言承けのみ良し様がまし

死ぬれば死神
ことうけのみよしようがまし

 投げ出した足先はほの暖かく、すんと吸い込んだ空気は冷ひやい。形のない温ぬくもりが少しずつ広がって胸へと昇る。これが照り込む朝陽の熱ならば、私の意識は現実世界に浮上したということだ。あの心象世界では、寝ても覚めても新しい朝はやって来ないのだから。
 瞼を閉じていても少し眩しい。右手を庇ひさしにして、ゆっくり見開いていく。滲にじみかけていた雀の涙は、目頭の奥に沁しみて帰った。寝起きの生理的な涙として片付けるには苦しく、心が引き潮に撫でられていったようなその余波なごりで揺すれているのを否めないが、これくらいは感傷に浸っても許されたい。

 ――私は、死神だ。

 試験を経て就いた職業としてというだけじゃない。人の死命生きた証さえ掠さらって活かす――そんな能力チカラを神様に託されて死んだ、紛まごうことなき死神であったのだ。
 この先たとえ人から忌まれる時が来るとしても、私は自分がやると決めたことを放り出したくはない。“魂の調整者バランサー”という別名に恥じぬ働きをして世界の天秤を守ることが私の使命であり、天命なのだ。そう信じよう。

 新たに心得ながら、実は些か心残りもある。ハクと話したいことは他にもあった。金矢の相棒と、父様の黒焔についてだ。しかしどうせハクのことだ、本当に知るべき時には向こうから話を振ってくれるだろう。それか「語るなら我よりあの小僧の方が適任だ」とかいう了見なのかもしれない。彼はやや人任せの気があるので。
 今はまだ敢え無いならば、気掛かりもまた少しばかり心に引っ掛けたまま過ごせばいい。これまで通りだ。ずっと知らずにいようというのではなくて、機を待つのだと考えよう。それでなくとも、“掠う力”について告げられ諸もろに衝撃を受けてしまった身としては、「包み隠さず最初から全部教えてくれ」なんてもう口が裂けても言えないのだから。私にはまだ、隠されている事の全てを受け容れる心の準備が出来ていなかった。器が未熟で脆もろかった。誰かが死ぬときの覚悟くらいは決めてからでないと、きっと他の事にまで向き合っていられない。思い煩わずらうのは一旦やめにして、少しずつ器量要領を良くしていくことに専念しようではないか。うむ、そうしよう。

 ところで、だ。どこだここ?

 寝惚け眼もしっかり覚めて、やっと現実に焦点を合わせた。この天井の木目は知らない。
 寝返りを打ってゆるゆると周囲を確認してみる。頭を預けているこれは小豆枕で、寝転がっているここは小上がりの畳の上だ。腹に掛けられている鼠色の薄い布団はふわふわと触り心地が良い。足を向けている方にある窓は朝の透明な光を入れていて、その下に佇む黒漆の花台は空っぽの花壺を戴いている。この辺は見覚えが――


「おっ? 起きてたか」

「おっ……はようございます、志波隊長」

「ん。おはよ」


 あっ、十番隊の執務室だここ。
 出入口からひょこりと顔を覗のぞかせたのは、おなじみ白羽織姿の志波隊長である。彼は静かに寄ってくると小上がりの縁にぽすんと腰掛けて、花壺の縊くびれあたりに目を遣った。らしくない大人しさだ。意外と朝に弱かったりするのだろうか。常に浮かれているとまでは言わないが、毎日早起きでバッ!と支度してワッ!と挨拶してそう、とか思っていたのだが。


