2023/1/31〜2/28
語り手:浦原喜助



「アイタタタ……」


 顔のド真ん中、鼻筋と垂直に交わる見事な横三本。真っ直ぐなこの傷を置き土産にくれた彼女は今しがた、ご機嫌斜めのまま“門”の向こうへと発っていった。多分長丁場になるはずで、すると謝れるのは何時いつになることやら。
 それにしても本当に身一つで行くとは、ボクにはとても真似できない軽業かるわざだ。ボクであれば発明した機器や道具色々は勿論、綿密な計画にもしもの策まで万全に用意できていないと不安で足が重くなってしまう。

 門が閉じきる前に、無意識に手を伸ばしていたらしい。瞬間、バチンと指先が弾かれたことに驚き、そして恥じた。笑ってくれる人が誰もいないときに晒す醜態の、なんと虚しいことか。捨てられたはずの未練ってやつが、ボクに対して未練がましい。後悔ってやつは先に立たず、かといって立って以降、先立ってもくれず。ズルズルといつまでも腑にしがみつかれているかのようだ。何処へなりと流れ失せてはくれないものか。


「……何をやってるんですかね、アタシは」


 元とは少し異なる独自調整を施した穿界門であっても、この拒絶の強さ。恐らくは四十六室の命令で、現世と尸魂界の境界自体に、類を見ない高度な術式が何重にも織り込まれたに違いない。浦原喜助という男一人の霊圧を通さないためだけに。大鬼道長は味方こちら側だというのに、いったい誰がこれ程の術を編んだのか。隠居されていた先代でも無理矢理引っ張ってきたか、それともまさか神兵の協力が得られたとか?
 兎に角、本気を出して対抗策を練れば突破できない事もないだろうが、今回の任は偵察・接触・集録、それから人探しだ。そこまでして自分がしゃしゃり出る幕じゃない。餅は餅屋、ここは彼女を信じて任せるべきだ。
 仮に尸魂界に戻れたとしても、時間までは戻らない。戻って何になる。何をやれる。今の自分に期待できる事など――。

 気晴らしに銀世界の散歩に出掛けた。無策に、無為に、鰾膠にべもなく。

 いつもより高い声の北風が、民家の風呂場から伸びるハゼ折り煙突の先から出る灰白かいはくを、うにゃうにゃに吹かしている。ぼやけて、ちぎれて、見えなくなってゆく。ああ、今、あんなものに憧れた。けれども、火のない所の煙は嫌いだ。まずは火を点けるところから始めないと。
 ……丁度そんなよし無し事を考えていた時だった。頃合いの妙とは奇なるもので、小説より事実でこそ、度々起こるものらしい。なんと、着ている羽織の裾から火の手が上がった。


「……アエッ!?なぜ!?」


 それは「お誂え向きでしょう」と言わんばかりに酸素を喰らって膨らんで、あわ、熱いっ、


「ごめんなさーい!!」

「ワア!?」


 あんまり急な事だったから何が起きたか分からなかった。いやまあ、ぼんやり歩いていたらいきなりこの身に火が点いて、横から走って来た人間の男に突き飛ばされて、雪かきして出来た大きな雪の塊にズボッと半身突っ込んで、おかげで鎮火したというのは解ってるんですが。何がどうしてこうなった?って話っスよ。


「ぶぶ、無事ですか!?ていうかこんな真冬なのに下駄をお履きに!?」

「ええ、あの……ド、ドーモ?」

「ごめんなさい!俺、あっちで焚火してたんです。そしたら貴男、急に燃えだしたので……多分、火の粉が風に舞って、くっ付いてしまったんですね。あちゃあ、着物が……本当に申し訳ない!」

「えーっと……そう、だったんスかね……?」


 釈然としないが、それ以外にじゃあ何か、と考えてみてもまるで思い当たらない。出火の原因となるような、虫眼鏡や火打石を衣嚢いのうにしまっていた訳でもない。そして向こうでは確かに、皚々がいがいとした景色の中で一点だけ、赤い焚火の炎が揺れている。だが、さっき吹いた風の向きはあそこからここへ、だっただろうか?自信がない。そもそも、色は何色だったっけ。


