或る戰の特称命題

死ぬれば死神
あるたたかいのとくしょうめいだい

 暫く、呆けていた。

 無邪気な桃色の髪の少女が指し示す先へ、砂煙を上げながら走り遠ざかっていく男の背中。それに向かって、蜘蛛足を伸ばしかけた。待って欲しいと、思ってしまった。
 何故。何故、何故――。


***


 純白の蜘蛛型中級大虚アジューカスロカ・パラミアは、更木剣八に戦いを挑まれた。しかし、彼の霊圧におびき寄せられた数多の虚たちによって、どんどん蚊帳の外へと押しやられていった。彼女はその場にいたどの虚よりも強かったが、抵抗も何もせず、ひとまず遠目からの観戦に甘んじた。
 何故かといえば、集まってきた虚のうち何体かは更木よりも強かったからだ。自分が手を出さずともたおされる程度の、脅威にはならない存在だと考えたのである。

 実に甘い考えだった。彼は自分よりやや格上の力を持つ虚とぶつかる度に競り合い、限々で勝つことを繰り返した。そして辺りを一掃する頃には、ロカと同等以上といえるまでに力を上げていた。
 こうなっては斃されるのはこちらかもしれない、と後悔しても時は戻らない。道具である自分は、所有者の許しなく壊されてはならない。研究途中である“糸”の能力を与えられている今、前回のように無謀な突撃を命じられてもいない。身を隠せる物が無い砂漠で、姿を消せる能力も持たないロカは、「この男とどう戦うべきか」と必死になって頭を回転させた。

 ところが更木ときたら、あっさりこの場から去っていった。
 信じ難いが、更木はそこにまだロカがいることに気付かなかったのだ。存分に暴れられて色々と緩んでいたのか、もしかすると、白く細い彼女の体躯をそこらに生えている石英の木と見間違えたのかもしれない。少し離れた位置にいたとはいえ、これぞ絶望的な探知能力の低さを所以ゆえんとする見落としであった。


***


 何故。何故、私は「戦う」ことをまず考えたのか。「逃げる」ことが先決かつ賢明であったはずだ。運良く壊されずに済んだというのに、不満を覚えるなど。


 ずっと昔にも、同じ羽織を着た別の男と相対したことがあった。

「奥にいる奴、出てこいよ」
「……中級大虚あんたでもねえよ。あんたの後ろに、もう一人いるだろ」
「お前、なんにも中身がねえな」
「俺は、人形を斬る程ヒマじゃねえんだ、出直してこい」


 見向きもされなかった。
 刳屋敷剣八という男は、私に関心を持たなかった。朧げな自我の存在すら否定された気がした。待ち侘びた安らかな死への淡い期待を、打ち砕いた。


「よお!糸を引いてやがったのはてめえか!?」
「ハッハッハ!随分と硬えなァ!最高に愉しめそうじゃねえか……!!」
「てめえは口が利けねえのか?強え虚ってのは大概、言葉を話すと聞いてんだがな」
「まぁどっちでもいいか、そんなことは。俺は斬り合いができりゃそれで満足だ」


 真正面から向き合ってきた。
 更木剣八という男は、私に・・戦いを挑んできた。「役立たずの愚図」と罵られ続けてきた自分でも、他者を満足させられる可能性があると知った。だからだろうか、それに応えて果てたいと何処かで思ってしまった。懲りずにまた終わりを望んでしまったのだ。

 戦いとは、死ねる好機。違う。
 感化されるな、動かされるな。
 私はザエルアポロ様の道具だ。

 愚かで、酷く間抜けだ。疾うに蓋をして沈めた望みだったはずだ。忘れよう。律しよう。そうしなければ、比喩でもなく毎日身を削られる苦痛に、これから耐えていけなくなる。


 ――ロカは、冷たい通信機のボタンを無感情に押した。


「ご報告申し上げます。十一番隊隊長がザエルアポロ様の研究棟の方へ向かっております。私共の力が及ばず、申し訳ございません」


***


 そこには、この場所に於いて唯一の人工的建造物と見て取れるものがあった。白く、四角く、大きさは一戸建ての家くらいで、砂からにょっきりと生えているソレ。

 壊してみよう、そうしよう!

