこにある優しさや温かさを、私は確かに"感じ取れる"。
「ね、今日のお昼は何?」
「シーフードカレーだよ。ハルちゃん、今から魚を捌くから生臭いかもしれねェ……」
「大丈夫。見ててもいい?」
「っ、もちろん!」
この間、私がルフィくんと一緒に釣った魚を使ってくれるらしい。ずっとアクアリウムバーで泳いでいるところを見ていたけど、とうとう食べられてしまうみたいだ。
「あの子たちかあ。」
「そう、ハルちゃんが釣ってくれた魚。美味しく食べよう。」
「もうちょっと泳いでるところを見てたかったなー、なんて。」
「えっ、ごめん!……戻すか?」
「もう締めてるよね……?」
「あァ……すまん。」
少し冗談を言い合って、笑い合う。また釣ってくればいいよね。今度は海王類っていう大きい魚を釣ってみたいな。サンジさんに、それは水槽に入らないって顔を顰められた。
鮮やかに魚を捌く、その手元に釘付けになる。血が流れる。確かに生臭いけど、人間の物よりマシだ。あれが人間だったら、耐えられなかったかなあ、なんて。
いつもの煙草の香りに混ざって、今日は香辛料の香りが部屋に充満している。包丁を握る手に力が入るたび、捲った袖から伸びる腕に、筋が浮く。サンジさんの指は少し骨ばってて、長くて、白い。その指が、魚の身を押さえる。包丁の刃先に、光が反射して瞬いた。腕が、手が、指先が、無駄なく動く。丁寧に魚の下処理をする白い指先が、血に触れて赤く染まる。
目が逸らせない。
胸の奥がざわめいて、喉が渇く。
___ぐううぅぅぅ、きゅるるる。
綺麗だ、と思った。
その次の瞬間には、腹が鳴っていた。
「ははっ、ハルちゃん。もう腹減った?」
サンジさんが吹き出す。よっぽど可笑しかったのか、煙草を取り落としそうになっていた。恥ずかしい。そんなに笑わなくても、と肩を震わせるサンジさんをじとりと睨む。目が合うと、サンジさんは緩やかに目を見開いた。
「あれ、ハルちゃん。その眼……」
「え?」
「あの時みたいに、赫くなってる。神秘的で、綺麗な……」
___赫眼だ。
そうか、私……サンジさんを見て、"食欲"が刺激されたんだ。
ガタンッ、パリィン!
気づいた瞬間、立ち上がっていた。思いっきり立ち上がった勢いで、椅子が倒れる。手が当たり、手元にあったコーヒーカップも落としてしまった。勢いよく床に叩きつけられたカップは、大きな音を立てて無惨に割れた。
「あっ、ごめんなさ……」
「危ないから!……ハルちゃんは、触らないで?」
割れたカップを拾おうとすると、制止された。サンジさんが優しく笑って、俺が片すから、とキッチンから出てくる。近づいてきたサンジさんの"匂い"に、思わず1歩下がる。その時、視界がぐらりと歪んだ。
「っ、ハルちゃん!」
激しい目眩に襲われ、そのまま後ろに傾いた私を、サンジさんが間一髪腕を掴んで引き寄せる。
「わ、」
腕を引かれた勢いをそのままに、身体が前のめりになる。踏ん張ることもできず、サンジさんの胸にダイブしてしまった。
濃くなる匂いに、再び視界がくらりと回りそうになる。
サンジさんの胸に手をついて、距離を取ろうと思った。しかし、再び倒れないようにだと思う、サンジさんの手が腰をしっかりと支えてくれていて離れられない。思わず顔を見上げると、眉を下げて私の顔を覗き込んでいた。
「ハルちゃん、大丈夫かい?顔色が悪ィ……」
「大丈夫……」
答えた声は、震えていたと思う。
労わるように頬に添えられた手を、受け入れてしまいそうになる。
その指先は、相変わらず優しい。でも今は危険だ。触れられるほど、わたしの中の"欲"が輪郭を得てしまいそうで、怖かった。
すると、ダイニングの外から人が近づいてくる気配がした。
「ちょっと、なんの音?すごい音がしたけど……」
ナミちゃんの声だった。
頬の上で、サンジさんの指先が一瞬だけ強ばった。
