莫逆と露も更々

死ぬれば死神
ばくげきとつゆもさらさら

 男かれには護りたい愛ひとがいた・・。
 ありふれた話だ。あぶれがちな話だ。別離の悲劇など、この世界には掃いて捨てるほどある。数えきれない不幸の中から、ここではとある悪ひとによって演出された三例のみを挙げてみる。

 一人目は、失明。闇しかなかった男の世界を照らそうとしてくれた導きの星は、光を厭う悪の凶刃によって永遠に消し去られた。男は世を果はか無なみ、因果を呪った。正義の下もとに盲目であり続ける道を選び、世界への復讐を誓って叛逆の力に降くだった。

 二人目は、失意。不意に抱いだかされた初恋は実らないばかりか、自らの手で無惨に散はららかす結果となった。恋に煩っていたはずが、情を煩わしがるようになった。欠けた心を満たす機を逃した男は自我を隠し、同調に徹する道具に成り下がった。

 三人目は、失徳。想い合う仲を悪に引き裂かれ、奪われるものかと伸ばした指先が触れた頃には手遅れだった。男は社会の不条理を憎み、己の不甲斐なさに怒いかった。護れなかった女と同じ轍を踏む者は殺してでも生むまいと決めて、進んで堕おちた。

 救えない話だ。掬われない話だ。「山ほどの人を守りたい」と言って誰かのために懸命に戦い続ける人でも、一個人で一切衆生は救えない。両手いっぱいの砂の山に更に盛ろうとすれば、どうしても滑り零れ落ちる。

 止まない時の流れのなかでは、黒崎一護前を見て進む者は、足元に沈殿している砂泥さでいが如き悲劇に拘泥こうでいすることはないだろう。何故ならば、それらはおよそ物語の主役とは関係ない、多少あったとしても事故的に擦れ違うだけの、三流どころか最下流の、お茶の間にも流れず茶番にすらなり得ない番外の、無縁の脇役の塵屑みたいな裏話だからだ。
 仮に黒崎一護前を見て進む者が下や後ろばかり見たとしよう。甘さチョコラテを捨てきれない彼は、見付けたのであれば然そう見限れない。塵屑のためにも心を痛め、砕き、配ろうとするだろう。だが、そもそもこれは仮定自体が矛盾している。全知全能の神か地球ほしの見守みもりでもない限り、一対の目で全方位すべてを見詰めることは出来ない。必ず何かは見落とすし、幾つも見逃すだろう。しかし見捨てるというのとは全く違う、とは言っておきたい。人生は甘くない。流れに流されず、自分の足で歩みたければ、余所見ばかりしていられないのだ。

 冥々たる濁流のなか、澱み果てた塵屑に拘かかずらうような変わり者がいるとしたら、それは銀城空吾前を見ず踏み止まる者を措いて他にない。何故ならば、敵役かたきやくとして生まれくる彼もまた、護りたいと願う大切な仲間を失い、底に辿り着く運命にある同類だからだ。
 沈んでもいないのに上から覗き込もうとすれば大変難儀するだろうが、沈みきって底で目を開くならば嫌でもよく見えるだろう。悪に呑まれて道を踏み外した流れ者同士。語らわずとも互いを理解するのは簡単だ。

 背景も不明のまま、沈みゆく砂粒。一人目東仙、二人目風張、三人目尾焼津。そして将来的には数えられてしまう四人目銀城。男かれらの大切なものを奪い、汚よごし、穢けがし、澱おりに沈めて嘲笑う、外道を地で行く彼かの悪ひとの名は――。


***


 時を朝から再び夜に。針の回りは右でなく左に。既に昇った太陽には悪いが東に沈んでもらうことにして、話は数刻前に遡る。
 深夜、六月十一日から十二日にかけ。


「――で、周りもそんな風に言ってくるもんだから俺もちょーっとその気になりかけてたんだけどよ、伯父貴が選んだのはやはりというかその後輩くんだったわけ。そいつ逆藤さかふじっていって……ん、寝たのか?楠山?……おーい…………ありゃりゃ」


