2022/6/30〜7/31
語り手:久南ニコ



31,536,000秒=525,600分=8,760時間=365日
=一年。一年が経った。

 「もう一年か早いなァ」なんて言う人もいるけど、あたしは遅いと感じていた。この一年は前の一年よりも長かったかもしれない。今年一年間=去年一年間だなんてどうしたら証明できるというのだろう。或る時から宇宙の全部がゆっくりになっていないとも限らないのに。
 星の自転も公転も、音と光の進む速さも、エネルギー燃焼速度も、機械の電気信号も、時計の振り子も、あたし達の心臓も、すべてひとみにゆっくりになっていたとしたら、誰も気付けないでしょう?あらゆるすべで一秒を測っても、あらゆる基準が一秒しか示さないようになっているのだから。

 お姉ちゃんがいないと仕事だけは早く進むよ。ちょっかい出してくる人がいなくなると、やっぱり効率が上がるね。お菓子を強請ねだられることもないから、買い置きしないで済んで楽チン。甘いお菓子の間食をやめるだけで無駄な脂肪って落ちるみたい、最近お腹周りが理想形に近づいてきてる。
 お姉ちゃんがいないと好きなだけ籠っていられるよ。いきなり「今日ピクニック行こう」って無茶言われる心配もなくなったし、お揃いのお弁当箱は食器棚の一番下に移しておいたからね。最近は隊舎前食堂の海苔おろしなめこうどんにハマってるんだ。それとね、前から欲しかった枝付フラスコとビュレットを買ったの。小物屋さんで無駄遣いする機会が減ったおかげで、貯金がたまって。可愛い根付や髪飾りを薦められて買っても、結局引き出しにしまいっぱなしで勿体なかったもんね。あたしのお洒落らしいものは、この一番お気に入りの鎖だけで十分。
 うん、充実していると言っていい。

 日用品を切らしそうになったから、何週かぶりに外に出た。煉獄商店への道のりは、何処からか辿々たどたどしい鶯の声が聞こえてくる以外には、とても静かなものだった。
 いつもと同じ無香料の石鹸、洗剤、ちり紙、それから歯磨き粉をぽんぽん籠に入れていった。会計待ちの間に店内をぼうっと眺めていたら、お徳用の手持ち花火が目に入った。そういえば去年買ったやつが未開封だっけ。

 帰り道、耿耿こうこうと日の照る往来で立ち竦んで、両掌で両太腿に触れた。腰から上がぐらりと前傾していく。眩暈めまいだ。久々に菫外線きんがいせんを浴びたせいだろうか。重心を爪先に乗せて踏みとどまれば、耳のすぐ側でチャリンと鎖が鳴った。


「……運動不足かなぁ…………」


 お姉ちゃんが遊楽ゆうらくの徒で、あたしは文弱の徒。「足して二で割ったら丁度よさそうだよな」とは前九番隊隊長六車拳西さんの呟きだ。各人別個の存在を足して割るのは不可能だけれど、少なくとも、二人が揃っていた日々は均整がとれていた。

 ……おそいなぁ。まだ帰り着かないの。

 殉職者たちのための石碑にお姉ちゃんの名を刻むか、まだ待つか。「どうしますか」って訊かれても答えを濁し続けてきたけれど、そろそろ極限かもしれない。『一年経っても戻りゃせぬ』、意味するところは――。
 お花屋さんの前を横切るあたしに、店先の仏花が強く香った。


――――――

 
 早朝から一人で黙々とメンテナンス当番の仕事をこなしていた。研究室の壁際にある大型コンピューターの横にしゃがみ込んで、送風機ファン周辺の塵と埃を小型掃除機で吸い込む機械的作業だ。ふと、ブウゥンという音の中にコンコン、というノックの音が混じってきた。手を止めて「どうぞ」といらえれば、鉄扉はゆっくりと開かれていく。


「おはようございます、ニコさん」

「おはようございます!沙生さん、もう退院されたんですね。おかえりなさい」

「はい、ただいま戻りました。金矢の復帰がまだ先になりそうなので、暫くの間はまた私が郵便屋係をやりますよ。えーっと、局長さんはお留守……じゃあこれ、机の上に置いておきますね。よろしくお伝えください」


 沙生さんは肩掛けの鞄から何枚かの書類を取り出しながら、奥に位置する局長の机の方へと歩いていく。ふらつかず、しゃんとしている。これがまさか、立て続けに二度も最上級大虚ヴァストローデに遭遇して最近まで入院していた人の背筋だとは、とても思えない。