 何故か、と?愚問であろう。群がり寄る幾百の虚を(一体を除き)みなごろしにしてから此の方、進めども進めども砂と枯木しかなかったのだ。変わったものがやっと目の前に現れたならば、つついてみるのが人の性というもの。但し、この更木剣八という男に限っては、つつき方が少々荒っぽかったのも認めよう。
 建物の右半分がガラガラと音を立てて崩れ、重たい石の天井や壁が落下してはドスンと砂を鳴らした。剥き出しになった屋内には、人が使うような椅子やら棚やらの家具の他に見慣れない機器などもあったが、お構いなしに破壊つつく


「誰もいないね〜。お留守かな?」

「チッ、あてが外れたか。仕方ねえ……」

「――待ち給えよ」


 建物に背を向けた二人に、苛立たしげな声と強い圧力が掛けられた。少し前の何もなさから一転して、恐ろしいまでの存在感。戦う前から死を予感させるような禍々しい霊圧を浴びたのは、更木にとって初めてのことだった。しかし恐怖を覚えることはなく、驚いて動きが止まっていたのもほんの一瞬だった。狂喜の笑みを浮かべて、未知なる強者を歓迎する。


「……ハッ……ハハハハ!! それ程の霊圧を持っていながら、気配を消していやがったのか!?」

「君らのような呼んでもいない困った客人相手に、僕がコソコソする必要なんてあると思うのか?この研究棟の地下は殺気石せっきせきで造られているんだよ。……まぁ、それでも僕の霊圧は外に漏れていたと思うんだが……」


 ザエルアポロは見せつけるように深い溜息を吐いた。それから左の人差し指を顎に添え、視線で更木を舐め回す。すると途端に可哀想なモノでも見るような目になって、更に肩を落としてダラダラと物を言う。


「蛮声を張り上げられるくらい気を保っているようだから、昨日計測したときより格段に霊圧が上がったのかと期待したけど……ハハッ、僕も馬鹿だね。威勢だけで猫も噛めない窮鼠だったか。それにしても、おかしいな。“剣八”っていうのは、より強い者が継ぐ仕組みだったはずだ。君って何代目?本当にその羽織を着る資格の持ち主なのかい?」

「おい、ごちゃごちゃ言ってねえでさっさと構えろよ。俺はてめえのような強え奴を求めてたんだ……!」

「雑魚を少しばかり斃してきたからと言って逆上のぼせあがるなよ。しかし……そんなに僕と戦いたいのか?手も足も出ないまま死ぬと分かりきっているのに?……ンン〜、自暴自棄にしても、そう嬉しそうにされると望み通り殺してやるのも何だか癪になってくるな」

「いつまでぶつくさ言ってやがる!てめえも戦いは好きだろう!?ああ、そこまで強くて、戦いが嫌いな訳がねえ!!」


 構える様子のないザエルアポロに痺れを切らし、更木は一歩、また一歩と進む。近付く程に呼吸が難しくなり、霊圧だけで肺が焼かれそうだとまで感じた。だが、それでも進むのをやめない。
 ザエルアポロが言っていることは、傲りでも慢心でもない。確かに更木は合同遠征に出てから数え切れないほどの虚を倒し、霊圧も短時間の内に常人離れした成長を遂げた。但し、それはあくまで常人から見ればという話で、丁度いま目の前にいるような常軌を逸した化け物から見れば誤差のような微々たる程度である。この場にいる二人の力量差は天と地か、月とすっぽんか。巨大隕石に一人で抗うようなものかもしれない。仮に、ずっと未来の彼がそれに抗い得るのだとしても、今は不可能だ。それが現実である。


退く、という概念すら持たないか。フフ、フフフフ!獣以下だな!そうまでして戦いを望むか!」

「そうだ!!てめえは強え!!なら、戦いたくなるのが俺の」


 本能だ!!