 静やかな夜の執務室で、一心は緩慢に濃い茶を啜った。熱さに構えて慎重に飲むほどのものでは全然なくなっている。心地好い談話の時間は、当人が思うよりも早く過ぎていくものだったようだ。
 彼はソファから腰を上げ、向かいでこっくりこっくりし始めた沙生の手から手捻りの湯呑を取り上げた。零こぼれるからと思ったが、すっかり空だ。手持ち無沙汰となった彼女の両手はストンと膝上へ。無意識であっても行儀よく猫背にもならず、座ったままなのに何とも器用に寝るものだ。


「どうしたもんかね……」


 一服したら沙生を十一番隊の宿舎まで送ってやるつもりでいた一心は、暫し呆然と立ち尽くす。退院したはずなのに沙生が帰らないと、更木はあれで顔に似合わず気を揉んだりするのかもしれないが――なんであれ、過保護に付き合わされるのは浮竹相手だけで勘弁だ。まったく我がイトコの周りはどうなっているのやら。一心は自分を勘定に入れずに憂いた。
 朝から晩まで身に余る身の上話を聞かされて心身共に疲れたことだろうし、こうも穏やかな寝顔を晒されては揺り起こすのも気が引ける。前に弓親から「雑」判定をくらったのと、万が一お届け先でヤツめと顔を合わせたりしたら嫉妬を買って面倒そうなのとで、抱えて送り届けるのも気が進まない。このままソファに転がして休ませておいても別に悪くはないだろう。
 “送らない”という選択肢を採とりたいがために誰に言うでもない遁辞とんじを胸の内で論あげつらってみた一心だったが、自分も眠いしもう動きたくないという本音はその寝惚け眼から洩もれている。合同遠征前に一度は片付けたはずなのに帰還後再び山となってしまった仕事だってやっつけている途中で、正直かなり草臥くたびれていた。隊首室の寝床に行けるかも危うい。この気力では歩いても十歩が関の山だろう。


「ふぁあ、ねむ……あー……寛くつろげといてやるか、しょうがね……」


 眠気で頭が働かなくなってきていてもその辺に気が回る程度には、彼は根っからの親切屋だった。沙生の草履をもぞもぞと脱がせて、背中に腕を回し添えながら横たえてやった。そして「面倒だがやはり自分は隊首室に行くか」と思った。思ったのだが、こうも思った。

 ――今なら。

 端から見れば押し倒したような恰好になっていて、もし京楽にでも見られようものなら一生酒の肴にされかねないが、これは決して、誓って、魔が差したというのとは違って。


――――――


 半刻前。
 二番隊隊舎敷地内北西、幅三十間の巨大な堀の奥にある地下特別檻理棟。通称“蛆虫の巣”。
 この施設を管理する隠密機動檻理隊の部隊長を兼ねる二番隊第三席西五辻にしいつつじ閃センは、この夜更けに地下への階段を下りていった。供ともはない。遠く後ろには勝手に付いてきているのが居るみたいだったが、ここは敢えて目を瞑った。

 他所よそにある牢獄の収監者とは異なり、此処ここの収容者は罪人ではない。あくまで四十六室基準で“危険分子”と判断されたに過ぎない、確定した前科のない死神たちが強制的に監視下におかれている。その空間がいくら明るく広い様を呈していようが、およそ人道からは外れた暗部といえる。護廷組織が上面うわつら体裁ていさいのために裏に押し込めた闇であり、後ろ暗い影そのもの。蓋の下の臭いもの。そんな所だ。
 そこも過ぎた人気のない深部には、やっと檻らしい檻がある。嘗て唯一人ここに入れられていた危険分子が今や十二番隊の隊長権限代行だというのだから、世のなか分からないものである。


「……ほんっと分からねえな」


 檻の中から怪訝に発された男の声に、閃は眉一つ動かさない。持っていた提灯の取っ手を檻の高い所の隙間に差し込めば、中の男は溜息を吐き、齎もたらされた灯りを直視しないように身体からだの向きを変えた。重たそうな足枷はジャラジャラと音を立て、洞窟内で湿気しけったように谺こだました。
 十年前に涅マユリが浦原喜助によって解き放たれて以来無人だったこの檻には、刻下こっか、史上二人目となる囚とらわれ人がいる。それも、本来ならここに居てはならない罪人だ。


