革正を執る求星手
喜々として仕入れの経緯を語る商人を前に、セヴェンは腸が煮えくり返るようだった。
――抑えろ、抑えろ。こいつが踵を返して俺の視界から消えるまでは。
引き攣った笑みを浮かべ、曖昧な相槌しか打たないセヴェンの心の内を悟ってくれる気配は全くない。それどころか、この話題に関心をお持ちだとでも勘違いしているのか、ベラベラと別の仕入れネタまで披露してくるのだから憎らしいことこの上なかった。
数分後、セヴェンは漸く究極の徒話から解放された。喉の奥から蛇がせり上がってきたみたいに気持ちが悪い。あの豚みたいに太った醜い商人、帰りがけにドラゴンに攫われて火山に落とされて丸焼けになってしまえばいいのに、と思うくらいには気分が荒れていた。こんなにやり場のない怒りを覚えたのは、今まで生きてきて初めてかもしれない。激情がどろどろと湧いて広がる。
今しがた置いていかれた額縁に手をかけ、表面のガラスを叩き割る。そして中に何枚も並べて飾られていた青褐の羽根をきれいに引っ剝がした。王城内でも端に位置するこの塔には滅多に人が来ない。だから多少派手にやっても問題あるまいという乱暴な考えは、普段の彼らしくなく、そして高を括っていた。
「その羽根、どうなさるおつもりですか」
背後から声が掛けられた。控えめな声量だったが、今のセヴェンの心臓をバクンと脈打たせるには十分だった。
「……どちら様?ここは部外者の立ち入りは許可しないはずだ。それとも、お前も何か献上しに来た商人か?」
「いいえ、違います。……失礼をお許しください。私は離宮に招かれた神官なのですが、お恥ずかしながら、私には王城はあまりに広く……帰り道に迷っていたところ、大きな音が聞こえたので……思わず足が向いてしまったのです」
「……神官殿か。はぁ、嫌なところを見られてしまったな……」
神官を名乗る彼の落ち着いた声が打ち水となったのだろう、さっきまでの熔岩のような激情は嘘みたいに鎮まっていく。ただ、中途半端に冷えて固まった歪な形のそれは、邪魔な石として胸に残る。セヴェンは努めて平静を取り繕うが、自分で思っている以上に苦々しいといわんばかりの表情を晒していた。
「……お辛そうですね。通りすがりの神官で良ければ、お聞きしますよ」
「うーん……誰かに聞いてもらったら少しは心が軽くなるだろうか。でも、こういう話題を振る相手は慎重に選べと言われていてね。……神官殿は、ラグズは嫌いかい?」
会話するには些か遠い距離を保ったまま、セヴェンは若干おどけたように問い掛けた。無理をしているのは明らかで、声色に反して伏し目がちなままだ。
「ラグズ、と……そう呼ぶあなたは、デインに生まれながら彼らに偏見をもたない稀有な人のようですね」
「問いの答えは?」
「答えならば、いいえ。彼らを半獣などという差別用語で呼ぶことは決してしません」
「そう……ならそちらも奇特じゃないか。俺の周りには案外そういうベオクが集まるのかな」
「例えば、どのような?」
「両親と師、それにお抱えの芸術家の中にも少しいてね。まぁ、殆どの親族や胡麻擂り将校なんかはラグズという言葉自体知らないようなやつばかりだけど……だから神官殿も、ここでは無知な彼らに合わせておいたほうが無難だよ」
「ご助言ありがとうございます。そうすることにしましょう。……それで、私はあなたのお話を聞くに値するでしょうか?」
「……ああ」
セヴェンはひとまず広間の隅にある豪奢な椅子を勧めた。神官を名乗る男は畏れ多くて最初は遠慮したのだが、どんなに貴重な工芸品も高価な調度品も、一度ここに収蔵されれば二度と日の目を見なくなり、勿体ないので寧ろ是非使ってくれ、と言われては大人しく座るしかなかった。