「まだ四時半だから、もう少し寝ててもいいぞ」

「いえ起きます。寝床をお借りしておいて二度寝は流石に……志波隊長はもう始業ですか?というか……なんだか、お疲れでは?」

「あ?……ま〜ぁ……その……あっ。いやいや違う、お前のせいとかじゃないから!」


 ブンブン振られる両手の速度がすごい。どっかにすぽんと飛んでいきそう。


「……嘘じゃ」

「ナイ!見よこのまっすぐな瞳……ア、やっぱあんま見ないで!」


 見よと言うからじっと見たのに、志波隊長はすぐさま顔の前で腕を交差させて目元を隠した。しかし報われない哉、既にばっちり見て捉えました。目の下にうっすらと隈があった。これきっと寝てないんだな。何故?
 昨晩は崖上で京楽隊長とっときの美味しいお酒を飲みながら一緒に昔話を聞いて、お開きは日付が変わった少し後だったと記憶している。夜風にあたって結構体が冷えていたから、彼の「うちの隊舎寄って温あったか茶でも飲んでくか?」との心遣いにありがたく乗っかってお邪魔させてもらったのも、うん、覚えている。時間が時間だったから、隊舎内は殆ど何処も真っ暗で静まり返っていた。彼の案内で給湯室に行き、熱いお茶を淹れて、執務室だけ明るくしてそこでふぅふぅ飲みながら、彼の平隊士時代の話とかちょっと聞いたりして……私の記憶はそこまでだ。となると、睡魔に負けて途中で寝落ちてしまったか。失敬、これはどうも手を焼かせたようだ。
 いやそれでも、私が少々彼の時間を貰っていたとしても、どう考えても一晩中眠らなかった理由にまではなり得ない。いったい夜中に何がどうした?


「……あの、お布団かけてくれてたんですよね。ありがとうございます」

「どーいたまし」

「変な端折り方しますね……それで、ご自身はどうして帰ってお休みにならなかったんですか?」

「え?いやぁ〜べつにぃ……アー…ちょい寝らんなかっただけだって。だからそんな詰めなくてもさ? な!」


 濁すということは、私には言えないのか。それとも言いたくないのか。彼は片手で首の後ろを掻いて、一瞬合った視線を盛大に逸らした。なんだこの分かりやすい嘘吐き。
 私がまだよく知らないだけで、この人にも繊細な一面はあるのかもしれない。考え事で眠れない夜もあるのかもしれない。かもしれないが、この態度は、京楽隊長からああいう話を聞かされたせいで寝付けなかったというものではないように思う。なんといっても、昨晩共有していた空間は私が寝落ちるくらいには安心できるものだった。寝るつもりであれば寝られたはずだ。私ばかりそうだったとは言わせない。
 彼がいま纏っている気配は何かがおかしい。私に掛ける声も、表情だって柔和だが、ついさっきまでは気が立っていたかのような……ピリピリした霊圧の片鱗を携えている。
 そういえば私もこのあいだ、すぐに寝付けなかったことがあった。それは合同遠征初日から二日目にかけて、朝まで戦い通したせいで――そう、戦いの・・・気が・・抜け・・きら・・なくて・・・。


「絶対何かありましたよね?」

「あーっ……たけど……ナイショ?」

「ならそこは『なかった』で貫きましょうよ」


 嘘が下手。心配になる下手さ。目がすい〜っと泳いだ。というかソレでこの場を誤魔化して乗り切る気が真面目にお有りなのか?もうちょっと演技がんばりましょうよ、そんな所も妙に海燕さんと似てるなんて気付きたくありませんでした。はぁ、私はこうならないように気を付け……あれ?私もこうだったことが……あ、あのときは市丸副隊長が目敏かったんだい。ええい、今は棚に上げておけ。
 正座に直り、話しながら畳んだ掛け布団を膝にのせてポンと強めに叩き注意を引くと、彼は肩をビクリとさせた。


「白状してください。ご自分は帰って寝ないで、深夜に何処へお出かけなさってたんですか?」

「や〜だぁ〜浮気の尋問みたいィ」

「ばっ 馬鹿、変なこと言わない」


 あんまりにもあんまりだから、隊長やってる人に向かってまたも馬鹿とか言ってしまった。あっちでハクにさんざん馬鹿馬鹿言われたせいで口癖がうつったかな。これも気を付けよう。
 それにしても、これが二人目の師かつ歳の桁が違うイトコとは。志波隊長とはおかしな関係になったものである。剣の道に限って言えば尊敬できる人だが、ご覧の通り、言動が気さくとか通り過ぎて抜け作になることがままあるので困る。おかげで此方もうっかり敬語が抜けることがあるが、そこは大目に見てもらいたい。
 さて、どうにか有耶無耶にしたいようですが、流石にその手は食わないのです。隠したかったのなら私の様子など見に戻らず、やはり一度帰っておくべきでしたね。


「どうあっても内緒ですか?」

「ん!」

「羽織の裾に返り血ついてますよ」

「えっ うそ」

「嘘です」

「…………。」

「…………。」

「ッあーもう!んぁーもー!……ハァ……なぁに、心配すんな。ちょっとした捕り物だよ」


 纏う霊圧の名残がなんだか戦場くさかったのはそういう理由わけらしい。私も少しは経験を積んだからか、霊圧知覚とかそっちの鼻が前より利くようになってきている。しかし未明から朝ぼらけまで瀞霊廷内で隊長が“ちょっとした捕り物”に駆り出されるって、どういう状況だ?


