散らせ蜘蛛の子綾吊らせ

死ぬれば死神
ちらせくものこあやつらせ

※環境依存文字を含む固有名詞や詠唱は代用字で表記している場合があります。




 焚火を囲む人の輪から外れて伸びをした。腕と耳の間を風が通って、ひゅいっと軽い音が鳴る。空にはぽっかりと天満つ月が浮かんでいて、灯から離れても辺りの様子が窺えるくらいには明るい。


「……肌寒くないかい?その恰好」


 風が止んだ。いや、遮られたのか。近くも遠くもない距離、風上にはいつの間にか弓親が立っていた。初夏であっても夜となれば涼しく、ちょうど人の輪の方からは誰かのくしゃみも聞こえてきた。死覇装の両袖を金矢にあげてしまった私は今や袖なし。ご心配は尤もである。


「今の処は冷やっこくて気持ちいいよ」

「そう。今日は見張り番でもないんだから、そろそろ天幕に戻りなよ」

「ん……そうだね」


 などと返事をしておきながら、私は弓親から夜空へと目を移してその場に突っ立ち続ける。静かな夜だ。まるで昨夜の戦いなんて嘘であったかのように。何もない。そう、夜はそれでいい。


「……沙生」

「はーい。大丈夫、これで風邪ひくようなヘマなんか――」


 そう言いながらまた振り向くと、ばっちりと視線が絡んだ。形容し難いが、何というかあまりにもばっちりだった。それがちょっと可笑しくてついつい笑ってしまったのだが、弓親にはやや気まずそうに顔を逸らされた。


「……弓親?」

「なに」

「なに、と訊かれると……あー別に……何でもない。おやすみ」

「ああ。おやすみ」


 腑に落ちないが、何をどう言えば良いかもよく分からない。ここは取り敢えず、言われた通り天幕に戻ることにしよう。今日は昨日とは違って、戻る天幕は私専用ではなく松本さんとの共用だ。半数にまで減った合同遠征部隊は、夜間でも戦力を分散させないために、それぞれの隊で野営地を分けることをやめたのである。
 弓親に背を向けて歩いていく。そして本日寝泊まりする天幕の目の前まできたとき、その天幕が丸ごと跳ねた・・・。


「えっ」

「ぃやっ、きゃああぁ!!」


 一瞬だった。
 天幕を突き破って中から出てきた松本さんは、腰回りを白い糸でぐるぐる巻きにされていて、その糸は暗い森の奥からずっと伸びてきているようだった。そして強い力で引っ張られていき、彼女の姿はあっという間に見えなくなった。やはり、今宵も尋常であってはくれないのか。


「松本さん!!」


 焦って上げた大声は陣内の皆に聞こえたらしく、大勢の目が私に向いたのを感じた。急げばまだ追いつけるかもしれない。隊長の指示を仰いでいる暇はない。体勢を低くして渾身の瞬歩で踏み出そうとしたそのとき、何かが私の左足首をしゅるりと締め付けた。

 ――まさか。

 そこに目を向けるより早く、私の体は勢いよく後方へと引っ張られる。巻き付いてきたものは太くもないのにやけに頑丈で、千切ることも叶わなかった。足が地に着かない。強い力で引っ張られ続けているせいで、浮いてしまっているのだ。景色が流れる。崩れた天幕が遠ざかる。そして、輪になって談話していた仲間も皆、体のどこかしらを糸に絡まれ捕らえられ、四方八方に散らされようとしていた。驚いて声も出ない者が殆どだ。こうなっては、戦力を分散させずにおいた意味がなくなる。まだ見ぬ敵の狡猾さに身震いした。
 どっ、と背中から何かにぶつかったかと思えばそれは人だったみたいで、次の瞬間には背後からきつく抱き締められた。この体勢では誰なのか窺うことすらできない。びっくりして振りほどきそうになったが、それは思い留まった。状況が状況だ。今は一人になることを避ける方が先決だろう。ふと顔をあげると、向こう正面には物凄い速さで遠ざかっていく一角がいた。彼もまた胴のあたりを糸に巻かれ、私とは正反対の方向に引っ張られていく。届くはずもないのに、お互い手を伸ばさずにはいられなかった。


