01.握れば拳、開けば掌

バシャ、と何かが顔にかかった感触がして、レフォードは瞼を上げた。
何故か水浸しになっている顔に、濡れた前髪が張り付いている。

その隙間から、まず視界に映ったのは石造りの天井。
それから、呆れ顔でこちらを見下ろすロミーの姿。

「ようやく起きたわね、このおマヌケさん」

フォレストの一撃で軽い脳震盪を起こし、気絶してその場に横たえられていたレフォードは、水に濡れたバケツで顔面を叩かれて起き上がる。

「痛っ! 何をする!?」

「任務の最中に居眠りするほど眠いみたいだから、眠気を覚ましてあげてるのよ。――それで、この状況は一体どういう事なのかしら? どうして牢が空になっているの?」

「え――――」

レフォードはロミーのその言葉と、無人の牢を見て、サッと血の気を引かせた。
意識が途切れる前に起こったことを全て思い出して、慌てて立ち上がる。

「そうだ、あの連中……! フェルンで捕らえたリカンツの息子が、仲間を引き連れて乗り込んで来たんだ! それで……」

「それで? 貴方は無様にやられて、侵入者を取り逃がすばかりでなく、捕らえていたリカンツ達の脱走すら防げなかったって言うの?」

信じられない、と嘆かわしく言うロミーに、レフォードはぐっと歯を食いしばってその罵りに耐えるしかなかった。

今回の事は完全に自分の失態だ。特に、怒りに任せて槍を振り回し、フォレストの拘束を解いてしまったのが一番酷い。
あれさえ無ければ、フォレストを人質にカイウス達を退かせることも出来たかもしれないのに。

「この埋め合わせはする。逃げたリカンツ共は、必ず僕が捕まえる」

「そう。なら頑張ってね。期待はしないでおくけど」

「…………。ところで、ルキウスはどうした?」

「ルキウスなら、貴方を負かしたその侵入者一行を追っているわ。でも厄介なことに、街に逃げたせいで黒騎士団の連中まで首を突っ込んできたの。先を越されたら、ペイシェントが騎士団の手に渡ってしまう。そうなると厄介よ。私達が先に捕まえないと……」

「なら、脱走したリカンツ共を追うより、そちらの捕縛を優先すべきだな。……何れにせよ、この借りは返させてもらう」

そうしなければ、腹の虫が収まらない。
レフォードは数々の屈辱を思い出しながら転がっている槍を回収し、階段を踏み鳴らして地上へと向かった。






一方。僧兵と騎士の両方に追われる事になったカイウス達は、夜の街の中を疾走していた。
動きを読まれていたのか、教会を出てすぐに待ち構えていたアルバート――黒騎士団の団長と交戦する羽目になったが、何とか躱して今は出口へと向かっている。

「あの高慢ちきな異端審問官と言い、さっきの騎士団長と言い、立派なのは肩書きだけで、大したことは無いな。まあ、こちらとしてはその方が助かるが」

「油断しちゃ駄目よ。さっきのアルバートは、恐らく本気を出してはいなかった……あの若さで騎士団長にまで上り詰めたのは、それなりの実力があったからだもの」

「ふーん。じゃあ、あの異端審問官も、本当は強いのか? フォレストさんに手も足も出てなかったけど」

カイウスの言葉で思い出したのか、ティルキスが吹き出して笑った。
敵とは言え皆にここまで虚仮にされているレフォードに若干同情しつつ、フォレストが答える。

「あれは相手のミスがあったおかけだ。黒の森での立ち回りを見るに、決して弱いというわけでは無いだろう」

「そうね。さっきの醜態を見た後じゃ、侮られても仕方ないでしょうけど……彼も、ああ見えて凄いのよ」

「すごいって……何がどうすごいの?」

「レフォードはロミー達と違ってプリセプツが使えないの。本来、異端審問官はプリセプツを扱う能力に秀でた者だけが就ける役職なのよ。そんな中、レフォードが抜擢されたのは異例の事だったわ。当時はその話題で持ち切りだったから、教会内では結構な有名人なのよ」