「とにかく怪我はないようで良かったです」

「トーゼン!俺はそんじょそこらのお尋ね者に傷物キズモノにされるほど弱かねえ」

「はいはい知ってます。……で?それで、何ですか。打って変わって今度はやたら視線を感じますが」

「……ハナシ変わるけどよ」

「え、この流れで?」

「お前の――…………」

「…………。」

「…………。」

「何ですか」

「やっぱいいや」

「本当に何ですか?」


 変だ。さっきまでは顔に書いてあったのに、急に読めなくなったぞ。言いたいことがあるなら、対面してるんだから正面切ってきなさいよ。
 などと思っていたら志波隊長はこちらにやおら手を伸ばし、ひょいっと掛け布団を回収していった。


「で、ハナシ変わるんだけどよ」

「まぁ賽サイのようにコロコロと」

「沙生」

「はい……はい?」

「って呼んでもいい?」

「あなたこの空気をどうしたいんですか?」


 なんだかもうこの人自由過ぎるぞ。結局うまいこと……いやうまくないお粗末だが、話を切られた。ひどい力業だ。まるで釈台をひっくり返されたようだ。こうなっては話の腰も舞台も整え直すのは難しい。
 彼は態とらしく真顔を作って立ち上がると、そこの小上がりの畳を持ち上げて中に布団をしまった。ぱたむと閉じたらまたこっちを向いて、「いい?」と訊いてくる。もういいですよ何でも、降参だ降参。二ツ目の座は譲ってやる。語るに落ちない落語家め。
 腑には落ちないが落とし所は必要なので、ここは頷いておく。


「ありがとな、沙生」


 深夜の“ちょっとした捕り物”の巻。それを隠した秘密箱の存在は割りだせても開ける鍵は彼の腹の中、口が堅けりゃ腹も割れない、という訳だ。これはもうお手上げ。探ろうとすればするほど更に腹の奥にしまうクチだろう。
 ことは一応職務に関係していそうだし、この感触だともうこれ以上詳しいことは話してくれそうにない。隊長さんがそこまで隠したがるなら、これ以上の追求はひとまず弁わきまえるとしよう。秘話休題。


「構いませんが、また唐突ですね」

「やぁ、せっかく身内なのに楠山呼びじゃヨソヨソしいだろって言われて、確かにと思って」

「それはまぁ……確かに?」

「『呼べるやつが呼んでやらねぇでどうする』、って」

「もしかして浮竹隊長に釘でも刺されてました?」

「まぁ〜そんなとこ?」


 名前で呼ぶくらい、類縁なのだから世間一般では普通のことだろう。べつに嫌とは思わない。今後とも懇ろにという意思表示でもあるのだろうから、むしろ嬉しいかもしれない。改まられると空恥ずかしいものがあるけれど。
 生前の私は田舎の山暮らしで、人間関係も狭い所で納まっていた。この世で私と近しい血をもつ人は、爺さまと母さまと、会った覚えもない叔父くらいのものだった。それが、なんとあの世にはまだいました!なんてことになるとは、まさかまさかであった。ゆえにどうしたって距離感というか接し方がなっていない。相手の懐の広さに甘えている節はある。いっそヨソヨソしさを拭いきって良いならば、ここは。


