十死一生に師父をみた

死ぬれば死神
じっしいっしょうにしふをみた

 最早これまで。眼前に捕食者の口が迫りくる。この臨終にあって、瞼を閉じてからほんの一瞬きにも満たない合間に、我が人生の走馬灯が駆けるように流れだした。

 剣術道場の跡継ぎとして生まれ、父を知らず、母に愛され、喪い、そして祖父に育てられた。話の中でしかろくに世を知らず、激動の時代を山の中で平穏にやり過ごしていた或る日、会ったばかりの黒袴たちを化け物から庇って胸を穿たれ、早逝した。


『お前、死神になるといいぞ』
 死後に得た、第二の生の指標。死神になったことに後悔はない。あなたのような死神に出会えて本当に良かった。そして、それを告げることなくいなくなる薄情者なんか忘れて、いつまでも都さんとお幸せに。


 更木隊長、草鹿副隊長、一角。心配も迷惑も掛けたけど、私を仲間にしてくれてありがとう。これは戦いの中での死だ。本望だろうと笑ってくれていい。弓親、最後まで隣にいてくれてありがとう。さっきくれた言葉は素直に、そのまま受け取っておこう。


『ああ。行って、返っていらっしゃい』
 優しいあの人は泣くのだろうな。その足で帰ると約束したのに、どの面さげて……いや、帰れないのだから面も裏もないか。運よく晒せても死に顔ならば、せめて作り笑いのまま逝くか?と、馬鹿なことを考える。


『なんであんな馬鹿なことしたんだい』
 また言われるに決まっている。目に見えるようだ。仕事上きっと星の数ほど人の死を看取ってきたあなたには、私もその内の冴えない一つとして粛々と処理して貰いたい。私の周りには優しい人が多すぎる。一人くらい、「死んでしまうとは馬鹿なやつだ」とか言っても勘弁して差し上げます。


『頑張るというなぁ無理たぁ違うけぇな。そこは間違えんさんなや』
 肝に銘じた先輩の言葉を忘れたことはない。ないが、守り通せやしなかった。しかし言い訳をさせて欲しい、窮地においては無理だってしなくちゃとことん死ねます、こんな風にね。……なんて言ったら、剣突けんつくを食らわせてくるんだろうなぁ。


『沙生姉さまとお呼びしても、よ、宜しいでしょうか!!』
 鯉伏で過ごした思い出の中には、いつも雛鳥のように私の後を追う君がいる。私が死んでも、どうか明るく生きてくれ。死神になりたいなら応援するが、私の後を追うのはそこまでにしておくように。修兵くんと仲良くね。


『我ら死神は常に死と隣り合わせではあるが、やはり友には無事であってほしいからな』
 “友”だと言ってくれたのは君が初めてだった。どのように過ごし、何をするのが友として相応しいのか。生前でさえ友と呼べる存在がいなかった私には少々難問だった。そうだなぁ、君とも、まだこれからだったかもしれない。


 渡すと約束したお礼のお肉と辛いお酒を渡せていない。白鳥花が咲いたらまたお茶をしようと言った。研究室に飾る花の世話をすると自分から買って出たのに。師を失ったという二人目の師に、今度は弟子を失わせる。瀞霊廷で私だけが知っている真実を、巨悪を、どうにもできていない。結局、無謀だったということか。


『我はお前といつまでも、共に――』
 ハク。ありがとう、ずっと一緒にいてくれて。でもここまででいい。叶うなら、今度は君に私の心を預け――











「よっ、待たせちまったな。どうしたそんなとこ座って」


 ぷつり。走馬灯が飛んで消えた。
 思わず瞼を上げると、瞳に飛び込んできたのは「十」を負う背中。
 既視感があった。誰かに似ている。志波隊長とは別の誰かの背中を、私は見た覚えがなかったか?

