3 聯関デジャヴ
 四季では冬が一番いい。ほうっと吐いた呼気が白くなるのは趣おもむきがあっていい。寒さで体表は冷たくなるけれど、おかげでいっそう体内の温ぬくさを実感できる。心の温度はどうだか知らない。でも、こんな自分でも確かに内に熱を秘めているのだと、まだ冷えきっちゃいないさと、そう思えて、しみるほど胸がすくんだ。


***


 今から約三年前。その日のソウリュウシティは、セッカの湿原から川を越えて流れ込んできた濃霧に覆われていた。伸ばした自分の手の先が、まるでぼかしブラシをかけたみたいに霞んで見えた。しかも時は夕方過ぎとあって、それはもう絶景の視界不良――この場合の絶は常例通りの絶品とか秀絶の絶ではなく、絶望とか途絶の絶である――だった。見晴らしが悪く、みにくかった。素晴らしく見難かった。絶たれた景観という意味で絶景といえた。
 街並みは昔ながらのものなのか、近代的なものなのか、霧きり暗くらんでそれすら見分けがつかない。だから、すれ違う人の顔など尚更見分けられるはずもない。「誰たそ彼がれ時どき」なんて詩的に表しちゃいられない、風情も行儀もかなぐり捨てて「お前め誰だれタイム」と命名したくなるくらいに昏くらくなっていったのだった。

 カキツバタ少年はおつかいを終えて帰路に就いていた。この当時の彼の恰好は、現在の彼とは大きく様相が異なっていた。端的に言えばそう、余所よそ行きのお坊ちゃんスタイルだった。普段は遊ばせたり逆立たせたりしている髪は丁寧に梳とかし下ろしていたし、服装だってゆるいスタイルが好みなのにお固くきっちりしていた。パリッと糊のりのきいた真っ白なシャツに、皴しわひとつないベージュのスラックス、ピカピカに磨かれたコーヒー色の革靴。服装に引っ張られて、姿勢も若干矯正されていた。なかなか纏まとわないフォーマルは人の背筋を伸ばすものだ。仮に少年がこの当時の姿で現在の友人達とすれ違ったとしたら、十人が十人、彼だと気付けずに終わるだろう。立ち止まって注視すれば或いは、という可能性なら無くはない。
 少年は濃霧の中を敢然と行く。生まれ育った街だ、たとえ疲れて夢の中に入りかけている状態だったとしても迷わない自信があった。おつかいで聞かされたお話の報告と持たされたお土産の献上をしに向かう目的地は、家ではなく、この街のポケモンジムである。

 少年は足を止めた。ジムの門前で壁に背を預けてじっと佇たたずむ人の存在に気付いたからだ。その人の背丈は、自分と同じか少し低い程度。黒のキャップを目深まぶかに被り、黒いサングラスで視線をシャットアウトし、上下セットの黒地に金ラインのジャージはダボダボだ。少年は不審者のお手本のようなその姿に目を疑い、不躾ぶしつけとは思えどジッと目を凝らしてみた。辛うじて新たに判わかったのは、黒のキャップに白い糸で刺繍されたツンベアーのシルエットと洒落た字体のロゴだけ。あとはいくら眺めようと仕様がない。見詰めて意図まで読めるなら苦労はない。
 何用の何者なのか気になりつつも、少年はその人に声を掛けないまま、一歩、中に足を踏み入れた。

 大改装されたソウリュウシティジムは四階層からなる。といっても、階層を区切る天井や床は一切ない。突き抜けた高さを誇る一つの大部屋の中に、摩天楼まてんろうもかくやという超巨大な竜を模した造形物が白と黒の二つあって、このうち白い方の竜の下から尾・足・手・頭それぞれの上に立つジムトレーナーやジムリーダーが挑戦者を待ち構える。どうやってそこまで行くのかというと、挑戦者はまず黒い方の竜の頭に乗らされるのだが、なんとこれが梯子車はしごしゃさながらに上下に伸びるし左右に動く。世界中を見渡してもトップレベルに気合の入った設えセットと仕掛けギミックを誇るジムなのである。
 無論、施工費もトップレベルである。出資はポケモンリーグからの援助が大きいとはいえ、そんなに大金をかけても市長ジジイの支持率は下がらなかったんだから見上げたもんだ――少年はお高い所に立っている市長ジムリーダーその人を眇すがめ遣やった。そこへ黒い竜が轟々と音を立てて昇のぼっていく。遠目だが、乗っているのは自分と同世代のトレーナーに見える。どうやら丁度これからおっ始ぱじめる場面らしい。そうなると、話せるのは勝負も回復も全部終わってからになるだろう。こんなことなら寄り道でもしてくるんだった。少年は頭を掻かきながら回れ右をして、一歩、入ったばかりのジムを出る。

