鑑みること鏡に如かず

死ぬれば死神
かんがみることかがみにしかず

 こぽこぽ。一度注いだ湯を急須に戻し、そうして温められた二つの湯呑には熱い茶が交互に注がれていく。吸えば心も落ち着く緑の芳香。深蒸しにされた今年の新茶は、例年に増してうまいと評判だ。


「はいどうぞ。何度もご苦労様でした」

「いやぁ悪いね阿近くん!……ぷはぁ、やっと肩の荷が下りたよ。もし今日も涅局長に渡せてなかったら、帰ってきたときには期限ぶっちぎりで何故か俺が怒られただろうし」


 十二番隊舎、給湯室。
 ここは十二番隊の敷地の中でも珍しい、特におかしな手が加えられていない平常な隊舎の一画である。阿近の差し出した茶で一息ついたこの男、はじめは十二番隊の門を潜るだけでも相当な時間を要し、局内に至っては半泣きしていたものだが、何度も通う破目になったおかげか今ではすっかり克服した様子だ。
 技術開発局局長の涅マユリは、なんと二ヶ月間ずっと研究室に籠っていた。「貴方あての書類です」と扉の外から勇気を出して恐る恐る声をかけてもお決まりのように無反応、目通し叶わず。唯一出入りを許されていた助手の阿近少年に「局長殿に渡してくれ」と頼んでみるも「駄目でした、また今度来てみてください」と突っ返されて終わり。それが今朝になってやっと研究を終えたようで、出てきた涅は雑に書類を奪い取ると、ろくに目も通さず次々に判子を押し、何処かへ去っていったのだった。


「そういえば、明日から遠征でしたか」

「うん。俺みたいな新入りがそんなんついてって、あっさり死なないかなぁとか不安なんだけどさ」

「……貴方の隊、隊長副隊長も席官も、みんな新入りみたいなもんじゃないっすか」

「そーそ!そうなんだよ、楠山四席もそんなこと言ってた。手が回らないかもしれないから自分の身は自分で守りなさいって」


 けらけらと笑って話す目の前の男に、阿近は呆れて小さく溜息を吐く。他の十一番隊隊士とは比ぶべくもなく穏やかな口調に、厳ついとか険しいといった言葉とは縁のない人相。おまけに暗がりの技術開発局や幽霊の類を恐がるくせして、戦いや生き死にの話ではこうも能天気になるものか、と。
 初夏に差し掛かろうというこの時期、新入りもそろそろ護廷隊士としての生活に馴染んでくる頃で、配属先が肌に合わなかった者は異動を願い出たりもする。実際、十一番隊からは何人か異動したらしいと噂になっていた。それなのに異動せず残り、冒頭でもちゃっかり「帰って来たときに」などと言っている時点で、この男は実は十分に十一番隊に適していたのだろう。


「阿近くんはお茶淹れるのうまいね」

「ウチで淹れたお茶なんて恐がって飲まないものかと。意外でした」

「二人で同じの飲んでんだし大丈夫かなって!んじゃどうもご馳走様ね!」

「どーも。気を付けて行ってきてください」


 きれいに一杯を飲み干して、男は鼻歌で何か歌いながら給湯室を後にした。阿近はその背中を見送ると、ずずっと茶を啜りながらひとり呟く。


金矢かなやさんて良い人だけど……アホだなぁ……」


 同じものを飲んでも飲む人の体に抗体があるかないかとか、片方の湯呑にだけ何か塗られているかもとか、そういう可能性に頭が回らないんだもんなぁ。
 涅が開発した“監視用の菌”が自分にも金矢にもちゃんと作用しているかどうか確かめるため、阿近はまた暗がりの研究室へと戻っていく。

 十番隊舎、執務室。
 書類の束を抱える沙生が開きっぱなしの戸から中を窺うと、奥にある机の上にはうずたかい紙の山がいくつも積まれていた。そしてその向こうでは逆立った黒髪が辛うじて見え隠れしている。此処に主がいるのは稀なことだと聞くが、今日はちゃんといるようだ。