「私も名前で呼ぶべき……か……?」

「おやァ?呼んでくれる気がある?ん〜、そうだなァ」

「……いえ、やっぱりやめときま」
「エッ!?」

「な、なんですか?呼ばれたいんですか?」

「グゥ……そうね、どっちかってったらウン」


 そこは正直なのかい。調子狂うな。
 海燕さんは「志波」から「海燕さん」になったが、志波隊長は未だ「志波隊長」だ。はて、この差は何かと訊かれても、そこに特段の差はない。強いて言えば流れに任せてきた結果、ほんの僅かに置け・・た気・・の差である。
 だってこの人、初めて会ったときからもう“隊長”だったのである。他の隊長たちと比べるとだいぶ気安くしてきたが、隊長は隊長だ。護廷組織の最上位だ。そう簡単に己と横並びにしておける存在ではなく、一歩引いて立てるべき上司なのだから、自ずと心も置こう。
 彼は急に降って湧いた志波姓の隊長だった。言い方はアレだが、春先の私にとっては本当にそうだった。それから紆余曲折を経ての今である。気の置けない師弟になるのも吝やぶさかではないが、いきなり呼び方を変えるとなると、どうしても羞恥心が顔を出す。でもついこの前、乱菊さんにこう言われた。
「呼び方をどうやって徐々に変えてもらうってのよ。こういうのはいきなりなのよ」
 ご尤も。それはそう、本当にそう。グゥの音も出なかった。よし、ここは彼女の言葉に肩を押してもらおう。足踏みはやめて、垣根は取り払ってなんぼ!


「……一心さん」

「はーい!」


 元気なお返事いただきました。満面の笑みで挙手までして、幼稚園の点呼かな。威厳はどこへやらだが、こういうところが取っ付き易く心安い、彼の良いところなのだろう。
 一度呼んでしまえばなんてことはない。躊躇うのは最初の一歩だけで、思いきって踏み出せば距離は縮まる。進めば近づける。なんだ、当たり前のことだったな。


「一応確認したいんですけど、職務中とそれ以外とで呼び方は変えるべきでしょうか」

「いいいい、気にしなくていい。そういうの蒼純とこなんかは父ちゃんが厳しいみたいだけど」

「でも類縁だとは伏せるべき……なのですよね?卯ノ花隊長はそのようにご忠告くださって……」

「あぁ、面倒くさい貴族連中とかまだいるからなァ。卯ノ花さんはお前がそういう奴らに目ェ付けられねぇようにって心配してくれてんだろ」

「それなんですが、一心さんと海燕さんは大丈夫なんですか?今まで嫌がらせされたこととか……」

「タハハ!人の心配か!お前ってヤツは〜」


 一心さんは手首で額をコツンと叩いて笑い出した。私は草履を履こうと小上がりの縁まで四つん這いしていったところで、はたと止まる。可笑しなことを言ったつもりはないのだが。彼の顔を窺ったら、またニッコリと笑われた。「んーん、優しいなって」。ますます何だ。


「どうした?固まって――あっ、草履か?草履はこっち」


 私が止まっている理由を「草履が見つからないから」だと勘違いした彼は、小上がりの対岸にある応接用ソファの脚元から草履を拾い上げ、私が履きやすいように近くに置き直してくれた。そういうことでは……ん?待てよ、どうしてそんな遠くにあったんだい、私の草履。いやいや止め、深く考えるとまた恥をかく気がする。考えなしに履いとこ。


「それこそ気にすんな。俺も海燕も、元々よその貴族とろくに交流しちゃいねぇよ。お互い連つるむ気ナシ、宣言したんでもないけど事実上絶交つーかな。入隊したときも殆どチョッカイはかけられなかった。まぁしつっけぇごく一部とは昔チョット何やかやあったが、こっちが相手しなけりゃあっちも段々飽きてったみたいだし」

「それは『大丈夫』の内に入るんですかね……」

「ダイ・ジョブ。ぜ〜んぜん問題ナシ。いざって時にゃ朽木隊長とか京楽さんもいるんだし」

「その御二方は確かに心強いですが……」

「そもそも俺と海燕だぜ?大抵の馬鹿野郎は自分で返り討ちにしてやんよ」

「それは――なるほど。凄く説得力あります」


 二人がやられっぱなしのまま泣き寝入りする姿は想像がつかない。性格的にも、実力的にも。そして二人とも五大貴族だとかの柵しがらみを感じさせなくて掛け値なしに善良だから、周囲からよく慕われている。それぞれ十番隊と十三番隊の様子を見る限りでは、敵より味方の方がずっと多い。