 少年はまた足を止めた。ジムの門前で壁に背を預けてじっと佇む人の存在を忘れていたからだ。不覚。ついさっきの事だったというのに、すっかり頭から抜けていた。三歩あるいて忘れるなんて、己はマメパト頭か。自嘲するしかない。
 その人と目が合った。いや、合った気がした。なにしろサングラスだ。そのうえ霧が止む気配は微塵もなく、それどころか無尽のように濃さを増していくから、すぐ傍に立っていても認識が心許もとない。この距離でもう相手の足元が全く見えない。……まさか、生えているよな?生えていたよな?
 男か女か、生者ひとか幽霊おばけかさえ判別がつかない霧立人きりたちひとに、声を掛けようか掛けまいか――


「……あなたもジム挑戦者ですか?」


 寸時逡巡している間に、向こうが先に口を開いた。見た目からは想像できなかったお淑しとやかな物腰に、少々耳を疑った。声量は控えめだが落ち着いていて聞き取りやすく、ソプラノよりはアルト寄りの、どこかクールな印象の少女の声だった。
 何よりまずは女の子であったことに驚いた。ジャージがダボダボ過ぎて大凡おおよその体格さえ掴めなかったし、髪は短めなのか若もしくは纏めてキャップの中に隠しているのか、とにかく勝手に男であると思い込んでしまっていた。人を見た目で判断してはいけない。自分の今の恰好だって、自分の性格なかみを表しているとはとても言えないのだから。


「あー、いえ、違います。僕はただの使い走りです」


 この返答の仕方についても、少年の現在の友人達が聞けば、十人が十人、まさか彼の口からこのような言葉遣いが出るはずもないので人違いをしたと思うことだろう。ですます口調に『僕』。「ふざけてる? 何か変なモノでも食べた? いや違うか、そっくりさんですね。これは失礼しました」……丁寧に話しただけでそう思われるほど、普段はよっぽど、どうなのか。しかし、このときの相手はまったくの初対面である。少年がおませな猫を被っていることになど気付けようはずもない。


「そうでしたか」

「こんな所で順番待ちですかぃ?中、入ってても良いんですよ。ここじゃちと肌寒いでしょう」

「……これくらい平気です。寒い所で育ちましたから。それに……」

「それに?」

「……前の人、『見られると緊張しちゃう』らしいです。あんなに強いんだから、観客がいたとしても全然問題ないと思いますけどね」

「おや、お知り合いで?」

「ついさっきそうなりました。西ゲート付近で一戦お相手して」

「ナルホド。それで勝った方がお先にどうぞと」

「? いいえ、私が勝ちました」

「ありゃ、そりゃ失敬」


 「あんなに強い」なんて褒めるものだから、軍配はお相手に上がったのだと思った。何だろう、強者の余裕というやつだろうか。線が細そうな割りに太々ふてぶてしい。見直した。
 それにしても、ソウリュウジムに立て続けに挑戦者が現れるとは珍しい。ポケモンリーグ挑戦資格を得るための最後の登竜門という座ならこの頃色々あってセイガイハジムに譲ったが、それでもまだまだ難関だ。むしろ篩ふるい落とされる挑戦者数でいうなら未だにここが一番である。挑むならバッジ6個獲得後推奨の、ドラゴンタイプ特化ジム。スパルタンメイヤーとの異名を持つ古豪の強面シャガに気後おくれして足が遠のく者や、一度は挑むも前座のジムトレーナーに身の程を思い知らされて変に弁わきまえてしまう者が多い。ここでジム巡りを一旦休憩とか言い訳して、実際は一生棄権してしまう敗北者は数知れない。
 若いのにここまで到いたれる実力をもつ二人の勝負とはどんなものだったのだろう。少年は興味が湧いて、暇潰しも兼ねて尋ねてみることにした。


