07.そして地獄の門が開く
「ローエンさん、お聞きしたい事があるのですが……今宜しいですか?」窓辺で一人佇んでいたローエンは、そう声を掛けてきたラスヒィに振り返って頷いた。
「その……カン・バルクでウィンガルという男が貴方に言っていた事が気になって……」
「……ナハティガルとの事ですね。私も、貴方には話しておかなければと思っていたところです」
ローエンはそう言って、再び窓に目を向けた。
遠い昔を懐かしむように、皺の刻まれた両目が細められる。
「ナハティガルとの最初の出会いは、彼が王族でありながら、軍士官として入隊して来た時の事でした。同じ部隊に配属された私達は、戦友として多くの戦いを経験し、互いに地位を高めました。身体も気持ちも充実し、本当に素晴らしい時代でした」
しかし、そうして影響力を強めたナハティガルは、二人の兄に疎まれるようになってしまった。
先代の王が倒れ、跡目争いが始まると、兄達はここぞとばかりにナハティガルを陥れた。
「その結果、彼の妹であり、唯一の味方であったキャリー様は津波に飲まれ、行方知れずとなってしまった……それを機に、ナハティガルは変わりました。後に二人の兄を討ち、王となった彼は、独裁権の拡大に走り……彼を止められる者は誰も居なくなってしまった」
そして今、クレインは彼の凶刃に倒れ、ラ・シュガルは戦火に呑まれようとしている。
ローエンは沈痛な面持ちで、ラスヒィに向き直った。
「当時、ナハティガルを止められるのは私だけだと、皆が私に期待しました。ですが……私は軍を辞め、ナハティガルを置いて去ってしまった。それが多くの民を傷付ける結果になると気付きながらも……」
その表情と声色からは、彼の強い自責の念が感じ取れた。
なればこそ、彼がそれを選んだ理由が分からず、ラスヒィはその疑問をぶつける。
「貴方が父の傍を離れたのは、父に幻滅したからですか?」
「それもあります。ですが何より私は、ナハティガルの悲しみに同調してしまったのです。気持ちが分かるからこそ、本気で彼を止めるには至らなかった……キャリー様は私にとっても、何にも代え難い特別な存在でしたから……」
特別、という言葉には、友人の妹と言うだけでは無い感情が込められているような気がした。
どういう関係だったのだろうかと想像を巡らせるラスヒィに、その考えを読んだローエンが付け足す。
「将来を誓い合っていました。身分違いの恋でしたので、決して多くに祝福されるものではありませんでしたが……ナハティガルだけは、心から喜んでくれていましたよ」
「そうだったのですね……貴方と父がそれほど親しかったとは……」
ナハティガルは、自分の過去や友人関係について、語り聞かせるような事は一度もしなかった。
妹が居たという事ぐらいは知ってはいるが、それすらも女中達の会話の中で何度か聞いた覚えがある程度で、ナハティガルが直接その話題を口にしたことは無い。
こうして外に出てくるまでは、その事に疑問を抱くことも無かったが、レイアやジュードの両親との関係性を見ていると、自分とナハティガルのそれはとても冷たいものに思える。
「……ナハティガルが私を拾ったのは、後継者として育てるのに都合が良かったから、なのでしょうか」
王の座を巡って骨肉の争いをした過去の経験からして、ナハティガルは身内も六家も信用しては居ないのだろう。
その点、拾ってきた子供であれば、余計な邪魔が入ることも無く、自分の思想を継ぐ完璧な後継ぎに仕立て上げる事が出来る。
そう考えれば、ナハティガルが己を王宮に幽閉していたのも頷ける。
ガンダラ要塞では彼に「外で要らぬ知恵でも付けたか」と言われたものだが、あれはその言葉通りの意味だったのだろう。
悲しげな顔でそう結論付けようとするラスヒィに、ローエンが「それは違うでしょう」と首を振る。
「ナハティガルは寧ろ、貴方を王位から遠ざけようとしている気がします。貴方の出奔を見逃したのも、それが理由だったのではないでしょうか」
「え……ど、どうしてそう思うのですか? 私が彼の期待に応えられていないからでしょうか?」
「そうではありません。ナハティガルは、貴方がいつか自分と同じ目に遭うのでは無いかと危ぶんでいるのですよ。王宮に幽閉していたのも、ただ貴方を守りたかっただけ……そうでなければ、あれほど力に心酔している彼が、貴方を軍に入れない理由が分かりません。ナハティガルは、ちゃんと貴方を愛していますよ」
「……そう、なのでしょうか」
「私はそう思います。貴方はキャリー様にどこか似ていますから、余計過保護になってしまうのではないでしょうか」
「私が父の妹に、ですか?」
「はい。彼女も少し天然なところがありましたから」
天然。
三度出たその単語に、真剣に話を聞いていたラスヒィの表情が崩れる。
「……すみません、その天然という言葉の意味を教えて頂けませんか? アルヴィンにもよく言われるので、罵倒の一種だと思っているのですが……」
「おや、そうなのですか? アルヴィンさんがどういう気持ちで言っているのかは存じませんが、私はとても好ましいと思っていますよ。一言で説明するのは難しいですが………純粋で素直、かつマイペースで、枠に囚われない、といった感じでしょうか」
「う〜ん……?」
文脈的に、アルヴィンはそれらとは違う意味で言っているような気がする。
余計に謎が深まって唸るラスヒィに、ローエンは穏やかに笑う。
ナハティガルは変わってしまった。
だが、ラスヒィがこんな風に育ったのは、ナハティガルにもまだ人の心が残っている証拠なのでは無いだろうか。
(甘い考えは命取りになるかもしれませんが……出来ることなら、殺さずに済ませたいものです)
ナハティガルが居なくなれば、民衆は次の指導者を求めるだろう。
多くの者──もしかすると本人も、王子たるラスヒィがその座に着くものだと考えているのかもしれないが、実際には話はそう簡単では無い。
ラスヒィの出自は公にはされていないが、貴族や議会は彼がナハティガルと血の繋がりを持たない事を知っている。
その上でラスヒィが王子として扱われているのは、血統を重んじるラ・シュガル王室の在り方すらも無視した、ナハティガルの強引なやり方によるものだ。
ナハティガルが居なくなれば、ラスヒィの処遇も含め、彼のこれまでの数々の暴挙に口を閉ざして来た者達も黙ってはいないだろう。
王の座を巡って、また多くの血が流れる事にもなるかもしれない。
そうでなくとも、クレインという親友に続いて育ての親まで亡くすのは、ラスヒィにとっては辛い事の筈だ。勿論、友人である自分にとっても。
(どのような結果になったとしても、その先は長く険しい道となるでしょう。ですが……私も成すべきことを成さなければなりませんね)
クレインの最期の言葉を思い返しながら、ローエンはそう覚悟を決めた。