2021/4/30〜5/31
語り手:伊江村八十千和



「伊江村!?頼むよ!伊江村からも頼んでよ!あいつ絶対なんか黙ってるんだ、またなんか隠してるんだ!じゃなきゃ、そうじゃなきゃ、こんな馬鹿なことするはずないんだよ!!ダメだよ処刑なんて!!ゼッタイダメ!!」


 ああもういい歳こいてぎゃあぎゃあ泣き喚きよってからに、見るにえん。私がこの部屋に足を踏み入れた瞬間にバッとこちらを向いた甘竹あまたけの顔面は、既に水浸しの雑巾のようであった。それまでずっとそこで土下座でもしていたのだろう、床板には目から鼻からだらしなく垂れ出たブツがぽたぽたとあって、表面張力によって丸みを帯びたそれらは散らばったおはじきに似ていた。
 取り敢えずその汚い顔を拭け、と思って持ってきていた手拭いを渡そうとしたら、部屋の奥にいらっしゃる砕蜂隊長殿が忌々しげにドンと床を踏み鳴らした。どれほどの間こいつの無礼に対して我慢してくださっていたか存じ上げないが、とうとう痺れを切らしてしまわれたらしい。


「ええい鬱陶しい!貴様がいくら頭を下げようと決定はくつがえらぬ!分かったらとっとと床掃除をして去れ!」

「わ…わかりません!わかりませんので!掃除もしませんし去りませんッ!」

「くそ、なんなんだコイツは……!おい、貴様!貴様だ、いま入ってきたそこの眼鏡!」


 隊長殿でも、名の分からぬ者が眼鏡を掛けているとすぐこうだ。まったく、だから眼鏡が本体だとか揶揄ってくる輩が出てきて後を絶たないばかりかどんどん増えてどいつもこいつもメガネメガネと、私の方こそ癖っ毛とかジト目とか筋肉とか青目とか呼んでやろうかってその場で眼鏡は一人しかいないと確認なさったうえで分かり易く呼んでくださいます。


「なんでございましょう」

「何の用で来たのか知らぬが、話があるのならまずコイツを摘まみ出せ。それからなら聞いてやる」

「えと……はあ……」


 床に崩れ込んでいた甘竹は、また私を見て大粒の涙をぼろぼろ零した。水分を出し過ぎだ、貴様の涙袋はいったいどうなっているのだ。しおれて干乾びてしまっても知らんぞ。
 やつに一歩近づくと、あからさまに肩を縮こめられた。そして外はねした癖っ毛の先をぴよぴよ震わせていたかと思えば、急に険しい目つきをして、体の前で拳を握りしめて構えた。……いやいや貴様、白打は私よりも下手くそだし弱っちょろいだろう。何をしようとしている。


「くっ……来るなら来い!ボクは叩かれても引っ張られてもここからどかない!」

「駄々こくんじゃない、砕蜂隊長殿がお困りだろう。……お前はいつも、やることなすこと向こう見ずの鉄砲玉なのだ。説得するならもっと慎重に、得意の足でも使って情報を集めたりしてから、堅実にやれというんだ」

「…………はぇ?」

「……おい眼鏡、まさか貴様もそこの女と同類か?奴には元々複数の嫌疑が掛かっていた。そいつが今度は同隊所属の上官を拉致し、廷内で刃傷沙汰まで起こし挙げ句殺しかけたのだ。一切赦免しゃめんの余地は無い」


 睨み据えられ、背筋が凍った。思わず息が止まるような怒気と殺気だ。


「――貴様ら、そんな生きる価値もない男に情状酌量を求めるというのか?」


 霊圧の威が骨の髄までおびやかしてくるようだ。隊長格のこういう短気でおっかないご判断が迅速でお強くていらっしゃる所はホントどうにかならないものでしょうか。昨日救護舎に訪れた更木隊長殿なんて、楠山四席が入院されている病室が何処にあるか分からないくせに勝手に上がりこんであっちをウロウロこっちをチョロチョロ、イライラした霊圧をバンバンお垂れ流しなさるせいで隊士も患者の皆さんも無駄に神経すり減らして、中には体調悪化するやつも出てきてこのままではいけないと勇気を出してご案内しようとした矢先に目の前の壁ぶった切って進もうとなさるしアレもし卯ノ花隊長が来てくださらなかったらたいへん素晴らしく、尊敬の念が絶えません。