「いらしたんですね。持って帰る覚悟でした」

「ん?あぁ楠山か。あのなぁ、いつもサボってるみたいに言うなよ」

「ではその溜まった書類の山はなんです」

「流石にヤバイから片付けてる!の!」


 これ以上は置き場がないと判断した沙生は、持ってきた書類の束はひとまず窓際にある花台の上に置くことにした。一心はその様子を横目でちらりと見てから、仕事の手を止めないまま口を開く。


「金矢じゃなくてお前がこっち来るなんて珍しいこともあるもんだな。あいつどうかしたのか?」

「別に何も。強いて言うなら、私が仕事できなかった間に十二番隊恐怖症を克服したみたいでして」

「ほぉん。『もう怖くないんで俺に任せてください!』……ってか?」

「わ、今のそっくりでした。あの人けっこう子どもっぽいところありますからね。できるぞ、どうだ!……って感じで」


 十一番隊の金矢かなや克廣かつひろという平隊士は、沙生にとっては同期であり部下である。書類仕事も割と積極的にこなしてくれる貴重な人材で、流れで主に十番隊とのやり取りを担当していた。一方で沙生はだいたい十二番隊か十三番隊を担当しているため、十番隊の執務室まで来たのはこれが初めてだ。


「なぁ、こっちの山のを宛先別に整理するのだけ手伝ってくれないか」

「これはもう処理終わってるんですね……何だ、じゃああと少しじゃないですか」

「ったりめぇよ。さっさと片して体動かさねぇと、流石の俺でもなまるからな」

「鍛錬ですか?頑張ってくださいね。では私は隊舎に戻って――」

「待て待て待て、さり気なく帰ろうとするんじゃありませんよ。……ったく、じゃあせめてそこ座ってろ。もう少しで終わっから」


 投げやりな声音でそう言い放ち、一心はペンでくいくいとソファを指した。沙生は若干眉根を寄せつつ、言われた通りにそこに腰を下ろす。うむ、と頷いた一心はまた書類に目を戻し、何か書き込みながら器用に話も続ける。


「お前、いつでも斬魄刀持ち歩いてんのな」

「……ええ、まぁ。平時の帯刀があまり良い目で見られないとは知っていますが、私からしたらこれが普通です」

「あー、説教したいわけじゃないんだぜ?俺も同じ考えだしな。丁度良かったと思って」

「何がです?」

「前に言ったろ。俺が稽古つけてやるってな」


 確かにそれは覚えている。沙生が入院中、一心が病室にお粥を持ってきたときのことだ。
「俺が稽古つけてやってもいいぜ?同じ炎熱系の誼だ」
 見舞いで元気付けるために気まぐれで言ったものと考えていたが、予想に反して彼は本当にやる気のようだ。直々に稽古をつけてもらえるなんて光栄であるし、より強くなる絶好の機会だ。しかし、いざこれからとなると些か意気がすくんだ。沙生が隊長格と剣を合わせたのは、入隊試験で更木とやった一度きりだ。一心は普段から飄々としていて隊長の中では断然接しやすい方だが、だからこそ実力は形としては見えづらく、計り知れなくもある。


「楠山も遠征行くんだろ?その前に、どれ程のもんか見ときたいし」

「分かりました……お願いします、志波隊長」

「おう。んじゃ暫く、茶でも飲んで待っててくれ」


――――――


「待て!貴様、ここは二番隊管轄の敷地だぞ」

「やれやれ……相変わらず背後から声を掛けるのがお好きなようだネ、砕蜂隊長」


 二番隊舎裏、広大な竹林のその手前。
 無断で立ち入ろうとする涅を呼び止めた砕蜂は、目を吊り上げて警戒する。暫し沈黙が流れた後、さあ、と風が吹いて背の高い青竹の葉があちこちで囁くように揺れた。涅はそんな葉の波の下で徐に両手を広げ、流暢に弁舌を揮う。