デイン王国各地の文化と技術の粋を集めた品が所狭しと並ぶこの塔を、“宝の墓場”と呼ぶ使用人もいるそうだ。王家の誰かが趣味で蒐集しているわけでもないらしい。金と権力のある所には、そのご利益に肖ろうとする者たちからの贈り物が勝手に集まる。献上品とは名ばかりで、実際は賄賂に近いのだろう。
「神官殿は、この羽根が何だか分かるかい」
「美しいですね。ですが……もし私の考えが正しければ、それは人の負の象徴といえるでしょう」
「そう。どういう経緯でこれが献上品としてここに運ばれてきたのか……真面な感性をしていれば、言うも憚るものさ」
絨毯の上には割れたガラスが散らばったままだ。絵画や昆虫標本のように一つの作品として在ったはずの額縁は、最早ゴミ同然に転がされている。一見すれば、セヴェンが怒りに任せて偶々手近にあった物に八つ当たりしたかのような状況である。ところが、取り出した羽根を持つ彼の手つきは、悲しくなるくらいに優しい。
「セリノスで虐殺があったことはご存知だろう?……ミサハ様を暗殺したのが鷺の民だなんて、そんなこと絶対あり得ないのに」
「はい。豊かだったセリノスの森は、見る影もなく……血と灰が降り積もったそうです」
「デインでは『半獣は人間を無差別に襲う敵だ』と教えられる。幸い、俺は偏見を偏見と知らず植え付けられる前に色んな価値観や考え方を知る機会があったから、そんなの間違いだって分かるんだけど」
「あなたにその機会を与えてくれたのは、ご両親ですか?」
「あー……聞いて貰っておいて悪いけど、それはどうか秘密にさせてほしい」
セヴェンがそう言ったとき、話し始めてから初めてちゃんと目が合った。答えられないことを申し訳なく思っているのだろう、一片の邪気もない誠意が伝わってくる。
――適当に嘘を吐くか、はぐらかすことも出来たでしょうに。真摯な人だ。
神官を名乗る男は、実はやろうと思えば人の心を読むことができる。だが今この時、それをやろうという気は起きなかった。魚心あれば水心、誠意には誠意を。目を覆いたくなるような惨劇に見舞われ、全世界を欺こうという結論に至った男はしかし、元来の気質ゆえか、無意識のうちにこの真摯な少年の裏をかくことを拒んだ。
「構いませんよ。無為に発きたいとまでは思いません」
「ありがとう。……それで、ええと――」
セヴェンはホッとしたように肩の力を抜くと、再び手の中の羽根に目を落とす。彼の眉間が寛いでいたのはほんの僅かな時で、男が一度瞬くと、またキュッと皺が寄っていた。
「俺はラグズを特別視しているわけでも、ベオクを見限っているわけでもない。逆もそうだ。常に公正中立の視点を忘れたくない」
「殊勝なことです」
「どうも。でも、それがここ最近はグラグラでね。『無差別に襲う』ってどっちが、どの口がと思ってしまう」
「……無抵抗だった鷺の民を殺し尽くしたベグニオン人が赦せませんか」
「寒気すらする。無辜の民を悉く暴力で潰したんだ。年寄りも子供もいたろう。それに……ベグニオン人だけじゃない。この青褐の羽根は、混乱に乗じてラグズ狩りに行ったデイン人が『仕入れた』ものだそうだ」
「! そんな……」
「『一等高く売れそうな王族の白い羽根は採れなかったのが口惜しい』とまで宣った。人の心がないとしか思えない」
「……それでも彼らは人です。暴力で人の命を奪う、私たちと同じ人なのです」
きっぱりと言えば、セヴェンはぴたりと動きを止めた。俯いた彼の瞳に影が差す。以前、遠くから見かけた際にはきらきらと輝いていた琥珀色を自分の一言で暗く濁らせてしまったことに、罪悪感は――露ほどもある。
ええ、受け入れがたい事実でしょう。私も認めるのに何百年とかけてしまいましたから。
男もかつては人を信じようとした。争いは治められると。手を取り合えると。何度も願い、何年も叶わなかった。何年も見守り、何度も裏切られた。
……もう、無理なのだ。それが真理であり、必定であると受け入れよう。彼らを人でないとするのは現実逃避に他ならない。人は人を差別するし、人は人を殺す。人を虐げるのは悪魔でも怪物でもない、人なのだ。