 続けてそう叫んだときには既に、更木は暗闇の中を真っ逆さまに急速落下していた。


「なら、僕は最大限の屈辱を君に与えるまでさ。戦いたいというなら相手をしない。殺して欲しいというなら殺さない。強い奴が好きだというなら、君より弱い奴しかいない空間に君を掃き捨てる。永遠に彷徨うがいいさ」


 今しがた目にも留まらぬ速さで虚閃セロを放ち、地面にぽっかりと開けた巨大な穴。厚い砂の層を底まで突き抜け、とある地下世界の森へと誘う穴。そこに追加で氷のような独り言も吐き捨てる。


「……何より、君程度に割く時間が惜しいんだよ。戦いなんて僕にとってはデータ採取の一手段、おまけで憂さ晴らしの一手段。要は暇なときのお遊びさ」


 つまり、今はそんなに暇ではなかったらしい。ザエルアポロはさっさと踵を返し、派手に壊された研究棟の設備の様子を確認しに行った。
 ふと、自分と似たような桃色の髪をしていた少女がいつの間にか視界から消えていたことに気付いたが、「どうせさっきの虚閃の余波でもくらって死んだだろう」と深く考えることをしなかった。


――――――


 戦いとは敵対勢力の排除行為に他ならず、所属する組織への奉公の意思の元にあって漸く正当化され得るだけの暴力である。

 西五辻にしいつつじセンはそれを持論とする。故に、彼は戦いをいとう。遊びなく、早急に終わらせるべきものでしかない。

 東流魂街四十八地区。
 緑樹の間を走り抜けた閃が目にしたのは、平原であるはずのその場所をすっかり覆い隠してしまうほど巨大な半球型の塊だった。よく目を凝らしてみると、塊を成している正体は大量の虚たちであることが分かる。同胞を踏み台にして折り重なっているその光景は、同じようにして橋を成すという軍隊蟻の大群を想起させた。ここには斑目一角しか死神はいないというのに、群がっている虚が余りにも多い。どう考えても異常だ。
 しかしどうであれ、閃がこれからやるべきことに変わりはない。一度も足を止めることなく低い体勢で走り続け、腰部に取り付けてある斬魄刀を逆手に抜く。


すずれ 『汞旁みなかた』」


 始解した斬魄刀は瞬く間に銀一色の鎖鎌へと形を変えた。分銅部分を左手に、鎖の中ほどを右手に持ち、牧童が牛に向かって縄投げするみたいに振り回して勢いをつけてから、先端の鎌を斜め前方に投げ飛ばす。すると鎌の刃が触れた先から虚はみんな豆腐みたいにスッと切れて、切口から蒸発するように消えていった。閃はそうして空いた隙間から半球型の塊の内部を覗き見て、僅かに眉を顰めた。


「……地獄か、此処は」


 普段から引き締まった表情をなかなか崩すことのない彼だが、今回ばかりは無理もない。内部では、狂乱した虚たちが其処彼処で共喰いし合っていた。醜い鳴き声がキンキン反響し、竜巻のように虚が飛び交って入り乱れ、血の匂いが充満している。そして今、閃の顔のすぐ横を虚の指が血を噴き出しながら通り過ぎた。今回の敵は「とある個体によって統率されている」と聞いてきたというのに、この酷い有様はどうしたことか。標的は死神だということも抜け落ちているのか、すぐそばにいる虚でさえ閃に見向きもせず、別の虚を引っ掻いて喰おうとしている。
 果たしてこの惨状の中で斑目一角がまだ無事でいるのか甚だ疑問であったが、閃はひとまず彼を探してみることにした。塊の内部にひょいと飛び込み、誤って探し人を攻撃してしまうことのないよう控え目に鎖鎌を振り回して虚を減らしていく。そも、血の降る嵐の中を突き進んでいるようなものであるから、振り回し続けなければきっとすぐに返り血だらけになる。

 暫く進んでいくと、前方に人の形をしている真っ赤な何かが見えた。……鬼だ。鬼がいる。いや、角なんか何処を探しても見当たらない見事な“つるっぱげ”だが。どうやら生きていたらしい。この場にいる全ての虚が彼を標的としていれば一溜まりもなかったろうが、幸いなことに殆どの虚はトチ狂って同士討ちに勤しんでいたため何とかなったのだろう。
 閃は持っている物を回すのを止めて、虚にトドメを刺したところの血濡れの背中に声を掛ける。


「斑目一角」


 呼ばれて振り向きざまに、一角は刀を振るってきた。水平に迫る刃はあわや閃の首を飛ばすかに思えたが、閃は手に持っていたものをバッと上に高く投げると同時に上体を逸らし、後方倒立回転跳びで退がって難を逃れた。