「もう来んなっつったろ、閃。てめえは俺の通い妻か?あ?」

「その比喩、言ってみてどうだ」

「……気色悪いな。反吐が出そうだ」

「だろうとも。もう少し考えてから物を言え」

「考えたところで馬鹿は馬鹿のままだぜ。お偉いさんが馬鹿の相手なんかしてるもんじゃねぇ、帰った帰った」

「一介の看守の何が偉いものか」

「オイオイ部隊長様だろうが、頭良いやつが馬鹿を言え」

「黙れ。……亢夜こうや。まだ話す気はないか」

「お前じゃ駄目だ。何度も言わせんな」


 互いを下の名で呼び合うくらい気心が知れている。間に流れる空気も変に軽い。それもそのはず、彼らは囚人と看守である前に、元は真央霊術院で学生時代を共に過ごした同期である。将来有望とされていた特進学級三人組の内二人。それが鉄格子を挟む間柄になろうとは、運命の悪戯にしても趣味が悪くて嘆かわしい。実は最近まで二十年余り口を利いてこなかったのだが、もうこうなっては思い直したのか開き直ったのか何なのか。雰囲気としては、学生当時に戻ったようである。


「……俺では、か。前にも同じ台詞を吐いたな。そしてこの題に関してはそれきり黙だんまりとくる」

「…………」

「腐敗した貴族の枠組みから抜けきらない俺では駄目という訳か」

「違ぇ。御身分の話ならとっくの昔に済ませただろうが」

「しかし俺の家は嘗ても――」

「ンな事ァもう知ってる。身内がクソだと大変だな」

「……止められない愚者にも咎はある」

「だからよ違ぇからな。お前が貴族だからってんじゃねぇ、家カンケーねぇから」


 西五辻閃は、上級貴族・西五辻家の嫡流家系に生まれた男子で、西五辻家の者としては唯一の現役死神である。斬拳走鬼どれも高い実力を誇る逸材で、任務に対する生真面目さと仕事の手早さも併せ持つことから、一番隊からも御声が掛かったことがある。同じく上級貴族の京楽から「閃クン」と親しげに呼ばれ何やら見知り越しの仲であるのは、年の差はあれど一部似た身の上ゆえ。乱菊のような流魂街出身者にまで「二番隊三席殿といえば西五辻家の」と知れ渡っているのは、偏に家の大きさゆえだ。
 一番隊からのお誘いを出世度外視で蹴った過去をもつ彼は、なんとそれを要因の一つとして廃嫡されており、親類からは異端の役立たず扱いされている。しかし当人は「客観的に見て己を最も活かせる部隊は二番隊及び刑軍である」と断じて迷わなかった。しかもそこで隊長副隊長の席が空いても「自分は渋らず使われてこそ」「家から隊長格が出たなどと尊大な顔をさせてたまるか」の精神で座りにいこうともしなかった筋金入りである。


「はーいはい、家の話はヤメだヤメ。ったく非常識な時間に押し掛けやがって。俺は昼夜逆転しようが関係ねぇが、そっちはいつ寝てんだ?ひょっとして朝から晩まで寝て来てんのか?俺以外に友達いねぇのか」

「いるが」

「逆藤さかふじと甘竹あまたけと伊江村はナシな」

「何故ナシにする」

「旧ふるいだろ。俺も知ってるヤツらの話じゃつまんねぇし。最近どうよ?同期の他に。あぁ、上司とか持地もちじの親爺おやっさんもナシ。誰かてめえの人間関係に新顔いねぇのか」

「……何でも構わないなら」

「おぅいいぜ、何だろうと新顔がいるだけで閃にしちゃ上出来だろ」

「毎日のように飽きもせず組手を挑んでくる騒々しい部下」

「へぇ、お前相手に?めげないねぇ。根性あんじゃねぇの。どんなやつ」

「話してみるか?そこまで来ているようなのだが」

「……はぁ?」


 閃は右足を引き、顔色一つ変えぬまま来た道を振り向いた。場に僅かな緊張が走る。一人だけ平然としている閃を緩衝材代わりに挟み、檻の中の罪人と、通路の陰に潜んでいた第三者が対面を果たす。床の岩肌を摩る勢いの態とらしい足音を立てて逃げもせず出てきたようだが、足首より上の姿形はこちらの光源が限々届かない暗闇にとけている。じっと目を凝らしていれば、両手を上げて降参の姿勢をとっている小柄な立ち姿が浮かび上がってきた。