「まぁいい、私は君を探していたんだヨ。だが隊舎にはいなかったからネ。こうして勝手にうろついていれば、そちらから現れるだろうと踏んだだけの事……なのだが、仮にも刑軍の長が私情で殺気を放つのは如何なものかネ」

「いちいちかんに障る言い方しかできんのか?貴様が私に用とは、どういう面倒事だ」

「……そっくりそのままお返しするヨ。用といっても大した事じゃあない、此処で実験をさせてもらおうと思ってネ。終わるまで人払いを頼みたいのだヨ」

「屋外で実験だと?何をするつもりだ。この竹林を駄目にするようなことならば許容できん」

「フゥ……何が起こるか正確には分からないから実験をする訳なんだが。では、対価を提案しようか。取引をしようじゃないかネ」


 次に涅が口にした人物の名を聞いて、砕蜂は目の色を変えることになる。

 場は戻り、十番隊執務室。
 最後の書類に判を押した一心は、喜びの声と共に両腕をぐっと上に突き伸ばした。


「終わっ…た〜ああぁぁぁ!?」


 ガダダン!そしてその勢いで椅子ごと後ろにひっくり返り、沙生がはっとして見遣ったときには天井を向く一心の足の裏が見えていた。


「だっ大丈夫ですか?頭とか打ったり……」

「へ……ヘーキヘーキ……」

「隊長ー!何だか凄い音きこえてきましたけど、どうかしたんですかぁ?」


 心配しているような台詞であるのにやけに楽し気な調子で、一人の若い女性隊士が廊下を走ってやって来た。その金髪に沙生は見覚えがあった。屋根の上で一心と初めて会ったとき、フケていた彼を探しに来ていたあの美人さんだ。


「乱菊、今更のこのこ戻ってきやがって……ッてぇ〜……どっこいしょっ、と」


 一心は爺臭く立ち上がり、椅子を元に戻す。乱菊と呼ばれた彼女はぴょんと部屋に入り、そこで目が合った沙生を上から下までよくよく見、ずずいと近寄って両手で左手を取った。


「あ〜!あんた知ってるわよ!どしたのこんな所まで。隊長にお尻でも触られた?」

「え……えーっと……」

「馬っ鹿そこのスカポンタン乱菊!ンな訳あるか!!」


 実際そんなことはしていないのだが、声を荒げて慌てる様子はあらぬ誤解を招きかねない。沙生は態とらしくコホンと咳をし、乱菊と向き合う。


「されてませんのでご安心を。私は楠山沙生と申します。お名前を伺っても?」

「あらご丁寧に、あたしは松本乱菊よ!噂の四席ちゃんが隊長と知り合いだったなんて知らなかったわ。隊長、どうして今まで紹介してくれなかったんですか」

「紹介って……女に女を紹介してどうすんだよ」

「ぶ〜そういう意味じゃありませーん。でも本当に接点なさそうなのに。呑み友達とかですか?」

「いや……そういうんでは……な?」

「……えと、まぁ……はい……」


 余所々々しい空気を纏いつつも顔を見合わせて困ったような表情を浮かべる二人に、乱菊は大袈裟に首を傾げてみせる。端から見ても、お互いに距離感を掴み損ねているようだった。ここは自分が橋渡し役になってやろうと意気込んで乱菊は口を開きかけたが、一心によって遮られてしまう。


「俺らちょっと稽古してくるから、ここにある書類それぞれ持ってってくれな。頼んだぞ」

「な、これ全部ですか!?あたし一人じゃ無理です!」

「別に一人でやれとは言ってないだろ。声かけて適当に分担してくれ」

「えーっ」

「処理は全部俺がやってやったんだからそんくらいやれよ。サボったら明日お前だけ置いてくからな」

「ええーーっ」

「行くぞ楠山、ついて来い」

「あ、はいっ。では松本さん、失礼します」


 不満気に口を尖らせている乱菊に一礼し、ずかずかと廊下を進む一心に置いて行かれないよう後に続いた。玄関を出て何処まで行くのかと思えば、そう遠くない所の、木塀を隔てて通りに面した庭まで来た。庭といっても質素なもので、木塀に沿って何本かの若いけやきがある以外には雑草しか生えてない。しかし今から此処で剣を振るおうというのだから、華やかな草花はない方が気を遣わなくて良いのかもしれなかった。
 二人は横に並び立ち、束の間だけ無言で庭を眺めた。一心が遊び半分でチャキッと鯉口を鳴らし、隣にいる沙生にやや上から目線を向ける。