「ルールは?シングル6対6?」

「3対3でした。私の今の手持ちが3匹なので」

「へぇ、ここに挑む人っていったら大抵5は連れてるもんですけどねぃ」

「でもジムリーダーが繰り出すのだって2匹か3匹でしょう?数で押して勝てたところで、自分も納得できないと思いますし……」

「おっ!ストイックだぁ。いいねぃ、挑戦する側とはいえやっぱ対等じゃないと」

「はい。彼もそういう人でしたよ。6匹連れているみたいでしたが、私の手持ちの数を聞いたら『じゃあ僕も3匹だけで』って」

「あぁ、今ジムリーダーとやってる彼。どんなポケモンでした?」

「ダイケンキとシャンデラとウォーグル。凄く闘志が高くて元気な良い子たちでした」

「バランスとるほうかぁ。対するアンタは?」

「ドロンチです」

「ドロ……?」


 被っていた猫がだんだんずり落ちてきている事にも気付かず、少年は腕を組んで首を傾かしげた。イッシュ地方に生息しているポケモンであれば自分が知らないはずはない。しかしどこかで聞いた覚えはあるような。何だったか。ドロンチ、ドロンチ……。
 記憶の隅を探るのに集中していると、目は開いていても視認が疎おろそかになっていく。視界が何だかもやもやしていくのも、更に立ち込めてきた霧のせいだろうと無意識下で処理した。


「あの……目の前にいますよ」


 ゆえに、目と鼻の先にいつの間にか現れていた存在に気付くのが遅れた。俗ぞくにいうアハ体験。自分とそっくりな黄色の眼めに、間近でまじまじ凝視されていた。


「……うぉわっ!?いつから!?」

「ずっとそこにいましたよ。あの……驚かせちゃってすみません」

「あ〜気にしないで、いやしっかしビックリした影薄いのなぁオマエさん……こいつが?」

「はい。ドロンチです」

「そっかそっか思い出した、そういや……ドラゴン、だったな。んでゴーストだっけ?」


 たしか祖父ジジイから貰ったドラゴンポケモン図鑑に載っていたな、と思い返す。少年がもっと少年らしかった頃にはハードカバーなのによれよれになるくらい熱心に読み込んでいたものだが、ここ数年は開いてすらいなかった。これまで一度も直じかに目にしたことはなかった他地方のポケモンなのだから、うろ覚えにもなろうというものだ。

 ――なっていいだろ、それくらい。二回進化するポケモンの真ん中の名前をドわすれするのなんて、それこそ世界共通のトレーナーあるあるだ。

 少年は昔の自分には見せたくない惰性に気付いていたが、それに気付かないフリをした。
 何だっけ。そうだ、今は彼と彼女の勝負の話を聞きたいのだ。


「よくご存じですね。イッシュにいないせいか、皆さん初見でのタイプ看破は必ずと言っていいほど失敗なさるのですが」

「まぁ一応ドラゴンジム関係者なんで、ちょっと齧かじってただけですよ。で、ドロンチとあとは?」

「……ドロンチだけです」

「……は?つまり?3タテしちゃったの?」

「いわゆる……そうですね。はい」


 ――それなのによくもまあ「あんなに強い」とか言ったよな?