「四十六室はこの件をすべて私にゆだねた。小悪党一匹の処遇なんぞに時間を割きたくなかったのだろう。つまり奴には処刑が順当であり、私であれば迷うべくもなく執行すると考えての判断に相違ない。それに異を唱えようとは……さぞ驚くような弁護をしてくれるのだろうな?」

「それは……いえ、それならば私ではなく、おそらく他の者が務めるでしょう。私は西五辻にしいつつじに呼びつけられたゆえに、こちらに参った次第です」

「……センにだと?」

「そうだったの!?伊江村どういうこと!?」

「うっ……甘竹貴様、その顔を近づけるな!」


 手拭いの両端を持って広げ、防御の姿勢をとった。怒り心頭であらせられる砕蜂隊長殿の御前でどうしてこんな茶番をせねばならんのだ!?正気か!?その鼻水を私につける気か!?


「――只今戻りました。砕蜂隊長、申し訳御座いません。私の同期が何やら多大なるご迷惑をお掛けしているご様子ですね」

「閃!」
「西五辻」
「閃ちゃん!」

「『ちゃん』をつけるな甘竹」

「ふがっ」


 西五辻は音もなく現れた。ふと気付けば私の手拭いを片手で奪い取っていて、甘竹のびしょぬれた顔面を雑な手つきで拭ってやっていた。己が上官の目にこれ以上みっともないのを触れさせないためだろうが、相変わらず無感情なツラのままでよくやるものだ。何往復かゴシゴシやって、それを私の方に投げ――!?!?はッ!?つい受け取ってしまった!しかもなんか湿ってるとこ触ってしまったんだが!?西五辻貴様ジト目野郎、何をしてくれるのだ!
 絶叫したくなったが、ぐっとこらえて飲み込んだ。胃にキた気がする。


「閃、説明してくれるのだろうな?こんな騒がしい他隊よそ者を呼びたてて、何をどうするつもりでいる」

「私が呼んだのは伊江村だけです。牢にいる尾焼津おやいづ亢夜こうやに治療を施すよう頼みました」

「――そうか。閃、お前もか。同期のよしみなどという下らぬ情で目が曇ったか?お前はそういう誤断はしないやつだと評価していたのだがな」

「そちらの甘竹は、見るに自分の意思で嘆願に参ったのでしょう。ならば彼女から、尾焼津亢夜がどういう人間であるか、些少お聞きになられた事と思いますが」

「聞くにあたわぬ話だった。証言になるものなど一つもない、どれも駄弁に妄言だ。性善説を唱えたいなら他所よそでやれ」

「……そうですね。典拠を提示できなければ弁護にはなり得ません。時に、こちらをお持ち致しました。一度お目通しくださいますようお願い申し上げます」


 西五辻は腰に取り付けていた鞄から数冊の帳面を取り出し、砕蜂隊長殿に差し出した。彼女はなかなか手を伸ばされなかったが、いつまでも微動だにせず真っ直ぐ目を見てくるやつの堅さに根負けなさったのか、やがて仕方なさそうに受け取られた。そして無言のまま執務机の向こうの椅子に座り、開いた帳面に視線を滑らせていった。
 私たち三人は、お互い顔を見合わせることもせず、砕蜂隊長殿のご様子を固唾かたずを呑んで見守った。


「……一体いつから調べていたのだ」

「尾焼津亢夜に掛かっていた幾多の嫌疑についてであれば、十年ほど前から。今回の件の謀主ぼうしゅについてであれば、もう二十年は経ちます」


 それを聞いて一番驚いていたのは、砕蜂隊長殿ではなく甘竹だった。西五辻はちらと甘竹を見遣り、ほんの少しだけ笑ったように見えた。


「お前が纏めたのか?」

「いいえ。かつて調査の一端は担いましたが、そこにある詳細を突き止めたのは別の者です」

「誰だ」

「一応『匿名希望』と言付かっております。隊長が明示せよと仰るのであれば、口にするもやぶさかでは御座いません」

「……予想はついた。彼奴きゃつめに言っておけ、『匿名希望ならせめて筆跡の特徴くらい隠せ』とな」

御意ぎょい


 砕蜂隊長殿は帳面を放るようにして机に置き、それからツカツカと出口の方へ向かわれた。震えながら祈るように両手を握りしめている甘竹を擦れ違い様に一瞥し、疲れたように溜息を吐いて、こう仰った。