その後ろから、他のクルーの匂いもする。バタバタと足音がして、ダイニングにぞろぞろと人が入ってくる。
まずい、赫眼が見られてしまう。
反射的にギュッと目を瞑った時、ふわりと煙草の香りに包まれた。サンジさんが、私の顔を隠すように、その胸に私の頭を抱え込んでくれていた。
「え……何してんの?」
「あー……いや、虫が出て。ハルちゃん、びっくりしちゃったみたいで……」
「なんだー、虫かァ。」
「虫くらいで騒ぎすぎだろ。」
ガヤガヤと声がする。咄嗟に出たサンジさんの嘘に、つまらなそうなルフィくんの声と、呆れたようなゾロさんの声。
「ふーん……虫、ねえ……?」
「あァ、悪ィな。な、ハルちゃん。もう大丈夫だ……」
サンジさんの温かい手が、安心させるようにポンポンと頭を撫でる。声が出せなかった。煙草の香りと混じって、サンジさんの匂いが肺を満たしていく。触れ合う肌から、体温を直で感じる。目の前にある胸板からは、ドクドクと心音が聴こえる。頭がクラクラしてくる。"食欲"に飲まれないように、目の前のサンジさんのシャツをギュッと握りしめて耐える。今にも理性が溶けだしそうで、息があがっていく。自分を落ち着けるために深呼吸をしたいのに、苦しくて、ハアハアと浅い息を繰り返すことしかできない。
「……ちょっと、ハルの様子変じゃない?そんなに大きい虫だったの?」
「ヘラクレスかぁ!?」
「んなわけねぇだろ!!」
ナミちゃんの心配そうな声に続いて、ルフィくん、ウソップくんの声が聞こえる。聞こえるけど、遠い。
飛びそうな理性にしがみつくように、サンジさんのシャツを握りしめる。体温も、匂いも私の"食欲"を刺激する。離れれば楽になれるのに、離れられない。
「……ちゃん。ハルちゃん。もう、誰もいないよ。」
「っ、」
「ハルちゃん、急に悪ィ。咄嗟に、……っ!」
どれくらいこうしていたのだろうか。サンジさんの声で、現実に引き戻される。
すでにダイニングからは私たち以外居なくなっていた。
彼の手は優しく、少し遊ぶように私の髪を梳いていた。まるで、子どもをあやすように。もしくは、恋人を撫でるような。優しくて甘くて、温かな手だ。指が髪の間を通る度に、鼓動が跳ねた。優しさに包まれているのに、高鳴る鼓動は不穏な音を乗せて速度を早める。優しく触れる手を感じながら、先程の料理中の光景を思い出す。少し骨ばった、長くて白い手。その指先が、血で赤く染まる。
……ゴクリ。
唾を飲み込んで、ハッとする。咄嗟にサンジさんの胸を押して距離を取った。しかし、彼の腕が背に回っていて、二人の間に少し空間ができただけだった。すぐ目の前にあるサンジさんを見上げた。私の眼は、まだ赫眼のままだろうか。食欲に耐えているうちに生理的に溢れた涙が、瞳を濡らしているのを感じる。
見上げた私の瞳を、サンジさんが息を呑んだように見つめる。
逃げ場のない距離で、濡れた赫い眼と、真っ直ぐに視線が絡んだ。
するとサンジさんは、顔を真っ赤にさせて……
「あ、」
「え。」
ツー、とサンジさんの鼻から、血が流れた。鼻血だ。途端に広がる濃い血の匂いに、ドクン、と心臓が跳ねた。"食欲"に飲み込まれる前に、今度はサンジさんの胸板を強く押した。彼がよろけて、その腕から解放される。走った。ダイニングから飛び出して、床を蹴る。
無我夢中で、とにかく人間がいない所へ逃げたかった。甲板を駆け抜け、マストを登る。潮風が顔に当たって、少しだけ冷たい。
鼓動の音が、まだ耳の奥で響いている。煙草の匂いも、血の匂いも、全部、まだ肺に残っていた。早く吐き出してしまいたくて、深く息を吐く。深呼吸を繰り返していくうちに、早鐘を打つ心臓が落ち着いていくのを感じる。"食欲"が静まっていく。手放しそうになっていた理性を取り戻す。
下の方で、サンジさんの声が聞こえる。
「ごめん……ハルちゃん。」
もう彼の隣には、戻れない。