「――あ?てめえは確か、前に達磨型虚をやったときに来た刑軍……」

「増援に来てやったというのに随分な挨拶だな。周りに流されて貴様もトチ狂ったか?」

「……涼しい顔して案外口の悪ぃ野郎だな……いや、悪かった。ここ五月蝿ぇからよぉ、耳やられちまって反射的に……」


 一角が片耳に小指を突っ込みながら話していると、閃は先ほど上に投げた物をパシッと手に納めた。そして真顔でそれを差してくるんと回しているのを見て、一角はあんぐりと口を開けたまま固まった。


「……は?」

「? 大丈夫か?耳だけでなく脳もどこか損傷……」

「いやいや黙れ!巫山戯てんのか!?なに戦場でのんびり傘なんか差してやがんだ!」


 そう、閃がいま持っている物は傘である。銀一色の傘は虚の血の雨を受けては流し、閃が一角と同じように頭から爪先まで血塗れになるのを防いでいた。


「……本当だな。さっきから傘が欲しいと思っていたからか、つい無意識だった」

「はぁ?何だって?オイ、てめえこそ頭どうかしてんじゃねぇか」


 そんな二人の間に、絡み合って争っている虚の団子が割って入ってきた。一角はそれを思い切り叩き切る。真っ二つになった団子は転がりながら消滅していったが、一角は顔を歪めて舌打ちした。


「ッ、……クソが」

「返り血だけではないのだろう?大人しくしていなければ死ぬぞ」

「てめえみたいな阿保刑軍に任せられるかってんだ。つうか、一人だけかよ?松本はどうした」

「金髪の女性のことか?彼女なら部下と野営地に戻らせた。実際きてみて、正解だったと思っている」

「正解だぁ?俺と更にてめえの死体が出来上がることがか?……おい、もうてめえ引っ込んでろ。俺は剣を握っていられる限り、戦ってっからよ!!」

「おい、」


 一角は閃を無視して虚の群れに突っ込んでいった。全身真っ赤で分かりにくいが、彼は傷だらけだ。動く度に体の中の血はどんどん減り、死に近付いていく。閃はそんな自殺行為を見兼ねて、一角が戦っている虚に向かって破道の三十三『蒼火墜』を放った。目の前で相手の頭を吹き飛ばされた一角は横目で閃を睨みつけ、低い声で唸るように言う。


「……人の喧嘩に手ェ出すたぁ、見下げたもんだな」

手子摺てこずっておきながらよく抜かす。そういう台詞は強者のものだ」

「何だと?こそこそ後ろから刺すような真似を平気でしやがるような奴にだきゃ言われたかねぇな!」

「……三席ともなれば敬意を払うべき相手は隊長格のみ、と思っているのではあるまいな」

「はぁ?じゃあ何様だってんだ」

「二番隊第三席及び隠密機動第一分隊刑軍軍団長直轄部隊筆頭兼第三分隊檻理隊隊長、西五辻閃。同位といえど、貴様と肩を並べているつもりはない」


 銀一色の傘は、高く掲げられた後に形を・・失く・・した・・。流体となった斬魄刀『汞旁みなかた』は多方に飛び散り、閃の周囲にとぐろを巻く銀一色の帯に変化へんげした。帯は意思を持っているかのように畝り、みるみるうちに大きく長くなって、それに触れた虚は次々と斬られて消えていく。


「引っ込むのは貴様の方だ。適材適所だ、呉々くれぐれも張り合うなよ」

「な、何だその斬魄刀!?……つうか、肩書クソ長ぇし全部言わなくていいわ!」

「…………む……少し黙れ」

「あぁ!?何だよコラやんのか!?」


 閃は一角を無視して耳を澄ませた。

 ――空気が、震えている。

 この半球型の塊を成す虚たちの個々の霊圧はそれ程でもない。だがこの時、一角と閃の二人を取り巻く霊圧が急激に高まり始めていた。共喰いし合っていた虚たちの体は怪しい光を発し、繋がり、そして――


