00.月満つれば則ち虧く
(えーっと、あと何するんやったっけ……アカン、なんかめっちゃ眠い……)仕事を終え、晩御飯を作り終えたリュイは、食卓に並べた皿の上にフードカバーを被せ、大きな欠伸をした。
(なんや今日はえらい疲れたなぁ……今朝はあの変な紫頭に絡まれるし、診療所も忙しかったし……いやでも、これくらいで音上げてたらアカン。しっかりせな)
頬を叩いて眠気に抗いつつ、浴室の掃除がまだだった事を思い出して、のそのそとそちらへ移動する。
肉体的疲労もそうだが、より厄介なのが慢性的な頭痛だった。
キョグエンに居た頃の仕事は、拘束時間はともかく、その内容はさほど難しいものでは無かった。
煌びやかな服を着て、客のご機嫌を取り、心身共に気持ちよくさせてやるだけ。
誇れる仕事ではなくとも、リュイとしては楽な仕事ではあった。
だが診療所で働いている今は違う。
まず覚えるべきことが山のようにある。そして当然ながら、責任の重さも違う。
バースはそれほど気負わなくていいと言ってくれているが、少しでも早く仕事を覚えて、役に立てるようになりたかった。だがお粗末な脳は思うように働いてくれない。
故に家に帰ってからも、睡眠時間を削って勉強に励んでいるのだが。この疲労感はそのツケだろうか。
(頭弱いんやったら、せめて体力くらいあって欲しいわ……ドクターもユージーンも、俺よりずっと難しい仕事して、俺よりずっと忙しくしてんのに……なんで俺の方が疲れとんねん。情けな……)
洗剤とスポンジを手に、空の浴槽の中に入ったリュイは、医学用語をブツブツと暗唱しながら掃除を始めた。
だが単調な作業は余計に眠気を誘い、シャワーで泡を流している最中にとうとう意識が飛んでしまった。
暫くして帰ってきたユージーンは、流れっぱなしになっているシャワーの音を聞いて、浴室の扉を開けた。
そして、そこに倒れているリュイを見て仰天。
「おい、しっかりしろ! 大丈夫か!?」
「ん…………あれ、ユージーン……?」
肩を揺さぶるとすぐに返事があって、ユージーンは一先ずホッとした。
リュイはむくりと起き上がって、ぱちぱちと目を瞬かせる。
「あれ……俺こんなとこで何してんの……? 何してたんやっけ……?」
「状況を見る限り、風呂掃除の最中だったんじゃないか?」
「風呂掃除……ああ、そうそう。せやったわ……けどなんでユージーンがおるん? まだ帰ってくる時間とちゃうやろ?」
「? いや、定時で帰ってきたが」
「…………え?」
それを聞いた瞬間、ぼんやりとしていたリュイは覚醒し、風呂を出て時計を確認。
「ウソやろ、待って、いつの間にこんな時間経って……ごめんユージーン、風呂すぐ沸かすから、先ご飯食べとって」
「いや、風呂の方は後で俺がやろう。お前はとにかく休め。風呂場で倒れるほど疲れているんだろう」
「嫌や!!」
シャワーの栓を占めたユージーンは、浴室に戻ってきたリュイのその声に目を丸くした。
リュイは何やら悲痛な顔で、ユージーンを押し退けて風呂を沸かし始める。
「何をそんなにムキになっているんだ」
「だってこれ俺の仕事やもん。ユージーンこそ今帰ってきたばっかりなんやから、休んどってよ」
「俺は今日はまだ余力がある。お前は今朝から調子が悪かっただろう」
「そんなことあらへん。大丈夫やって」
「倒れていたのに大丈夫なわけがあるか」
「ちょっと転寝しとっただけやもん。ええからほら、戻って戻って」
ぐいぐいと背を押してリビングに戻そうとしてくるリュイに、その強情さの所以が分からないユージーンは溜息。
そして、一人浴室に戻ろうとするリュイの足を掬って、横向きに抱える。
何だ何だと慌てふためくリュイを連れて、ユージーンが向かった先は寝室。
そこにあるベッドに降ろされたリュイは、「今日はもう寝ろ」と態度で示すユージーンに抗議する。
「せやから大丈夫やって! まだやること山ほどあんねん。寝とる場合やない」
「そうやっていつもまともに寝ていないんだろう? 仕事はともかく、疲れている時は家事くらい俺に任せて休め」
「そんなんしたら、俺ここに居てる意味無くなってまうやん!」
「は? 何を言っているんだ」
「だってそうやろ? 役に立てへんかったら、俺みたいなんと同居するメリットなんもあらへんやん。せっかく優しい人に拾て貰たのに、やっと人並みの生活出来るようになったのに……嫌や。役立たずになりたない……」
思い詰めた顔で、消え入りそうな声で、俯きがちに語るリュイに、ユージーンは絶句していた。
「……これまでずっと、そんな風に思いながら過ごしていたのか?」
「……だって実際そうやん。メリット無いやん。ユージーンは優しいから、損得なんか気にしてへんかも知らんけど……俺は気になんねん。いつ飽きて捨てられるんやろって考えてまうねん。自分に付加価値付けんと居てられへん」
「捨て…………リュイ、そもそもお前は俺の所有物では無いだろう。俺とお前は共同生活を送る対等なパートナーだ。俺はずっとそう思っていたが……」