 ――そうだ。あるはずだ。

 眠っていた記憶の蓋が、「十」を鍵として今ここに開く。


――――――


 あの背中はとても大きかった。
 どうしてか「十」に触ってみたくて、でも全然立てなくて、手が届かなくて、うーうーと不満を口にする。するとその人は慌てたように振り向いて、私をそっと抱き上げてくれるのだ。


『どうしたそんなとこ座って』


 ぽんぽんと優しくあやしてもらっても、私は背中に用があったの。これじゃ意味ないの。しまいには泣きだして、その人をいつも困らせた。


『よしよし、泣け泣け。そんで泣くよりもっと笑え』


 両脇の下をしっかりと持たれて、たかい、たかい。胸の奥がひゅわっとするのが面白くて、きゃいきゃい笑った。子供騙しにまんまと嵌まって、泣いた理由もすぐ忘れる。赤ん坊なんてそんなものだ。


『ああ、笑ってるのが一番かわいい。いっぱい笑って大きくなれよ、沙生』


 私もその人が笑ってくれるのが好きだった。顔の左半分に大きな痣があって、左目には瞼を閉じると上下が繋がる傷痕がある。両の瞳は血のように赤くて、下睫毛はちょっと長め。今にして思えば、その人は世間一般では“普通”に分類してはもらえそうにない容姿をしていた。でも無垢で無知でまっさらだった私にはそんなの関係なくて、向けられる笑顔と優しさが全てだった。たぶん、きっと、大好きだった。

 言葉も話せなかった頃の、ずっと昔の記憶だ。忘れてしまっていたけれど、確かにその過去は今の私を形作った。
 瓦屋根の上で志波隊長に会って「十」を見たとき、初対面なのに不思議と安心して砕けた態度をとったのも、始解した金矢の瞳が真っ赤になったのを見ても全然怖くなかったのも……忘れていただけで、理由はちゃんと私の中にあったんだ。


――――――


 熱風が頬を撫で、赤い炎は目に眩しい。ちょっと煤けた「十」の羽織が揺れる火のようにはためいている。志波隊長は燃える斬魄刀『剡月』を片手に振り向き、痛みに苦悶している虚をちょっと尻目に懸けてから、尻餅をついたまま微動だにしない私と弓親を上から下までまじまじと見た。


「あーらら、よく見たらお前らズタボロじゃねぇの。俺、これで間に合ったって言えるかね」

「……お蔭様で生きています。十分かと」

「そうか?ま、帰ったらまずは四番隊だな。そんで俺は浮竹さんにこってり油を絞られる、と」


 志波隊長は刀の峰でトントンと右肩を叩きつつ、遠い目をして言った。まだそこにいる虚は倒しきれていないというのに、平時とまるで変わらないような緩い調子だ。でもそれは彼が能天気だとかじゃなくて、私を安心させようとして敢えてそうしていると感じた。“最期”を受け入れかけていたどうしようもない私に、“いつも通り”の続きをさせてくれている。


「どれ、じゃあ目の前のトンデモ虚を俺と蒼純で何とかしますかねっと!綾瀬川!」

「っ、はい」

「俺らが来たからって気ィ抜くなよ。楠山と一緒に、あんま離れすぎないように退いてろ。とにかく攻撃を避けることにだけ集中してりゃいい。頼んだぜ」


 弓親はしっかりと頷いて立ち上がり、落とした私をまた背負い直した。流石にもう「降ろしてくれ」とは言えない。なるべく彼に負担を掛けないようにじっとしていると、シュウシュウと漏れ聞こえていた音がいつの間にか止んでいたと気付く。丘が丸々ひとつ海水生物に化けたかのような虚は、既に超速再生して傷は塞がったらしい。態とらしくヌチャリと音を立てて体を伸び上がらせ、威嚇するように幾つもの口で牙を鳴らし始めた。


「どへぇ〜気持ち悪っ。霊圧も見た目通りぐっちゃぐちゃに混じりまくってんな。今まで遭った中でも飛び抜けちゃいるが……この図体だとまだ下級大虚ギリアン……なのか……?」

 『ヨクモヤッテクレタネ。マ、モウ治ッチャッタケド』
『白い羽織……隊長か。しかし大したこと無さそうだな』

「言ってくれるなァ。つうかどっから話してんだ?お前、口あり過ぎなんだよ」

『それは済まんな。取り込むのが上手くねぇんだ』
 『喰ラッタ奴ラガ浮キ出テ、ダカラドンドンパーツモ増エチャッテ』

「ほぅ?お喋りな野郎だな。お喋り序でに訊いておこうか。昨日今日と、纏まった虚の奇襲はお前の指示か?それとも、お前も指示される側なのか?」

『『…………。』』


 こちらを挑発するように畝り続けていた触手は動きを止め、昂っていた霊圧もスンと鳴りを潜めた。志波隊長は構えを解かないまま、いぶかしむように片眉を上げて虚を注視する。その脇で蒼純副隊長は小声で何か唱え始め、衰弱している私と弓親が奴の霊圧にこれ以上あてられないよう保護の結界を張り巡らせていく。辺りは緊張に包まれ、暫し沈黙が続いた。


