蒲鉾勉強七日間

死ぬれば死神
かまぼこべんきょうなのかかん

 めでたく今日で綜合救護詰所から退院する。ここでの最後の朝食をいただきながら、一週間の入院生活を振り返る。
 あの翌日には小椿仙太郎さんがこの病室を訪れ、「副隊長の頼み通り親父に言っといたから入隊試験は問題なく受けられるぞ、頑張れよ」と告げられた。問題なく受けられるんだそうです。胃が痛い。その後も沢子を筆頭に十三番隊の面々は頻繁に見舞いに来てくれて、それに面白半分で付いてくる初対面の隊士たちと知り合ったりもした。
 御厨さんが持ってきてくれた鬼道の本はしっかり読み込んで理屈は頭に叩き込んだけれど、実践となればまた違ってくる。昨日なんて、つい出来心で掌に霊力を集める練習をしていたら相変わらず固められず、ノックもなしに入って来た山田副隊長に縛道の四『這縄はいなわ』でベッドに縛り付けられてしまった。「御厨が治したんだから傷が開くこともないだろうけど、卯ノ花隊長に見つかったらこんなんじゃ済まないよ」とあまり抑揚も付けずに言いながら浮かべていた悪い笑みは、思い出すだけで冷や汗ものだ。彼にはこの先も逆らわないでおこうと思った次第である。

 ……せっかく美味しいご飯を食べているときに思い出すことでもなかった。空になった茶碗を置いて「ごちそうさまでした」と手を合わせると、ちょうど戸が叩かれ、御厨さんがやって来た。


「失礼します。あ、お食事は終わりましたね」

「ごちそうさまでした。入院は退屈ですけど、ここでの美味しいご飯も最後かと思うと名残惜しいです」

「そんなに気に入っていただけたなら、四番隊に入隊すれば毎日食べられますよ?」

「まさか御厨さんまで勧誘かけてくるとは……四番隊がいちばん無理ですよ、私は回道も鬼道も苦手なんですから」

「あら残念です、振られてしまいましたか。それはさて置き……沙生さん、退院おめでとうございます。少し休んだらご準備なさってください。玄関まで一緒に参りましょう」


 御厨さんは手際よくお膳を下げ、廊下に置いてある台車に片付ける。私は患者服から入院前に着ていた服に着替えて、斬魄刀も忘れずに腰に差した。荷物は地図の写しと筆記用具に笠、それと空の小瓶が入った風呂敷だけだ。この詰所を出たら、まずは四番区図書館という所に本を返して、入隊試験日までの一週間は真央霊術院周りにでも宿を借りてみるか……そう考えていたのだが。


「本は私が返しておきますよ。貸し出し票も私の名前になっていますから。それから、沙生さんにはお迎えがいらっしゃっています」

「……へ?」


 にこにことしたまま歩き出し、御厨さんは教えてくれる気がないようだ。お迎えだなんて誰とも約束していないし、心当たりは全くない。うんうん頭を捻って唸っても皆目見当つかず、そのまま玄関まで辿り着いてしまった。


「では沙生さん、またいつか。怪我でではなく……死神になれたら是非、顔を出してください」

「はい。大変お世話になりました」

「お迎えなら外に出てすぐの所にいらっしゃるはずですよ。さようなら、お元気で」

「さようなら、ありがとうございました!」


 挨拶を交わし、仕事に戻っていく御厨さんに向かって一礼した。さて、迎えとは誰だろうか。詰所から一歩踏み出して外に出ると、横の塀に沿って設置されている長椅子のひとつに、見覚えはあっても初対面の人が腰掛けていた。でもまさかあの人ではないだろう。会釈をして通り過ぎようとしたのだが、私に気付いたその人はさっと立ち上がり、こちらに歩み寄って来るではないか。


「やあ!楠山沙生さん、退院おめでとう」

「あ、ありがとうございます、えと……浮竹隊長」


 眩しいくらいの笑顔を向けて声を掛けてきたのは、なんと十三番隊隊長の浮竹十四郎だ。十三番隊とは何かと縁があるなとは思っていたが、今度はどうしてまた隊長殿が。私なんかに何のご用だろうか。


「海燕が君を迎えに行く予定だったんだが、彼には仕事が入ってしまってね。今日は天気が良いし調子も良いから、代わりに俺が来たんだ」

「そうなんですか……え、いや、そもそもどうして迎えなんて……?」

「部下たちから、君が入隊試験を受けるまでの七日間、隊舎の一室を貸してやってくれないかと頼まれたんだ。実技指導だ勉強だって、みんな張り切っているよ」

「えぇ……!?」


 初耳である。副隊長の代わりに来たのが部下ではなく隊長であることにも驚きだが、彼らが私のためにそんな風に動いてくれていたなんて。試験についてはやはり不安しかないのだが、思いがけない善意が嬉しくて、少しだけ顔が赤くなっているかもしれない。