「……あれ?あの花瓶は何処に……?」

「あっ。ちょ、ちょっと待ってくださいね」


 “あの花瓶”とは、去りし四月、ゴミ箱の中にあった萎れた浜簪を切っ掛けに、沙生さんがこの研究室に贈ってくれた一輪挿しのことだ。作業を中断して見に行ってみると、案の定すぐ近くのゴミ箱の中にあった。
 それを当然のように拾い上げて机の上に飾り直すあたしを見て、沙生さんは苦笑を浮かべた。


「む……研究室に花は要らない、と仰るのであれば素直に引き下がろうと思いますが……」

「いえ、もうこれが恒例になってきてるというか……こんなことするの局長だけですし。他の皆さんは素直に楽しみにしてます」

「ご迷惑では――」

「ないです!……ここだけの話、局長だって飾られた花に時々目を遣って小休憩してるんですよ。ただ、花が枯れちゃってると『今が捨てるチャンス!』とでも言うように丸ごとポイッとやるんですけど……まぁ、局長が素直じゃないだけです。本当に要らないんだったらとっくに叩き割られているかと!」

「そうなんですか?……ふぅん…局長さんも変な所で子どもっぽいんですねぇ……そうなら今後とも遠慮なく。ちょうど萎れる頃合いに、新しい花に挿し変えれば良いってことですよね」


 彼女はどこからともなくサッと大振りの花を取り出し、胸の前に掲げてみせた。今のは何だか手品師みたいだった。


「えっ、あれ?鞄に入れていたんですか?その割には全く潰れてない……」

「いえ、ニコさんからは死角になる所に隠していただけです」

「サラッと凄い事しますね?この花……草?けっこう大きいのに」


 花に詳しくないあたしからすると、全体が緑色の紫陽花、といった感じだ。葉の形も似ている気がする。でも、紫陽花って花までこんなに緑色になるものだったっけ?土壌の酸性度によって青から赤の間で変わる、とは過去に小耳に挟んだような――。


「ちゃんとお花ですよ。ふわふわ丸く集まって咲いていて、紫陽花にそっくりでしょう?」

「……これ、なんていうんですか?」

大手毬おおでまり。咲きたては、鮮やかな明るい緑……萌黄もえぎって言ったら良いかな?なんですけど、だんだん真っ白になっていきます。普通ならこの時期だともう白くなっているものですが、たまたま涼しい所に咲いてたのを見付けまして」

「へぇ、よく見付けられましたね。あたしだったら花だと気付かないまま通り過ぎちゃいそう」

「花がこんな色をしていると、周りの葉や他の草木に隠れてあんまり目立ちませんよね。咲き始めを山で見つけられたのは運が良かったかも……緑の花は地味に見えるから好まないって人も多いですけど、私はこれも好きなんです。若々しい生命力が溢れてる感じがしませんか?」


 ――明るい緑、萌黄で、真っ白。
   隠れて、若くて、大好きで――。


***


「ニコた〜ん!どうして見つけてくれなかったのぉ!うたた寝しちゃってたあたしも悪かったけど!夜ごはんの時間もう過ぎちゃってる、お母さんに叱られる〜!」

「だってお姉ちゃん、完璧に擬態してたんだもの」

「ギ…タ……イ?む〜またなんか難しいことば!お姉ちゃんにもわかるように言って!」

「お姉ちゃんの髪の色って綺麗な緑色してるでしょ。そのうえ今日は茶色っぽい着物きてるし」

「うんうん?」

「その恰好で新緑の森のしげみに紛れ込まれると、風景にすっかり溶け込んで何処にいるのか判らなくなっちゃう」

「え〜!あたしそんなに隠れんぼ上手だった!?」

「うん。……お姉ちゃん、あたし置いて一人で何処か遠くに行っちゃったのかと……思った…もん……」

「え!?そ、そんなことしないよぉ!しないけど!ごめんねニコたん、泣かないで〜!お姉ちゃんが隠れんぼの天才でご〜め〜ん〜!おわびに明日のおやつニコたんにあげるから!」