「いやぁ〜やっぱバレてたか!サスガ閃センパイっス!」

「惚とぼけるな。中途半端にバレたそうに付いて来ていただろう。特に桟橋前付近」

「あー……そこ分かっちゃうんだから、やっぱサスガなんスよ」


 その正体は三師みもろ太てんとである。実は彼としては、閃の後などつけてもどうせすぐに追い返されることになるだろうと踏んでいた。「これ以上ついてくるな」と叱られれば素直に従うつもりだった。それなのに門前払いされるどころかこんな最深部まで誘おびかれて、罪人との密会を目撃させられた。ここまできたならもう今日は野放しにされて、後日どう動くのか試されたりでもするのか?と予想していたところだったのに、それも外れた。不法侵入中の部下をこの局面に呼びつけて何とするのか。面おもてには全く出していないが、太は閃の真意を測りかね、疑心を拭いきれないでいる。


「太。両手を下げろ」

「上げろならともかく下げろって?ハハ、聞いたことねっスけど」

「早くしろ。俺が脅しているようで気分が悪い。こちらには害意はない。……信用ならないか」

「ぶっちゃけ何考えてんのか謎っス」

「そうか」


 言うが早いか、閃はどこからともなく鋼鉄製の手錠を取り出すと、間髪入れずに自らの両手首を拘束した。その挙動には檻の中の罪人も目を丸くする。閃は淡白に「やる」とだけ言って、上げて開かれたままだった太の右掌に向かってその唯一の鍵を投げてぶつけた。ぶつけられた方は、思わず脊髄反射でその鍵を握り締めた。


「イテっ!ちょっと!ちょっとちょっと何しちゃってんスか!?つい受け取っちゃいましたけど!こんなの急にされたら誰だってお手々オジギソウになるっスよ!?」

「いいからさっさと両手を下げろ」

「ブハッ」


 檻の中の罪人は堪らず噴き出した。目の前で仲間割れでもされるのかと思いきや、始まったのは喜劇じみた仲間喧嘩だったのだから無理もない。


「ほーらセンパイが変なことするから笑われた!」

「笑われるのは好きだろう。洒落のめしには本懐とみるが」

「そりゃ爺ちゃんとかチビっ子とか友達にはまぁそうっスよ!?でもソイツ――っなぁ、何でなんスか……?何で砕蜂隊長も……」


 太はよく笑う男だ。笑うのも笑われるのも好きで、他人も自分も笑っていられるのが一番良いと思っている。流魂街の暮らしがどんなに貧しくたって笑った。霊術院で酷い差別を受けたって笑った。笑う門には福きてる!あれ?きたろだっけ?とにかく、爺ちゃんが教えてくれた言葉だ。大抵のことは笑って流せる。だが、そんな彼でも笑えないことはある。


「……沙生ちゃん殺そうとした奴なんて、オレは絶対赦せない」


 太はいつか市丸にも向けた、射殺すような目で罪人を睨みつけた。私闘や命令無視といった隊律違反を重ね、とうとう終おわりつ方かたには拉致・監禁・殺害未遂諸々の罪を犯し、酌量の余地もなく処刑されたはずの男。世間からは無いものとして扱われるこの場所にこうして秘匿され、何故か生かされている罪人――尾焼津おやいづ亢夜こうやは、もう笑わない。向けられるそれを受け止めて、そのうえで射さし返す。


「俺も許せねぇ。楠山を殺してやるって決めたのに殺しそびれた俺自身をな」


 赤い目張りで縁取られた太の眦まなじりがこれでもかと吊り上がる。憤怒一色の瞳に映るは、相容れない手合いの姿。茶けた短髪、精悍な顔つき、上背もある筋肉質な体、そして腕には――幾つかの入墨。それは恐らく、生前から持ち越した烙印。ある時代の現世において、刑罰として刻まれた辱はずかしめの痕。それを認めた瞬間、太の瞳は微かに揺れた。


