2021/5/31〜6/30
語り手:吉良イヅル



 酷な討伐任務の帰り道だった。

 いかにも田舎といった、誰か達の原風景でありそうな所を、楠山さんと二人きりで歩いていた。左手は水田、右手は緩勾配もとい山裾ふもと。途方を見渡しても目に映るのは水か緑。
 幸いだったのは、一本続きの細い道はなかなかどうして整備されていて、禿げていて歩きやすかったこと。いけなかったのは、時間配分を誤ったせいで日暮れ前に瀞霊廷に着くのは絶望的になっていたこと。しかも、七つさがりには雨が降りだしてしまった。


「弱ったな。やみそうにない降り方だ」

「……ですね」


 しとんぴちょぴちょ、みてしたたる水もしとどに、僕たちはじわりじわりと濡れ鼠になっていった。


「歩き疲れたな」


 僕の前を歩く楠山さんは、振り向きもせず、ずんずん進みながら言った。独り言を呟くのと、人に話しかけるのと、その中間といった風だった。
 「喉が渇いたな」と言えば、蛇口を捻るかお茶を淹れる。「お腹が空いたな」と言えば、料理をするか店に入る。言った後に何をするかがおよそ決まっている枕台詞とでも呼べよう言葉がある訳だ。「歩き疲れたな」というのも、その一つである。民家も宿場もちっとも見当たらない風情であったがしかし、目を凝らした先にはおあつらえ向きに水車小屋が建っていた。
 僕は抗議するつもりで口の形を「へ」にしたが、すんでの所で声にはしなかった。何故かって、多分、彼女と過ごす時間は苦ではないと思ったからだ。


「歩き疲れたな」

「もう一度言わなくても聞こえてますよ」

「もう休もうよ」

「一応訊きますけど、『休む』というのは具体的には?」

「一晩お泊まりしたい」

「ですよね。僕は構いませんが、貴女あなたはそれでいいんですか」

「いいんだよ。疲れた任務帰り、不可抗力。休みたい、只々休みたい。……というか寧ろ君が構うかと思ったんだけど……なんなら私置いて行ってもいいよ。夜通し歩いて帰るもよし、他に屋根を探して借りるもよし」


 阿散井くんか檜佐木さんから聞いたのだろう。彼ら、ちょっと下世話で口が軽いから。「吉良は雛森に気があるらしい」とでも聞いた覚えがあって、それを考慮してくれているに違いなかった。僕の身近にいる他の人たちがあまりしないような気遣いをされて、少々こそばゆい気がした。


「いえ、本当に構いませんから」

「そう?」

「……一緒に休ませて頂いても?」


 楠山さんは肩越しに僕を見て「もちろん、どうぞ」と言った。この瞬間、濡れた髪を耳にかけて微笑んだ彼女がいやにあでやかに見えて、急に照れくさくなった。ちょっと頭を冷やさなきゃと思ったけれど、既に十分過ぎるくらい水を被っていたのだった。平常心、平常心だ。愚かなよくは今のうちに殺して墓まで持っていく。

 水車小屋の中は、思っていたより暗くなかった。まだ少し陽があって、西に窓があったからだった。その窓の下ではき臼と二連のき臼が回っていて、土間は三畳あるかないか。二人で休むには一見すると狭苦しそうだが、足を伸ばして横になれないこともない。とはいえ、壁に背を預けて座って寝るのが無難だろう。


「あっ、かえるだ」

「えっ、蛙?」


 楠山さんの視線の先を辿ると、二つある搗き臼の間に一匹の雨蛙がおすわりしていた。そいつが白い喉を膨らませては元に戻すのと同じ速度で、両隣の太い杵がゴウンと上がり、ゴトンとくうを搗く。臼はからだ。小さいそいつが中にぴょこんと飛び込んだとしても、隙間があるからぺっちゃんこにはされない。しかし妙にソワソワさせられる危なっかしい光景だった。