「……お母さん、『明日はきなこのおはぎよ』って……言ってた」

「ハッ……。い――…い、いいよ!半分あげる!だから泣きやんでニコた〜ん!笑って!ね?」


***


「ニコさんはどんな花がお好きですか?……ニコさん?」


 ――あんなに昔の事を思い出して泣いてしまうなんて。
 沙生さんは季節の花の話を聞かせてくれただけ。自分の好きな花をあたし達にも楽しんでもらおうとお裾分けしに来てくれただけ。優しい人、困らせてしまった。貴方はなんにも悪くない。ただ、あたしが、今は、ちょっと。不養生で、自律神経が傾いていたから。不安定な心を無理に立て直そうと張っていた虚勢の膜が、とうとう負荷に耐えかねて切れたというだけのこと。
 うん、これは空虚と呼ぶべきものだった。


「ニコさん、」

「ごめんなさい。あの、あたし、花のことは全然わからない、ですけど」

「はい」

「オオデマリ……それ、とっても好きです。……大好きなお姉ちゃんみたいな花だなぁって……思いました」


 笑ってみたつもりだけど、酷い顔してるに違いない。沙生さんは戸惑いながら「もしかして」、と零した。
 似ていない姉妹だねとよく言われてきた。苗字が同じでも、こちらから教えなければ思い当たらなくて然りだろう。


「あたしのお姉ちゃんは、九番隊の副隊長でした。流魂街の魂魄消失事件解決のために先遣隊として派遣されて、それから……ずっと行方不明で……」


 護廷の正式な記録上では、もう死んだことになっている。既に殉職者名簿にも名前を書き入れられている。一年経ってもお姉ちゃんのお墓が建たないのは、ひとえに親族であるあたしが拒絶しているからだ。


「でも……見つけられなくて……待ってても出てきてくれないし……きっと、もう、死――」

「ニコさん」


 彷徨うあたしの両腕を、沙生さんはしっかと掴んでくれた。倒れないように引っ張ってくれる。力強いけど痛くない、狂った秤が平らになる丁度の加減。


「だいじょうぶ」


 とても穏やかで優しい声だった。俯いていた顔をゆっくり上げてみると、いつも通りの目をした彼女が頷いた。


ましろさんは生きてるよ」


 「きっとどこかで生きてるさ」なんて散々言われてきた。「気休めは止して欲しい」とも言ってきた。でも、彼女の今の一言は、他の人のそれとは何かが違っている……と思う。
 あたしが口を開きかけると突然、ゴンゴン!とうるさく鉄扉が叩かれた。驚いて、肩を縮こめつつそちらを見遣ると、刑軍装束の知らない男の子が廊下に立っていた。彼の景気よく跳ね上がった赤い前髪は、羽根つき玉の羽根みたいだ。


「あー、あー。おこりとみ中失礼!」

「お取り込み、ね」

「沙生ちゃん、ちょっと急用だからこっちゃ来い」

「はーい、はいな。……ニコさんごめんね、大事な急用みたいなので。じゃあまたね」

「は、はい……」


 温かい手がそっと離れていった。話が尻切れ草履とんぼに終わったような名残惜しさを感じてまた俯くと、ちょん、と背中を指でつつかれた。沙生さんだと思って振り向いたら何とさっきの男の子だったので、不覚にも肩が跳ねてしまった。


「よっ!鎖がお似合いのお嬢さん。ちょっとだけ世間話しましょ。知ってます?オレぁ死神一年生なんでこの目で見たワケじゃねっスけど、なーんか現世で派手な髪色した異色の集団の目撃情報があるそうなんスよ。人間の異能持ち集団じゃないかと一部の一部で噂になっているとの噂」

「まわりくど……やナンデモナイ。ね、派手さならてんとも負けてないよね」

「まぁな!」

「え、それはどんな……噂では、何色なんですか?」


 胸の前で拳を握りしめて、声だけは縋るように尋ねた。すると、男の子は晴れやかにニッと笑う。


「応!丁度そこにある花みてぇな!……な!」


てんてん手鞠てんまり大手毬おおでまり


 他には金とか銀とかピンクもいるってよ。
 本編5話『向こう見据えた向こう見ず』での主人公さんと修兵少年の遣り取りをよく覚えてくださっている方には、何やら引っ掛かるお話になっています。殉職者名簿やお墓周りのことも今までの拍手や本編でちょこちょこ触れてきたので、思い出しながら読んでいただけると嬉しいです。童謡『鞠と殿様』とも掛けてみたので、お気が向きましたら歌詞などお調べになってみてください。
 今年の夏も厳しいですね。嘗て義務教育を受けていた頃に「30度とか信じられない!暑い〜クーラーないとか死んじゃうよ」って学校で言ってたなぁ。「君が大人になったら35度とかしょっちゅうよ」なんて教えたらひっくり返って北欧留学とか考えだしそう。

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