「睨み合いはそれくらいにしておけ。さて太、経緯は聞きたければ聞かせよう。亢夜が口を噤んでいる箇所については、俺の口からは確かなことは語れないが……」

「よく言うぜ。見当は付いてんだろ」

「今は太と話している。茶々を入れるな」

「まぁ待てよ閃、気が変わりそうなんだ。こいつはひょっとして及第かもな」

「……不羈ふき奔放ほんぽうの斑むらっ気けか」

「またまたよく言うぜ。可能性はあると思ったから連れてきたんだろ?」

「連れてきてなどいない。勝手に付いてきたから序でに突き出してみただけだ」

「あーぁハイハイ、もうそういうことでいい」


 言いながら、尾焼津は壁際の造つくり付つけ段差から床に下り、牢の真ん中で胡座をかいた。今度は身体の向きも正面に直している。
 これから何を告げられるのか、何が起ころうとしているのか。太に思い当たりはなく、先を読むにはこれまでの文脈では足りない。ただ、目の前のこの罪人を、何を聞かされようとも宥ゆるしてはいけない気がしている。


「俺は別にこのまま処刑されたって文句はねぇんだがよ。殺してやれなかった楠山のことは、どうにかケジメつけとかねぇとな」


 尾焼津の瞳に浮かぶその色もまた憤怒である。融通の利かない堅忍不抜の誓いの下に醸成された、自分自身への苛烈なまでの督促とくそく、憤懣ふんまん遣やる方かたなくて煮詰まった怨念。そういう激しい怒りの色だ。
 三師太は「尾焼津亢夜が赦せない」が、尾焼津亢夜は「楠山沙生が赦せない」のではなく本当に「自分自身が赦せない」らしい。つまり「オレと奴の怒りは同種ではない」ということは太にも解った。解らないのは、奴の動機だ。嫌いだとか、憎らしいとか、そういう悪感情からくる殺意だったなら解り易かった。どうして彼女を殺したがるのか。無差別でもなく、明らかに狙い定めて。死んで欲しいくらい嫌いなのか?殺したいほど憎らしいのか?……べつに、そういう訳ではなくないか?


「じゃあ訊くぜ、赤毛のガキ。お前は楠山沙生の絶対の敵か、絶対の味方か。……どっちでもねぇならこの話は終わりだ。だからって半端な覚悟で適当ほざくなよ。意味は解るか?流石に俺より馬鹿なんじゃあ相手にしたくねぇからな」


 絶対の敵か、絶対の味方か。絶対・・とはまた強い言葉だ。付ければ最後、もう取り返しはつかない。敵か味方かなんて、普通は誰もが誰に対しても曖昧で不確かである。その時その時の立場や事情によって簡単に趨勢を変える。それを「絶対」と言って決め切るからには、その者について殊に詳しくなくては、その者に対して特に思い入れなくては、とても決断できないだろう。つまり尾焼津は遠回しに「楠山沙生とは何者か」をお前は本当に知っているのか、とも訊いてきている。
 敵か、味方か。何があっても赦せないのか、何があっても赦せるのか。何をされても救わないのか、何もされずとも救いたいのか。何事が起きようと必ず敵対するのか、いつ何時なんときでも必ず味方するのか。どちらかを選んで、後悔しないか? それは本当に、絶対なのか?


「……俺では駄目だと判断するのは、俺にも同様の質問をしてからにすべきではなかったか」

「んじゃ閃はどっちだってんだ?決めらんねぇだろ?あ?」

「…………」

「てめえは良くも悪くも中立なんだよ。真っ当な理由があるとみれば因縁も誼も無視して敵味方を躊躇なく変えられるのがてめえだ」

「…………」

「ほらみろ困ってんだろ。しかしだからって黙るなよな、あーあー面倒くせぇ」

「……確かに、俺は楠山さんのために太のようには怒いかれなかったが」

「諦めろ、仮にイカれてたとしたってやっぱお前じゃ駄目だったろうぜ」

「……聞こうか」

「おう、じゃあこれも確認だ。えーっと、太とかいったか。お前、手ェ汚した事あんだろ」


 閃は僅かに瞠目した。長年刑軍に身を置き、汚れ仕事なら専売だとも言えよう自分が「手を汚した事」がない方に分類されて駄目らしいのに、まだ新米の太が良し、ともすれば――その意味を瞬時に理解してしまったからだ。