「てなワケで俺らの心配は無用だ。でもま、アリガトな」

「はい。しかしそうなると、今度は逆に私だけ隠す必要あります?という気にも……」

「沙生の場合、俺や海燕とはちょいワケも違うし……」

「どの辺が?――あぁ、厄男やくおとこの実子だとか、半分は人間だとか、その辺?」

「そうねぇ。真血には違いねぇが、その辺うるせえ面倒なのも確かにいるから。ヤダヤダ」

「はぁ……確かに、そういう人たちとは関わりたくありませんね」


 面倒な連中ってまさしく目どうな・・・だ。目に掛けるだけ無駄、みっともない。しかも偏見に盲目とくる。人を見ようとしてくれない。幽かすかな汚点欠点に寄って集って目の敵にして、明さやかな利点美点には目もくれず、人を象る壮大な天描画の一点だけを指して罵り続けるような、視座のおかしな視野狭窄者。あまつさえ清い実像が気に入らなければ汚い虚像を捏造するんだから困りもの。
 他人である私の血がどうだろうが、そちら様に迷惑かけないのに。一国の王様であれば「血筋を長く純に守っていくというのも統治安寧のためには大切だ」と説かれれば理屈は分かるが、ただ生まれてきただけの命に文句を言われても。それは絶対にお門違いだ。生まれた命に罪はないし、生まれる事は罪にならないだろう。宿業とかいうのだって、ちゃんと本人確認してから背負わせなさいよ、と思う。


「おーいどうした、なんか凄まじくムツカシイ顔になってるぞ」

「いえ……そういう面倒な人たちって現世にも居たなぁと思って……私の地元ではありませんでしたけど、謂いわれない村八分とか、連座とか……」

「何回世直ししても何処どっかしらに湧くもんだ、残念ながら。でもそんなに気に病むな、ヨッ!」

「痛つぁ!?」


 デコピン!?片手式デコピン!星が見え……こんなに痛いっけデコピンて!?


「何しやが、するんですか!」

「アッハッハ!加減はしたぞ〜?壁抜いて吹っ飛ばなかったろ?」

「どんだけ威力出るんですかあなたの本気デコピン!?はー、おでこ凹んだかと思った……」

「そしたら『おでこ』は『おへこ』になんのか?」

「なりません!…………なりませんよね?」

「ハハハ、知らねー」


 爽やか笑顔で言うような台詞じゃありませんよ、まったく。にしても痛かった……海燕さんの手刀取りに漸く成功したかと思えば、もう新手か。私は何で対抗すればいい?竹篦シッペ?竹篦シッペか?
 おでこをさすさす労わっていると、一心さんにその手を取られてひょいと除けられた。


「ほーらもう赤み引いてきた」

「それはね、痕になんてなったら許しませんから」

「そんなもん残したら山田大先生に睨まれらぁ」

「山田副隊長より先に、私」

「すまんすまん。あいつ誰のでも本人より気にしぃだからよ、つい」


 そう言ってぽいと手を放すと、彼は肩が凝るのか首を左右にぐいぐいと傾けながら机に向かった。積まれている書類の量はそれほどでもないが、まだまだ後始末は尽きないようだ。


「……お茶でもお淹れしましょうか?」

「いいよ、早く帰って自分の部屋でまた寝てな。そもそも病み上がりでウロウロしてちゃいけないのよお前」

「今更な気もしますが……では、失礼します」

「おう。全快したらまた来いよ、稽古でも話でも付き合ってやるから。待ってるぜ」


 これは社交辞令ではないのだと今なら分かる。これから此処から帰ろうというのに、帰る場所がまた一つ増えたみたいだ。
 出ていく前に一礼していこうと思って振り返ると、席に着いた彼は手を振っていた。私は少し迷ってから、手を振り返してお暇した。

 十一番隊舎までの帰り道では、平日の早朝だからか誰ともすれ違わなかった。玄関先を掃除している人を遠目に見掛けたくらいだ。
 隊舎の中も静謐としていた。此処がこんな様子であるのは、皆まだ眠りの中にいるこの時間帯限定だろう。何だか却って落ち着かない。そわそわしつつ、そろりそろりと歩を進めて女性棟に繋がる渡り廊下の手前の角まで来ると、少し先に人の気配があった。こんなに早起きだなんて、一角と弓親に金矢も入院中の今、誰なのかさっぱり見当がつかない。角を曲がり、気配を辿って庭先を見遣ると、そこにいたのは――


「やっと帰ってきやがったな」

「えっ、更木たいちょう……えっ?」


 更木隊長だ。更木隊長が、錻力ブリキの如雨露じょうろで私の盆栽に水をやっている。それだけでもう既にびっくりだが、びっくりするほど似合わなくて倍びっくりだし、あの更木隊長の気配にこんなに近付くまで気付けなかったことにもびっくりして倍々びっくりである。
 如雨露はちょうど空になったようで、更木隊長はそれを片手にぶら提げたまま、ざっざと歩み寄ってくる。段差があるからいつもより目線が近い。あれ、目、眼帯……?どうしたんだろう?


