00.Beginning
「今日は休んでいいけど、明日は来いよ。分かってると思うけど、逃げてもお前が辛くなるだけだからな?」家代わりに使っているホテルに運び込まれ、ベッドに放り出されたシユウは、何食わぬ顔で言って出て行くマスターを目だけで追った。
声が出ない。手も足も全く動かせない。出来るのは、こうして目を動かすことぐらい。
暫くは死体のように寝そべっていたが、やがて猛烈な吐き気に襲われて、無理矢理体を起こしてトイレに駆け込んだ。
苦しい。胃の中が空になるまで吐いても、気持ち悪さが無くならない。
小一時間ほど便器を抱えて蹲り、吐き気が治まると近くの洗面台で口を濯ぎ、ついでに顔も洗った。
それが終わると、壁を支えにしながら、鉛のように重い体を引き摺って外に出る。
ホテルのエントランスまでの短い廊下が、随分と長く感じた。
あちこちの部屋から嬌声が聞こえる。トイレには、自分と同じように吐いている人が何人も居る。
その光景は、シユウに「ウォール・マーケットでは、これが普通のことだ」と教えているようだった。
ここに居る皆にとっては、自分が受けた仕打ちも、ありふれた日常の一頁でしかない。
「……狂ってるな…………」
もうすっかりこの場所に馴染んだと思っていたが、とんでもない。
だがこのまま此処に居れば、きっと自分もおかしくなってしまうのだろう。
シユウはホテルを出て、そのままウォール・マーケットからも抜け出した。
マスターの言っていた通り、依存性の高い薬を飲まされたのなら、逃げたところで苦しむことにはなるだろう。
それでも、此処で薬漬けにされて、あの男の玩具になるよりはマシだ。
シユウは耳に付けたイヤリングを外して、地面に叩き付けた。
マスターが「お前の瞳と同じ色だ」と言っていたガラスの飾りを、靴底で何度も踏みつける。
このイヤリングを付ける自分は、他の人の目にどんな風に映っていたのだろう。
あの男はどんな目で見ていたのだろう。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……!!
「はぁっ……はぁっ……はっ…………クソッ」
粉々に砕けた飾りを見て、ほんの少しだけスッキリとはしたが、すぐにこんな事をしていても仕方がないと我に返る。
無駄に体力を消耗してしまったなと思いながら、シユウはとにかく此処から離れようと足を動かした。
朝に出たのに、亀のような歩みで隣の七番街スラムまで来た頃には、もう陽が沈みかけていた。
どこか休める場所はないだろうか。無いならこのまま地面に転がってでも休みたい。
フラフラと蛇行しながら歩くシユウを道行く人々は避けていたが、若者に比べて反射神経の少々鈍いご老人はそうはいかなかった。
シユウと老人は正面からぶつかって、どちらも後ろに倒れる。
「痛たたたた……ああ、吃驚した。おいあんた、大丈夫か?」
「……………………」
「ん? あれ? おーい、大丈夫か?」
起き上がった老人は、動かないシユウの身体を揺さぶったが、精根尽き果てたシユウはそのまま眠りに落ちて――――
次に目を覚ました時には、見知らぬ部屋のベッドの上に寝かされていた。
「…………宿? 病院? なんだここ……」
「ここはあたしの経営してるアパートだよ。名前は天望荘。まだ入居者はゼロだけどね」
すぐ近くで、嗄れた女性の声がした。
皺の刻まれた顔と、艶の無い白い髪。ぶつかった相手もこれぐらいの齢の老人だった気がするが、男性では無かっただろうか。
「あんたがぶつかった相手なら、あたしにあんたの世話を押し付けて仕事に戻ったよ。まったく、こっちだって今は忙しいってのに、困ったもんだよ」
疑問が顔に出ていたのか、老婆が先にそう答えた。
口ぶりからして介抱してくれたのだろう。シユウは起き上がって頭を下げたが、その動作で視界がぐわんと歪む。
「フラフラじゃないか。何があったんだい?」
「……………ええと……」
「言い難いなら無理に話せとは言わないけどね。あたしゃ面倒事に巻き込まれるのは御免だよ」
当然の意見だと思った。その上で、今こうして休ませてくれていることにシユウは感謝した。