「……斑目!!」


 瞬歩で一角の目前に迫った閃は、有無を言わさず彼の胸倉に掴みかかった。


「てめっ、何すん――」


 次の瞬間、一角の視界は銀一色に染まる。


――――――


「この異常な霊圧の震え……東流魂街に大虚メノスが現れたのか」


 朽木蒼純は瀞霊廷で最も優れた霊圧探知能力をもつ死神であり、鬼道衆顔負けの鬼道の達人でもある。だからこそ、自分が走っている方向とは正反対の遥か遠く、閃が向かった場所にたったいま大虚が誕生したことにも一早く気が付いた。
 先刻に縛道の五十八『掴趾追雀』で一心、一角、沙生の位置をそれぞれ補足したとき、なんと蒼純は彼ら三人から半径およそ百間の範囲にある霊圧までもを正確に探っていた。そして周囲にいる虚の数が一番多かったのが一角のいる場所だったため、一対多戦闘に長けているという閃にそこを任せたのである。しかしこうなってしまっては、彼が長所を生かして戦うのは難しいかもしれない。まさか流魂街で大虚が誕生するとは、流石に予想していなかった。

 ――だが、引き返すわけにはいかない。斑目三席と西五辻三席の武運を祈ろう。

 蒼純は、自分が向かっている場所の近くにも敵がまだ潜んでいるのを感じ取っていた。
 これまでの道中、はぐれた隊士を見つけて救助しては、引き連れていた増援部隊員を護衛につけて野営地に戻らせ、少々時間をとられていた。これ以上の寄り道はできない。一人になった蒼純は、霊圧を潜め、連続して瞬歩を使い、風より速く走る。息子の大切な友人でもある彼女を救うには、もう一秒の遅れも許されない。


――――――


「やれやれ……遅くなってもうたなァ」


 一仕事終えてきた・・・・・・・・市丸は、森の中を瞬歩で走り抜けながらひどく小さな声で呟いた。手には肉を断つ感触が、耳には怯えきった断末魔が残っている。「死神になる」と決心したあの日からとっくの昔に覚悟していたことで、今更もう嘆くことでもない。

 それでも、慣れたくはないと思う。
 それなのに、慣れてきてしまった。

 大切なものを護り、取り戻す。そのために戦っていると言えば聞こえは良いが、市丸は自分にとっては大切でない他の何かを捨てることばかりしてきた。今回もそうだ。戦ってなんかいない、捨ててきただけだ。

 ――嗚呼、この手は汚い。

 彼は自嘲する。今あちこちで戦っている死神は総じて、自分よりずっと綺麗だ。

 北流魂街四十地区付近、合同遠征部隊の野営地はもうすぐそこだ。辿り着く前に、この湿気た思考は振り払って平静を装っておかなければならない。市丸は狐のような笑みをまた一層増しに張り付け――しかしその直後、視界の端に捉えた何かに違和感を感じて、左手遠方を二度見した。


「へ?……ははっ、嘘やん」


 星影またたく空の真ん中に、白い仮面が浮かんで見える。山より何より背高のっぽな黒い巨体がゆらり、ゆらりとこちらに進んできているのは、残念ながら幻覚ではないらしい。


――――――


「おっしゃァ着いた!お嬢さん、野営地ってここで合ってるっスよね?」

「ええ。思ったより集まりが悪いわね」

てんと、あまり大声で騒ぐんじゃない。空気を読まんか」

「いやぁ持地もちじさん、こんな湿気た空気、読みたくも吸いたくもありませんて。敢えてっスよ、あ・え・て」


 乱菊と閃の部下である刑軍二人が野営地に戻ると、そこには三十名ほどの隊士たちがいた。自力で糸から逃れて戻ってきた者、増援部隊員とそれに助けられた者など各隊入り混じった面々だが、揃って不安そうにしている。彼らは乱菊たち三人が来たのを見て少しはホッとした表情を見せたものの、またすぐに元の顔に戻ってしまった。
 十番隊と十一番隊の合同遠征部隊は、昨日瀞霊廷に帰還した者たちを抜いても百数名はいたはずだ。なのに、今ここにはその半数もいない。臨時でこの場の指揮官となれるような隊長格や席官も、まだ一人も戻っていなかった。


「どいつもこいつも『士気?何それ美味しいの?』ってな顔しゃーがって。せめてその丸まった背中どうにかして見張りでもしてろってぇの。“戦闘部隊”の名が聞いて廃れるぜ」