「はは……正論だ。神官殿、あんたなかなか意地が悪いな。このままだと俺は人嫌いになってしまう」
「虐殺を行ったのは一部の悪いベオクに過ぎない、彼らは人ではない、そう言って欲しかったのですか? ふふ……でしたら、相談相手を誤りましたね。生憎ですが、私は一時の気慰めのための言葉は持ち合わせておりません」
善性とはあやふやなもの。孤独から逃れたいというだけの理由で手放してしまう者もいるのです。
(引き込もうなどと考えるでないぞ)
聡明で優しいベオクの子よ。あなたも変えようのない人の本質に気付いてしまったのであれば、
(あやつはこちらの色には染まらぬ)
このまま贄とされるより、私の元に――
「私たちは世界から身を引くべきだとは思いませんか。人は……裁きを受けるべきだと」
気が付くと本心を語っていた。男はそんな自分に驚き、ハッとして口を引き結ぶ。心臓の音が急に耳につくようになって、腹の奥がひんやりと温度を失っていく気がした。恐る恐る顔を上げてみると、セヴェンは瞼を閉じて顎に手をやり、何か考え込んでいる様子であった。
「……目を逸らしていたら深奥が見えるはずもない、か。見留めて、解法を探って、一つずつ善くしていくしかないんだろうな……」
「え……?」
「ああ、認めよう。彼らも人だ。そして俺は彼らが嫌いだ。というか、虐殺なんてするやつを赦して好きになれる方がおかしいだろ。神官殿の言う通り、裁かれて然るべきだと思う。けれども、」
瞼が開かれ、ばちりと視線が交わる。迷いという濁りはとうに消えていて、代わりに意志を宿していた。揺れることのない曇りなき眼は、その中にしっかりと男の姿を捉えている。
「裁くのは正すためだ。道理を守る者が馬鹿を見ないで済む世の中にしていくためだ」
男は堪らず目を逸らした。セヴェンには男の抱いている野望など知る由もないのに、まるで全てを見透かされたうえで「滅ぼすことが裁きではない」と叱られたような錯覚に陥ったのだ。
――それでも。彼の言っていることは、百年すらも生きていない若者だからこそ無邪気に掲げられる夢幻に過ぎない。繰り返される悲劇を、地獄を、知らないから易々と口にできるだけだ。まだ希望が擦り切れていないから。
嫉妬にも似た感情が堰を切ったように溢れてきて、それは言葉となって口から零れる。
「一筋縄ではいかないでしょう。多くの偉人英雄が、かれこれ何百年とその理想を追い続けてきました」
「ふふん、ならば尚更、俺たちの代で諦めるわけにはいかないな」
「あなたも、先が見えないまま……寿命が来てしまうかもしれません」
「少しでも進めればいい。先人たちがそうしてきたように、誰かに後を託して逝こう」
「縦んば天賦の才をもつ者であっても、たった一人で足掻いたところで、世界は広く、思想は多様です」
「一人でやったら、それは独裁になりかねない。俺は各地を巡り、信頼に足る仲間を集めてみせる」
「……人は過ちを犯すものですよ」
「何も間違えずに生きられるなんて思っちゃいないさ。ただ俺は、自分にも他人にも寛容でありたい」
揺らがない。もう、どうつついても転んでくれない。そんな気にさせるつもりは微塵もなかったのに、何を勝手に新たに決意しているのか。私の言葉のどこが彼に火を点けた? 何が嬉しくて微笑む? そんなに澄んだ琥珀色で私を見ないで。私、私には――
(貴様にとっての毒であろうな)
――彼の目は、毒だ。
「それにしても『身を引く』、とは……神官殿は厭世が過ぎて引き籠りたくなったのかい?」
「そうですね……私は、静かで穏やかな日常を……尊く思います……」
「うん。それも素敵じゃないか。世の中を良くしていくために必要なのは、なにも先頭に立つ指導者だけではないと思う。神官殿が正しく慎ましやかに暮らす等身大の背を見て、それに倣おうとする者がきっといるだろう」
