03.帰る場所を失くして
「……ん……、……っだよ、うるっせぇな……」眠りに落ちていたシンの意識を引っ張りあげたのは、GHSの着信音だった。
目を開いてみればもう外は明るく、まだ微睡みの中に居るシンは枕元で震えている黒匣を手に取る。
「……もしもし?」
『ああ、シンさん。お休みのところすみません、ローエンです。……そのお声の調子だと、もしや今起きた所だったでしょうか?』
「ん〜……そう……今何時だこれ……すげぇ外明るいな……」
『もうお昼ですよ。随分と疲れていらっしゃったのですね。――先程ルドガーさんの方にクランスピア社から緊急の連絡があったそうで。一応、シンさんにもお伝えしておこうかと』
「クランスピア社から……ってことは、分史世界絡みか?」
『いえ、それが……前回我々が手に入れたカナンの道標を、ユリウスさんが奪って逃走したようでして』
「……はぁ?」
『今ルドガーさんが先行して追っています。もしシンさんも来られるようでしたら、今からクランスピア社前まで来ていただけますか? 他の皆さんともそこで待ち合わせていますので』
何考えてんだあのクソメガネ。
他の道標を早く見つけなければならないのに、どうしてそう面倒事を増やすのか。
シンはげんなりした様子で「わかった」と返す。
『ああ、あとそれからもう一つお聞きしておきたいのですが、アーストさんをご存知ありませんか?』
「……ん? アースト?」
『はい。昨日の夜にシンさんから頂いたあのメールを拝見して、今もまだご一緒ではないかと思ったのですが……今朝から連絡が取れていないもので』
そういえばそうだった。
まだ半覚醒状態だったせいで頭から抜け落ちていた事を思い出して、シンはソファーを見た。だがそこにアーストの姿はない。
あれ、どこ行った? シンはそのままぐるりと部屋を見渡して――
すぐ隣、同じベッドの上で眠っているその人を見つけた。
「……………………なんっでここで寝てんだよコイツ…………」
『シンさん? どうなさいましたか?』
シンはローエンに「後でかけ直す」と言って一旦通話を終わらせた。
ソファーじゃ結局眠れなかったのだろうか。だから言ったのにと呆れつつ、その体を揺さぶる。
「おい、起きろ。もう昼だってよ」
「…………。……ん…………?」
薄らと開いた瞳が空を彷徨う。
焦点が定まって、声をかけてくる相手の姿を捉えたアーストは、締りのない顔でその名を呼ぶ。
「シン……?」
「おう、おはよう」
「……おはよう……?」
と、シンの言葉を復唱した瞬間、アーストはカッと目を開いてがばりと飛び起きた。
その俊敏さに吃驚したシンが後ずさる。
「今は何時だ!?」
「え……? えーっと……正午回ったところだな」
「正午、正午だと…!?」
「なんだよ、もしかして朝からなんか予定でも入ってたのか?」
「いや、そうではないが……やるべき事は幾らでもある、一秒たりとて無駄には出来ん」
言うや否や立ち上がって忙しなく洗面所へ向かったアーストに、貧乏暇なしでも無かろうに何をそんなに生き急ぐことがあるのかと思いながら、シンも身支度を整え始める。
「後でローエンに連絡してやれよ。多分、お前のGHSに不在着信入ってんぞ」
「そうか。それを知っているという事は、お前の方にも連絡があったのか」
「ついさっきそれで起こされた。ユリウスの野郎が道標――っつってもお前にゃまだ分かんねーか。とにかくクランスピア社の阿呆が分史世界絡みの重要なアイテム盗んで逃げやがったらしくてな」
「それは捨て置けんな、急いで向かうとしよう」
「急いでって……お前も来んのかよ。ちょっと寝過ごしたくらいでそれほど慌てるぐらい忙しいんじゃねーの? 分史世界云々はお前の本来の仕事と関係ねー筈だろ、こっちに時間割いて良いのかよ」
「ルドガーとクランスピア社、両方を審査出来る良い機会だ。ローエンもそちらに居るというのなら都合が良い、連絡する手間が省ける」
「ズボラかよ」
上司だか主人だか知らないが、アーストがコレではローエンもさぞ苦労している事だろう。アーストはそれで良くともシンは後でかけ直すと言った手前連絡しない訳にもいかず、仕方なくアーストの分までローエンに報告する。
『そうですか、ではお待ちしております。……それにしても、少し見ない間に随分と親密になられましたね?』
「親密っつーかなぁ……いいように使われてるだけって感じがすんだけど。――あ、そういやあんたはあいつから何か聞いてないか?」
『? 何か、ですか?』
「ここ最近なーんか妙に過保護なんだよ、何かにつけて心配だ何だって。理由聞いても話せないっつーしよ、あんたなら何か知ってるかと思って」
『……………………』
「……ローエン?」
『ああ、すみません。私にも特に思い当たる節はありませんが、私としてもシンさんの日頃の振る舞いを見て心配になる事はよくありますので、アーストさんも単に放っておけないのでは無いでしょうか』