「弓親!!」


 私を見ながら一角が叫ぶ。


「死なせるな!!」


 腹部に回されている腕の力が、強くなった気がした。


***


 広い流魂街のあちこちで、百を超える数の黒腔ガルガンタが一斉に開かれた。

 その全てから伸び出る白く細い糸の先は、北流魂街のとある一点に集中していた。糸はそこにいる死神たちを次々に捕縛し、釣りでリールを巻くように素早く引いていく。死神が途中で木にぶつかろうが、為す術なく引き摺られる痴態を流魂街の民に目撃されていようが構わない。行き着く先は虚園ウェコムンド。死して堕ちた魂が跋扈ばっこする世界へ、生きた死神を誘いざなわんとしていた。

 その糸を引くのは、純白の蜘蛛型の中級大虚アジューカスであった。虚圏の砂漠の上空に流魂街の各所に開いた黒腔と同じだけの解空デスコレールを展開し、そこへ体の数箇所にある穴から何百本もの細糸を繰り出し、操っている。しかし、この行為に彼女の意思は介在しない。彼女は道具だ。ただ主に命じられるがまま、死神たちを引き離し、戦力を分散させ、あわよくばこちらの世界に引き摺り込む。

 ロカ・パラミアは、ザエルアポロ・グランツの道具にんぎょうである。


***


「縛道の三十七、『吊星つりぼし』!」


 ばふ、と吊星の中央に体が打ち付けられた。霊圧でできた膜からは方々に帯が伸び、森の木々に張り付いて何とか私たちを支えている。しかし左足首に巻き付いた糸の引っ張る力は相変わらず強く、帯は撓たわみ、木はミシミシと嫌な音を立て、根っこから引き抜かれるのも時間の問題だった。
 それでも抵抗は無意味ではなかった。一時的にでも止まれたおかげで、風圧の邪魔もなく腰に差した斬魄刀を抜くことができる。


「掠さらえ!『鳶絣とびがすり』!」


 りん、という音と共に漆黒に姿を変えた鳶絣。刃に霊力を集中させ、精一杯に研ぎ澄まし、左足首に巻き付く糸に向かって振り下ろす。見た目以上に頑丈な糸だったが、何とか切り離すことができた。それとほぼ同時に吊星は限界を迎え、帯は千切れて膜は霧散し、私の視界はぐらりと傾いた。


「わっ、」

「おっと」


 危うく頬から着地するところだったが、屈んだ弓親が已すんでの所で抱き留めてくれた。髪がさらりと地面をひと撫でする間を置いてから、彼の手を借りつつ立ち上がる。


「ありがとう……一人だったら多分どうしようもなかった。それにしても、いつの間に縛道なんて」

「沙生は鬼道が駄目だからね。僕もそんなに得意じゃなかったけど……使えなかったことで後悔するような過あやまちは、もう繰り返したくなかったから」

「後悔?」

「鬼道が使えていたら誰かさんが無茶する前に何とかできたはずだ、ってね」

「うん……うん?もしかして私のせいかな?」

「へぇ、自覚はあるんだ。そうだよ」


 弓親は真っ直ぐに私と目を合わせて言った。別に怒られているわけでもな……ないよな?ないのに、ぐさっと刺さらないでもない。


「私のことで気負ってくれなくていいよ、ほんとに」

「嫌だね、好きで気負ってるんだ。やめてほしかったら無茶しないことさ」

「……狷介さんね」

「けん……何だって?」

「あー、何でもない。……皆は無事かな」


 無理矢理に話題を変えたら不服そうな顔をされたが、それには気付いていない振りをして、ぐるりと周囲を見渡してみた。弓親は態とらしく溜息を吐いた後、私に倣う。必死に霊圧を探ってみても、感知できる範囲には弓親以外の誰もいなかった。相当遠くに引き離されてしまったらしい。


「隊長たちは心配いらないだろうけど、他は……祈るしかない」



***


 死神たちに蜘蛛の糸が絡みつく。中でも、隊長羽織を着ている者には念入りに。
 十番隊隊長の一心は、今まさに四肢を封じられようとしていた。両足と左腕は既に縛られてしまい、残るは右腕。そこへ何本もの糸が一斉に躍り掛かる。


