孤独に触れる
あれから、彼女がダイニングに姿を見せることはなくなった。無理やり抱きしめてしまったことが悪かったのか。鼻血を出した俺が情けなくて、嫌いになっちまったのか。あの後、マストから降りてこない彼女を見上げていたら、チョッパーが俺の鼻血に気がついて大騒ぎになった。そのまま医務室に連れていかれ、ハルちゃんと何があったのか心配された。騒ぎを聞きつけた他のクルーは、俺の顔をみて一斉に呆れていた。
「鼻血出すなんて、まだ手を出すには早かったんじゃないの?」
そうナミさんに笑われてしまい、何も言い返せなかった。
けれどその後、状況が変わった。しばらくしてマストから降りてきた彼女が、女子部屋に引きこもるようになって、笑い話では済まなくなった。昼飯の時間になっても、夕飯の時間になっても、部屋から出てこなかった。ナミさんとロビンちゃんがどんなに声を掛けても、布団にくるまったままだったらしい。
ナミさんには殴られた。
あの時、本当は嫌がってたんじゃないの、と言われた。否定しようとしたが、言葉が出てこなかった。
上目遣いで、涙目で、息を切らして俺を見た___彼女。その瞳は、"欲"に濡れていた。あの光景が、頭から離れない。正直、理性が吹き飛びそうになった。いや、吹き飛んだから、鼻血が出たのか。
朝のキッチンに一人で立つ。彼女の存在が日常になってしまっていた。何も変わらない朝のはずなのに、冷える。彼女の為に用意したコーヒーが、香りを失っていく。
朝食の時間になっても、やはり彼女は部屋から出てこなかった。いつも賑やかなはずの朝食も、少し空気が重たい。立ちのぼるスープの湯気が、ダイニングの冷たい空気に溶けていく。
「なぁ、ハル……どんな様子だ?」
重たい空気の中、チョッパーが口を開く。彼女の名前に、ビクリと肩が揺れてしまう。
「全然だめ。話しかけても答えてくれないし。顔も見せてくれないの。」
「私からも声をかけたんだけど、だめね。」
ナミさんもロビンちゃんも、どんなに話しかけても取り合って貰えないと嘆いている。会話を聞きながら、煙草に火をつける。焦げた煙が、いつもより重たく肺に溜まっていく。
「おれ、診にいってもいいか?」
「もちろん。チョッパーなら、何か話してくれるかも。」
「……!おれ、行ってくる!!」
頼られたのが嬉しかったのか、チョッパーは手に持っていたサンドイッチの残りを一口で口に運ぶと、椅子を飛び降りた。元気な声がダイニングに響き、少し空気が和らいだ気がした。
そのままダイニングを飛び出して行きそうなチョッパーを、引き止める。
「チョッパー、待て。」
「なんだよ、サンジ。」
「……コーヒー、淹れるから。持ってけ。」
「……!おう!!」
丁寧にコーヒーを淹れて、チョッパーに渡す。
香りが立ち上がる。香ばしい香りに包まれ、彼女の不在を虚しく実感する。
「ホラ、零すなよ。」
「うん。ハル、サンジのコーヒー大好きだもんな!!ありがとう!!」
ダイニングを飛び出て女子部屋に向かう背中を視線だけで追う。
パタパタと離れていく足音と共に、コーヒーの香りが遠ざかっていく。胸の奥がジリジリと焦げていく気がした。火をつけたばかりの煙草を灰皿に押し潰し、小さく息を吐く。
「……クソッタレ。」
掠れた声が、朝の空気に溶けた。
静まり返った部屋に、コンコン、と小さなノックの音が響いた。この匂いは、コーヒーと……
「チョッパーくん?」
「おう、よくわかったな!」
ナミちゃんもロビンさんも一緒ではないらしい。2人の匂いがしない。
「入って、いいか?」
「うん。チョッパーくんだけなら、いいよ。」
ガチャリ、と扉が開く。部屋がコーヒーの香りで満たされていく。布団の中で息を詰めていた私の胸まで、温かく染める。布団からゆっくり這い出て、チョッパーくんと目が合う。静寂の中に響く小さな足音が、近づいてくる。