「俺の代わりに、何があろうとケジメつけられんのかって話なんだ。楠山沙生をきっちり殺してやるにしろ、生かして護りきるにしろ……最低限、俺と同等以上に自分勝手なヤツじゃねぇとな?法律だろうが隊律だろうが、やると決めたらやって破る。やれって言われてやるんじゃなく、な」


 太は目を閉じ、静かに長く息を吐いて、短く吸った。開かれた目に、もう憤怒はない。
 人の話を聞くときは、仮令相手が何者であろうとも。氷炭相容れぬと見せかけて、同じ形の罅を抱えていようとも。斜はすに見ず、中正に。個人的な好悪こうあくは持ち込むべきではない。宥せはしない――けれど、やると決めた事をやる為だ。もう十年も前に・・・・・、人に言われたからだけでなく、自分で“やる”と決めた事だ・・・・・。


「了解っス。じゃまずはえーと……閃センパイ、腕出してください」

「これでいいか」


 太は先ほど投げつけられた鍵で閃の手錠を解いた。それはこの場での信用の証だ。そして、離れ際に先輩の袖を捲り上げる。これはただの興味本意だ。


「おい。いきなり何だ」

「あららぁ、まっさらなモンっスねぇ」

「だから何だ。気味の悪い」

「まぁまぁ、ただの確認っスよ」


 閃の腕には当然、烙印など無い。尾焼津の腕にあるような烙印について、尸魂界の死神はそれが何かを知らないだろうが、太は知っていた。何故ならそれは遠い昔、罪という言葉の意味さえよく分かっていなかった頃に器子の身体に押された烙印が、霊子の身体となった今でも残っているからに他ならない。正しいと思う事をしたのに断罪され、正道から外され、どうせならとそのまま正しいと思う事をし続けて、重ねられていった墨の痕。
 太は死神になってからは初めて、人前で袖を捲り上げた。それを見た閃は首を傾げ、尾焼津は親指で眉間を押さえつつ鼻先で一笑に付した。


「お揃いっス!亢夜サンって呼んでいいスか?」

「何でもいい。勝手にしろ」

「で、生前は命たま殺とった他には何盗とったんスか?米?それとも印籠いんろうとか?」

「俺か?俺は蔵くら破り十両」

「アッハハハハ!ひょっとしてアレっスか、それで首飛んでこっち来ちゃったんスか!?」

「冗談だ。まぁ何かと已むを得なかったんだよ。そっちこそ何だ?年若く見えるが……やった頃はもう十五才未満罪つみ一等いっとうを減ずる、にはならなかったのか?」

「オレんトコの御お奉行ぶぎょうクソだったんスよ!いや今思えば御奉行なんかじゃなかったかもしんないスけど。ガキにも容赦ナシ!お蔭サマで早死にしたのなんのって!」


 険悪な雰囲気だったはずの二人が急に盛り上がって、閃は置いてけぼりを食らった。現役の刑軍部隊長といえど、過去の現世における生活、それも司法や刑罰など知らぬ庭だ。縁遠い異世界の話のように思えた。元は人間であったらしい彼らが生前は度を越した極悪人だったなら、とうに地獄に堕ちているはずだ。しかし現にこうして尸魂界にいるのだからまぁ、そういうことなのだろう。
 この話題は暫く続いたが、閃には半分も理解できなかった。共通の話題ができて楽しそうだしまあいいか、というのが感想である。