「チィ、俺を縛っていいのは美女だけだ!それ以外はご免被るぜ!縛道の八『斥せき』!」


 右手の甲に現れた小さな霊圧の塊がパッと開いて円形の盾となり、糸を弾く。


「続きまして縛道の六十二、『百歩欄干ひゃっぽらんかん』!」


 無数の光る六角柱が放射状に放たれ、次々に地面に突き刺さっていった。辺り一面に広がったそれらは、さながらピンボールの障害物のようにジグザグに配置されている。一心はまずその柱の内の一本に糸を引っ掛け、次にそれによって生じた遠心力を利用してぐわんと反対方向に回り込み、また別の一本に糸を引っ掛けた。それを数回繰り返せば、いくら強い力で引っ張られようとビクともしなくなる。六角形の糸巻にしっかり糸を巻けば凧は逃げない、それと同じだ。
 この間、僅か二秒。


「お次は縛道の五十八!『天嵐てんらん』!」


 体の正面から横向きの竜巻を発生させ、一心はそれをぶんぶんと振り回した。ちょうど彼の頭上や脇の方を通過してしまうところだった十数名の平隊士たちがその風に煽られ、彼らに巻き付く糸は上手い具合にさっきの百歩欄干に引っ掛かる。


「仕上げは解放して解放ってか!燃えろ『剡月えんげつ』!」


 一心は斬魄刀を抜いて高らかに掲げ、刀身に真っ赤な炎を走らせる。そして掛け声とともに素早く振り抜き、己の両足と左腕、そして部下たちに巻き付いていた糸を一度に焼き切ってみせた。


「……ようお前ら、怪我ねぇか?」

「はい、大丈夫っス!」
「ありがとうございます!」
「おかげで無事です」
「助かりました……!」
「でも最後の駄洒落は要りませんでしたね。そこだけが残念でした」
「とても恰好良かったです、駄洒落がなければ」
「あれって字が一緒じゃないですか。それでも駄洒落なんですか?」
「隊長!あっちの木が燃えてます!」
「あらま。剡月の飛び火ですかね」
「あっ、ほんとだ!山火事!」
「山火事!」
「志波隊長、今こそ駄洒落で冷気を!」

「うるせぇ!!!手放しに褒めろ!!!」


――――――


「いっぢ、こんの……クソッ!延びろ!『鬼灯丸』!」


 一角は目まぐるしく流れる景色と風に揉まれる中で何度も枝葉に引っ掻かれ、民家の壁も何枚か壊し、漸くどうにか斬魄刀を抜くことができた頃には、黒腔がすぐそこまで迫っていた。糸は胴に巻き付いているが、ここを切ったのでは自分の腹も傷つけることになって拙まずい――そう思って背後に伸びている分を切ろうと振り上げたところで、不覚にも並び立つ二本の樹木に得物が引っ掛かってしまった。これではまるで閂かんぬきだ。ぐっと腕に力を入れてみるも、糸がそれとは反対の方向に強く引っ張ってくるせいで、均衡を保つばかり。自慢の力瘤こぶも悲鳴を上げ始める。
 一か八か、一角は覚悟を決めて始解の二段階目へと鬼灯丸を変形させることにした。槍から三節棍になれば引っ掛かりは外れるだろう。そうしたら今度こそ糸を断ってやる。黒腔に引き摺り込まれる前に、一瞬で決めなければならない。


「――っ、裂け」
「『灰猫はいねこ』!!」

「うぉっ!?」


 浮遊感。そして間もなく、うつ伏せの恰好で土に口付けする破目になった。


「手荒でごめんなさいねー!」


 声がした方に顔を上げてみると、そこには刀身のない斬魄刀を持つ金髪の女性隊士がいた。


「いや、手荒でもなんでもいい。助かった」

「あんたは十一番隊の……斑目一角、だったわね?」

「おう。そういうてめえは確か、十番隊の松本だな」


 一角は顔や膝に付いた土をぱっぱと払いながら立ち上がり、辺りを見渡してみた。此処は区境の森の端らしい。平原の向こうには小高い丘や集落があり、豆粒のような明かりがぽつぽつと灯っているのも見える。