「アラ?というかアナタ、楠山サンでは?」

「え、俺のことをご存知……?失礼、てっきりお初の人かと……」

「ああいえ、初めましてっスよ。ちょっとだけアナタの噂を聞いたことがありまして」

「そうなんですか?ここらでは見掛けないお顔と思いましたが……あ、一つ山向こうとかにお住まい?」

「ハイ、そんな感じっス」


 「アナタが毎月欠かさずあの子の月命日に訪れている山頂のお屋敷に勝手に住み着いてる者です」なんて真実は絶対に言えない。
 彼はお詫びがしたいと言って、すぐそこの家に招いてくれた。雪を吸って濡れた上着を乾かす間、掘り炬燵でお茶をご馳走になる。「よければこれもどうぞ」と、何故か美味しそうな善哉ぜんざいまで。


「そのー、噂ってどんなのですかね……?俺は出戻りというか、実質新参で。ご近所とは仲良くしたいので、悪い所があるなら直したく……」

「いやいや、悪い噂じゃないっスよ、全然」


 実を言うと噂を聞く前からアナタのことは存じておりますが。噂を聞いたのも本当だ。


「今の時代、帯刀してる人なんてそういませんもん。ピンときました」

「ああ、これの噂でしたか。ハハ、こればかりはたとえ『佩くな』と言われても直す気はありませんが……」

「いえ、もう一度言いますけど悪い噂ではないんですよ。『あの亡くなられた道場の師範の、優秀な養子さんだ』って。『腕が良いんだから道場継いで再開しないのかしら』って、奥様方が言ってました」


 これについてはボクもずっと気になっていて、いつか本人に訊いてみたかったのだ。もし目の前の彼がその気なら、あの道場と屋敷は良い拠点だったが仕方がない、ボクらは身を引いて他の地へ越そうと思う。


「そうでしたか……やぁ、嬉しいです。でも俺、道場は継ぎません。継げません」

「それはまた、どうして」

「師匠と約束した事があるんです。俺が道場を継いでも良いって条件について」


 彼は愛刀の柄に触れて、少し間を置いた。にこにこしながら、溜息も一つ。


「『儂の孫に勝てるほどの腕前になったなら、孫も道場もくれてやろう』と」

「えっ!?あー……アララ……それは……」

「命の恩人でもある師匠に誓った約束ですから。破りたくないのです」

「てことは……そのお孫さん、相当強かったんですねぇ」

「っはは、それはもう。俺より年下の子だったんですがね。強くて、可愛いひとでした」


 こ、これは初耳。何故だかこっちがドキドキしてきた。ちょっと天鷹サン、死んでる場合じゃないっスよ!大事な愛娘、死んでなかったら取られてたかもしれないですよ!


「……じゃあ、やっぱり継がないんスね。それだとアナタ、何を生業にするおつもりで?都でのお勤めは辞めて来ちゃったそうですが……」

「一応ちゃんと考えてますよ。ソレです」


 彼は、ボクがたったいま口をつけた椀を指差して言った。これはなかなか、いや、相当旨い。


「甘味……茶屋ですか?」

「そうなりますかね。和菓子全般やってみようと思ってます」

「ほう……良いと思いますよ。もう早速、アタシの胃袋は掴まれましたから」

「ははは。ありがとうございます」


 この家の隣にある古い蔵を改装して店にする計画を進行中なんだそうだ。問題はまずそのための費用……とのことだが、それなら今のご時世、鼠を捕まえまくればいい。蔵の掃除と同時進行で一石二鳥、一匹五銭。ちょうど鼠年から始まって丸一年経ってもまだ鼠を獲って買い上げてもらおうだなんて、干支の神様とか動物の神様は何を思うことでしょうね。


「アタシも暫く暇な身でして。宜しければ色々とお手伝いしますよ」


余燼よじんやれ善し雪催ゆきもよ


 『このほの』世界の1901年1月末のお話でした。結局あれは何の火だったのか。はっきりしないまま一旦切られましたが、火の粉が降りかかったのは事実。はてさて。
 鼠の話が何のことだか気になった方は、「ペスト ネズミ 買い上げ」で調べてみてください。日本史や法律が好きな方にとっては面白い記事がいっぱい出て来ますよ。夏目漱石の『吾輩は猫である』を読んだからその話知ってる!という方もいらっしゃるかと思います。
 ふと気になったのですが、そうなると現代のコロナ禍の歴史はどのように後世に残り伝えられていくのでしょうか。とても興味があります。コロナ禍を歌った曲といえば、私は感覚ピエロの『感染源』がまず最初に思い浮かびました。小説という媒体にもどなたかが既に表していることでしょう。次代の夏目漱石になるなら今がチャンス(?)。
p.s. ペストの曲なら『ラットが死んだ』が好きです。特に島爺さん歌唱ver.カッコいい。

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5/12/70
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