「ここから十三番隊は少し遠い。話しながら散歩でもしたいところだけど……君は病み上がりだし、瞬歩でぱぱっと行ってしまおうか!という訳で、失礼するよ」

「浮竹隊長?へっ、ちょっと待」


 ひょい、からのびゅん、そしてすとん。あっという間に十三番隊舎前。流石は隊長、意味が分からない速さだ。私の覚えたての瞬歩とは比べることさえ僣越である。門の前には沢子と見坊さんが待ち構えていて、私と浮竹隊長に気が付くと手を振って駆け寄ってきてくれた。


「沙生さんいらっしゃ〜い!隊長もおかえりなさい!」

「退院おめでとうございます。お元気そうで何よりです」

「南舘、見坊、後は頼んでいいかい?俺は久しぶりに調子が良いからちょっと仕事してくるよ。じゃあ沙生、部屋とか稽古場とか遠慮なく使っていいからな!頑張れよ!」

「は、はい!ありがとうございます」


 そう返事をすると、浮竹隊長は私の頭をぽんと一撫でしてから颯爽と去っていった。今まで読んできた瀞霊廷通信の情報から『温厚篤実で他隊の隊士からも慕われるような隊長』だということは知っていたが、本当にそんな人だなぁと実感した。


「部屋までご案内しましょう。付いて来てください」

「退院したばっかりですし、今日は安静に部屋で過去問でもやりましょうね!」


 二人の後に続いて隊舎内を歩く。話は通っているようで、すれ違う隊士たちは気軽に挨拶をしてくれた。途中で食堂と浴場にも案内され、利用できる時間も教わる。渡り廊下に進むと、その両側には美しく落ち着いた庭園が広がっていた。松や椿や金木犀などの木がぽつりぽつりと立ち、鯉が泳ぐ池からは小川が伸び、風流な赤い橋に石灯籠まである。ここまで見事な庭園を見たのは初めてかもしれない。目を奪われつつそこも通り過ぎ、辿り着いたのは隊舎の中では端の方にある和室だ。やや広めで、入口の反対側にある縁側からはさっきとはまた別の庭を望むことができる。


「もっと狭くても十分ありがたいのに……本当にこんな素敵なお部屋、借りていいんですか?」

「空いてたから良いんです!」

「庭を囲むそこの塀の戸を開ければ鬼道の練習場もすぐです。便利でしょう?」

「ここまでしていただいちゃったら、頑張らない訳にはいきませんね……」


 文机を借りて、沢子が持ってきてくれた筆記の過去問の山をとにかく解きまくる。霊術院の入学試験対策に鯉伏の家で覚えてきた内容は、どうやら院生になってから学ぶはずだったものも多かったらしく、そう苦労はしなかった。中には「王族特務について」や「各級の厳令が発令される場合とは」といった分からない問題もあったが、見坊さんが詳しく解説してくれたのでちゃんと頭に入ったと思う。ずっと部屋で勉強していると、気を利かせてくれた隊士が昼食にとおにぎりとお茶を持ってきてくれたので、ありがたくいただいた。
 午後もずっと机に向かい、気付けば夕食の時間になっていた。沢子と見坊さんと一緒に食堂に行き、お膳を受け取って並んで席に着く。鮭の西京漬け焼きをほぐしていると、仕事を終えたらしい海燕さんが私の向かいにどっかりと座った。


「よう、やってるか楠山!」

「海燕さんこんばんは。二人に付きっ切りで勉強みてもらいましたよ」

「そうか。明後日は俺も予定が空いたから、その日は鬼道の実践やるぞ」

「はっ、はい!……大丈夫かな」

「おぉう、一気に落ち込んだな。そんなに自信ないのか?ま、明日はまた筆記やっとけよ」

「了解です」


 食事中の会話でも、見坊さんに今日やった問題を出してもらい復習をする。沢子と海燕さんは「そんなこと覚えさせられたっけな」と懐かしそうにしながら雪菜の味噌汁をすすっていた。
 食後は皆とは別れ、一人で部屋に戻りまた机に向き合うのだった。

 二日目。
 前日の続きで只管ひたすらに過去問を解き、解説を読み、暗記すべき部分はそらんじられるように音読を繰り返す。救護専門でなくとも求められる応急処置の知識についての項目に差し掛かったところで、なんだか肩が凝ってきた。ぐっと腕を上に伸ばしたり首を左右にゆっくりと傾けたりしていると、障子の向こうから声が掛けられた。