「あたしが一番最初に引っ張られたんだと思うんだけど、その後どうなったの?皆は無事?」

「いいや。一人残らずとっ捕まって散らされちまったと思うぜ」

「そう……取り敢えずあんたとだけでも合流できたのは運が良かったわ。ここ、野営地からは随分離れた地区よ。東流魂街まで来ちゃってるんじゃないかしら」

「何件か家に穴開けて来ちまったし、森も十回は抜けた気がするぜ。ったく、市中どころか流魂街を縦横無尽に引き摺り回してくれやがって」

「敵の狙いが戦力の分散なら、一刻も早く元の場所に戻らなくちゃ」

「……でもよ、コレ放っといて行くのも何だかな」


 一角が顎で示した先には、あわや引き摺り込まれるところだった黒腔が口を開けたまま其処にある。長い隧道ずいどうに風が吹き込んでオォと鳴るのに似た低音を轟かせながら、深淵がこちらを覗き見ていた。


――――――


「きゃっほー!はやいはやーい!」


 あの場にいた死神で唯一、糸に捕らえられることのなかった少女がいる。しかしその少女もまた、物凄い速さで引き回され、流魂街をずっと移動していることには変わりなかった。何故ならば――四肢も首も糸にぐるぐる巻きにされ引っ張られている更木の背に、好き好んでしがみつき続けているからである。


「楽しいね剣ちゃん!でも、あんまりみんなからはぐれるとまた迷子になっちゃうんじゃない?」

「そんな心配はまだいいんだよ。それより、このままでいりゃあ糸を引いてる虚の所に勝手に辿り着けるんだろ?こっちから行く手間が省けていいじゃねえか」

「そっか、ご招待してくれてるんだ!じゃあ行ってあげないとね!」

「そういうことだ!ハハッ、強えのが待ってりゃ最高だな……!!」


 巨体は浮いてびゅうびゅうと風を切り続け、もう景色などは残像が伸びて線にしか見えないほどの速度に達していた。それでも二人は平然と会話し、暢気に構えている。


「あれ?」

「あぁ?」


 刹那、満月が照らす明るい夜景は写真のように切り取られ、二人からぐんと遠ざかる。そして間もなく、瞼を閉じていないにも拘わらず、二人の視界は真っ暗闇に覆われた。中は一差しの光すらも存在しない黒き洞うろ。そのひとつが、たったいま口を閉じた。

 十一番隊の隊長と副隊長が尸魂界ソウル・ソサエティから姿を消した瞬間である。


――――――


「ずっと開いたままだな。試しに入ってみるか?」

「やめなさい!帰ってこられなくなるわよ」


 一向に閉じる気配をみせない黒腔。痺れを切らした一角が中に首を突っ込んで覗き込もうとしたが、乱菊は咄嗟に彼の肩を掴んで止めた。


「穿界門せんかいもんとは訳が違うのよ。黒腔を開け閉めできるのは虚だけ。百五十年以上昔に、虚を追ってこの中に入った死神たちがいたそうだけど……誰一人戻らなかったって聞くわ」

「戻ってねぇってことは、死んだとは限らねぇよな。探しに行ってみるのも一興じゃねぇか?」

「あんた、そんなこと言って――ッ、なに?この揺れ……!?」


 突如、おどろおどろしい咆哮が大気を震わせた。それに合わせて前方の黒腔は空間に罅を入れながら横に広く裂け、中からは大量の虚が現れた。濁流の如く押し寄せる虚たち。その全てが一角を無視し、乱菊めがけて一斉に舌や手を伸ばした。


「なっ……『灰猫』!!」


 柄を振り、無数の塵と化している斬魄刀を操って懸命に抵抗する乱菊。しかし、視界を埋め尽くすほどの虚を捌き切ることができず、一体の虚に脇腹を掴まれてしまった。ところがその虚は彼女を喰らおうとはせず、そのまま黒腔の中へ連れて行こうと引き返していく。
 間一髪、一角が瞬歩で追いつき、彼女を掴んでいる虚の腕を斬り落とした。彼は額に青筋を立て、怒声を発する。