「これ、サンジが淹れてくれたんだ。」
「サンジさんが……?ありがとう、チョッパーくん。」
急いで持ってきてくれたのか、ソーサーに少しコーヒーが零れている。こぼさないように、ゆっくりカップを持ち上げて、香りを肺いっぱいに吸い込む。サンジさんがいつも淹れてくれるコーヒーの香りだ。
「ハル、」
「うん。」
「体調、悪ィのか?おれじゃ、治せねェのか?」
チョッパーくんは、泣きそうな顔で私を見る。心底心配してくれている顔だ。その表情に、私も思わず息を詰めた。
「ううん。チョッパーくん、違うの。心配かけてごめんね。」
「でも、ハル。昨日からメシも食ってない……」
「ごめんね。"ご飯"は、食べたくないの。」
ごめんね、と繰り返すたびに彼は俯いていく。コーヒーをサイドテーブルに置いて、チョッパーくんに手を伸ばした。フワフワとした毛の感触が、指先に伝わる。チョッパーくんの頭を優しく撫でる、いつもサンジさんが私にしてくれるみたいに。
「ね、またここに来てお話ししてくれる?」
「おう!いいのか!?」
「もちろん。」
チョッパーくんの表情がパッと明るくなる。そして、私の手を取って真剣な表情に戻る。小さな手で私の手を取る力強さに、頼もしさと温かさを同時に感じた。
「ハル、診察だけでもさせてくれないか?おれは、ハルの主治医だから。」
「……わかった。」
身体はこんなに小さくて、可愛らしいのに、頼もしい。了承すると、嬉しそうに私の手を引いた。
「よし……!そしたら、医務室に行くぞ!」
「え、医務室?」
「そうだぞ!あそこでしっかり診察するぞ!」
正直、医務室には行きたくなかった。だって、医務室はダイニングのすぐ横だから。そしてダイニングにあるキッチンには、サンジさんがいるはずだから。
でもチョッパーくんの勢いは止まらず、迷っている隙にグングンと手を引いて進んでしまう。
「あ、待ってチョッパーくん……!」
幸い、医務室までの道中で他のクルーと会うことはなかった。でも、医務室に着くと、扉ひとつ隔てた向こう側に人間の気配を感じる。その中にサンジさんの匂いもある。
「診察するぞ!」
チョッパーくんは気合い十分で、問診からバイタルチェック、視診に聴診と納得いくまでとことん診察してもらった。そして、もう完治したはずのお腹の診察までしてくれた。小さな手が、お腹に触れる。蹄がひんやりしていて、少し擽ったい。
「傷痕すら、全く残ってねェな。」
「……そうだね。」
「女の子だから、傷痕が残っちまうのは可哀想だと思ってたけど……」
「ありがとう。チョッパーくんの、おかげだね。」
「おれの……」
さすがに人間離れしすぎている再生能力に、何か気づいてしまったのか。私のお腹を見つめながら、難しい顔をするチョッパーくんに、ドキドキと緊張が高まっていく。
「……あの、チョッパーくん、」
「そんなに褒められても、嬉しくねェぞぉ!コノヤロー!」
「ふふっ」
急に嬉しそうにクネクネと動きだすチョッパーくんに、緊張で硬くなっていた肩の力が、ほんの少し抜けるのを感じた。なにそれ、可愛すぎる。私が笑ったのを見て、更に嬉しそうにスイ、スイと踊っている。本当に勘弁してほしい、私の緊張を返して。
しばらく笑い合っていると、チョッパーくんは真剣な表情に戻った。
「なあハル、このままダイニングにいかないか?みんな会いたがってるぞ!」
「ごめん。それは、できない。」
「でも、ナミも、ロビンも心配してて……サンジだって、」
「ごめんね。」
必死に訴えるチョッパーくんを置いて、椅子から立ち上がる。引き止める声を背に、医務室を出た。