「あのぅ……楠山さん?いらっしゃいますか?開けても大丈夫でしょうか」

「? はい、どうぞ」

「では、失礼します……」


 膝をつきしとやかな所作で入って来たのは、灰色に近い薄紫の短髪に太めの眉をした、とても背が高い女性だった。おどおどとした様子で、持っているお盆にはお茶とお団子が二つずつのせられている。後ろには重たそうな風呂敷包みも置かれていた。


「私、四番隊の虎徹勇音と申します。御厨さんから貴方に参考書を預かってきました。それから、お菓子は妹の清音からです。自分で行くつもりだったらしいんですけど、ちょっと忙しくなっちゃったみたいで……」

「初めまして、楠山沙生です。勇音さん、ありがとうございます」


 机の上に散らかっていた筆記具や本を片付けて、お盆を置いてもらった。彼女はまだおどおどとしていて、目が右に左に泳いでいる。妹の清音さんについてはここの隊士から話を聞いたことはあるが、まだ本人とは話したことがない。お喋り好きで元気な人らしいから、休憩がてら私とお団子を食べてお喋りするつもりだったに違いない。ところが急に行けなくなって、そこにお姉さんがやって来たから「代わり行って食べてきて良いよ」……とか、大体そんなところだろう。


「勇音さん、私いま応急処置の項目を勉強していたんです。良かったら、お団子食べながらちょっと教えてもらえませんか?」

「そうなんですか?だ、だったら私でも、お力になれると思います……!」


 さっきまでとは打って変わって、表情が明るくなった。私は正しい選択肢を選べたようだ。
 勇音さんの説明は、見坊さんと同じくらい分かりやすくて丁寧だった。人工呼吸と心臓マッサージの施し方や、医療器具を持っていなくても可能な限り流血を防ぐ方法に、包帯の巻き方、そして動かさない方が良い場合の怪我人の状態とは……等々。医療について話す彼女はとてもはきはきとしていて、やはり四番隊はいざというときに頼りになりそうな人たちばかりだな、と尊敬の念を抱く。そんな過程を経て、勇音さんとはだいぶ打ち解けることができた。しかし、「お団子を食べながらといっても勉強ばかりであまり休憩にならなかったのでは」と申し訳なさそうに言われたので、今度は縁側に座ってお茶を飲みながら勉強以外の話をする。


「それで、あんまり驚いたから『うりぼう!?』って言いながら斬っちゃって……」

「ふっ、ふふ、沙生さんたら可笑しい。あ、でも私も似た感じのこと口走ってしまったことがあるんですよ。数回やらかしてるんですけど……私、かまぼこが大嫌いで、かまぼこの悪夢を見ると『かまぼこ!?』って言って飛び起きちゃうんです。こないだは卯ノ花隊長にも聞かれちゃって、恥ずかしかったなぁ……」

「『かまぼこ』の悪夢ってどんなです?何だかもう字面だけで面白いですよ」

「『うりぼう』で虚を倒しちゃう沙生さんもだいぶ愉快ですよ」

「ぷっ、くく」
「ふ、あはは」

「……姉さんたち、それいったい何の話してるの?」

「あっ、清音!」
「清音さん?」


 振り返ると、左手に湯呑、右手に急須を持った清音さんがいた。話の内容がてんで読めなかったようで不思議そうな顔をしていたが、「まあいっか」と流してお茶のおかわりを注いでくれた。


「沙生さん初めまして!妹の清音です!それにしても、姉さんが私以外の人と話し込むなんて珍しい」

「こちらこそ初めまして。お茶とお団子、ありがとうございます」

「うん……そうかも。沙生さんて、何だかお話しやすくて」

「何の話をしてたんだか知らないけど、かまぼこって言えば今の沙生さんがまさにそうよね」

「え?どうして?全然かまぼこっぽくないよ清音」

「あ、それ知ってますよ。かまぼこって板にくっ付いてるから、机に向かってずっと勉強する人のことも指すんですよね」

「そうそう、それです!姉さんはかまぼこ嫌いだからそういうのも知らないでしょ〜」

「知らなかったけど……何だか悪い意味もなかったっけ?」

「確かありましたね。相撲の隠語だったかな……」


 その後も半刻ほど三人で他愛のないお喋りをして、お仕事に戻る虎徹姉妹に応援の言葉をもらい、再び勉強を再開した。

 三日目。
 鬼道の練習を海燕さんに見てもらう日だ。朝食も海燕さんとご一緒して、そのまま練習場へと向かう。入隊試験の実技で試される鬼道は縛道の一『サイ』、破道の三十一『赤火砲しゃっかほう』であることが多い。それらが完璧にできる鬼道の得意な人はそれ以上の高位の鬼道も試されるらしいが、最低限その二つが出来れば何とかなるそうだ。