「……呆れる、ね。そういえば、あなたたちは二番隊の席官だったりしないの?」


 乱菊が問うと、まず老齢の白髪頭の方が答える。


「席次なんてもう何十年も前に若いのに譲りましたよ。それに、指揮経験は殆どありません」

「そうですか……じゃあ、そっちは……」


 バチッと目が合った赤髪三白眼の方は、ドンと胸を叩いてにっこり告げる。


「オレは今年からの新入りなんで全然!そんでもあっちで悄気しょげてる十一番隊のオッサンらよりはイケる自信あるっスよ!」

「そう……え?あんた、新米なのにそんな偉そうなの?」


 ごもっとも。これには聞き耳を立てていた十一番隊隊士たちも面食らっていたが、彼らは早々に掌をかえし、さっきまでの慎ましさも死んだ。恥ずかしげもなく所得顔ところえがおまで引っさげて、じりじりと詰め寄っていく。


「何だと!?ガキんちょが偉そうに!」
「オイオイ紅葉もみじだか鳥頭の兄ちゃんよォ」
「黙って聞いてりゃ生意気ばっか言いやがって……」
「お前はさぞ強ぇんだろうな!?」
「そこに直れ!気合い入れてやる!」

「おっと!皆さん元気になっちゃってまぁ。自尊心ばっかり御立派なんスね」

「えーっと……太だっけ?あんた、隠密行動とか向いてないんじゃない?」

「御心配どうもお嬢さん!けど大丈夫っス。寧ろ今年の新入りで一番の有望株はこのオレなんで、覚えといてくれて良いっスよ!」

「はーん……ま、忘れるのは難しそうね……」


 飛んでくる野太いヤジも全く気にせず、若い刑軍の男――三師みもろてんとは呵々と笑う。煽られたと感じた何人かは額に青筋を立てて殴りかかっていったが、対する太は馬鹿みたいに明るい笑顔のまま、ひょいひょいひらひらと事も無げに拳を躱し続けた。そうして多勢の男たちが息切れしてきた頃、太は急に動きを止めて繁みの方に目を遣った。顔面に迫っていた拳は全く見ずに片手でぱしりと受け止め、おちゃらけるのもやめてそっと口を開く。


「……指揮官になれそうな人、来たみたいっスよ」


 数秒の後、音を立てずにそこの繁みを飛び越えてやって来たのは市丸だった。彼は自分のことをじっと見てくる太を不思議そうに見つめ返している。


「お疲れ様っス市丸副隊長。お一人ですか?」

「ん?うん。志波隊長には会うたけど、はぐれてる人ら回収しに行ったみたいやからまだ戻らんよ」

「その志波隊長も、お一人だったんで?」

「……ううん。何人か一緒におったんやけどな。残念やけど、やられてもうた」

「……そうスか。ご愁傷様です」


 二人のやり取りを聞いて、その場にいた隊士たちは肩を落とした。ばらばらに引き離されてから数刻発っても戻らないということが何を意味するか、改めて突き付けられた気分になったのだ。
 但し、どうも太だけはこの場にいる誰とも異なる感情を抱いているようだった。射殺すような視線が市丸に向けられているとは誰も気付かないまま、二人の間には乱菊が割って入り、皆の注意はそちらに向いた。


「ギン……来てたのね」

「……乱菊。無事やったんか、そら良かった。でもな、まだ安心できひんで」


 市丸は持っていた斬魄刀でスッと東の方角を指し、珍しい虫でも見つけたかのような口調でこう続けた。


「こっちん真っ直ぐ、大虚がお散歩して来よるよ」


***


 既に沈む方に傾いている満月の角度と明かりを頼りに、ゆっくりと、着実に帰還を目指す。『瑠璃色孔雀』に霊力をお裾分けしてもらって命こそ拾ったが、私も弓親も疲労困憊の傷だらけで、瞬歩での移動なんてとてもできない。もしまた会敵してしまえば、相手が雑魚でもただでは済まないだろう。あの最上級大虚ヴァストローデもいつ戻って来るか分からないし、できるだけ早く皆の元に戻らなくてはならない。……それは理解している。しているのだが、納得いかない。