ダイニングから扉を隔ててすぐ隣にある医務室から、ケラケラと笑い声が聞こえてくる。ハルちゃんと、チョッパーの声だ。良かった、笑っている。胸の奥が少し軽くなる。
安心したのもつかの間、少し静かになったと思ったら、今にも泣きそうな顔のチョッパーが一人でダイニングへ戻ってきた。
「チョッパー……。」
「ハル、謝ってばっかりで何も話してくれなかった。」
「ありがとう、チョッパー。部屋からは連れ出してくれたのね。」
「私たちじゃ、話もできなかったから。」
ナミさんとロビンちゃんが声をかける。情けねェ顔のチョッパーの元に、砂糖たっぷりのミルクを置いた。
「悪ィな、チョッパー。」
「なあサンジ、何があったんだ……?」
「……わからねェ。」
チョッパーの純粋な瞳に、何も返せない。そこに、胸糞悪ィ声が乱入してくる。
「わからねェも何もねェだろ。」
「あァ!?」
「そこのエロコックが、無理矢理抱いたんだろ。」
「だ、抱い……!?何言いやがるクソマリモ!!!」
とんでもないことを言い出しやがったクソ野郎に、迷わず蹴りを繰り出したが、刀で呆気なく止められる。そこへチョッパーが近づいてきて、俺の服の裾を引く。
「サンジ。ハルに、無理矢理嫌なことしたのか?」
「い、いや……違ェんだ、チョッパー。」
「ハグ、の事よね?ゾロ。チョッパーの前でいかがわしい言い方しないで。」
「いかがわしいのか!?」
「いかがわしくねェ!!!」
静かに怒るロビンちゃんに、純粋な瞳のまま勘違いをするチョッパー。収拾がつかねェ。
「あの時のお前ら、仲良さそうだったもんなー。」
「ちょっとルフィ、余計な事言わないの!」
「いってェ!!」
「ゾロも、変な言い方して煽らない!」
「いってェ!!」
さらに脳天気な船長とアホの剣士が、ナミさんに殴られる。いい気味だ、と頬が緩む。すると、ナミさんがこちらにも近づいてくる。怒った顔も、可愛いな。
ゴツン!
「サンジくんも、きっかけはあなたなんだから。どうしたらいいのか考えるの!」
「いってェ!!」
ナミさんに思いっきり殴られる。考えるったって、あの日は彼女の様子がおかしかった。あの時の、蒸気した頬、濡れた瞳、浅く繰り返される呼吸___彼女を思い出し、鼻の奥がツンと熱くなった。
「あ、鼻血。」
「ほんとだ。」
「い、医者ァーーー!」
「お前だよ!!!」
医務室から出て、逃げるようにまたマストを登ってきてしまった。潮風が少し冷たくて、気持ち良い。外にいる方が、色んな匂いが紛れて、マシになる。どこまでも続く水平線に、救いを求めたくなる。
しばらくそうしていると、下の方が騒がしくなる。危ないだの降りてこいだの、騒いでいるようだった。喰種だから、万が一落ちても死なないのに。
「なあ、何してんだ?」
「ル、ルフィくん……!?」
突然現れたルフィくんに、バランスを崩しそうになる。誰もここまでは来ないと思っていたが、ゴム人間のルフィくんは、その身体の特徴を活かして飛んできたらしい。
「大丈夫だよ。私、ちょっとやそっとじゃ死なないから。」
「そうなのか?」
「うん。みんなにそう言っておいてくれる?」
「おう!」
そのままルフィくんは、ストンと甲板まで降りた。あいつ頑丈だから大丈夫だってよ!と言うルフィくんの明るい声が響く。それに続いて、そういう問題じゃないの!とナミちゃんの怒鳴り声とゲンコツの音とルフィくんの悲鳴が同時に聞こえた。
その時、ふわりと花の香りが鼻を掠めた。ロビンさんの香りだ。能力で、様子を見にきていたのだろうか。その香りが、潮の匂いに混ざって消えかけたところで、声をかける。
「ねえ、ロビンさん。そこで聞いてるんでしょ。」
「……ええ。」
声をかけると、その場にフワフワと花のようにロビンさんが現れた。申し訳無さそうに、私を見つめている。
