2020/8/31〜9/30
語り手:斑目一角



 風の噂で聞いた。毎夜、ふらりといなくなるのだと。

 誰にも行き先を告げず、尋ねてみても覇気のない笑顔で「内緒」としか答えないという。後をけてみたやつもいるそうだが、曲がり角で必ず見失うらしい。夏の間それがずっと続いている。やれ神秘的だとか、儚げだとか、危なげだとか、触れたら壊れそうだとか。近頃耳に入って来るあいつ宛ての形容は、どれもふざけたものばかりだった。


「……いつから其処にいたの」


 七番隊の裏山、その森の陰にある黒石の滝。俺らにとっては馴染みの場所だ。
 水の音と虫の声に掻き消される寸前だった掠れ声を、左の鼓膜が辛うじて捉えた。滝壺の脇で座禅を組んだまま、ゆっくりと瞼を上げ、声の主――沙生を見留める。こうして顔を合わせるのは久し振りだ。表情からして、俺に声を掛けてきたというより、驚きからつい独り言が漏れ出てしまったみたいだった。今日は奇しくも満月、一度対面した相手から逃げて消えるには優しすぎる闇だ。もとより逃がす気はないが。


「仕事片してから」

「夕方からずっと……?だってねぇ、これでも私、近くに誰もいないか確かに探ったんだよ?」

「俺の瞑想ナメて貰っちゃ困るぜ。ま、アレだ。自然と一体化してたってやつだ」

「普段うるさいくせにホント、そういう集中力は凄いよね」

「褒めてんのか貶してんのかどっちだ? ったく」


 月を背にしてこちらをじっと見てくる沙生の瞳は、心做こころなしか潤んでいる。それから反対の右っかわを見遣れば、すぐそこの黒い川面が光って揺れている。……これがお前の瞳に映っているせいだと、今はそういうことにしておいてやろう。


「ついさっきはあんなに霊圧尖らせてやがったってのに、どうしたよ。情緒不安定かコラ」

「ちが……ていうか、やっぱりバレたよね?私が何してたか」

「――まぁな。実は俺も、何年か前まで此処で同じことしてたんだぜ」

「そうだったんだ……もう完成したかい?」

「ンな訳あるか。序の口門口走り出しだわ」

「ふふ、何さソレ。まぁ訊き方が悪かったね。でもその答えなら『名は知った』ってことだ」

「おうよ。お前ももうすぐってとこなんだろ?」


 そう問えば、口こそ開かれなかったが、目は口ほどに物を言う。ほんの少しだけ細められた双眸そうぼうは澄んでしたたかだった。それでいい、それでこそ。俺たちが知っているお前は、途中で立ち止まることはあっても、ちゃんと前に進み続けるやつだ。


「余計な心配だったな」

「そんなことない。気に掛けてくれる人の気持ちが私に前を向かせてくれる。立派な原動力の一つだよ」


 沙生は指で目元を拭うと少し笑った。こいつにしちゃあさっきから静かだが、空元気とは違うだろう。艱難辛苦にぶつかったとき、悲しんだら駄目だなんてことはねぇからな。こっそり泣いても、それからまた頑張れるなら何も問題ない。


「あのさ一角、良かったらちょっとコレに付き合ってよ」


 いつもは書類を他所の隊舎まで運ぶときなんかに使っている肩掛けの鞄から取り出されたのは、封筒くらいの大きさの袋。沙生はその中にある物を幾つか摘まみ、スっと抜いて寄越してきた。


「……線香花火か?」

「そ。今年は行かなかったから、お祭り。……花火を一つも見ないまま夏が終わるのはちょっと寂しくてさ。煉獄商店で売れ残ってたやつ、つい買っちゃったんだ」

「はぁ……仕方ねぇなァ……」

「やった。あ、火は鳶絣で直接点けられないこたないけど、線香花火は繊細だし?ここは定番通り、蝋燭からゆらゆら火を貰うことにしよう。ね?」


 沙生は先程までより明らかにワクワクした顔つきになった。そして風除けになる木陰まで小走りし、手際よく蝋燭を立て、擦付け木で火を灯す。ちょいちょいと手招きする沙生の瞳には、今度は赤い火が揺れている。もう潤んではいなかった。

幽冥、散り菊


 八月恒例!本編のずっと先の時系列を先取り!……いつになったら追いつくのか。気にしてはいけない。去年と一昨年のお礼文で語られたとある「最後の夏」の「次の夏」のお話でした。相変わらずの分かりづらさには今は目を瞑ってやってください。
 話に出てきた「煉獄商店」。『カラブリ』がお手元にある方は146ページを開きますと何やら愉快な通販広告が載っていますね。そう、「煉獄商会」は皆さまに愛され続けて400年。黒陵門から瞬歩一分。たぶん瀞霊廷内に何店舗かあって夏は手持ち花火も売っているはず、そんな妄想をしたのでした。

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