「はい……私があなたと同じ舞台に並び立つことは、おそらくないでしょう。ですが……あなたが導くという世界の行く末を、私は陰ながら見守らせていただきましょう」
セヴェンが掴もうとする未来と、男が企む人類の滅亡。二つの願いはどこまでも対極にある。しかしながら、一瞬とはいえ、男は彼も同じなのではないかと期待してしまった。愚かにも、共に歩めれば心強いと。男はその事がどうしようもなく辛くなって、この場から一刻も早く立ち去りたいという衝動に駆られた。こんなとき、思わず時計に目を遣ってしまうのは万人に共通する。
「おや。神官殿はこのあと何か用事でもお有りかな?」
「ええ、まぁ……」
「それは済まなかった。お茶も出ないのに長い話に付き合ってくれて感謝する。おかげで心の整理がついた」
「いえ、こちらこそ。興味深いお話が聞けました」
男はさっと立ち上がると丁寧に一礼した。にこりと爽やかな笑みを浮かべてセヴェンもお辞儀を返す。そしてすっかり見送る体勢に入り、こちらに背を向ける男をぼうっと眺めていたのだが、ふと思い出したように「あっ」と口を開いた。
「最後に一つ尋ねたい。この鷺の民の羽根……弔ってやるには、どうすれば良いだろうか」
「……鷺の民は……死者が安らかなる眠りにつけるよう、呪歌と祈りを捧げます。亡骸は美しい森の木陰に埋め、土に還す……のが…慣わしであるそうです」
「呪歌を……」
「知らないのは無理もありません。ええ、きっとお気持ちだけで十分です。……そして……故人の羽根や髪をお守りとして身に着けることもあります。清廉な心を持つあなたであれば……それを大切に持ち続けるだけでも、弔いとなるでしょう」
「そうか……ありがとう、心得た。引き留めて申し訳ない」
「……どうか安らかに眠れるよう……私もお祈りいたします。さようなら、セヴェン殿」
後ろ髪を引かれる心地がする。だが、もう後戻りはできないのだ。優柔と未練を断つために、二度は振り返らなかった。
――抑えろ、抑えろ。こいつが踵を返して俺の視界から消えるまでは。
引き攣った笑みを浮かべ、曖昧な相槌しか打たないセヴェンの心の内を悟ってくれる気配は全くない。それどころか、この話題に関心をお持ちだとでも勘違いしているのか、ベラベラと別の仕入れネタまで披露してくるのだから憎らしいことこの上なかった。
数分後、セヴェンは漸く究極の徒話から解放された。喉の奥から蛇がせり上がってきたみたいに気持ちが悪い。あの豚みたいに太った醜い商人、帰りがけにドラゴンに攫われて火山に落とされて丸焼けになってしまえばいいのに、と思うくらいには気分が荒れていた。こんなにやり場のない怒りを覚えたのは、今まで生きてきて初めてかもしれない。激情がどろどろと湧いて広がる。
今しがた置いていかれた額縁に手をかけ、表面のガラスを叩き割る。そして中に何枚も並べて飾られていた青褐の羽根をきれいに引っ剝がした。王城内でも端に位置するこの塔には滅多に人が来ない。だから多少派手にやっても問題あるまいという乱暴な考えは、普段の彼らしくなく、そして高を括っていた。
「その羽根、どうなさるおつもりですか」
背後から声が掛けられた。控えめな声量だったが、今のセヴェンの心臓をバクンと脈打たせるには十分だった。
「……どちら様?ここは部外者の立ち入りは許可しないはずだ。それとも、お前も何か献上しに来た商人か?」
「いいえ、違います。……失礼をお許しください。私は離宮に招かれた神官なのですが、お恥ずかしながら、私には王城はあまりに広く……帰り道に迷っていたところ、大きな音が聞こえたので……思わず足が向いてしまったのです」
「……神官殿か。はぁ、嫌なところを見られてしまったな……」