「巫山戯やがって……無視たぁ良い度胸だなァ!!俺の目の届くところで!二度と!人攫いなんてさせるかよ!!」

「一角!」

「何故だか知らねぇが奴らはてめえを狙ってやがる!ここは俺に任せて退ひけ!」

「でも、こんな数あんた一人じゃ……」


 そうこうしている内に、虚たちはあっという間に二人を囲い込んだ。だが、一角は怯まない。乱菊の死覇装の襟を無遠慮に後ろから引っ掴んで、こう叫ぶ。


「手荒だが勘弁しろよ松本ォ!!何とか引き留めといてやっから、後は頼んだぜ!!」


 切迫しているというより、ご機嫌のようですらあった。一角はぐっと腰に力を入れ、振りかぶり、三百六十度を包囲する虚の壁の外に向かって乱菊を高く投げ飛ばした。虚たちは揃って上を仰ぎ見て、悲鳴をあげながら頭上を越していく彼女に向かって手を伸ばす。


「ハッ、木天蓼またたび投げられた猫かってんだ」


 地を蹴り、一角自身も高く跳び上がる。そして始解状態の鬼灯丸を普通の斬魄刀の形に戻して横に一閃し、草でも刈るかのように虚の腕をまとめて斬った。幾つもの断面から血飛沫が上がる。瞬く間に、辺りは血の匂いに噎せ返る無双の舞台と相成った。


***


 鎮まって張り詰めていた空気が、僅かに一度だけ揺れるのを感じた。死神か虚かも判別がつかないほどずっと遠くにある霊圧の持ち主が震源だろう。更に、此処から辛うじて視認できる高い山の中腹には火の手が上がっているのが見えた。規模はそこまででもないが、散らされた仲間たちがあちこちで戦っているに違いない。


「沙生、あっちに行ってみよう。誰かと合流できるはずだ」

「そうだね。此処にもいつ、…敵が来るか分からないし」

「待って。……だから、そういうところだよ」

「へ?」

「さっきので足を痛めたんだろう?隠せると思った?」


 弓親は目聡い。小憎らしくなるくらい、よく見ている。
 左足首だけを縛られて引っ張り回されても何でもないほど、私は頑丈ではなかったのだ。葡萄の皮を摺り潰したかのような暗赤色の輪の痕。鬱血と打撲と、何なら足首の関節もやったかもしれない。夜だし、袴の裾で隠れていたからばれないと思ったんだけどなぁ。甘かったか。それにしても、私は左足に呪いでもかかっているんじゃなかろうか。


「歩けなくはないもの。迷惑は掛けないから」

「そういう問題じゃ――」


 彼が私の方に一歩踏み出したその直後。急に立っていられなくなって、がくりと膝を突いた。おか、しいな。呼吸が難しい。目が霞む。体が重い。耳の奥が痛い。やっとの力を振り絞って顔を上げると、弓親まで私と似た体勢で苦しそうにしているではないか。

 ――何が起きた?


「ンー……やっぱり駄目か。偶には近くで観察してみようと思ったんだけど。この距離でもう虫の息とはね」


 初めて聞く声がした。侮蔑と嘲戯、そして僅かながら憐憫も孕んだ半笑いの声。私たちからは五十間ほどの距離を置いて、何者かが立っている。声からして男。背は高い方で、珍しい桃色の髪とくの字形の角が目につく。影は人のようだが、生気のない白い肌を月光の下に晒し、肩や腰の後ろからは枝分かれした触手を生やす異形であった。


「……まさ、か……ヴァス……」

「おっと、無理に動くなよ。既に僕が垂れ流している霊圧だけで潰れかけているんだ。不用意に寄って来られたら、君たちの霊子の体がバラバラに崩れてしまうじゃないか」


 明らかに敵対者だろうに、まだ私たちには死んでほしくないかのような口振りの男。冷たくも厭らしい、熱い視線を寄越してくる。
 不気味で恐ろしいと思った。嫌な汗が全身からじわりと噴き出す感覚がした。悔しい、悔しい。そこに立って、見られているだけなのに。手も足も出ない、寧ろ出したら根こそぎもがれて呆気なく殺される未来しか見えない。それだけ理不尽で絶望的な力の差がある。唇を強く噛みでもして正気を保たないと、今にも狂って喚き散らしてしまいそうだった。


「アァ〜……良いね、そそられるよ……でも待ってくれ、あまりそんな表情かおをされると我慢できなくなるじゃないか。駄目だよ、僕だってそんなことしに態々来たんじゃないんだからさ。ヤミーの二の舞いでは人のことも言えなくなる」