『……気ニイラナイ』

「あ?」

『僕ガアイツ・・・トマダツルンデルッテ思ワレルノモ』
 『オレが奴の下だと思われるのも――……ん?』


 ふと、虚の意識が蒼純副隊長に向いた。今しがた詠唱を終えた彼は、音を立てずに斬魄刀を抜きながら虚を睨み返す。すると虚は燥ぐように触手をわっと上げ、ケタケタと笑いだした。


『お前……知っている。知っているぞ、その白い髪飾り!』
 『アア、見覚エガアル!』

「……私には覚えがない。その姿、一度見れば忘れるはずもないと思うが」

『無理もない。あの頃オレらはまだ小さく、弱かった。姿形は見違えたろう』
 『アノトキ動カナクナッタオマエノ首ヲ刎ネテヤロウトシタラ、鉄笠ノ死神ニ邪魔サレチャッテ』
『他にも死神が集まってきたため、劣勢とみて已む無く虚圏ウェコムンドに撤退した。お前の霊力は格別に上等だ、惜しくて惜しくて仕方なかった』
 『ククッ、コウシテ二十年越シニマタ会エルナンテ嬉シイナァ!』

「…………!」


 蒼純副隊長は目を見開き、僅かだがその手に握られた斬魄刀も音を立てて震えた。纏う霊圧がひやりとしたものに変わっていく。彼の血の気が引いていくのが、私でも手に取るように分かった。


「やはり……そう、繋がるか。あの“桃色の悪魔”に」

「!? 蒼純、そいつは――」

『待てよ。確かにあの時は奴と手を組んだが、今は違う』
 『寧ロ僕ラハアイツニ嫌ガラセシテヤロウト思ウンダ』
『またに断りもなく勝手していたようだから、動向を探り、後をつけてみれば……そこの小娘に挨拶までして、まぁ随分とご執心だった』
 『ソレナラ、アイツガ捕マエルヨリ先ニ僕ラガ……ッテネ!フフフ!』


 志波隊長と蒼純副隊長は顎を引き、私と弓親を背に庇いながら、問うような視線を投げかけてくる。
 この二重人格虚――仮に大蛸おおだこ型と呼ぼう。大蛸型が言って指しているのは、数時間前に私たちの前に現れたあの最上級大虚ヴァストローデのことだろう。アレは成程、“桃色の悪魔”と呼ぶに相応しい。話の内容が断片的だが、推測するに、いま流魂街を蹂躙じゅうりんしている虚の親玉こそが“桃色の悪魔”と呼ばれるモノであり、そいつと大蛸型と蒼純副隊長には二十年前に何某なにがしかの因縁がある……と解釈するのが妥当か。
 思考はだいたい整った。私が首肯して応えると、二人は心慌意乱といったように瞳孔を開かせた。


「なっ……楠山、まさか最上級大虚に会ったのか!?」

「よく……無事で……」

『意外ダッタヨネ!流石ニアノ数ヲドウニカ出来ルトハ思ッテナカッタ』
 『そこの二人、なかなか面白い能力を持っている。死神の能力を取り込む術は未だないことが口惜しい』


 ぴくり、と弓親は微かに身を揺らした。彼は動揺を見せるまいと口を開かなかったが、急に早まった鼓動が私には筒抜けである。
 しかし大蛸型のこの口振り、私たちが戦っているところを初めから終わりまで見ていたというのか?何処からどうやって?こんな巨体、百間離れていようと見落とす筈もないのに。


 『……ん?小賢しくも結界を張ったか。後ろの二人に手を出す前に、まずは己を倒せというのだろう?』
『面倒ダケド乗ッテアゲル。ドウセ順番的ニオマエカラダ』
 『『六番隊副隊長!!』』

「来るぞ!気を付けろ!」


 志波隊長が叫んだと同時に、大蛸型は全身から放つ殺気を蒼純副隊長一点に定めた。敵前にしては落ち着いて語らっていたさっきまでの空気は彼方へと吹き飛び、冷たく重い霊圧が周囲一帯に充満する。奴の数十に及ぶ触手は引き波のようにじわじわと後方に下がり、勢いを溜めに溜めてから一斉に蒼純副隊長に襲い掛かった。