「……あの、歩けるからさ。降ろして」

「駄目。初めて立った赤ん坊みたいにヨッタヨタしてちゃ、何時になったら着けるか分かったものじゃない。それにその左足、見てるこっちが痛くなってくる」

「でも怪我は弓親の方が酷いでしょう?血止め薬塗ったってだけで、血の量まで戻ったわけじゃないんだから。背負ってくれなくていいよ、ほんとに」

「嫌だね、好きで背負って……ん?なんか、こんなのさっきもやったばっかりじゃなかった?」

「……そうだったかな」

「まったく……ほら、もう諦めてじっとしてなよ。別に重くもないし、君を運ぶのだってどうせこれが初めてでもないし」

「……そうだったんだ」

「……そうだったんだよ。だから、僕に悪いとか思っても全部今更さ。もう遠慮なく寄り掛かってくれていい。その方がきっと手が届きやすいし、僕も安心できる。……沙生に頼られるのは、何故か不思議なくらい嫌じゃないんだ」


 驚いた、君のそんなに優しい声は初めて聞いた。どんな顔して言っているのやら、覗いてみようにもこの姿勢では難しい。個人的所懐で述べるが、他人との距離は広くとるのが弓親という人だ。鍛錬や手合わせも、食事中の会話も、「共に過ごしていることだし一応は」といった程度に済ませる。それが、ここ数日そうでもなくなってきたというか、妙に世話を焼かれている気がする。私が無茶したあれやこれが彼を弥病ややませ、心配を掛けていたのだとしたら、その反動なのだろうか。それにしても、


「なんか、今日の弓親は恥ずかしいこともさらっと告白してくれるね」

「はぁ!?……こっ、恥ず………べ、別に?なに言っ、でぅわッ!?」

「ぅわちょっ、お、落ち」


 揶揄って悪かった、申し訳すると今の私ってばちょいと頭がふわふわしていたんだ。しかしだ、思わず振り向きたくなったのはまぁ分からなくもないが、体の向きを丸ごとブン回したって背中にいる人間を振り向けるはずがないじゃないか。己の尻尾を追いかける猫か君は。首だけ少し回せばいいものを、流石に動揺しすぎでしょう。落ち着け。
 とか考えても最早意味はなく、弓親とその背中にいる私は百八十度後ろを向いて体の軸は地面に向かって斜め軸、要は二人とも派手にすっころんで尻餅つくまで、あと一秒。

 ヒュッと風を切る音がしたと思ったら、耳朶みみたぶがカッと熱くなった。


『ア゛〜ッ!!動クンジャナイヨ!首刎ネ損ナッチャッタジャナイカ!』
 『今ので死ねていれば、さぞ安楽であったろうに』

「……うそ」
「いつの間に……」


 ……会敵してしまった。二人して尻餅をついて見上げた目と鼻の先には、巨大虚ヒュージホロウをかわいいとさえ思えるほど場違いな巨体が蠢いていた。タコ海鶏冠ウミトサカが合体したような不気味な体。表皮はぶよぶよと波打ち、そのあちこちに虚の顔がいくつも埋め込まれたようにしてある。何本もの太い触手の先には、生温い息と涎を吐き垂らす口がぱっくり開いていて、こっちを見ていた。
 こんな終末の化け物みたいな奴の接近に気付けなかっただなんて、そんな馬鹿な。


 『ンフ、可哀想ダネ。デモ僕ラハソウイウ顔ミルノ好キナノ』
『近くに来てみてやはり感じる。中々良い養分になりそうだ』

(母様、爺様。私、もう今度こそ――)


 気付くと目の前で白い焔が激しく燃え上がっていて、うねうねと伸びてきた触手が一本焼き切られたところだった。


(立て沙生!!足がどうなろうが走れ!!我が時を稼いで――)


 ハク。ごめんなさい。さっきは「歩ける」なんて言ってたけど、やっぱり痛くて動かせないや。今からでも私の中から出て行けるなら、ハクまで道連れにしたくなんてないから、


「破道の五十七 『大地転踊だいちてんよう』!」
「ぃよし、いいぞ蒼純!そぉら燃えろ!『剡月えんげつ』!!」


 虚の下の地面が抉れて宙に飛び上がり、一瞬だけその巨体をも浮かせた。体勢を崩した虚の触手は僅かに私を捉え損ね、その隙を見逃すまいとする真っ赤な炎の刃によって削ぎ落とされた。


「……あ、」

「よっ、待たせちまったな。どうしたそんなとこ座って」


 ちょっと煤けた「十」の羽織を着て立っているその人を見て、私はぽかんとして目と口を開いたまま、少しの間だけ固まった。


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