「お話しできる?二人きりで……」
「ええ、もちろん。」
船員たちが寝静まる中、広いアクアリウムバーには私とロビンさんの二人きり。生簀の魚は、緊張感もなく悠々と泳いでいる。きっと明日にでも食べられてしまうかもしれないというのに。
「ハル。」
「来てくれてありがとう、ロビンさん。」
「あなたのためだもの。」
ロビンさんの落ち着いた声が、心地よく響く。優しく微笑んでくれている。その少し下がった目尻に、安心してしまう。彼女なら、理解してくれるかもしれない。
「ロビンさん。ずっと言えていなかったことがあるの。」
「ええ。」
「落ち着いて、聞いてほしい。」
「内容にもよるけど……わかったわ。」
実際のところ、ロビンさんが落ち着いていないところなど見た事はないのだけど、どうしても予防線を張ってしまう。その気持ちを察してくれたのか、彼女は顎に手を当てて、目を細めた。
二人の間に落ちた沈黙が、話題を急かす様だった。
少し息を整えて、口を開く。
「―――私、人間じゃないの。」
「……そう。」
ロビンさんは、僅かに目を見開いただけで、変わらない声色で相槌を打った。
ふう、と息を吐き目を瞑る。身体の細胞がぞわりと動く。眼の奥に力が宿るのを感じながら、意を決して、瞼を開く。
赫眼で、ロビンさんを瞳の中に捕らえる。ロビンさんの瞳は、静かにまっすぐこちらを見ている。
「この眼を、見たことは?」
「ないわね。」
「赫い眼の、化け物の話を聞いた事は?」
「……ないわね。」
ロビンさんの声色には、恐れも嫌悪もなかった。少し思案してから返された、その答えを聞いて、安堵すると共に、絶望感が押し寄せてくる。
やはり"いない"んだ。
「私には、眼が赫いだけの人間、に見えるわ。」
「私は、"喰種"っていう化け物なの。こうして、眼が赫くなって、身体から攻撃する器官が出る。」
ゆるく首を傾げるロビンさんに、赫眼と赫子を見せる。肩甲骨のあたりから、ゾワゾワと赫子を広げた。その姿は、喰種そのものだった。サンジさんに見られた時と、同じ。化け物の姿だった。
「あら……綺麗ね。」
「私、人間じゃない。元の世界では恐れられて、駆逐対象になっていた化け物なの。」
「……酷いわね。」
その声が、静かなアクアリウムバーに海底のように深く響いた。酷いのは、人間じゃない。喰種の"食性"だ。喰種の姿を見せても、尚も変わらないロビンさんの表情に、本当に喰種を知らないのだと痛感する。
薄々感じていたこの船での違和感は、確信に変わる。
サンジさんも喰種を知らなかった。そして、博識なロビンさんも喰種を知らない。
この世界で、赫眼を持つのは私だけ。喰種は、私だけだ。
どこまでも広い海の上で、たった一人の化け物になってしまった。
あまりにも残酷な現実に、言葉を失ってしまう。
「まだ……あるわよね?」
ロビンさんは、探るように私を見つめる。鋭さはない、まっすぐな声。
赫いままの瞳の奥が、熱かった。
「全部知ったら……私のこと、きっと恐くなって、気持ち悪がって、軽蔑するよ。」
「勝手に決めないで。」
「……嫌われたくない。」
喉の奥でかすれるように言葉が漏れた。瞬きと共に、堪えていたものが瞳からこぼれ落ちる。
「私たちは絶対に、あなたを拒絶することも、陥れることもないわ。」
「……信じたい。でも、怖いよ。」
「……私、8歳の時に"悪魔の子"と呼ばれて賞金首になったの。そこからは、世界中が敵だった。世界中から追われて、隠れて、生き延びることしか考えられなかった。私の存在そのものが罪だと、誰かに言われるたびに、心が擦り切れていったわ。」
「存在が、罪……」
「ええ。でも、あなたにはその痛みを一人で抱えてほしくないの。」
酷く優しい声。安心させるように優しく語りかけるロビンさんの声は、温かくて、でも少しだけ震えていた。