「…なに……まっ…たく、分かんな……」

「前にも死神の捕獲を試みたことがあるんだが、ツレが勢い余って殺してしまったんだ。さて、教訓を生かして今回は数で攻めさせてもらうよ。僕が直接触ったりしたら文字通り水泡に帰きしてしまいそうだと分かったことだしね。暫くしたら、力尽きて伏せっているであろう君を迎えに来るさ」


 男は私を指さして恍惚とした表情を浮かべた。言い終わると同時に、男の背後には小さめの黒腔が幾つも開き、雑魚の虚がわらわらと際限なく思えるほどに出てきた。そして私たちに背を向け、黒腔の中へと引き返し――その口が閉じゆく間際、小さく振り返って今度は弓親の方を見据えてこう言い残していった。


「……ああそうだ、お前たち、そっちは要らないから喰ってもいいぞ」


***


「局長でました!例の最上級大虚ヴァストローデです!」


 涅が隊首会から帰って来て早々の騒ぎ。指示通りモニターにずっと齧りついていた局員たちは、急に噴き出すように現れた虚の動向監視とデータ採録に勤しんでいた。あまりの情報量に処理が追いつかず火の車、眠気も何処かへ吹き飛んでいる。


「ホウ、もうお出ましとはネ。何処に現れた」

「西流魂街三十七地区です」

「西だと?合同遠征部隊の前にじゃないのかネ」

「いや、それがどうも見事に散らされてまして。流石に正反対の南の方まで飛んでった人はいないみたいですが……」


 涅がモニターを見てみれば、死神の霊圧を示す点は北西東あちこちにばらけていた。よくもまあこれだけ引き離したものだ、と敵に感心せざるを得ない状況である。


「あれっ局長、消えました!最上級大虚の反応もうありません!」

「……自分は戦わないという訳か」


 隊首会で当てずっぽうに述べてきた見解も、あながち間違いではなかったらしい。
「――貴様、性根がその虚と似通っているのではないか?」
 砕蜂に言われた言葉が頭を過った。低俗な虚などと一緒にされては堪ったものではない。再び苛つきそうになったがその寸前に愚考は振り捨て、意義の有ることに頭を使うため大人しくモニターの前につくことにした。

 ここまで大量の虚が統率されたような動きを見せるのは、技術開発局創設以来初めてのことである。おまけに戦闘に長けた隊長二人がいる部隊を虚仮こけにするように散らすとは、もし向こうが本気を出して殺しに来ればこちらは一溜まりもないに違いない。隊長二人はまあまあ傑物であると涅も認めている。そこで意固地になっても仕方がないからだ。だが、他の隊士の犠牲は免れないだろう。部隊が一応はまだ壊滅を逃れているのは、偏ひとえに奴の目的が異質であるからに過ぎない。
 『Diablo rosa』――桃色の悪魔。二十年前に流魂街に出現した際には、数体の大虚メノス級を率いて多くの死神を屠ったという最悪の個体。


「やれやれ……もう増援は発ってしまった頃だろうネ。どんな惨状が待ち受けているかも知らず死地へ向かわされるとは、些か同情してしまうヨ」

「ところで局長。戻られる少し前に大変なことが起きたのでご報告申し上げたいのですが」

「何だネ」

「更木隊長と草鹿副隊長の霊圧、急に補足できなくなったんです。やられちゃったんですかね」

「…………は?」


――――――


 瀞霊廷を発ち、全速力で流魂街を駆ける影の集団。筆頭が三でその付きが三十、計三十三名。突然、先頭を走っていた蒼純が足を止めた。後に続いていた者たちは皆それに倣って立ち止まり、怪訝けげんそうに蒼純の様子を窺う。


「少し待ってくれ。変なんだ……このまま行っても、合同遠征部隊に合流できないかもしれない」

「どういうことです?この辺、まだ二十地区かそこら過ぎたくらいですやん。まさかこっから霊圧探りはったんですか?」


 風に煽られて暴れる前髪を片手で抑えながら、市丸が問うた。一心からの言伝には、合同遠征部隊は昨晩に奇襲を受けた北流魂街四十地区付近からはあまり離れず、近くで野営を続けるとあったはずだ。更木ならまだしも、一心が増援を呼んでおきながら勝手に移動しているとは考えにくい。