「へぇ? そうまでして異端審問官に据えるほど、あいつは優秀な人材だってことか。……まさか顔で選ばれたとかじゃないだろうな?」

「そういう噂が流れたこともあったわね。でも彼の活躍ぶりを直に見て、皆が納得したわ。強さもだけど、何より彼が評価されたのは、レイモーンの民への異常なまでの敵対心……リカンツ狩りへの熱意だろうってね。実力はともかく、これまでに挙げた功績だけなら、ロミーやルキウスをも上回るわ」

「功績って……要はレイモーンの民を傷つけた数って事だろ!? そんな事で評価されてるのかよ!!」

「そんなのおかしいわ……絶対に間違ってる……!」

激昂するカイウスと悲しげに言うルビアに、現状を憂いているアーリアも「そうね」と同意する。

「あの男はどうしてそれ程までにレイモーンの民を憎んでいるんだ?」

「それは……」

「ちょっと待った。皆、あれを見ろ」

ティルキスに言われて、皆は揃って同じ方を向いた。
この街に来た時には確かに開いていた筈の巨大な門が、今は固く閉ざされている。

「アーリアの言う通り、さっきはわざと見逃されたみたいだな。俺達は袋の鼠ってわけか」

「ですがこれなら、私とラムラス殿で何とか出来るかもしれません。ラムラス殿、その体には堪えるかもしれませんが……」

「力業で押し通るのだな。わかった、やってみよう」

ラムラスとフォレストは共に獣人化して、分厚い扉に体当たりを始めた。
カイウス達はその間、追いついて来た兵士達の相手をする。

首都の正門なだけあって、頑丈な造りをしたそれを破壊するのにはそれなりの時間を要した。
追い詰められて急かすティルキスの言葉にあと少しだと返しながら、フォレストはラムラスと呼吸を合わせて、門に拳を叩き付ける。

耐久限界に達した門は派手な音と共に大きく歪んで、その機能を失った。
フォレストは開いた隙間に手を差し入れて、そこから強引にこじ開ける。

「ティルキス様!」

「よくやった! 皆、逃げるぞ!」

防衛戦で消耗したティルキス達は、力を振り絞って近くの敵を蹴散らすと、フォレスト達の開いてくれた道を通って門の反対側へ。

ここまで来れば、後は追っ手を振り切るまでひたすら走るだけだ。黒の森にでも逃げ込めば、撒くことはそう難しくない。

だが、希望が見えて浮ついた皆の心は、街と外とを繋ぐ橋の先に並んでいる騎士達の姿を見て再び沈んだ。

更には、後ろから癇に障るアルバートの高笑いまで聞こえてきて、ティルキスは思わず舌打ち。

「あの門を壊すのは骨が折れただろう。努力が無駄に終わって残念だったな」

「……なあ、最初にあいつと会った時から思っていたんだが」

「どうしました?」

「あいつは俺の嫌いなタイプだ」

「そうでしょうね」

「そんなこと言ってる場合じゃないわ、お兄様! どうするの!?」

「そうだな……あの顔面を思い切り殴りつけてやりたいところだが、流石に分が悪いか……」

「私に考えがあります。――カイウスにルビア、お前達は泳げるか?」

フォレストはそう問うたが、二人が答えるより先に言い直す。

「いや、泳ぎが苦手であったとしても今覚えてくれ。――いいか、私が合図したら、全員橋から飛び降りるんだ」

簡単な事のように言ったフォレストの提案を、すんなりと承諾したのはティルキスとラムラスだけだった。

橋の高さは目算でも3、40メートルほどはある。下に川が流れているとは言え、姿勢によっては着水時の衝撃で死んでもおかしくはない。しかも、川の流れは穏やかとは言えない。

「ほ、本気なの!? 泳げるかどうかの問題じゃ無いんじゃ……!」

「でも、それしか逃れる方法が無いのなら、やるしかないわ……!」

「す、水面までどのくらいあるんだ!?」

「そんな事気にするな! いいか、行くぞ……!」

仲間内で交わされたその会話の内容はアルバートには聞こえなかった。
何か企んでいるのかと怪しんだ彼が一歩踏み出すと同時に、フォレストが叫ぶ。

「今だ!」

「ひえ〜っ!」

ルビアの悲鳴と共に、一行は四散して橋から身を投げた。
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