「尾焼津の処刑は取りやめだ。まだ吐かせねばならぬ事があるようだからな」

「あっ……あ…あり、ありがとうございます!砕蜂隊長!」

「履き違えるな、罪が赦される訳ではない。それから閃」

「はい」

「奴はお前の檻理下に置く。さっきの推論混じりを確かな証拠として上げたければ、お前が裏を取れ」

「御意」

「精々上手くやることだ。下手に首を突っ込んで消されてしまっては、私がお前の首を飛ばせなくなる」

おそれながら、首は死守させて頂きます。まだ果たすべき責務が残っておりますので」

「……フン」


 砕蜂隊長殿は不敵に笑い、この場を後に――する前に、最後に私にもお言葉を掛けていかれた。


「おいそこの眼鏡、その手で隊舎のどこにも触るなよ。汚れたついでに床掃除もお前がしておけ」


 それは私、四番隊でございますから?雑用も使いっパシリも慣れっこでございますけれども。ですけれども。
 こら甘竹、プクーッて笑うんじゃない。西五辻も目を閉じてじっとしてるんじゃない。それ貴様が笑いをこらえている時のやつだろう、知ってるんだぞ。まったくも〜ホント……。


――――――


「お〜っす、お疲れだねぇ伊江村」

「甘竹……まだ帰っていなかったのか」


 二番隊舎から出てすぐの所で、やつは腰に両手を当てて堂々と立ち塞がっていた。背中にある橙色の夕陽が眩しい。脇を素通りして進むと、やや過ぎてから、小走りで追ってくる足音がした。


「閃ちゃんは?」

「尾焼津のやつを連れて行った。どこかの牢に入れて、それからまだ仕事だろう」

「そっかぁ大変だなぁ。ボクもなんか手伝えたらいいんだけど、色々機密だらけなんだろうし」

「隠密機動からすれば瀞霊廷通信編集部は天敵みたいなものだろう。無理に迫って苦労をかけるなよ」

「まるでボクがわきまえのない野次馬みたいな言い草!」


 甘竹は走って先を行き、私の顔を下から覗き込みながら言った。何ひとつ間違っていない事実に対して抗議されても返しに困るんだが。無視してさっさと追い越すと、また追ってきた。


「……尾焼津は?どんなだった?」

「心配いらん。ろくな手当てもしないまま丸一日以上放置していたせいで傷はんでいたが、私の手に掛かれば何てことはない」

「伊江村の治療の腕だけは疑ってないさ!ボクが訊きたいのは体のことじゃなくて……」

「……どうだかな。私たちがいくら言っても、やつが意固地を通し続ける限りどうしようもない」


 甘竹は見るからにシュンとして、自分の爪先つまさきを見ながらとぼとぼ歩いた。嗚呼、だから私はやつに言ったのだ、「貴様のせいで誰が意気消沈した甘竹の世話を焼く破目になると思っている」と。しかし私はこれ以上立ち入れる立場にない。この先は西五辻の仕事であり、どう転ばせるかも西五辻次第だろう。生かすも殺すも、立ち直らせるも。
 夕陽がもう隠れようかという時、どこからか仄かに甘い香りが運ばれてきた。辺りを見回してみると、別れ道の間にある若い桜が開花していた。五分咲きといったところか。


「あ、もう咲いてる。このへん西日がよく当たりそうだもんね」


 花につられて漸く顔を上げた甘竹は、子供のように枝の真下に駆け寄り、顔をくしゃりとさせた。


「あーあ、一緒に見てるのが伊江村じゃなけりゃもっとこう、なァ」

「黙らっしゃい」


 こっちの台詞だ。わんわん泣いても早速へらへらしおって、腐れ縁とはいえこれでは心配してやる甲斐もな
 早めにおりから出てこい筋肉野郎。でないと、いつまでたってもコイツが心から笑えんのだ馬鹿者。

貴様と私と動機と桜


 桜切るとこだった馬鹿を庇う馬鹿たちのお話でした。謎の匿名希望さんについては『このほの』本編の39話までと外伝一の2話をお読みになっていると辛うじてお察し頂ける……ようになっていますように。
 本編第一章はまだまだ続きますが、そろそろ第二章に向けての匂わせもぽつぽつ撒き始めております。……匂わせというか泥か!ドロドロか!や〜瀞霊廷ってコワイ、ですよね京楽隊長。呑んで遊んで楽しくやっていられるならそれが一番ですよね。
 しかし現実では呑むも遊ぶも控えめに、節度をもたなくてはなりません。あ、これはコロナの話ですよ。二年続いてお花見と行楽の季節にこの世相とは……残念ではありますが、元気に生きてこそ後年に遊べるのだと考えましょう。そうそう、今年は桜をはじめ花が咲くのが例年よりとても早いですね。今だと藤の花が満開で美しいです。藤。……藤。

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