 誰だってそう思わずにはいられないだろう。嫌味か。さっきのは嫌味だったのか?太々しいどころか猛々たけだけしいのか?少年は勝手に見損ないかけたが、彼女は変わらず真面目そうにこう続けた。


「あんなに苦戦したのは、ドロンチに進化してからは初めてでした。最後はこの子が気合いだけでこらえてくれて」


 それはそれは、嬉しそうだった。というか、そうなのだろうなと根拠もなく確信した。だって表情なんてちっとも覗のぞけやしないから、嬉しそうかどうかなんて見て判らない。今日会ったばかりの知らない人だから普段がどうとか知らないが、恐らく声に明あけ透すけな感情が乗る人タイプではないだろうから、声の調子で判るものでもない。表に出る要素だけでは他人には判定不可能だ。それでも、良い勝負をした後に「よくやった」と興奮気味に相棒を褒めたくなるというのは自分もよく知っている気持ちだったから、それで通じた。それを言うとき、心には邪よこしまさなんて一片もないのだ。トレーナーとはそういう親バカを純粋に発揮する生き物だ。世の中には色んな人間がいるが、こればかりは一概に言っていいと少年は考える。
 嫌味であったものか。斜に構えていたのは彼女ではなく自分の方だった。少年は胸の内で自省した。勝負に勝ったのは彼女だったが、相手は確かに強かったのだろう。そもそもベテランのジムトレーナーを下して今はジムリーダーに挑戦中である彼が弱い道理がない。その大前提が抜けていたとなると、やっぱり己はマメパト頭なのかもしれなかった。


「がんばったんだなぁドロンチ。さぁて、その勇姿について詳しく訊きたいところですが……」

「そういえばバトルレコーダーで録画していました。……見ます?」

「見ます見ます。へへっ、良いモン持ってますねぃ」

「ちょっと待ってくださいね。えっと、ここを……これか……よし。はい、どうぞ」

「どーも」


 少女は再生ボタンを押してバトルレコーダーを差し出してくれた。
 バトル好きなら必携であったこの一昔前の便利な携帯端末は、ライモンシティにあるバトルサブウェイで入手可能なものだ。近頃はCギアの後継機として普及し始まったスマホロトムで替えが利く、というよりスマホロトムの方が圧倒的上位互換機であるらしいため順当に廃盤となり、利用者は激減しているときく。とはいえ、少年は味があるこのかっこいい機械が好きだ。
 たとえばゲーム機、最新のスイッチは文句なしに歴代最高スペックだが、レトロなファミコンにだって当時の技術の粋すいが詰まっていて、浪漫ロマンがあっていい。たとえば鉄道、そちこちで近未来的リニアが走りだそうと、カナワタウンにある旧型車両の魅力は一向に衰おとろえない。良かった物は今なお良し。それらと似た感覚である。バトルレコーダーは、誰が何と言おうとかっこいい機械だ。
 さて、少年は画面を見始めてたっぷり5秒経ってから、漸ようやくハッとしたのである。


「……って霧ぃ!」

「……やはりうまく撮れていませんでしたか。残念です、名勝負だったのですが……」


 ――何だろうこの人、おちゃめ?

 と、人の所為せいにするよりまず、やはり己はマメパト頭だったということだ。見る前から分かるはずだった。本日このソウリュウシティの屋外で撮った映像であるなら、絶対こうなるに決まっていた。見る気満々でノリノリになって、さすがにちょっと恥ずかしい。あ〜あ。あ〜〜。藻掻もがかずに悶もだえた。「声にならない声」ってこういうのか、と要らない気付きを得た。


「やはりて。……わ、分かってたんなら言ってくださいよ」

「……ふふ、ごめんなさい」


 少年は徐おもむろに渋々とバトルレコーダーを返した。何だかとても調子を狂わされた。おバカさを笑われたというのに何故かちょっと良い気持ちがする。今日はどうにも頭が回らない。舌ばっかりくるくるだ。
 でも、彼女と会話するのは楽しいと思った。初対面なのに変に遠慮せずに済んでいるというか、ちょっとズレて噛み合わない所はあっても御愛嬌ごあいきょうで、気は合っているように感じた。この空気は居心地がいい。こんなのって初めてかもしれない。
 ただし、そう思えるのは、お互い匿名で顔もよく見えていないという条件が付いているおかげかもしれない。いや、そうなのだろう。同好の士が集うネットの掲示板で徒然つれづれなるままに駄弁るのと似ているのだ。多分きっとそうに違いない。気の迷いだ。気のせいさ。