「好都合だ。失態は己で取り返す。この首、貴様にくれてやることは永劫ないと思え」


 いつも温和な蒼純副隊長からは想像し得なかった、怜悧れいりで凛とした横顔を垣間見た。
 彼は私たちがいる位置の反対側に走りだした。蒼い炎のような鬼道を鎧代わりに身に纏い、その鬼道と斬魄刀による斬撃で次々に触手を斬り落としていく。不思議な鬼道だ。私は鬼道が苦手だが、鬼道の本は読み込んだ方だと自負している。それでもこんな鬼道があった覚えはないし、「纏う」という発想すらなかった。色や質からみて破道の三十三『蒼火墜』を応用したものかもしれないが、あれはまるで新しい技術に違いない。
 一方、二の次だと放ったらかされている志波隊長は、気配を殺して大蛸型の背後(と思われる部分)に忍び寄っていく。蒼純副隊長が触手を幾ら斬り落としてくれても超速再生されては意味がない。奴の注意が蒼純副隊長に向いている隙に“核”狙いで渾身の一撃を浴びせるつもりだ。間合いに入った志波隊長は腰を落とし、強く斬り上げるために剣を下に構えたが、しかし。


『見エテルヨ?』

「ケッ、やっぱ簡単すぎたよなぁ」


 志波隊長の正面に、大きな目が開いていた。たるんだ贅肉の下にある皴みたいだったその部分は、なんと奴の瞼の一つだったのだ。


「口が幾つもあるとすりゃあ目も然りか!ったく嫌になるぜ」


 大きな“目”の前に霊圧が集束し始めた。莫大もない熱量が圧縮されてできた、その塊は――


虚閃セロか!?」


 放たれ、光がはしる。
 虚の中でも大虚メノスのみが使用するという極めて強力な技。激凄げきせいたる熱光線。古い文献に辛うじて記述があるのみで、殆どの死神は目にしたこともない、または目にして死んだのであろう一撃。
 感覚的に理解した。これは、私程度が触れれば即座に滅し飛ばされる代物だろう。


「ぐぉどりゃあああぁぁぁ!!!」


 志波隊長はそれを避けずに受け止めた。体の正面で横にした剡月の側面を左手で押し返すように支えて角度をつけ、上空に跳ね返してみせたのである。霊圧も瞬間的に上がっていて、その様は昨夜の更木隊長と少し重なって見えた。


「ぃよっしゃ!どうだ!」

『……フン。思ったよりはやるようだ』
 『ウッソォ……』

「オイオイ片っぽ心の声漏れてんぞ!お茶目かよ!……そんで綾瀬川はよぉ」

「はい?」


 突然こちらを振り返った志波隊長は「カァ〜」とか言いながら頭を振ったあと、弓親を睨み据えながら人差し指をビシッと突き付ける。


「止められたから良かったけどよ!お前一直線上に突っ立ってたろ!今も俺の真後ろにいるもんね!?両手塞がってて何もできねぇんだし『避けてろ』って俺さっき言ったよな!?言ったぞ!ビックリしてる場合か!背負しょってるソイツまで殺す気かお前!バカ!バーカ!今度から棒立ち綾ちゃんて呼んでやろうか!」

「……す、すみま」
「騒々しいうえに言い過ぎです!寛大さがない、罵り言葉が幼稚!」

「なんでお前が反論すんの!?」


 あっと口が滑った。本当にこの人は、凄いのに緩い。凄く緩い。折角とんでもないことをやってのける度胸と実力があるのに、こんなんだから恰好がつかないんだ。急上昇した株を自ら大暴落させないでもらいたい。数秒前にうっかり抱いたきらきらした感情はドブに捨てる破目になりました。ちょっと八つ当たりみたいになったけどこれは致し方ない。遣る瀬も無い。
 弓親は若干ずり落ちてきた私の体をなんてことなさそうに「よっ」と背負い直した。彼の左脇腹あたりの死覇装は血を吸いきって重くなっている。そこにちょうど触れている私の左足に私のものではない血がつくからさっきからバレバレなのだ。人のことは兎や角いうくせに脇が甘いと思う。しかし実際、志波隊長には隠せているらしい。分かっていたら流石に志波隊長だって物言いしてこないだろうから。