「どれ、生前しゃべくり会はこの辺にしておこうぜ」

「はいっス」

「絶対の敵か味方か、どっちの立場として俺の話を聞くつもりなのか……まぁまず分かりきっちゃいるが、その答えを聞く前に閃、お前にも一つだ」

「何だ」

「土手っ腹の穴はもう何ともねえのか?蜻蛉返りで災難だったな」


 何の変哲もない見舞いの言葉を贈る尾焼津の表情に、特におかしなところはない。相変わらずそういうところが憎い。馬鹿のくせに、迂遠な物言いで核心をチラつかせてくる。閃はジト目を更に細めて、自身のもうすっかり完治している腹に手を当てた。
 閃が増援部隊の一員として流魂街に発ち、一角に始解した鬼灯丸でブッ刺された殺すつもりで引き摺って貰ったのが六月二日夜のこと。翌三日昼に帰還・綜合救護詰所に入院し、十一日夜に退院したその足で此処に来た。冒頭から振り返ってもご覧の通り、閃は尾焼津に「合同遠征に合流した」とも、「腹を負傷した」とも告げていない。そして此処は管理者以外立ち入り禁止の地で、管理者は閃である。どうも太とはまた別に、少し前に招かざる鼠がいたようだ。それも、此処に尾焼津が隔離されていると知る――恐らく、檻理隊所属の鼠が。


「……一匹は浮竹隊長が捕らえてくださったのだがな。まだいるのか」

「鼠共の主あるじは俺をすっかり自分側についた手駒と思ってるからな。で、アホな主の指示通りに味方に連絡しに来たつもりだったんだろ」

「亢夜サンは誰の味方とか無さそっスもんね。あ、ソイツの顔とか名前わかります?」

「知らねぇよ。知らねぇヤツだった。顔も見てねぇ。少なくとも同期じゃねぇなとしか分からねぇが……閃、お前よ」

「今度は何だ」

「あー……その、訊きにくいんだが」

「今更何だ。そんなに渋ることか」


 尾焼津は目を眇めて低い天井を数秒眺めてから、意外にも気遣うような調子で訊いた。


「……そいつ、ボソッと『今回は閃殿の泣き顔は見られなかった』とか抜かしてやがったんだが……前に人に泣き顔見られたのっていつなんだ」


 太は思わず「え」の形で口を開けたまま固まり、いつも冷厳な上官の顔色を窺った。この顔が泣き崩れるところなど全く想像がつかない。閃は眉一つ動かすところも見せないように、二人にくるりと背を向けてこの場から去ろうとする。太は開いたままの口に思わず手を当て、目まで若干覆った。尾焼津もまた何とも言えない表情をしていたが、何かは言わなければと口を開いた。


「おい、結局今ので誰なのか判ったのかよ」

「黙れ」

「な、何か判ったらしいっスね……?いつ泣いちゃったってんでしょね?」

「黙れ」


 閃は歩みを止めず振り向きもせず繰り返した。歩調は別に急いておらず、素っ気なく平坦な声音も至っていつも通りで、ますます泣き顔の想像は困難を極めた。


「オイオイ閃、まさかそのまま帰んのか」

「聞く資格ありと判断したのは太だけなのだろう。漸く吐くというなら話の邪魔をする気はない。俺自身、お前の口から聞く事を諦めた訳ではないが」

「あっさり引いちゃって良いんスか?よく分からねっスけど、オレたぶん今からこの人に唆されちゃうんスよ!?」

「罪人に唆されて何をすると言うんだ。お前は人に何か言われて間違った事をする鼻元思案なのか?」


 閃は二人にしゃんとした背を向けたままで、まるで右耳に寄ってきた蚊を左手で追い払うようにしながら言った。言われた太はぽかんとしている。尾焼津は先ほど仲間喧嘩を見せられたときのようにまた「ブハッ」と噴き出した。
 少し前まで太が隠れていた通路の陰に差し掛かって、閃の後ろ姿は見えなくなった。太はそこでやっと気を取り直し、遅ればせながら声を張る。


「……閃センパイ!!復帰したんスから明日からまた組手お願いしますよ!!」


 にこやかに溌剌ハツラツと、いつも通り生意気に。閃の返事は聞こえてこなかったが、どんな顔をしているのかは何となく想像できた。きっと明日も、これまでと変わりない。


「……っクク、ぶはは!!はぁーっ、良かったじゃねぇか。すげぇ信頼されてんのな」


 ツボに入ったようで、尾焼津はクツクツと腹を抱えている。太は改めて罪人の前に立ち、その姿を見下ろした。
 前々から素行や思想が問題視されていたという十一番隊隊士、尾焼津亢夜。更木が十一代目剣八となるより前の時代、彼が虚討伐に出向いた際に犠牲となったとされる流魂街の民の死因に不可解な点があったことに加え、仲間内での暴力に私闘、上司の命令無視といった規律違反を重ねたことで監視対象となった。そして二ヶ月前、楠山沙生と山田花太郎を拉致監禁、前者に対しては更に殺害未遂。四番隊副隊長山田清之介がその場に居合わせていたことで一命は取り留めたが、もしその偶然がなければ彼女は尾焼津によって殺されていただろう。
 許せない。赦されない。宥してはいけない。太は尾焼津が恕せない、絶対にだ。でも、センパイは――