神官を名乗る彼の落ち着いた声が打ち水となったのだろう、さっきまでの熔岩のような激情は嘘みたいに鎮まっていく。ただ、中途半端に冷えて固まった歪な形のそれは、邪魔な石として胸に残る。セヴェンは努めて平静を取り繕うが、自分で思っている以上に苦々しいといわんばかりの表情を晒していた。
「……お辛そうですね。通りすがりの神官で良ければ、お聞きしますよ」
「うーん……誰かに聞いてもらったら少しは心が軽くなるだろうか。でも、こういう話題を振る相手は慎重に選べと言われていてね。……神官殿は、ラグズは嫌いかい?」
会話するには些か遠い距離を保ったまま、セヴェンは若干おどけたように問い掛けた。無理をしているのは明らかで、声色に反して伏し目がちなままだ。
「ラグズ、と……そう呼ぶあなたは、デインに生まれながら彼らに偏見をもたない稀有な人のようですね」
「問いの答えは?」
「答えならば、いいえ。彼らを半獣などという差別用語で呼ぶことは決してしません」
「そう……ならそちらも奇特じゃないか。俺の周りには案外そういうベオクが集まるのかな」
「例えば、どのような?」
「両親と師、それにお抱えの芸術家の中にも少しいてね。まぁ、殆どの親族や胡麻擂り将校なんかはラグズという言葉自体知らないようなやつばかりだけど……だから神官殿も、ここでは無知な彼らに合わせておいたほうが無難だよ」
「ご助言ありがとうございます。そうすることにしましょう。……それで、私はあなたのお話を聞くに値するでしょうか?」
「……ああ」
セヴェンはひとまず広間の隅にある豪奢な椅子を勧めた。神官を名乗る男は畏れ多くて最初は遠慮したのだが、どんなに貴重な工芸品も高価な調度品も、一度ここに収蔵されれば二度と日の目を見なくなり、勿体ないので寧ろ是非使ってくれ、と言われては大人しく座るしかなかった。
デイン王国各地の文化と技術の粋を集めた品が所狭しと並ぶこの塔を、“宝の墓場”と呼ぶ使用人もいるそうだ。王家の誰かが趣味で蒐集しているわけでもないらしい。金と権力のある所には、そのご利益に肖ろうとする者たちからの贈り物が勝手に集まる。献上品とは名ばかりで、実際は賄賂に近いのだろう。
「神官殿は、この羽根が何だか分かるかい」
「美しいですね。ですが……もし私の考えが正しければ、それは人の負の象徴といえるでしょう」
「そう。どういう経緯でこれが献上品としてここに運ばれてきたのか……真面な感性をしていれば、言うも憚るものさ」
絨毯の上には割れたガラスが散らばったままだ。絵画や昆虫標本のように一つの作品として在ったはずの額縁は、最早ゴミ同然に転がされている。一見すれば、セヴェンが怒りに任せて偶々手近にあった物に八つ当たりしたかのような状況である。ところが、取り出した羽根を持つ彼の手つきは、悲しくなるくらいに優しい。
「セリノスで虐殺があったことはご存知だろう?……ミサハ様を暗殺したのが鷺の民だなんて、そんなこと絶対あり得ないのに」
「はい。豊かだったセリノスの森は、見る影もなく……血と灰が降り積もったそうです」
「デインでは『半獣は人間を無差別に襲う敵だ』と教えられる。幸い、俺は偏見を偏見と知らず植え付けられる前に色んな価値観や考え方を知る機会があったから、そんなの間違いだって分かるんだけど」
「あなたにその機会を与えてくれたのは、ご両親ですか?」
「あー……聞いて貰っておいて悪いけど、それはどうか秘密にさせてほしい」
セヴェンがそう言ったとき、話し始めてから初めてちゃんと目が合った。答えられないことを申し訳なく思っているのだろう、一片の邪気もない誠意が伝わってくる。
――適当に嘘を吐くか、はぐらかすことも出来たでしょうに。真摯な人だ。
神官を名乗る男は、実はやろうと思えば人の心を読むことができる。だが今この時、それをやろうという気は起きなかった。魚心あれば水心、誠意には誠意を。目を覆いたくなるような惨劇に見舞われ、全世界を欺こうという結論に至った男はしかし、元来の気質ゆえか、無意識のうちにこの真摯な少年の裏をかくことを拒んだ。