「それにですね、いくら追撃が来ないからって迂闊うかつに敵に背中を見せては――」

『“十”……?何だ貴様、まさか……十番・・隊の・・隊長か?』


 大蛸型の大きな目が志波隊長の背中を凝視していた。この不意を打たれなかったのは幸いだが、様子が変だ。


「あったりめぇだ偽物なワケあるか。見てまんま分かることを一々訊くんじゃねぇよ」

『『……クッ…クク……フ、アハハハハハ!!』』


 何がそんなに面白いのか、大蛸型は歓びを滲ませて高笑う。反対側で攻防を続けていた蒼純副隊長が月影に跳んで奴の口の一つを削ぎ斬ったが、それすらも意に介さず笑い続けている。


 『六番隊副隊長と十番隊隊長の後釜が揃っているとは!まるで約束された復讐劇のようだな!だが!』
『ソンナオマエ達ヲ打チ砕イテ、壊シ尽クシテ、食イ殺スノハ、ドンナニ楽シイノカナ!』

「……貴様が仇の一体であろうとなかろうと、斬ることに変わりはない」

『マタマタソンナコト言ッチャッテ!』
 『特別に教えてやっても良いぞ?“お仲間”が虚圏でどうなっているか』

「は?あの糸でそっちに拉致したってか?」

『ははは!そうさな、確かに何人かは捕らえられているだろう。しかしこれは、お前の部下の話じゃないさ』
 『マダ分カラナイノ?サッキカラ仇トカ何トカ言ッテ、勝手ニ殺シテルミタイダケド……生キテルカモッテノゾミハ捨テタワケ?』


 ゲシ、ベシとやる気無さそうに攻撃してくる触手を往なしながら、志波隊長と蒼純副隊長は思案顔だ。大蛸型の言いたいことがいまいちよく分からない、または分かりたくないと言うように。


志波しば天鷹てんようの今を』
 『知リタクハナイカ?』


 誰かが息を呑む音がして、直後にそれを誤魔化すみたいな強い風が吹き抜けていく。
 名前は知らない。けれど恐らく、嗚呼、その人は、私の。


***


 殺気石で造られた研究棟の地下通路を、ぴょんぴょこさっさと渡る小さな影。瞬歩に独特なステップを織り交ぜた不可思議で軽快なこの歩き方、死神スキップを駆使できるのは沙生ともう一人、桃色の髪の少女だけだ。
 更木が砂漠に空いた大穴を絶賛落下中とは露知らず、暗い迷路を一人楽しく探検中な草鹿やちるは、あちこちに配置されている怪しい器械をツンツンつつい破壊しては「あはは面白ーい」と喜んでまた別の部屋へと向かう。そんなことを何度か繰り返して、だんだん飽きてきた様子の彼女が辿り着いたのは、明滅するモニターが整然と並ぶ――どこか技術開発局の霊波計測研究室に似た部屋だった。


「へー、ほー。ごちゃごちゃしてる〜」


 壁際に並ぶ妖しく光る液体の入ったガラス張りの円柱型装置が、中を見渡すやちるの横顔を緑や紫に染めていく。
 椅子の上に跳んで立ち、試しに目の前にあるパネルを適当にバシバシ叩いてみたが、特に変わったことは起きない。やちるはつまらなそうに溜息を吐いた。彼女の目線よりずっと上に設置されているモニターが映し出す場所が幾つか切り替わっているのだが、それに気付いたのは声も形も失って久しく存在も朧ろなとある男のみである。


「う〜ん……」


 また跳んで椅子から下り、次に目に留まったのは出入口付近にある大きな水槽だった。蓋はされておらず、中の液体は透明で、水面に浮かぶ泡は一定の間隔をおいて破裂し、また浮かんでくる。底に面白いものでも転がっていないかと、手近な棚の上によじ登って覗き込もうとした。


 ――あぶッ!そりゃ駄目!やめとけ!


「え?」


 え?


***


 ……目が合った?