「噂は色々聞こえてくるからな。結構やるんだろ?」

「隊長殿にはとても及びませんが……これでも嘗ては剣術道場の跡継ぎでしたから、それなりの自負はあります」

「ふぅん。じゃその自負とやらがおごりでないか、確かめるとしようかね。仕込んでやる前にまず実力を見せてくれ」


 一心は背を向けて数歩進み、それからこちらにくるりと向き直って沙生に抜刀を促した。居合勝負をするわけではないから、二人とも予め鞘から刀を抜いておく。


「……というか今更ですけど、真剣じゃないと駄目なんです?」

「お互いある程度の腕ならおっかなびっくりしなくても大丈夫でしょ。寸止め峰打ち、できるだろ」

「それはまぁ、そうですが」

「あぁそっかお前、更木が過ったな?あいつそういうの抜きで殺しにくるんだろ」

「流石に部下を鍛えるときは木刀でりますよ」

「そう……ん?今のどういう“やる”だ?」

「ほら、前置きが長いですよ。始めましょう」

「せっかちだなぁ。じゃ、いくぜ!」

「お手柔らかにお願いします」


 先に一心が果断に踏み出し、一瞬で間合いを詰めてきた。沙生はそれを予想していたのかひるむことなく受け止め、両者きりりと鎬を削る。拮抗していたが睨み合って刹那、一心が更に力を込めて沙生の刀を横に弾いた。辛うじて刀は手放さなかったものの体勢を崩しかけるが、沙生もそう簡単に無防備は晒さない。空いた前面に突きを喰らうより早く、その弾かれた刀を持つ右手を中心にして回り込むように横跳びし、すぐに立て直してみせたのだ。その若さにしては十分なブレのない体捌きに、一心は感嘆して二度瞬きした。


「早速いい動きするじゃねえの。言うだけのことはあるな」


 真剣な顔つきからころっと一変させて、にかりと笑って言った。易々と強烈な一撃を叩き込んできた直後の発言にしては柔らかい。「そういうところがやはりどこか計り知れないのだ」と沙生は心の中で吐き捨て、項の汗をこっそり拭いた。体勢は立て直したのに調子は崩されつつ、構えを少し緩めて言葉を返す。


「ひ弱い方は、圧された後の立て直しと相手の力を利用する受け流しができなければまず負けます。だから、生まれつきの差を言い訳にしたくなくばそこは何者より磨け……と、教えられてきました」

「そりゃ誰からだ?」

「剣術師範だった祖父からです。霊力を抜きにすれば、剣は隊長格にも勝るとも劣らなかったかと」

「ほぉ、すげぇ爺さんがいたもんだな。そんでお前はその爺さんの剣を継いだ訳だ」


 誇らしそうに祖父の話をした沙生だったが、今『継いだ』と言われたときに一瞬だけ顔を曇らせた。それを見逃さなかった一心は、すっと目を細め、剣先は地面に向けて暫時休みの恰好をとる。


「……現世で死んだとき、お前はまだ二十にもなってなかったんだってな。道場の生まれっていっても赤ん坊の頃からばっちり太刀持って構えてた訳じゃなし、剣を教わった期間はもっと短いはずだ。それでも腕は見事なもんだよ、今ちょっと見ただけでも相当頑張ってんだろうってことは分かるぜ。あちこち傷こさえやがって」