 少年は足を止めた。適宜適度に、緩い距離感。それがいい。


「なんだ帰っていたか。こんな所で何をしている」

「げ」


 反射的に濁音が零こぼれた。振り向けば、そこにはシャガが立っていた。首が痛くなる。シャガの背後には、さっきの挑戦者の彼もいた。白い霧の中で赤いサンバイザーが目立つ。


「お前の報告は夕食の時に聞こう。さあキョウヘイ君、家まで案内しよう。私について来なさい」

「シャガさん待って!ぼくの後に挑戦するって、待っていた女の子が――」

「ム、そうなのか。君が?」

「はい。……今日はもうお開きでしょうか?」

「そうだな。すまないが日を改めてもらえるだろうか。今からやるのでは、終える頃には夜になってしまう。子供は帰る時間だ」

「はあ?ジジイ、人の都合も聞かねえ内になぁに勝手に――」

「いいんです、大丈夫。……明日ならまだ来られます。明日、午前中一番にお願いしても宜しいですか?ジムリーダー」

「ああ。では明日、待っているぞ」

「はい」


 それだけやり取りすると、シャガは少年少女に背を向けた。キョウヘイと呼ばれた男の子は、その背とこちらを何度か交互に見たあと、少女に向かって勢いよく頭を下げた。


「ごめん!きみが順番ゆずってくれたから……勝ったのはきみだったのに」

「ううん、謝らなくていいよ。別に順番決めのつもりで勝負した訳じゃなかったし……」

「でも……ごめん!ごめんよ、言わなきゃ気がすまないや!」

「いいよ、私から言ったことだもの。『ポケモンセンターに寄ってからにするからお先にどうぞ』って。あなたは自分の手持ちの道具ですぐ回復できた訳だから、ほら、時間の節約?」

「それ節約できたのジジイとこの人であってアンタじゃなくねぇです?」


 思ったことがつい口から出て、スルっと割って入ってしまった。「たしかに!そうだよ!」赤いサンバイザーの彼はワッと腕を広げてこれに同意した。


「さっきは受け取ってくれなかったけど、やっぱりコレとコレ貰ってよ!」


 彼は少女の手を取り、何かをのせてギュッと握らせた。


「あっ、ちょっと」

「返品は受け付けないよ!えへへっ、またね!」


 無邪気な悪戯っ子のように笑って、手を振りながら走り去っていった。この濃霧だ、すぐに姿は見えなくなった。……「あれー!?シャガさーん!どーこー!」……右往左往する声に、ずっこけそうになった。仕方ない。スゥっと大きく息を吸って、滅多に張らない声を張った。


「そのまま道なりー!突き当り左!ポケセン手前でまた左ーィ!」

「あーりがとー!」


 到底見えるはずもないが、彼がまだ手を振っている気がしたのでこちらも軽く振り返してやった。まったく元気な人だ。どうせジジイには勝ったんだろう、家にまでお呼ばれされるとは相当気に入られたか。そうでなくとも、レジェンドバッジを獲とるような猛者が今後その名を轟とどろかせないワケがない。彼とはまたいつかどこかで会う気がした。
 気を取り直して少女の方に向き直ると、丁度その手に押し付けられた物をぶかぶかのポケットにしまっているところだった。


「……それ、何もらったんです?」

「まんたんのくすりと……何か…数字のメモ?」

「あ?あー……ライブキャスターの番号?」

「……あぁ。でも私、持ってない……」

「ふーん……そっかぁ」


 ――ん?なんでオイラ今ホッとしたような、ガッカリしたような……いやどうでもいいって、他人事だろうがよぃ。


「んじゃ僕からは、ジムリーダーが勝手な都合で振り回してすみませんでしたっつーお詫びの品を」

「え……そんないいです、悪いですよ」

「いえいえ、いいってことですよ。話聞いてたらどうも、回復道具全然持ってないんでしょ?いくら強いっても、いつ何が起こるかは分からないワケですし。チャンピオンだってこれくらいの備えはしてるもんすよ」