「そういう亢夜サンこそ!」


 ――西五辻閃は、尾焼津亢夜を信じている。あんなに糞真面目な上官が。糞生意気な新入りを信頼してくれているセンパイが、この罪人のことも信じている。「罪人」とはっきり呼んでおきながら、なお。


「同期なんスよね?いい親友なんスねぇ。眩しい友情、羨ましいっス!」

「ここ二十年ガッタガタで全然口も利かなかったけどな」

「二十年ガッタガタになっても修正効いてんなら大した友情っスよ!」

「修正っつーか……まぁ、いい。とっとと本題に入るぜ。あんま時間ねぇかもしれねぇからな」


 時間がないとはどういう意味か。ここで罪人と不法侵入者が密談したとしても、この洞窟牢の管理者が閃である限り、誰かに目撃される心配はない。然らば、これから唆される内容に係るのだろう。時間切れになる前に、太は早く何をすべきなのだろうか。


「訊くのはもうこれっきりだ。即答しろ。お前は楠山沙生の絶対の敵か、絶対の味方か?」


 答えは十年前からとっくに決まっている。それに、先輩が信じている相手ならば、信じても良いのだと思う。決してゆるせはしないけれど、ゆるさない事と信じる事は両立不可能ではないのだと、さっき背中で教えてもらった。


――――――


 ――今なら。

 深夜の十番隊執務室。一心はソファに横たえてやった沙生に覆い被さったまま顔を近付けていく。周りには誰もいないし、彼女はよく眠っている。今ならば。今なら――


「どうもこんばんはーっス」

「 !? 」


 バッ!と飛び上がった。凄まじい反応速度。一心は咄嗟に垂直飛びをした。突然の何かに驚いた猫が爆発的な瞬発力で白筋はっきんに信号を送りその場でニ゛ャ゛ッと垂直にジャンプするのと同じ動きだった。そしてこのとき、飛ぶ寸前の一心の鼻び尖せんには謎の鎌鼬かまいたちが掠ったようだった。気のせいかもしれないが、鼻先がちょっぴりヒリヒリする。でもそんなのは後回しだ、それよりも今は!


「おっ、まっ……!? みっ……み……!……見……?」

「三師みもろ太てんとっス。合同遠征の帰りに顔は合わせましたけどね。名前、出てこなかったスか?」


 ちがう、そうじゃない。と一心は思ったが、口から心臓が飛び出るかとも思ったので、ツッコむよりもまず呼吸を整えることを優先した。太は出入口のそば、廊下ではなく執務室内に立って控えめに笑っている。戸締まりはしていたはずなのに物音一つしなかった。


「安心してくださいよ、誰にも言ったりしませんて」

「違う誤解!マージーで誤解……!」

「あっはは、してないっスよ誤解なんて。気になっちゃっただけっスもんね?分かってますって」


 太は腕組みを解いて自らの目玉を指差した。「へっ」と呆気に取られる一心をよそに、太はその右手人差し指を今度は口元に持っていった。立てて、笑う。「お静かに」ということらしい。一心はごくりと息を呑む。


「……ナニお前、どゆこと……?」

「この際っスから、志波隊長には訊かれりゃ教えてやりぁしょう。何でも、ってすっとオレも色々困るんで、可能な範囲に限るっスけど」

「何をどこまで知ってんのか分かんなくてコワーイ……え、どうしよ。俺お前にナニ訊けばいい?」

「んじゃ、じっくり考えといてくださいね。質疑応答はひとまず一緒に一山超えてからっス」

「ひとやま……って?」


 太はビシッと一心を指差すと、親指だけ立てた握り拳に切り替えながら、己の胸を一つトンと叩いて囁いた。


「今からオレと志波隊長とで、“ちょっとした捕り物”といきゃあしょう」


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