 いや馬鹿な。気のせいだろう。俺には目がない。声も出ない、体もない、円柱型ガラス装置の中で謎の液体に融けている霊子の粒子。それが今の俺だ。この様を見たらまず生物とすら思わないのが当然のこと。体があった頃のように霊圧を垂れ流している訳でもないから、それを感知したという線もない。これは偶々、そう、たまたまであろうよ。
 とまぁ結論付けたというのに、少女は棚から下りてこちらに寄って来る。ぺたり。両手と鼻をガラスにくっ付けて、まじまじと見詰めてくるのだ。この、俺を?


「……だぁれ?」


 ん!?

 年甲斐もなく魂消たまげた。消えずに此処で恥を晒しているというのに可笑しな話である。あの化け物たちでさえ俺に自我が残っているとはとうとう気付かないでいるのだ。だのに、この少女は俺より正確に俺の目の位置を把握したうえで誰何すいかする。
 死神が此処に迷い込んできたのは無論初の快挙であるからして、よくあの悪魔に見つからずに済んでいるものだと感心している。他方、虚圏に来てしまった時点で末路は半分決まってしまったようなもので、哀れだとも思う。死神とはいえまだ幼い少女だ。髪色の所為で悪魔が脳裏にチラつくが無関係だろう。ただし、俺の存在を看破してみせたなら、君は常例より逸した何かであることもまた確かなのだ。


 ――よぉ嬢ちゃん。迷子か?

「あっ!よかった、もうおしゃべりしてくれないのかと思った」


 更に両頬までぴとりとくっつけて、少女は些か不恰好な笑顔で応えた。こりゃ跡が残っちまうねぇ。


 ――誰かと話すのは久し振りなもんで、吃驚びっくらこいて呆けただけさ。さて折角、とゆっくり語らってみたいところだが……残念ながらそれはまた今度だな。

「そうなの?自己紹介もだめ?」

 ――嬢ちゃんには連れがいたろう?早く追うが良しと俺の勘が言っている。そら、そこ。奥の隅っこに、ちょうど嬢ちゃんの背丈なら届く取っ手がある。引きゃあ傾いて開くから、そこにぴょんと飛び込みな。

「んー?……あれかな?ゴミ箱みたいなの?」

 ――そそ。中は長〜い滑り台みたいになってるはずよ。その先にある森の何処かに、嬢ちゃんの連れも着いてるだろうさ。

「剣ちゃんそんなに下に行っちゃったの?もう、しょうがないなぁ」

 ――しょうがないよなぁ剣ちゃん。そうだ、それから守って欲しいことが一つ。滑り台の出口が近付いてきたと思ったら、目を瞑れ。そしてそのまま走れ。んだなぁ……ゆっくり百数えきるまでは全力疾走だ。でっかい木とか虚にぶつからんようにだけ気を付けてくれな?

「……ん、わかった!言うこと聞いてあげる!あなた良い人みたいだから」

 ――はは、そうかい。ありがとう。しかし俺が言うのもなんだが、そうぽんぽん信じて良いもんかね?

「ふふふ、だいじょうぶ!だってここから、りんりんみたいに優しくてきれいな音がするもの」

 ――……どんなもんだか聴いてみたいね。さぁ、もう行きな。剣ちゃんとりんりんにまた会えるように、俺も祈ってるから。

「うん、ありがとう!あなたもまた・・今度・・ね!ばいばい!」


 少女は、敵地の只中にいるとは全く思わせない無邪気な笑顔で手を振る。それから俺の言った通りに取っ手を引き、中にぴょんと飛び込んで姿を消した。これでひとまずは安心だ。少女は生き長らえる。
 そして十も間を置かない内に、この部屋の戸はまた開かれた。苛立ちを隠す気のない足音と、それに反比例するかのように無音と聞き紛う息遣い。どうやら主のお帰りらしい。


「……此処にも入り込んだか」


 捲れたパネルに崩れたファイル、映写場所が切り替わっているモニター。荒らされたのは一目瞭然だったのだろう、彼は足を踏み入れる前に舌打ちをした。少女がこの部屋に来る前に廊下の方から聞こえてきた音からして、此処は他より損傷軽微といえるだろうが、彼の怒りは荒らされた程度がどうであれきっと鎮まらない。毛ほども気に留めていなかった矮小な存在に自分の領域を侵されたのが許し難いのだ。人が家屋の鼠を殺すように。畑の土竜を殺すように。鉢の下の蛞蝓に塩をふるように。いると分かれば処すが当然、という感覚でいるに違いない。今こうして述べた内容を諸氏が理解できるならば脚下照顧せよと忠言しておく。