「外はせっかく雨なのに。迷い込んじゃったのかな?」

「……じっとして、動こうとしませんね」

「怖くて固まっちゃってるのかも。どれ、お助けしようか」


 茶目っ気を滲ませた声でそう言うと、彼女は雨蛙の前にしゃがんだ。そして両手をゆっくり、そうっと、水をすくうときと同じ形にして差し伸ばした。すると雨蛙はその手の中に飛び込み、真ん中にちょこんと居座って、またじっと動かなくなった。


「あらかわいい。お利口さんだ」

「……かわいいですか?」

「かわいいよ。ほら見て、このつぶらなおめめ」


 彼女はすっくと立ち上がり、僕の隣に来た。掌中の雨蛙を正面向きでよく見せるためにか、肩がくっつきそうなくらい距離を詰められた。


「…………」

「ね?」

「……こんなに蛙と見詰め合ったのは生まれて初めてです」

「話そらしたな?」


 猫や兎や小鳥を愛でる人ならよくいるけど、蛙とは……正直、変わっていると思う。
 楠山さんは「ふーんだ」とわざとらしく拗ねたふりをして、窓のある方へ行った。窓は少し高い位置にある。彼女は背伸びをして両腕を上げた。すると雨蛙は一鳴きして、ぴょーんと外へ飛び出していった。確かにお利口みたいだったので、お礼でも言ってったのかな、なんて思えた。
 ――しかし今は、そんなことよりも。


「お達者で〜」

「……楠山さん」

「んー?」

「ちょっと肩みせてください」

「げ」

「げ、じゃないですよ。いま腕上げて痛んだでしょう。動きがぎこちなかったですよ」

「君も目聡い系男子だったか……油断していた……」

「何の分類ですか。いいからちょっとこっち来てください」

「はいはい、はいな」


 しぶしぶと戻ってきた楠山さんは僕に背を向けて正座し、雨水を吸った死覇装の袖から右腕を抜いて、躊躇なく片肌脱いだ。みせてくださいと言ったのは僕だが、何というか、こう、しぶしぶすべきところをお間違えではないですか?おそらく僕の寿命は何分か縮みました。瞬間的な心臓の酷使が遠因でしょう。貴女は僕の事をだつ者か何かとお思いなのかと問い質したい。
 もう馬鹿なことを考えるなと心の内で自分に言い聞かせ、彼女の肩を診る。僧帽筋から肩甲骨の中部にかけて、割と広い範囲が青みがかって腫れていた。まだ新しい、痛々しい打ち身だ。今日の戦闘で負ったものであることは明らかだった。


「吉良、そんな顰めっ面しないで」


 彼女はまた肩越しに僕を見ていた。ただし先程とは違ってその肩は肌色で、笑い方も困ったようで。一緒にいるのが僕で良かったと熟々つくづく思った。誰にでもこうして警戒心を持たずにこんな姿をみせる人ではないし、ちゃんと相手を選んでいるとは解っている。解っているからこそ複雑だ。僕は彼女に信頼されているのだ。それをまさか裏切れるものか。


「謝るくらいなら隠さないでください」

「隠してないよ、惜しげもなく晒してる」

「そういう意味じゃあ……はぁ……少しは楽にしてあげられると思いますから、じっとしててください」

「ん、お願いします」


 掌を翳して治療を施していく。僕よりも小さい背中なのに、僕がとてもかなわない背中。多くを背負ってもへこたれず、強くて真っ直ぐ。もう陽は沈んでしまったから辺りは真っ暗になってきているのに、白く、眩しく見えて仕方がなかった。


「良いスジしてるね。私は回道さっぱりだから尊敬するよ」


 回道の腕前は、彼女の義理の弟であり檜佐木さんの友人でもある相楽さがらさんにも褒められたことがある。院生時代から何度も四番隊への勧誘を受けているくらいだ。


「……僕は四番隊でもやっていけるでしょうか」

「大丈夫。保証してあげる。施す方はからっきしだけど、施される方は誰より経験豊富なこの私が、太鼓判を押してあげよう」

「……ありがとうございます。異動、正式に願い出てみようと思います」

「うん、いいんじゃないかな。……でもね、君はちゃんと強いよ。戦いに向いてないとか、そんなことは絶対にない。成長途中の段階で運悪く難易度が滅茶苦茶に意地悪な任務にぶち当たっちゃっただけ。今日死んでしまった彼らもそう」