 さっきの彼と同じように少女の手を取ろうとしたのだが、ゆらり、尻尾が邪魔をした。彼女のドロンチだ。ドロンチは少年の手にあるかいふくのくすりを尻尾の先にサッと絡からめて奪い取った。空カラになった手は引っ込めるしかなくて虚むなしい。彼女に渡すのもドロンチに渡すのも結局は一緒だから別にいい、構わない。そのはずだが、妙に釈然としなかった。


「じゃあ……頂いておきます。どうもありがとうございます」

「どういたしまして。でもホントきずぐすりは多めに持っといた方が良いし、帰りにポケセン寄って買ってったらいいと思いますよ。明日朝一でジム挑戦するんなら尚更」

「……そうですね。そうします」

「観に来ていいですかね?明日のジムバトル」

「それは……もちろん。というか、ジム関係者さんなんですよね?私には断る権利も何も……」

「そういうんじゃなくて。さっきの彼みたいに緊張させちゃうなら悪いかなぁと」

「私なら平気です。逆にジムチャレンジで周りに人がいなくて静かな方が落ち着かない……かも」

「おー?んじゃ、声出して応援すっかなぁ」


 脇で賑にぎやかしなんてしてやれば、調子を崩すのは寧ろシャガの方かもしれない。あの竜の頭の上で行われる勝負をいったいどこで観戦するのかという話になるが、まあ、何とかなるだろう。緊急避難用の隠し階段から忍び込んでシャガの背後にお邪魔するしかない。無理そうだったら手持ちのカイリューかフライゴンに手伝ってもらおう。
 やればこっぴどく叱られることになりそうだが、そんなことは全く気にならないくらい、俄然ワクワクしてきた。


「さぁて、そんじゃまた明日ねぃ」

「はい、また明日。暗いのでお気を付けてお帰り下さい」

「ハハハ、それこっちの台詞かなぁ。気を付けて」


 少女はさっきの彼と同じ道へ、ジムの正面に広がる大通りへと進んだ。街の外から来ているのだろうから、そうすると向かうは9番道路方面だろうか。
 少年はジムの敷地を出て左へ、そして少し進んだら右へ。地元の人間しか通らないような、民家の陰に入り組んだ細い路地裏に入った。このまま家に帰るならこちらが近道なのである。しかし、せっかく近道を通っても彼の足は鈍のろかった。一人になったら急に今日一日の疲れがどっと出てきたのだ。のろのろと時間をかけて、やっとこさ家に帰り着いた。裏口の鍵ものろのろと開けて、来客がいるであろう広間を通らないで済む廊下を通り、絨毯じゅうたんの敷かれている階段を上がった。上階に宛あてられている自室に入り、「やっと休める」と思った、その直後だった。

 ――低すぎなのでは?

 焦燥に駆られた。屋内にいても外から漏れ聞こえてくる飛行音。それは日常で聞き慣れた飛行機の音とは明らかに異なる。轟々と、未だかつて聞いたこともなかった轟音がごうごうと。これは異音だ。低すぎる。異常だ。近すぎる。墜落するのか。突っ込んでくるのか?いやまさか、だよな?
 心臓が一瞬でヒヤリとする感覚は、極めて大きな地震の初期微動を鋭く感じ取った時に似て――而しかして、微動など無しに街は揺れた。本棚の本、机上のランプ、窓辺の小さな観葉植物、壁掛けのテレビ、大きな縦揺れで何もかもが馬に蹴られたように宙に浮いて、そして落ちた。何か罅ヒビ入いった音の出処でどこは窓ガラスだろうか。そんなもので済んでいるだろうか。家ごとやられているんじゃないか。とてもとても、立っていられるような揺れではなかった。立っていられるような揺れでは――なかったのに。

 少年は立っていた。足をぴくりとも動かせなかった。靴ごと床に張り付いて、凍っていた。

 ……冗談だろう?春も闌たけなわなんだぞ?熱を込めんとしたわけでもない、ただ吐いた呼気が白く凍る。足先に転がり落ちた小さな観葉植物は完全に凍いてついていて、もし一指でも触れれば粉々に崩れることだろう。そんな死おわりの未来予測は、このままではこの身にも適応されるものになる。今ここで動くことを面倒くさがったら、何もかも本当におしまいだ。
 寒いのが苦手な彼らをこの場に引き摺り出すのはトレーナーとしてどうだろう。しかし、このままではいずれにしろみちづれだ。苦渋の決断として、相棒たちに助けを求めようと、モンスターボールに手を――伸ばせない。手も、駄目だ。