「クソ、何処だ。何処にいる……!」


 目が血走っている。少女と鉢合わせていたらどうなっていたことか、想像に難くない。少女が命ある内にあそこを通ってくれて良かった。此処の住人になってもう何年も経つが、抜け殻とも形容できないおぞましいナニカがあそこに捨てられるのを見るのは、心がれる。慣れるということはない。
 彼は室内をぐるりと見渡すともう一度舌打ちし、引き続き少女を探すため此処から去っていった。

 彼の視野が狭まっていて助かった。少女が切り替えていったあのモニターが映し出す怪異を目にしていたら、興味を抱いて今すぐにでも再び流魂街に赴いたであろうから。


[何だよ、これ……?…ぎゃっ……やめ、おやめください!…ひ、い、市丸副隊長……カッ……]


 返り血を浴びた若い死神の男の狐目がモニター越しにこちらを見ている。録霊蟲の自動判定で異常有りとされたせいか、小一時間前の北流魂街の記録は同じ場面をひたすら繰り返していた。

 沙生。お前の前途は多難に過ぎる。この時世に死神になったことを不幸とみるか天命とみるかはお前次第だ。せめて荒波の中で助け船を見逃すことがないよう、俺は此処で祈っている。


***


『生キテルノカ死ンデルノカハ僕ラニモ分カラナイ』
 『しかし閉じ込めて封がしてある以上、成仏はできていまい』


 どうだ面白かっただろう、と言わんばかりの調子で大蛸型は言い放った。志波隊長は剡月を振るって応戦し続け、蒼純副隊長は鬼道を撃って志波隊長が進むための道を拓き続けている。一朝一夕では成し得ない見事な連携であることは確かで、夜闇の中を赤と蒼の炎が縦横無尽に交錯する戦い様は美しい。それなのに、私は二人の背中を見るのが辛い。無言の背中に、ひどく重たい悲しみがのしかかっているように見えてしまうのだ。
 一際大きな斬撃を繰り出すと、志波隊長は一息ついた。大蛸型が攻め手を緩めることはないが、蒼純副隊長が縛道の三十九『円閘扇えんこうせん』に縛道の八『せき』を複合させた円形の盾を出現させてそれを弾いてみせる。


「……そういやぁ昔、言ってたぜ。『死にたがるな、死んでも生きることを諦めるな』って無茶苦茶をよ」

「――成程。天鷹殿のことですから、有言実行してみせたといったところでしょうか」

「違いねぇな!ったく、とんだ大馬鹿野郎だ」

「『師の悪口を言うものではない』と叱られますよ」

「叱れるもんなら叱りに来いって言ってやんよ!」

「叱られに行くというのも有りではないですか?」


 二人の背中が少しずつ軽くなっていく。時折見える横顔の口角が徐々に上がっていく。遠慮のない言い合いは聞いていて気持ちのいいものだった。遠征出発前に更木隊長に追いかけられていた時にも思ったが、この二人、意外にも仲が良いらしい。


「おうおうブヨブヨギリアン!わざわざ教えてくれてありがとうよ!」

「敵に情報漏洩するとは間抜けもいいところ」

「つーワケで、もう退場してくれていいぜ!」

『ナニッ……!?』
 『貴様ら!!』


 大蛸型の動きが不自然に止まった。吊られている人形のように触手を引き攣らせ、数多ある口は悔しそうに歯軋りしている。二人はお互いに目配せすると瞬歩で大蛸型の懐から脱する。蒼純副隊長は距離を取って私と弓親の前方に立ち、志波隊長は高く高く上に跳ぶ。


「悠長に喋り倒して我々の戦意を削ごうとしたのだろうが、愚策だったな。おかげで仕掛ける時間は裕にあった」


 大蛸型はいつの間にか蜘蛛の巣のように張り巡らされた霊圧の糸に全身を搦め取られていた。ついさっきまで目を凝らしても何も見えなかったのは、縛道の二十六『曲光きょっこう』で覆って不可視にしていたからのようだ。