「言うほど無茶なことはしてねぇと思うんだけど。ルドガーの方がよっぽど滅茶苦茶だろ」
『ほっほっほ、確かにそれはそうかもしれませんね。もしシンさんがお気になさるようでしたら、私からもお節介はほどほどにするようにと釘を刺しておきましょうか?』
「いんや、別にいいわ。本当にただの心配性ってだけならその内飽きてやめるだろうしな。他になんかあいつに用があんなら代わるけど」
『お気遣い有難うございます。でしたら、少しの間だけお借りしても宜しいでしょうか』
是と返して、シンは歯磨きと着替えを同時に行っているアーストにGHSを押し付けた。口の中を濯いだアーストはコップを置いてそれを受け取る。
「ローエンか。すまん、寝過ごした」
『いえいえ、お気になさらず。寧ろしっかりお休みになられたのなら良かったです。日頃は働き詰めで碌に休憩も取られてはいませんし、このままではいつか倒れてしまうのではと皆も心配しておりましたので』
「寝食を惜しんで働いているのは皆同じことだ、俺一人ゆっくりとしては居られん。――それで、何の用だ? 今日の予定はシンから聞いていると思うが」
「アースト、お前ここボタン掛け違えてんぞ」
「む、すまん」
片手が塞がっているのでどうにも出来ないアーストに代わって、シンが歯ブラシを咥えたままシャツのボタンを留め直していく。受話口でそのやり取りを聞いたローエンは溜息を零した。
『アーストさん、シンさんが不審がっていましたよ。貴方の態度が急におかしくなったと』
「……いや、それは……その……別に何か深い意味がある訳では無くてだな」
『一国の主がその様にみっともない言い訳をしていては、城で貴方の帰りを待つ臣下とリーゼ・マクシアの民が泣きますよ。そのご様子では、私の忠告を無視して自ら埋めた穴を掘り返していらっしゃるのでしょう? 堪え性のない方ですね』
「ぐっ……、だが、大丈夫だ。お前に口止めされた件についてはまだ言っていない」
『いや、ですから、今その場でそういう事を口になさると……』
「何を口止めされてるって?」
シャツを綺麗に整えたシンに胡乱な目で見られて、アーストは閉口。
シンはそれ以上の追求はせずに、洗顔と歯磨きを終わらせて髪のセットを始める。
『少しの間ではありますが、共に行動してきた私から見て、シンさんはとても聡い方です。ジュードさんと同じく、他者の言動や現場の状況などからいくらでも情報を得ることの出来るタイプの方でしょう。その上で、貴方が未だ真実を隠し通せているのは、彼の思いやりがあってこそだと言うことを忘れないでいて下さいね。それに何より――』
少しの間を置いて、"宰相"から"仲間"へと転じたローエンが、国ではなくただそこに居る相手を憂いて言う。
『何より、真実が明るみに出た時に傷付き哀しむ事になるのは、貴方とシンさんなのですよ。親しくなればなる程、その痛みは増してしまいます。エレンピオスの方々と交流なさるのは大変結構な事ですが、のめり込み過ぎて共倒れになってしまわぬ様、くれぐれも注意して下さいね』
「…………。……わかった」
『では私はこれで。シンさんにも宜しくお伝え下さい』
通話を終わらせたアーストは、静かになったGHSをただじっと見下ろす。
その様を鏡越しに見たシンはくつくつと笑った。
「怒られてやんの」
「……聞こえていたのか?」
「聞こえてねーけど、その顔見りゃ誰だってわかるっつの。――よっし、準備万端。お前の方は……まだ出来てねーな」
寝癖でぴょこぴょこと跳ねている髪を見て、シンは笑いながら櫛を手渡した。アーストはそれとGHSを交換する。
「朝食えそうか? ゆっくり食ってる時間はねーからトーストとか焼いて珈琲淹れるくらいだけど」
「……頂こう」
「はいよ」
キッチンに立ってテキパキと料理を始めるシンを眺めながら、アーストは覇気のない状態のまま髪を梳かしていく。
不思議な心地だった。城に居る時とは違う、まるで自分が本当にただの市井の人間になったかのような感覚。
例えるのなら妹と共にいる時のそれに近いだろうか。この者の前でならば弱さを見せても許されるのではないかという安心感。何を警戒する必要もないと思える安息感。
王という道を選んだ時に、諦めて捨てたはずの世界。
「……おい、手止まってんぞ」
そう声を掛けられて、我に返ったアーストは寝癖を直す作業を再開した。
そうしてやっといつもの風格を取り戻した相手の口に、シンが卵とハムを乗せたトーストを突っ込む。
「おら、さっさと食え。食ったら行くぞ、忘れ物すんなよ」
返事が出来ないのでこくこくと頷いて咀嚼するアーストに、シンは「手のかかる奴だなぁ」とぼやく。
(……確かにこれは、ローエンの言う通りかもしれん)
自分はあくまでもリーゼ・マクシアの王だ。それを忘れてエレンピオス人である彼に入れこみ過ぎてしまえば、その情がいざという時の判断を鈍らせ、選択を誤らせるだろう。
そんな事になってはいけないと、既に今のこの関係性を手放し難く感じ始めている己を、アーストは心中で諌めた。