09.愁雲、血涙の雨

――て、離して、ここを通して下さい!

レイヴンという道化の仮面を捨て去り、代わりにシュヴァーンという死人の仮面を被ったその男は、アレクセイの命で先んじてヘラクレスから降りようとした矢先に、そんな声を聞いた。

ずっと足先を写していた重たい双眸を持ち上げてみれば、遥か遠くに人集りが見える。

「こら、大人しくしろ! これ以上暴れるようなら――がっ!?」

人集りの中心には一人の少女が居た。彼女を取り抑えようとした赤い鎧の兵士が、メイスで殴り倒される。

「お願いです! 行かせてください! 私は、私はユーリ達の所へ帰るんです! 帰らなくちゃいけないんです!」

ユーリ。
その名前に、死んだはずの心が揺れ動いた気がした。

少女は泣いていた。泣きながらメイスを振り回して、時に魔術までもを使って、自分を捕らえようと迫る無数の手から必死に逃れようと走っている。

部屋に閉じ込めていた筈なのに、どうしてあんな所にいるのだろう。
男はぼんやりと思ったが、それ以上に、目に写る光景が、鼓膜を震わせる声が、無くなったはずの心に響いてくるのを感じた。

早く、命じられた通りに、バクティオン神殿に向かわなければ。

そう頭が指示を飛ばしているのに、体はその場から動こうとしない。

抵抗虚しく圧倒的な数の差で押し切られてしまい、ついに少女は捕まってしまった。
鎧を纏った屈強な男達に捕らえられたお姫様の視線が、遠くでじっとそれを眺めていた男の視線と交わる。

既に涙でグシャグシャになっていた少女の顔が殊更に歪んだ。痛みや悲しみが綯い交ぜになったような顔で、声にならない言葉を叫ぶ。

男はその口が形作った言葉を見た。

"レイヴン"

それはもう消えてしまった男の名前の筈だった。

尚も諦め悪く抵抗を続ける少女を、兵士達がどこかへと連れて行く。

少女は何度も名前を呼ぶ。ここには居ないはずの男の名を。

シュヴァーンは少女の姿が見えなくなるまで見送って、更にその声が聞こえなくなるまでじっとその場に立っていた。

やがて彼を縛り付けるものが全て無くなって――彼は漸くバクティオン神殿へと歩き出した。

まるで機械のように、定められた通りに、与えられた役割を果たす為だけに。






「レイヴン……どうして……どうして何も答えてくれないんですか……」

アルノルドと別れ、泣きながらもヘラクレスをひた走り出口を目指していたエステリーゼは、あと少しのところで兵士に取り押さえられてしまった。

レイヴンとはまるで雰囲気が違うけれど、それでもあれは確かにレイヴンだと、初めてシュヴァーンを見たエステリーゼは確信した。分からないのは、彼が人形のように虚ろになってしまっているその理由。

裏切りになにか事情があるのだとしても、いざとなれば彼は自分たちの味方をしてくれるのではないかと思っていた。だが、先程見た彼はどこまでも静かに自分を見ていただけだった。
先の見通しにしても、レイヴンの状態にしても、エステリーゼは自分の見積もりが甘かった事を思い知った。

これじゃあ、逃がしてくれたアルノルドに合わせる顔がない。
そんな風に思いながらもアレクセイの元まで運ばれてきたエステリーゼは、既にズタズタだった心を更に粉々に砕かれる事になってしまった。

「あ……ああ……! アル……!!」

――部屋に入るなり、エステリーゼは床に転がって動かなくなっているアルノルドを視界に捉えて崩れ落ちた。

アルノルドはボロ雑巾のように打ち捨てられていた。体のあちこちに出来た傷から流れ出る血で服は真っ赤に染まり、破れた服の合間から見える肌は所々が赤黒く腫れ上がっている。
ヒュウヒュウと隙間風のような音が切れた唇から溢れている事からまだ息はあるようだが、いつそれが途絶えてもおかしくは無い有様だった。