「……おはようござい……ます?」

「言う事はそれだけか」

「水やり、ありがとうございます」

「違ちげえ」

「おめめ、どうしたんですか」

「……っはーあぁ――」


 あらまぁでっかい溜め息。幸せが逃げそう。でもこれ私のせいか?まあ私のせいだな、信じ難いことに。


「……すみません、ご心配をお掛けしました。ただいま帰りました」

「遅おせえ。つうか謝る気あんのかニヤニヤしやがって」

「朝だからですかね?表情筋が締まらなくて」

「……何なんもなかったか」

「はい。悪い事は何なにも」

「そうかよ」


 ぶっきらぼうに言うと、更木隊長はくるりと庭を向いて縁側に腰掛けた。お顔を覗き見ようと隣に正座してみたが、彼の右目は見慣れぬ眼帯で覆われているのだった。反対側に回るべきだった。彼が持ったままの如雨露の先からほんのいくつか滴る水は、乾いた土に朝顔の葉のような紋を落としていく。


「退院は昨日だったはずだろうが。朝帰りなんかしやがって……連絡は聞いたが、それもどうせほぼ朝にだったしよ」

「……連絡?」

「あいつ。あれだよ、あの野郎」

「どの野郎ですか」

「白い髪の野郎」

「浮竹隊長ですか?」

「違えよ、髪そんな長くねえやつ。たしか遠征に増援で来てやがった」

「持地もちじさん?」

「誰だそいつ」

「二番隊の、燻し銀で礼儀正しい方です」

「トシなのか?」

「ええ、恐らくそれなりに」

「じゃあそいつでもねえ。あれだ、あー、狐みてえな目ェした野郎」

「…………まさか市丸副隊長ですか?」

「多分そうだ、どっかの副隊長。市丸っていうのか」


 もし相手が黒髪だったりしたら、候補が多過ぎて白旗を上げるしかなくなる所だった。白くて良かった。……いや、良くない。全然良くない。なんでまた。
 市丸副隊長は私たちと一緒には帰還していない。合同遠征部隊からあの場を引き継いだ五番隊はまだ出張っている最中であるはずだが、一人だけ先に抜けて来たのだろうか。そうだとして、どうして。


「市丸副隊長は何と?」

「お前の伝言だろうが。自分が何つったか忘れたのか?そんなに寝惚けてやがったのか」

「やぁ昨日はもう本〜当に、眠たくて眠たくて」

「チッ……病み上がりのクセに何でも安く請けるんじゃねえ。この間の遠征のことで十番隊でやる仕事があって、遅くなったからそのまま泊まるとか言ったんだろ」

「あぁーそう、でしたね。でも伝わっていたなら、私なんて待たずにお休みになれば良かったのに」

「言ったろ殆どもう朝だったってよ。それにあいつ、なーんかよ……」

「なーんか何です?」

「……どっかで一戦やってきたみてえな……」


 そう聞いて脳裏を過るのは、さっきの志波た……一心さんの、泳ぎに泳いだ目である。更木隊長は離れた所からの霊圧探知は大の苦手だが、対峙して得る直感なら野性的に鋭い人だと思う。彼の何かの勘を信じるならば、詳細不明のちょっとした捕り物の場には市丸副隊長も居合わせていた、という事になりそうだ。瀞霊廷内で一夜の内に問題が同時多発するとはそうそう考えられないから、一心さんと市丸副隊長が関わったのは同一の件と見做していいだろう。
 隊長格二人が直々に参加する捕り物とは、ますます謎だ。何がちょっとしただ、実は大事だったんじゃないか。目撃者がいなければ噂にもならないだろうが、想像してみるだけでも中々えらい絵図になる。


「更木隊長からは何かお尋ねにならなかったんですか?」

「『何か戦やってきたのか』つったら、『所用』だとよ」


 そう言っておけば何であっても嘘にはならない魔法の言葉。「これ以上言う気はありません」という宣言も同じ、怪しさ満点でもそれ以上追求しづらくなる便利な呪文。それをあの・・顔で言われたら、大半の人は「そう」としか返せなくなる。更木隊長の場合、自分から話を展開させていくのを面倒くさがるから余計になぁ。訊かれた事には答えてくれるけど――と考えていたのに、不意に。