「はっきりとは断言できないが……この先に百数人の死神が集まっている気がしない」

「ぼんやりとでもこの距離で分かるんやったら凄すぎますって」

「それに私も・、勘は冴えてる方なんだ」

「はぁ……はい?」


 しっかり探知した故の発言なのか、勘なのか。結局どちらなのかが曖昧であるうえに「も」の意味が分からず、市丸は首を傾げた。貴族にしては万人に平等で優しく温厚な六番隊副隊長……としか知らない市丸は、「もしや彼って天然なのでは?」と勘繰る。しかし蒼純は自分のペースを崩さず、至極真面目な顔のまま、徐に死覇装の袖をまくってその場に正座した。


「では、今から証明して見せようか。破道の十一『綴雷電つづりらいでん』」


 その破道は、難易度が低い割に専もっぱら使う機会が限られる。破道といえば空中に霊圧の塊を放って攻撃するものが大半であるが、これは物質に電撃を沿わせるように放つ技だ。敵を鎖や縛道の四『這縄』等で捕らえた後、それに電撃を伝わらせて攻撃するのが定石である。
 ところが、蒼純は地面に両手をついて地表に電撃を沿わせた。なにも周囲の仲間を無差別に攻撃しようというのではない。一部の土だけを焦がし、地面に思い通りに紋様を描いていく。円の中に十字、そして四分円の中には個別の記号。同じ紋様を全部で四つ、同時進行で地に刻んだ。


「な、何してはるんです?」

「指で一つずつ描くより、早くて簡単だからね」


 地面に紋様を描きたかっただけなら別に綴雷電を使わずともできる。蒼純は「早くて簡単」と言ってのけるが、市丸からすれば寧ろ高度な応用に思えた。少なくとも此処にいる死神たちは誰一人、こんな綴雷電の使い方をしたことはないし、見たこともない。


「南の心臓、北の瞳、西の指先、東の踵きびす。風持ちて集い、雨払いて散れ――縛道の五十八 『掴趾追雀かくしついじゃく』」


 紋様は生き物のように震え出し、天に向かって四本の光の柱があがった。それぞれ四つの円の中を、漢数字が目まぐるしく蠢うごめいている。


「掴趾追雀をいっぺんに四つて……」


 いとも簡単そうに無茶苦茶をやってのける蒼純に、市丸は感心を通り越して慄然すら覚えた。この縛道は、術者が指定した対象の霊圧を探り出して正確な位置を補足するものだ。かなりの霊力と集中力を要し、並の死神では一つ使うだけでもへとへとになってしまうことすらある。
 暫くすると、三つの円がそれぞれ別々の数値を示して止まった。しかし、残り一つはいくら待っても止まる気配がない。それを見た蒼純は、眉を顰めて呟く。


「更木隊長が……いない……」

「あらら。あの人のが一番補足しやすそうやのに」

「――駄目だ、見つからない。最悪の事態も頭に入れて行動しなければならなくなったな」

「仮にあの人がやられたんやとしたら、ボクらにどうこうできますかね……そんで、あとの三人は誰を補足したんです?」

「取り敢えず、私が霊圧の質をよく覚えていて探しやすそうな人を当たってみた。一心殿、斑目三席、それと楠山さんだよ」


 その三人の位置は何処かといえば、掴趾追雀が示すには見事にばらばらだった。一心は北流魂街四十二地区にある高い山の中腹、一角は東流魂街四十八地区の平原、沙生は西流魂街三十七地区の森の中。


「それぞれ虚と交戦しているはずだ。此処からは三方向に別れよう。市丸副隊長、西五辻三席、良いかい?」

「ええ、構いませんよ。ボクもそれが最善やと思います」

「異存御座いません。それに恐らくは、その御三方以外の各人も方々に散らされているとみて良いでしょう。我ら筆頭の判断のもと、小隊を更に分けて行動する必要も出てくるかもしれませんね」

「そうだね……皆、今一度気を引き締めてくれ。私たちは増援だ。散った合同遠征部隊員との合流を最優先に動き、必ず生きて帰ること。良いね?」


 蒼純の問いかけに、他の三十二名の増援部隊員は頷いて応える。彼のことを怪訝な顔で見る者はもういなかった。
 「散」の合図の後、精鋭たちは三方向に分かれて満月の下を疾駆する。


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表紙・家