一方で、それなりに傷は負っているものの、己の足でしっかりと立っているアレクセイは、スタスタとエステリーゼの傍に歩み寄ってくる。

「……気は済んだかね? 君が最初から大人しく私の言う事に従っていれば、こんな事にはならなかったのだ」

アレクセイの言葉がエステリーゼの頭を揺らした。エステリーゼはただ呆然と涙を流すことしか出来ない。

これ幸いと、アレクセイは部屋に置いてあった聖核をエステリーゼの前に掲げた。術式が茫然自失のエステリーゼを取り囲み、程なくして彼女は青白く光る球体の中に閉じ込められる。

意識が遠くなる。エステリーゼは霞む視界にアルノルドを写した。

(ああ……きっと、欲張ったから罰が当たったんですね……)

彼の言葉が嬉しかった。嬉しいと思ってしまった。

世界の為ならば死んでもいいと確かに思っていた筈なのに、彼の言葉に縋りたくなってしまった。生きたいと願ってしまった。そんな事、許されるはずも無かったのに。

エステリーゼは手を伸ばした。自分を護ると言ってくれた騎士に、大切な仲間に。

けれどその手は届くには至らず、彼女の意識は深い闇の中へと溶けていった。






静かになったヘラクレス内部に、一人の男が立っていた。

彼の歩いてきた道には、親衛隊兵士達の骸が連なっている。それらは全て、彼の姿を見かけるなり襲いかかってきた者達だ。彼がその手に握る剣――数年前に皇城から盗まれ、行方知れずとなっていた宙の戒典は、兵士たちの血に塗れている。

自分も随分と有名になったものだ。こちらは顔も名も知らぬというのに、己の姿を見た兵達は口々にその名を叫んでいた。デューク・バンタレイ、と。

彼らがその名を呼ぶ時、それは皇城を襲った逆臣のことを指す。人魔戦争に参加すらしていなかった彼らのその無知さ加減に、デュークは辟易した。

別に、英雄として称えられたい訳では無い。だが、アレクセイの語る歴史の裏にある真実を、悲劇を、人の為に生き人の裏切りによって殺された亡き友の名前すら知らず、己を糾弾し偽りの英雄を讃えるその様には、怒りを覚えずには居られなかった。

騎士は、人は、かくも愚かなものだ。
それ以外の全ての味方であるデュークは、その白銀の髪を揺らしながら目当てのものを探す。

ここに来たのは、世に破滅を齎す満月の子たるエステリーゼを葬る為だった。ここに居るだろうと思っていたのだが、どうやら入れ違いになってしまったらしい。

彼は一つの部屋の前で足を止めた。そこには人が一人倒れているだけだったが、血溜まりの中に倒れているその男の顔には見覚えがある。

(……懐かしい光景だな)

デュークは十年前、火の海の中で死にかけていた青年の姿を思い浮かべながら、彼の傍らに膝を着いた。口元に手を当ててみれば、僅かにまだ息がある。

「……テ、リーゼ、様……」

乾いた唇から、掠れた声が零れた。
デュークはその姿を哀れに思った。彼もまた、多くの騎士と同様にアレクセイの操り人形にしかなれなかったのだろうと。

彼は自分の敵ではない。治癒術の類を扱えないデュークは何もせず身を翻したが、その背後で何かが動く気配を感じて振り返る。

驚くことに、男はその身を起こしていた。呼吸すらままならないであろうその体で、剣を支えに立ち上がる。

そのままフラフラとした足取りで、血を垂らしながら、彼はデュークとすれ違い、そのまま部屋を出て行った。何処へ向かうつもりなのかは、彼が呟いた言葉から予想出来る。

「その様な目に遭っても尚、まだ人形の身に甘んじると言うのか」

男は答えなかった。いや、答えるだけの気力体力すらもう無かったのかもしれないが。

デュークは彼が作った血の道を辿りその背に追いつくと、その後ろ首に手刀を叩き込んだ。
糸が切れたマリオネットのようにその場に崩れ落ちた男を、憐憫の目で見つめる。

(……こんな事になるのなら、あの時、助けるべきでは無かったのかもしれんな)

或いはテムザに捨て置くのではなく、自分が連れ帰っていれば良かったのだろうか。
だがそれを悔いたところで、今のこの有り様がどうにかなる訳でもない。

デュークは自らの定めた使命を果たす為に、彼を置いて一人ヘラクレスを降りる。
残された男が、再び起き上がることは無かった。
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