「なあ、前に一緒に月見酒やったときによ」

「えっと……前回の退院明けの?」

「ああ。そん時お前、まだ自分を狙う輩がどうたらとか言ってやがったよな」

「……まあ、はい。よく覚えてますね」

「馬鹿にすんな」

「すみません」

「言え。ソレは結局どうなった」


 更木隊長は如雨露を縁側の下に追いやると、庭に遣っていた目を私に向けた。次第に体ごとこちらに向いて、上半身を傾けてじりと距離を詰めてくる。やけに詰め寄る。慣れない眼帯なんてしているから、いつも通りの距離感が掴めないらしい。交代して今度は私が庭に目を遣る。松の枝にいた二羽の雀は、チョンと軽快に柵へと移った。
 私が十一番隊舎に予定通りに帰らなかったという状況は、大怪我をした春のあの日と似ている。更木隊長はそれで連想してしまったようだ。ほんと、鬼みたいなのに、しっかり人の心があるんだから。嘗てお酒に酔ってうっかり滑らせた口から零したお悩み相談は、私が誰にも言うつもりのない“あの夜”の秘密に繋がる話だ。彼に詳細を教えることは出来ない。
「どうも快気祝いに呑んでるわけじゃなさそうだな。何をヤケになってんだ」
「……自分を狙う輩が、いつ襲ってくるか分からないとして……どうしたらいいと思います」

 輩とはつまり市丸副隊長のことなのだが、更木隊長はいま話に挙げていた彼がそうだとは夢にも思っていないだろう。更木隊長からすれば、市丸副隊長は寝落ちて隙だらけだった私をそのままに、何かしらの所用をこなした後ご親切に連絡までしてくれたどっかの副隊長、でしかないのだ。最強の大悪人の手下だとかはご存知ない。殺されてもおかしくないのに泳がされること数ヶ月、挙句には「友達になりたい」とばかり。頼んでいないのに更木隊長に連絡したというのも、友達気取りゆえに焼いた世話だろうか。
 「結局どうなった」って、どうもも何も。状況は何ら変化していない。深刻化もしていないが進歩も無し、未解決のままだ。でも、それをこの人に言っても仕様がないから。


「それは多分もう大丈夫です」

「……本当だろうな」

「はい。多分」

「ハッ、『多分』ってのは便利だな」

「ふふふ、そうですね」


 更木隊長は背筋はあまり曲げないまま更にこちらに乗り出すと、私をじろりと一睨みしてから、最初に腰掛けたときの姿勢と位置に戻っていった。……睨まれても全然怖くなかった。左目、ちょっと眠そうだったし。


「大丈夫ですよ、私はもっと強くなります。同じようにはやられませんて」

「そりゃあ俺も相手してやる甲斐があっていいが……夜はあんま遅くなんな。もうちっと用心しやがれ」

「いやいや、そんなに女扱いしてくれなくても」

「沙生は女だろ」

「そうですけど……」

「強えことには男も女も関係ねえが、お前なんか思い違いしてねえか」

「……どういうことです?」


 更木隊長は口に手も当てずに大きな欠伸あくびをした。さっきより陽が昇って、柵の影の形が徐々に変わって縮んでいく。二羽の雀はこちらに飛んできて、頭上の雨樋あまどいをカタンと鳴らした。その音の出処でどころに気を取られて、私は縁側の屋根を見上げた。


「女として見られてねえとでも思ってんのか」


 雀はチュチュンと鳴きながら羽音を小刻みに震わせ、東の空へ飛び立った。それも目で追った後、そっと更木隊長の横顔を盗み見た。やっぱり眼帯が邪魔だった。
 言う事も定まらないのに無言の間に耐えかねて口を開きかけると、更木隊長の首がカクンと揺れた。思いのほか静かな寝息が繰り返されている。……流石に私一人ではこの人を寝所まで運んであげられない。何人か隊士を呼んでも無茶な気がした。大判の長座布団でも敷いて押し倒しておけばいいだろうか。幸い、今日は天気が良い。


「…………はぁ。びっくりした」


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表紙・家