私たち喰種が、何度も言われてきた言葉。ロビンさんも同じ思いをして生きてきたのか。
「……ロビンさんは、1人でっ、戦ったの?」
「ええ、たくさん裏切ったし、裏切られたわ。でも、今はもう"仲間"がいる。」
「仲間、」
「そんな生い立ちの私が、ようやく信じられると思った人たちなの。あなたの事も、必ず信じてくれる。少なくとも私は、あなたを信じているわ。」
「ロビンさん……」
「あなたが何者でも、ここにいる限り、あなたは"あなた"よ。喰種でも、化け物でもないわ。」
涙が止まらなかった。
その言葉が、静かに心に染みていく。でも、拒絶される恐怖は、簡単には拭いきれない。
"喰種"であることを知ったら、みんなは、サンジさんは、あの優しい笑顔のままでいてくれるだろうか。嫌われたくない。傷つけたくない。
それでも、彼らを信じたいと思えてしまった。
「ロビンさん、ありがとう。」
「いいのよ。少し眠りなさい。夜明けが来たら、きっと風も優しくなるわ。」
ロビンさんはそう言って立ち上がり、髪を耳にかけた。
花の香りがふわりと漂う。扉が静かに閉まる音だけが、広いアクアリウムバーに残る。
ロビンさんと別れ、夜の甲板へ出た。波がゆっくりと船を撫でる音が響いている。昼間は青く輝いている海も、真夜中には飲み込まれてしまいそうな黒に姿を変えていた。
同じ黒が続く空に、取り残された様にぽつんと浮かぶ月。孤独を煽る様に佇む月を見上げていると、コツコツと足音が近づく。血肉の乗らない、少し軽い靴音。
「おや、こんな時間に。眠れませんか?」
「ブルックさん。」
そこには予想通り、ブルックさんがいた。骨だけの、喰種の食欲を刺激する恐れのない人間。ある意味、安心して傍にいられる人だった。
「ハルさん……」
「……はい。」
「パンツ、見せて貰ってもよろしいですか?」
「ふふ、それはごめんなさい。」
「ヨホホ、残念です。」
いつもの紳士的な口調でのセクハラだった。何も変わらないブルックさんの調子に、肩の力が抜ける。
「夜の海は静かですからね。考え事には、うってつけです。」
「……考えても、考えても、答えが出ないんです。」
少し笑って、私のすぐ横に腰を据える。ブルックさんは、この船の中では年長者でもあり、落ち着いた言動に大人の余裕があった。彼の経歴を思い起こす、暗い海で何十年も一人で過ごしていたという。
「ねえ、ブルックさん。孤独って……辛いですか?」
「ええ、それはもう。……死んでしまいたいくらいに。まあ私、死んでるんですけど!」
「なぜ、死ななかったんですか?」
「それは、"仲間"との約束がありましたから。」
「仲間……」
「ええ。長い間、一人で海を彷徨いました。何百回も、心が折れそうになりました。でもね、約束があった。仲間が、私を信じて託してくれたモノがあるんです。」
風が強く吹いた。髪が頬を叩く。普段はふざけてばかりの、ブルックさんの強い思いが、風に乗っているようだった。
「ハルさん。よろしければ、一曲弾いてもよろしいですか?」
「え……?」
突然バイオリンを構えたブルックさんが、軽やかなメロディを奏でる。優しくて、落ち着く音。
弦が震わす空気が、肌に心地よく刺さる。骨の隙間まで満たされていくようで、思わず目を閉じた。
ブルックさんが弓を引いて、音楽が途切れた。
「ハルさん。あなたの事は、私たちが孤独にはさせません。」
「私の全てを知っても……?」
「ヨホホ。では、もう一度約束しましょうか。ハルさんが自分を嫌いになりそうな夜は、この曲を思い出してください。」
表情筋は無いはずなのに、ブルックさんはにっこりと笑った気がした。その空洞の瞳には、夜の海とは違って温かい光が宿っていた。