「…クっふぉ……!」


 口もあまり動かない。開いた口から下手な音が漏れた。最早これまでか――死因は凍死か、オイラの人生碌ろくなもんじゃなかったなぁ――などと思っていると、表面に霜の張ったモンスターボールがピシピシと音を立てて少し動いた。相棒たちはボールの中からでも異常を察知し、何とかして外に出ようとしてくれているらしかった。
 そこからは流石は相棒、最高に頼りになった。数秒の後に自力でボールの外に出てきたフライゴンは、ほのおのパンチの要領で握り拳に火を灯し、それをいつもみたいに振り抜かず、少し離れた所でじっと翳かざしてじわじわと体を温めてくれた。他の皆も寒いだろうに、寄り添って熱を分けてくれた。冷凍人間になる結末はどうにか回避できそうだ。だが、長い戦いになりそうだった。急速冷凍に近いかたちで凍った人間の体を元の状態に戻すのに、ポケモンのこおりなおしは使えない。激しい痛みが全身に走っていた。

 少年の部屋の窓ガラスは歪いびつな氷が張りついて厚みを増し、摺りガラスのように見通しが悪くなってしまっていたが、それでもこの街が今どうなっているのかくらいは見えた。邪魔だった霧が全て氷になって固まって、空気中から退どいた結果だ。皮肉なものだ。見えるようになっても結局、見難かった。殆ど氷で覆い尽くされていた。
 少年の部屋の窓からは、この街のポケモンセンターも望める。その辺りだけはまだ被害が小さそうだった。赤い屋根だってきちんと見える。寒さに震え、痛みに耐えながら、じっと目を凝らしてみた。揺れる黄色の眼は、小さくて黒い人影を捉えた。アレは――辛うじて目は届くが、目の前とはいえない。目先の、先の、ずっと向こう。小さくて黒い人影は、白い頭の黒ずくめ二人によって何処かへ連れて行かれた。少年は歯噛みすることすら出来ず、ただ、震える時を過ごすしかなかった。

 その翌日、こんな大事件が起きてすぐジムが開けるはずもない。「また明日」はなくなった。その翌日も、翌週も、翌月も翌年もまた翌年も、あの少女がソウリュウジムを再訪することはとうとう無かった。
 唯一の救いは、この『ソウリュウシティ氷漬け事件』をはじめとしたプラズマ団関連のニュースが長きに渡って世を震撼させるなか、血眼になって見つけたネットニュースの隅っこの小見出しに、「プラズマ団に誘拐されていた少女救出」と書いてあったことだった。

 酷い記憶だ。忘れられるものなら忘れたいと何度思った事だろうか。でもそれは無理な話である。こんな衝撃は一生かけても抜けきらないだろう。
 畢竟ひっきょう、少年はべつにマメパト頭ではなかったというお話だ。


***


 時は戻り、ただいま現在。
 カキツバタはカイリューに抱っこされて、テラリウムドーム北西に位置する雪と氷のポーラエリア、その屋外教室に降り立った。

 カキツバタは結局、あの日の事をじわじわ思い出すどころか、この短い空の旅の間に具つぶさに回想をやりきってしまった。あれっきり顧みないようにしてきたのに、嫌になるほど解像度の高い白昼夢リバイバルだった。それもこれも、すべてはさっきのキランとの会話が原因だ。思い出してしまえば成程、キランとあの時の少女はとても雰囲気が似ている。会話の内容も微妙に被っていたし、これで思い出すなという方が無茶だったのだ。


「どーぉれ、ここらでいっか。キランは捕まえたいポケモンとか決まってっかぃ?」

「……えっと、その。カキツバタ先輩」

「んー?何だ?」

「……ポケモンって、どうやって捕まえるものなんでしょうか」

「…………はい?」


 彼女との会話は、まさに予測不能だ。


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