 沙生は微かに口を開きかけたが、言葉に迷って結局は飲み込んだ。そんな風にただうつむいて黙り込む彼女の様子に、一心は過去の自分の姿が重なって見えた気がした。無意識の内に、妙に優しい気持ちが胸を占めていく。


「――『修行なかばで師を失はば、弟子の技は実らぬままさて止まる。極意こそ残さんと書にしたためる師もあれど、生き見せてさずくる成果に及ばず。しからば、如何いかがすべき』」


 ゆっくりと、まるで書を読み上げているかのようだった。だからこれは一心の言葉ではなく、きっと誰かの受け売りなのだろうと沙生は悟る。問いかけの答えが何なのか気になって一心が言うのを待ったが、彼はにやりと口角を上げるばかりでその先を中々口にしない。痺れを切らして隠しもせずむすっとすると、一心はそんな沙生を見てやっと、得意そうに答えた。


「『師を唯一と定むるなかれ』、だ」

「師は一人だと決めつけるなと……?」

「そ。お前が爺さんから学ぶことはもう叶わないが、他の師から学べ。そうすればまだ伸びる。爺さんと同じにはなれないが、新しいものになれ。そうすれば越えられる……かもしれないぜ」

「……志波隊長、それは誰の言葉ですか」

「これは――……俺の、死んだ師の言葉だよ」


 そう言って、一心は静かに微笑んだ。沙生はそんな彼の顔から目を離さずまじまじと見て、嫌というほど納得した。この人も同じなのだ。自分と同じで、修行半ばで師を失ったのだ、と。そう思ったら何だか似た者同士のように思えてきて、妙に笑えてきた。


「要は貪欲に、誰からも吸収して学べってことですよね。そういうことなら私、既に実践してました」

「でも、俺のおかげでつっかえが取れて心機一転できただろ?」

「はいはい、ありがとうございます」

「おいおいちょっと、今の心がこもってなくない?」

「そんなことありませんて。記念すべき“二人目の師”となってくれる人に対して、そんな」

「……おま、」

「さぁ、まさか稽古はこれで終わりじゃないですよね。続きをお願いしますよ」


 その目は爛々らんらんと輝いていて、もうすっかり憑き物が落ちた風だった。一心は豆鉄砲を食った鳩のような顔をしていたが、すぐに腹を抱えて笑いだし、次にちょっと滲んだ涙を拭った。そして一通りの雑多な感情を発散させてすっきりしたのか、ひとつ小さく息を吐いた。稽古再開の合図として、地面に向けていた剣先を上げて構えをとる。


「よし!じゃあ俺が斬り込んでいくから、お前はひとつひとつ丁寧に受け止めてみろ。体幹から指の先まで気を抜くな」

「はい」

「死合いでもねぇからゆっくりいくが、剣に重さは乗せるぞ」

「はい」

「俺に隙があると思えば突きに来い。余裕があれば、だが」

「は……、え」

「ほいじゃあ一丁!」


 きぃんと甲高く鋼の擦れる音が響く。向かって左上から斜めに振り下ろされた一刀に対して、沙生は咄嗟に左肘に力を入れて受けた。一呼吸の間を置いて、今度は向かって右から真横に斬り込まれる。腰を落として剣が垂直になるところで止め、それから水平にすることで限々受け流した。
 そう速さはなく、寧ろ常人の目でもしっかりと追えるくらいにはゆっくりだ。しかし、実際に剣を受けている沙生にとっては全く易しいものではなかった。守る方向をたがえることは流石にないが、一心の一撃は重たく鋭く、一寸ちょっとでも気を抜けば後ろにぽんと飛ばされそうだ。やはりこの人は強い、と確信する。例えるなら、更木は牙を剥き出して心臓に迫る荒々しい獣のようだが、一心は衝いては離れ、隙を見せれば隠していた爪で目を抉りに来る猛禽のようだと思った。