「対等なわけ無いやん。ユージーンはガジュマで、皆に慕われて好かれとって、色んな人に必要とされとる。ドクターかてそうや。せやけど俺は、慈悲でここに居らせて貰っとるだけのハーフやもん。せやからせめて釣り合い取れるように色々頑張っとるんやんか。それ奪われたらいよいよホンマに要らん子になってまう……」
ユージーンはそれを聞きながら、リュイの隣に座った。
そんなわけが無いだろう、と言いたいが、恐らくそれだけでは彼は納得出来ないのだろうと思い、代わりの言葉を選ぶ。
「お前はメリットが無いと言ったが、俺にとってメリットはあるぞ。家事をやってくれるというのはその一つではあるが、それよりもっと有難いと思っている事がある。何か分かるか?」
「……知らん。わからん。何?」
「家に帰って来た時に、おかえりと言って出迎えてくれる人が居ることだ。お前が来てから、俺は寂しさを感じることが無くなった。仕事で疲れた時も、帰ってきてお前の顔を見ると、それだけで癒されるんだ。どれも以前の俺には無かったもので、お前が居なければ得られなかったものだ。……家事なら俺一人でも出来るが、お前の代わりは他に居ない。俺にとってどちらが大事か、お前にどちらを大切にして欲しいと思っているか、これで伝わらないか?」
「…………つまり俺って、ユージーンにとってはペットみたいなもんなん?」
「いや、ペットとは違うが…………逆にお前は俺をどんな風に思っているんだ?」
「どんなって…………ご主人様?」
「ご主人様!? それこそペットと飼い主じゃないのか!?」
「いやちゃうねん。ちゃうけど……ああでも、違わんかも。なんかそういう……とにかく俺は、ユージーンにこの家に置いて貰っとる身分やん。対等やないよ」
結局その結論に戻ってしまい、ユージーンは項垂れた。
だがリュイのこの価値観は何とかしないといけないと、めげずに話を続ける。
「お前はお前の好きにしていいんだぞ。俺との生活が嫌になったら出ていっても構わないし、ここに居たいと思ってくれているのなら、そうしてくれればいい。居続ける為に無理をする必要は無いし、家事が出来なくなったとしても、出て行く必要など無い」
「それやと俺が納得出来ひんねん。休ませるんやったら、せめて何か代わりの要求してや」
「そう言われてもな……ゆっくり休んでくれ≠ニしか……」
「そんなんは要求になっとらん。なんかもっと奉仕出来る内容にしてや」
「そもそも俺は奉仕して欲しいとも思っていないんだが……」
「ユージーンは欲無さすぎや。有りすぎる奴も嫌やけど、なんかちょっとくらい我儘言うてや」
うーむ、と考え込むユージーンの答えを、リュイはベッドに寝転びながら待っていたのだが。
ユージーンが食べたいもののリクエストでもしようかと口を開く頃には、リュイは寝落ちてしまっていた。
ユージーンはそれを微笑ましげに眺めつつ、掛け布団をリュイの肩まで掛けて、ポンポンと優しく叩く。
(……欲が無い、か。そういう風に見えているのか、俺は)
確かにリュイを連れてきた当初は、保護以外の目的も感情も無かったのだが。
あれから数ヶ月が経った今、心境の変化が全く無いかと問われれば、そうでは無い。
「……リュイ、俺はお前が幸せになってくれればそれでいい。だが本当に俺の我儘を許してくれるのなら……このまま此処でずっと……」
ユージーンはそう呟いて、しかし最後までは言い切らずに頭を振った。
いつもより早くに寝たせいで、いつもより早くに目が覚めてしまったリュイは、うんと伸びをしながら体を起こした。
ちらと隣のベッドに視線を送ると、眠っているユージーンが暗がりの中に見えた。
足音を殺してリビングを覗きに行くと、食べ損ねた夕食がリュイの分だけ残されており、ユージーンの分は食器ごと綺麗に片付けられていた。
(結局全部やらせてもうた……最悪や。家政夫失格)
朝ご飯兼用という事にして自分の分を食べたリュイは、頭の中で自分に対する罵詈雑言を並べ立てて己に反省を促したが、以前よりもその効果は薄くなっていた。
ユージーンに言われた言葉のせいで、自分の中にあったトゲが丸くなってしまっている。
あんな優しい言葉に甘えていてはいけないのに。彼の言葉を鵜呑みにして、自惚れるようなことがあってはいけないのに。
(……勘弁してや。なぁ、ただでさえ我慢しとるんやで)
優しくて強くて、格好良くて、ありのままの自分を受け入れてくれるヒト。目一杯の愛情をくれるヒト。
ヒトとして扱って貰うことすら出来ていなかったハーフの孤児が、そんな相手と一つ屋根の下で暮らしていればどうなるか。
(絶対好きになったらアカンねん。ご主人様と召使い以上の関係になんかなられへんねんから。絶対好きになったりしたらあかん…………)
いつかきっと、ユージーンに相応しい人があらわれて、この生活が終わる時が来る。
その時に、未練がましく彼にしがみつくようなことがあってはならない。祝福出来ないようなことになってはならない。
(せやからもう、これ以上優しくせんとってや……お願いやから……)
トクン、トクンと僅かに高鳴っている心臓を深呼吸で沈めて、リュイは気持ちを逸らす為に皿洗いに集中した。