助けてくれた人を不安にさせるのは本意では無いので、渋々ながら経緯を語る。
相手は初めこそ怪訝な顔をしていたが、ウォール・マーケットの名前を出してからは表情が変わり、後半は真剣に耳を傾けてくれた。
話し終えると、「なるほどね」と納得して頷く。
「あたしも若い頃ウォール・マーケットに居たことがあってね。あそこがどういう場所なのか、それなりには知ってるよ。そういう事なら、暫くは此処に居な」
「え、いいんですか……?」
「幾らあたしでも、流石に性被害に遭った若者を外に放り出すほど鬼じゃないよ。他に行くアテがあるなら別だけどね」
「ありません。……正直、置いて貰えるなら、凄く助かります……」
「じゃあ決まりだ。あんた名前は?」
シユウは偽名を使うべきか悩んで、結局本名を名乗った。
シノという名前は嫌な記憶と紐づいてしまったので、もう使いたくは無い。
「シユウね。それじゃ、あんたが天望荘の住人第一号だ」
「有難うございます。幾ら払えばいいですか?」
「それがまだ決めてなくてね。一旦はナシでいいよ」
「いえそういう訳には。決まっていないのなら言い値で払います」
そう言いながら、シユウは財布を取り出そうとして、荷物の類を一切持ってきていないことに気付いた。
出てくる時にそこまで考えていなかった。財布も着替えも何もかも、ウォール・マーケットのホテルに置いたままだ。今更取りに戻る訳にも行かない。
正直にそれを話すと、マーレは同情混じりに笑った。
「なら尚更お金は要らないよ。でも、ずっと無一物って訳にもいかないだろう? 心身が落ち着いたら、新しい仕事を探すといい。ちょうどあんたに向いてそうなのが一つある。興味があるなら紹介してあげるよ」
「どんな仕事ですか?」
「この近くに酒場があってね。あんたがぶつかった相手がそこのオーナーなんだ。つい最近若い子が辞めちまって、人手不足で困ってるみたいなんだ。あんたなら即採用される筈だよ」
「そうなんですか……って、そうだ、その方にも謝りに行かないと。怪我とかされてませんでしたか?」
「尻餅ついただけだよ。まあ、あたしらくらいの歳になると、尻餅でも怖いけどね。気になるなら挨拶も兼ねて見に行くといい。けど、先ずはあんたが元気にならないと。向こうより余程重症だよ」
部屋にあるものは好きに使っていいからと言われて、シユウはマーレと一緒に部屋の中を軽く見て回る。
トイレ、シャワールーム、洗面台などの水回りと、ベッドやテーブルセットなど生活に必要な家具。空調もバッチリ。
スラムの環境を思えばかなり充実している。やはりタダで住んでいい場所では無いなとシユウは思う。
「そういやあんた、抱かれた後にちゃんと体は洗ったかい? まだなら洗っておきな。中に出されたもんは掻き出しておかないと、孕む心配は無くても腹を痛めるよ」
「ああ……通りでキリキリするなと思いました。お詳しいですね?」
「スラムで長いこと暮らしてると、そういう事には嫌でも詳しくなるんだよ。ウォール・マーケットなんかは特にね」
何か困ったことがあれば言うように言って、マーレは部屋を出て行った。
一人になったシユウは、とりあえず言われた通りシャワーを浴びる。
中に溜まった精液の感触が気持ち悪い。
犯されたことを思い出してまた吐き気がする。
頭も腹も痛いし、体は怠い。意識はハッキリとせず靄がかっている。
素肌を叩くシャワーの感触だけが、今自分が現実に居ることを教えていた。
無心で何度も指を出し入れしていると、不快感に別の感情が滲み出す。
「…………っ、…………ぁ」
快楽に足が震えた。
自分で立っていられなくなって、シャワー室の壁に背を預けながら、内壁を擦り続ける。もう片方の手は自然と竿を擦り始めた。
取り憑かれたように、シユウはその行為に没頭してしまう。
果てても体は満足せず、より強い刺激を求めて畝る。
シユウはその疼きを止めようと、ゴツンと壁に頭を打ち付けた。
(馬鹿。落ち着け。流されるな。これじゃ、あの男の思う壷だろ)
こんなもの、脳の報酬系神経が一時的におかしくなっているだけだ。
我慢していれば自然と治る――――シユウは唇を噛んで、弄りたい衝動に必死に耐えた。