「構いませんよ。無為に発きたいとまでは思いません」
「ありがとう。……それで、ええと――」
セヴェンはホッとしたように肩の力を抜くと、再び手の中の羽根に目を落とす。彼の眉間が寛いでいたのはほんの僅かな時で、男が一度瞬くと、またキュッと皺が寄っていた。
「俺はラグズを特別視しているわけでも、ベオクを見限っているわけでもない。逆もそうだ。常に公正中立の視点を忘れたくない」
「殊勝なことです」
「どうも。でも、それがここ最近はグラグラでね。『無差別に襲う』ってどっちが、どの口がと思ってしまう」
「……無抵抗だった鷺の民を殺し尽くしたベグニオン人が赦せませんか」
「寒気すらする。無辜の民を悉く暴力で潰したんだ。年寄りも子供もいたろう。それに……ベグニオン人だけじゃない。この青褐の羽根は、混乱に乗じてラグズ狩りに行ったデイン人が『仕入れた』ものだそうだ」
「! そんな……」
「『一等高く売れそうな王族の白い羽根は採れなかったのが口惜しい』とまで宣った。人の心がないとしか思えない」
「……それでも彼らは人です。暴力で人の命を奪う、私たちと同じ人なのです」
きっぱりと言えば、セヴェンはぴたりと動きを止めた。俯いた彼の瞳に影が差す。以前、遠くから見かけた際にはきらきらと輝いていた琥珀色を自分の一言で暗く濁らせてしまったことに、罪悪感は――露ほどもある。
ええ、受け入れがたい事実でしょう。私も認めるのに何百年とかけてしまいましたから。
男もかつては人を信じようとした。争いは治められると。手を取り合えると。何度も願い、何年も叶わなかった。何年も見守り、何度も裏切られた。
……もう、無理なのだ。それが真理であり、必定であると受け入れよう。彼らを人でないとするのは現実逃避に他ならない。人は人を差別するし、人は人を殺す。人を虐げるのは悪魔でも怪物でもない、人なのだ。
「はは……正論だ。神官殿、あんたなかなか意地が悪いな。このままだと俺は人嫌いになってしまう」
「虐殺を行ったのは一部の悪いベオクに過ぎない、彼らは人ではない、そう言って欲しかったのですか? ふふ……でしたら、相談相手を誤りましたね。生憎ですが、私は一時の気慰めのための言葉は持ち合わせておりません」
善性とはあやふやなもの。孤独から逃れたいというだけの理由で手放してしまう者もいるのです。
(引き込もうなどと考えるでないぞ)
聡明で優しいベオクの子よ。あなたも変えようのない人の本質に気付いてしまったのであれば、
(あやつはこちらの色には染まらぬ)
このまま贄とされるより、私の元に――
「私たちは世界から身を引くべきだとは思いませんか。人は……裁きを受けるべきだと」
気が付くと本心を語っていた。男はそんな自分に驚き、ハッとして口を引き結ぶ。心臓の音が急に耳につくようになって、腹の奥がひんやりと温度を失っていく気がした。恐る恐る顔を上げてみると、セヴェンは瞼を閉じて顎に手をやり、何か考え込んでいる様子であった。
「……目を逸らしていたら深奥が見えるはずもない、か。見留めて、解法を探って、一つずつ善くしていくしかないんだろうな……」
「え……?」
「ああ、認めよう。彼らも人だ。そして俺は彼らが嫌いだ。というか、虐殺なんてするやつを赦して好きになれる方がおかしいだろ。神官殿の言う通り、裁かれて然るべきだと思う。けれども、」
瞼が開かれ、ばちりと視線が交わる。迷いという濁りはとうに消えていて、代わりに意志を宿していた。揺れることのない曇りなき眼は、その中にしっかりと男の姿を捉えている。
「裁くのは正すためだ。道理を守る者が馬鹿を見ないで済む世の中にしていくためだ」
男は堪らず目を逸らした。セヴェンには男の抱いている野望など知る由もないのに、まるで全てを見透かされたうえで「滅ぼすことが裁きではない」と叱られたような錯覚に陥ったのだ。