「……はい」

「返事が投げやりだなぁ。嘘でもお世辞でもないから、真に受けてちょうだい。私は思ったままを言ってるからね」

「…はい」


 僕が「異動を考えている」と言うと、同期も先輩も皆「どうして?」と止めてくるのが常である。いま僕が所属している五番隊は、和やかな雰囲気で居心地が良いと専ら評判だからだ。でも楠山さんだけは昔からこんな感じで、一度も反対してきたことがない。「十一番隊なんてどう?」とか勧めてきたときは、流石にどうかと思ったけど。


「まぁ君からすれば離れがたくもあるだろうし、じっくり考えなよ」

「……あの……もし雛森くんのことを言っているなら……もう、今は違うんです」

「……あら。そうなの?」

「はい。阿散井くんにも檜佐木さんにも言ってないですけど」

「そっか。私、色恋沙汰には疎いからなァ……こういうときは何と言ったらいいか……」

「無理して何か言おうとしなくてもいいですよ」

「……じゃ、お酒とか飲みたくなったら言って。賑やかな仲間たちいっぱい引き連れていってあげる」

「はい。その時は遠慮なく」


 いつも冴えなくて暗い僕。人より優れているところを確かめては優越感に浸り、密かに安心を得ていた僕。好意を寄せている同期の女の子が、違う誰かに好意を寄せていくのを日々感じ取っていた僕。任務先でただひとり助けられ、のうのうと生き残っている僕。愚かしくて笑える。情けなくて泣けてくる。
 貴女はそんな僕を死の淵から救ってしまった張本人なのだから、責任を取って多少の面倒は甘受していただかなくては困る。


「さて……ざっと終わりましたよ。具合はどうですか?」

「さっきよりだいぶ楽になった。どうもありがとう」

「どういたしまして。ちゃんと服を着直してくださいね」

「うん……よし。ねぇ、濡れたままだと風邪ひくかも。手貸してみ」


 楠山さんは襟を正すとこちらに向き直り、問答無用で僕の両手をつかまえた。対面していても表情がよく見えないほど夜になっていた。握られたところが徐々に熱をもって、それから全身に広がっていく。


「これは……?」

「鳶絣の焔の力をちょっと、ちょちょいとね。服も着たまま乾かせるよ。熱かったら言って、加減するから」

「そんなことができたんですか」

「フフン、鬼道がパッパラパーな代わりに斬魄刀との繋がりは誰にも負けないから」

「鬼道がパッパラパーなのはお認めになるんですね」

「なにを今更」


 全身がぽかぽか温かくなってきた。彼女の斬魄刀の力による効果らしい。抜かずに腰に差しているだけだというのにこうして熱を操って分け与えられるとは、何とも不思議なことだ。


「ねぇ、吉良」

「……なんですか?」

「夜中の田んぼってこんなに騒がしいんだね。雨は降ってるし、大量にいる蛙は大喜びしてるんだもんね。誰かが啜り泣いたとしても、きっと掻き消されて気付けないね」

「……そうですか。貴女がそう言うなら、きっとそうなのでしょうね」

「うん。もう真っ暗だし、私はなぁんにも見てないよ」

カエルとナくから帰らない


 吉良が本編に登場するにはあと何年かかるのだろうか……出番が遠すぎてお先真っ暗見通せない、のにハイ、こんな先取り話を書いてしまいました。いつか本編か外伝六で関連話を綴れたらいいな〜と思います。
 この時季の夜の田んぼの賑やかさは凄いのですよ。「ケロケロ」なんて擬音では済みません。四方八方から「ケッケゲギギギョケルルゲコ!!!!!」……こりゃ駄目だ、文字で的確に表せる技量がない。こうなれば実際に聴いていただく他ありません。お気が向きましたら初夏に広大な田んぼの真ん中に立って夜の帳がおりるその時を待ってみてください。圧倒されると思います。慣れてしまえば季節限定子守歌みたいなものですよ。

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