「反射神経は大したもんだが、腕だけでくるな。腰と重心移動を意識しろ」

「っ、はい」

「でもやっぱ筋は良いぜ!他はどうも初っ端から吹っ飛ぶ奴らばかりでよ」

「……終始、吹っ飛ばないようにすることに全神経回してますよ」

「ま、そう簡単にほいほい受けられたんじゃ俺の面目丸潰れだからな。最初はそれで十ぶ……、ッハ、ハッ」

「おや、くしゃみですか?」


 一心は自身でもどうにもできない不随運動の予兆に身を震わせ、反射的に目をくしゃりと瞑る。まさにその瞬く間に沙生は一歩踏み出し、素っ首に向かって鋒を突き付けんとした。


「ッくしょ、ヴェ!?……っくショイ!!」

「惜しい!休息万命くそくまんみょう、と」


 目を瞑りながらも気配を感じ取ったのか、一心はくしゃみを二回しつつしゃがんで間一髪で避けたのだった。さっきまでの威厳はどこへやら、途端に間抜け面になってたらりと冷やい汗を流す。


「こぉらてめっ、手癖が!悪い!」

「いやぁ、隙があったら突けと言われましたので、つい」

「だからって素っ首狙うかね!?」

「寸止め峰打ちできますし。おっかなびっくりしなくて大丈夫……ですよね?」

「あーそーね!言った!確かに俺が言ったわ!!」

「それに『先んじて咽喉いんこうやくせ』は祖父の口癖でした」

「ソレ比喩だろーがよ、お前は直接的すぎ」

「ええ、でも避けたじゃありませんか。さすがです」


 一心はしゃがんでいる体勢からぺたんと地べたに座り込み、何が何だか、ツボに入って笑い転げる。沙生もつられてまた笑ってしまい、これがまさか真剣の稽古の最中とは誰も思わないだろう。二人とも目がうるんできた頃合いで、不意に不穏な圧を感じたため同時にぴたりと動きを止めた。ぎこちなく振り向くと、木塀の向こうからこちらをぎょろりと覗き見る二つの目玉があった。


「よぉ、てめえら随分と楽しそうじゃねえか。俺も混ぜろよ……!」

「た……隊長」
「げっ、更木」

「たまたまふらふら歩いてたら、殺気立った霊圧がぷんぷんしてたからな」

「あの、多分丁度お開きで」
「たまたまふらふらねぇ……」

「志波、ちっと見てたが思ってた以上にやりそうだ。暇なら付き合え……!!」

「はん、冗談じゃね…ぁアイェー!?」
「し、志波隊長!」


 沙生のすぐ真横を風が通ったと思ったら、ドゴン!と一心が今までいた地面が抉られた。何とか転がって避けた一心は飛び上がるように立ち、大声で叫ぶ。


「懲りる奴じゃねぇとは思ってたがあんまり好き勝手してんなよ!お前がそんなだから総隊長は――」

「何だよ、爺に告げ口するってか?いいじゃねえか、沙生とも真剣でやってたんだろ」

「お前と楠山を一緒にすん……ぃや、寧ろお前の悪影響で“そういう方”に寄ってきてるわな、こいつ」


 言いながら沙生の方を盗み見て、面倒くさそうに肩を竦めた。しかし更木が間髪入れずに斬魄刀を振り下ろしてきたため、慌てて横跳びする。


「だからやんねぇっての!」

「減るもんじゃねえだろ。ケツまくって仕舞いか?なんなら沙生でもいいぜ、前より強くなってんなら愉しめそうだ」

「減るわ!お前とやると血も給料もばんばん減るだろうがよ!おい楠山、来い!」

「へっ」

「尻からげて逃げる!!」


 瞬歩で沙生の隣に来た一心は彼女を俵のように肩に担ぎ、木塀を飛び越えて通りを走り出した。言って聞かないなら逃げるしかない。こんなところで更木に暴れられたら十番隊舎があっという間にボロになってしまう。というか早速、木塀をぶっ壊して追いかけて来るではないか。
 恐怖の鬼ごっこの幕開けである。


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