「『伏火ふしび』に『蒼火墜』を練っておいた。網状の導火線兼花火玉、だな」

 『こそこそと小癪な真似を!!』
『コノ程度デヤレルト思ウナヨ!!』

「思っていないとも。縛道の八十一『断空』」

『『!?』』


 蒼純副隊長は大蛸型に箱の蓋を被せるかのようにして、一度に五枚の巨大な『断空』を繋げて出現させた。しかも厚みが常識外れで、私が目にしたことのある当時の藍染副隊長のそれを一とするなら、蒼純副隊長のものは百だ。五枚というより五個と数えたくなる。そしてよく見ると、上の面の真ん中あたりには大きめの落とし穴くらいの円がぽっかりと空いている。その円の淵に志波隊長がいま揚々と降り立ち、先程までの戦闘で負っていた傷から流れ出る血を剡月の赤い炎に垂らしてべた。すると火力は倍に増して轟々と燃え猛り、主をこれでもかというほど照らす。此処からだと彼は拳大もないくらい小さく見えるが、その炎を瞳に宿して光らせる様は真に迫力があり、以て眼光鋭き猛禽を彷彿とさせた。


「滲み出す混濁の紋章、不遜なる狂気の器、湧きあがり・否定し・痺れ・瞬き・眠りを妨げる」
「おッしゃ、俺と蒼純のとっておきだ!その身でよぉく味わいやがれ!!」


 志波隊長がだんだんと炎を強くしていくのに合わせて、蒼純副隊長は詠唱を始めた。『断空』で造られた透明なはこの内側にまた別の鬼道を展開しようというのだ。


爬行はこうする鉄の王女、絶えず自壊する泥の人形、結合せよ、反発せよ、地に満ち己の無力を知れ――」
「燃えろ!燃えろぉ!!」


 夜闇よりも暗い漆黒が、大蛸型をすっぽりと覆い隠していく。巨大なその体躯さえ超える超弩級の鬼道が完成する瞬間、上空では日の出と見紛う炎の斬撃が振り放たれた。


「破道の九十『黒棺くろひつぎ』」
「月 牙 天 衝!!」


 ドン、などという擬音では到底表しきれない衝撃的轟音。透明の匣の中で目まぐるしく入り混じる赤蒼黒白しゃくそうこくびゃく炎光濁煙えんこうだくえん。人の手によるものとは思えない地鳴りに閃光。あの分厚い『断空』で封じ込めていなければ、この森は更地になったかもしれない。
 天井にあった穴は志波隊長が攻撃を叩き込んですぐ閉じられたようだが、それでも彼の体はかなり上空に吹っ飛ばされていた。……待てども一向に彼の影が大きくならない……無事だろうか。蒼純副隊長も私や弓親と同じように星空を仰ぎ、志波隊長が降って来るのを待っている。


「……一心殿が戻られたら此処を離れよう。あの匣は暫く解かずにおくよ。塵に煙に、まぁひどいだろうから」

「はい。……凄かったです。大虚を倒してしまうなんて」

「それが少し怪しいんだけどね。あの瞬間、地中で妙な霊圧が揺れたから」

「に、逃げられたので……?」

「そうだとしても“核”の部分だけだろう。他の虚を取り込んだという巨体の大部分と、殆どの霊圧は失ったとみていい」

「そうですか……。あの、蒼純副隊長」

「何かな、楠山さん」


 上を見ていた綺麗な顔が、今度は真っ直ぐに私の方を向く。左頬にできたばかりの傷の赤は白い肌に映えて妙に生々しく、けれど何故か目を逸らすことができなかった。


「……志波天鷹という人の話を、聞かせてくれませんか」


 彼は柔らかく微笑む。まるで「私が口にすることなど分かっていた」という風に。でも、私が「その頬を伝って滴る血が勿体ない」と思考の隅で嘆いていることは、貴方は永遠に知らないままでしょう。


「そうだね。私も話したいと思っていたところだよ。でもまずは、君の帰りを一番に待ってくれている人に訊いてみなさい。私の所へはその後においで」

「――分かり、ました」

「君は……」
「蒼純〜!!着地!着地手伝ってくれ!!流石にこの空気抵こウォボッ」

「……ふふ、やれやれ。肝心な時に恰好つかないのがうつったかな?」


 楽しげに呟いて、蒼純副隊長は志波隊長の落下予想地点へと走っていった。
 縛道の七十五『五柱鉄貫』の五本の柱に囲まれた空間に上から下まで縛道の三十七『吊星』を何重にも張った愉快な装置を見たのは、後にも先にもこの時だけである。


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