――それでも。彼の言っていることは、百年すらも生きていない若者だからこそ無邪気に掲げられる夢幻に過ぎない。繰り返される悲劇を、地獄を、知らないから易々と口にできるだけだ。まだ希望が擦り切れていないから。
嫉妬にも似た感情が堰を切ったように溢れてきて、それは言葉となって口から零れる。
「一筋縄ではいかないでしょう。多くの偉人英雄が、かれこれ何百年とその理想を追い続けてきました」
「ふふん、ならば尚更、俺たちの代で諦めるわけにはいかないな」
「あなたも、先が見えないまま……寿命が来てしまうかもしれません」
「少しでも進めればいい。先人たちがそうしてきたように、誰かに後を託して逝こう」
「縦んば天賦の才をもつ者であっても、たった一人で足掻いたところで、世界は広く、思想は多様です」
「一人でやったら、それは独裁になりかねない。俺は各地を巡り、信頼に足る仲間を集めてみせる」
「……人は過ちを犯すものですよ」
「何も間違えずに生きられるなんて思っちゃいないさ。ただ俺は、自分にも他人にも寛容でありたい」
揺らがない。もう、どうつついても転んでくれない。そんな気にさせるつもりは微塵もなかったのに、何を勝手に新たに決意しているのか。私の言葉のどこが彼に火を点けた? 何が嬉しくて微笑む? そんなに澄んだ琥珀色で私を見ないで。私、私には――
(貴様にとっての毒であろうな)
――彼の目は、毒だ。
「それにしても『身を引く』、とは……神官殿は厭世が過ぎて引き籠りたくなったのかい?」
「そうですね……私は、静かで穏やかな日常を……尊く思います……」
「うん。それも素敵じゃないか。世の中を良くしていくために必要なのは、なにも先頭に立つ指導者だけではないと思う。神官殿が正しく慎ましやかに暮らす等身大の背を見て、それに倣おうとする者がきっといるだろう」
「はい……私があなたと同じ舞台に並び立つことは、おそらくないでしょう。ですが……あなたが導くという世界の行く末を、私は陰ながら見守らせていただきましょう」
セヴェンが掴もうとする未来と、男が企む人類の滅亡。二つの願いはどこまでも対極にある。しかしながら、一瞬とはいえ、男は彼も同じなのではないかと期待してしまった。愚かにも、共に歩めれば心強いと。男はその事がどうしようもなく辛くなって、この場から一刻も早く立ち去りたいという衝動に駆られた。こんなとき、思わず時計に目を遣ってしまうのは万人に共通する。
「おや。神官殿はこのあと何か用事でもお有りかな?」
「ええ、まぁ……」
「それは済まなかった。お茶も出ないのに長い話に付き合ってくれて感謝する。おかげで心の整理がついた」
「いえ、こちらこそ。興味深いお話が聞けました」
男はさっと立ち上がると丁寧に一礼した。にこりと爽やかな笑みを浮かべてセヴェンもお辞儀を返す。そしてすっかり見送る体勢に入り、こちらに背を向ける男をぼうっと眺めていたのだが、ふと思い出したように「あっ」と口を開いた。
「最後に一つ尋ねたい。この鷺の民の羽根……弔ってやるには、どうすれば良いだろうか」
「……鷺の民は……死者が安らかなる眠りにつけるよう、呪歌と祈りを捧げます。亡骸は美しい森の木陰に埋め、土に還す……のが…慣わしであるそうです」
「呪歌を……」
「知らないのは無理もありません。ええ、きっとお気持ちだけで十分です。……そして……故人の羽根や髪をお守りとして身に着けることもあります。清廉な心を持つあなたであれば……それを大切に持ち続けるだけでも、弔いとなるでしょう」
「そうか……ありがとう、心得た。引き留めて申し訳ない」
「……どうか安らかに眠れるよう……私もお祈りいたします。さようなら、セヴェン殿」
後ろ髪を引かれる心地がする。だが、もう後戻りはできないのだ。優柔と未練を断つために、二度は振り返らなかった。