「じゃあまずは『塞』からだ。人差し指と中指を立てて、体の真ん中から外側に向かってこう、すっとやる。一番軽い縛道だが、対象の両腕の動きを封じられるから便利だぞ」

「すっと……あの、やっぱり指先に霊力を込めるんでしょうか」

「んー?まあそうだな。つっても、もっと難しいやつと違ってそんなに力まなくていい。お前くらいの霊力がありゃあ言霊にのせるだけで大丈夫じゃないか?ほら、さっそく俺にかけてみろ」


 喜之助と練習した際は、力を飛ばす方向がずれてしまい全くかけられなかったり、やわやわとかけられても数秒で簡単に解ける程度の駄目さだった。鯉伏を出てからは虚にかけたこともなかったし、今の自分がどれくらいできるのか不安である。入院中に読んだ本には『対象の手首に輪にした縄をかけ、それを一気に引き結ぶイメージ』とあった。海燕さんの手首に意識を集中させ、言霊にのせる。


「――縛道の一、『塞』!」

「ぐぉっ、お!何だ、やればできるじゃねぇか!」

「うおぉ!?」

「あ!?どうした仙太郎!」


 広い練習場の端の方を横切っていた仙太郎さんは、持っていた書類を宙にばら撒き、両腕を後ろに拘束されたようにして地面に倒れ込んでいた。あれは『塞』がかけられた恰好だ。


「はぁ?おまっ……え?俺だけじゃなく、あんな向こうにいる仙太郎にもかけちまったのか?」

「あ、はは…海燕さんにだけかけたかったのに……。仙太郎さーん!ごめんなさい!大丈夫ですかー!?」

「お、おう!問題ねぇよ!こっちは気にしないで頑張りな!!」

「却って難しいだろ!どうなってんだよ!?あー、でも試験じゃ何とか誤魔化せるか。いっぺんにかけられるなんて凄い!とか」

「もし戦いで味方も巻き込んだりしたら駄目じゃないですか!……死ぬ前から思ってましたけど、海燕さんてけっこう適当なとこありますよね」

「いいんだよ!次だ次!」


 また本で覚えたことを反芻する。『赤火砲』を撃つには、掌に霊力を集中させなければならない。私はこれが一番苦手で、まだ一度も成功したことがない。コツは『木枯らしの渦が落ち葉を巻き込むかの如く、広い範囲から徐々に一点に集中させて霊力の珠を練る』ことと、『言霊を吐く息は真っ直ぐに、練った珠もそれと同じく真っ直ぐに放つ』ということ。


「手本を見せてやるから、しっかり目に焼き付けろよ。慣れれば、構えはきっちりしなくても撃てるが……基本はこう、だ。右掌を対象に向けて、指は閉じる。腕は真っ直ぐ伸ばす。左手は右肘の内側に触れるように添えるか、右手の甲に重ねてもいい。……いくぞ!破道の三十一『赤火砲』!」


 赤い霊力の塊がぶれもなく珠の形に固められる。海燕さんが言霊を言い終えるのと同時に珠は弾かれるようにして真っ直ぐに飛び、赤い光の残像を連れて向こうの藁的わらまとの中心を綺麗に撃ち抜いた。流石は副隊長、見事な鬼道だ。


「さあやってみろ。あ、当然だけど楠山は詠唱破棄とかするなよ。詠唱は覚えてるんだよな?」

「はい……詠唱だけは…詠唱だけならばっちりですよ……」

「だから急に暗くなんなって……」


 教えてもらった通りの構えを取る。深呼吸をひとつして、目標の藁的を視界から隠すように右掌を翳した。
「君臨者よ!血肉の仮面・万象・羽搏き、ヒトの名を冠す者よ!」
 うねうねと霊力が集まり始める。拳大で、珠とは言い難い不格好な形だ。
「焦熱と争乱、海隔て逆巻き、南へと歩を進めよ!」
 何とか赤い塊が収縮し始めた。海燕さんのものにはかなり劣るが、これまでの自分の出来では一番いいかもしれない。
「破道の三十一『赤火砲』!」
 放たれたいびつな楕円の塊は眼鏡橋のような孤を描いて飛んでいき、藁的より手前で破裂して霧散した。しかも塊を飛ばした後に掌からは水鉄砲みたいに霊力がぶぼっと放出されてキレがよくなかった。何より、何というか


「オイオイ、そんな糞したあとの小便みたいな赤火砲があるかよ。なんか汚ねぇな」

「みなまで言わないでください!」

「溜めてるときの霊圧は高いし、上手くいけば強力なのが撃てそうなんだが……なんでだかなー」

「何か助言をいただけませんか」

「……どんまい」

「そんな最近の言葉使っても駄目ですよ!助言じゃないじゃないですか!」


 結局、何度やってみても改善することはなかった。発射する度に笑い転げる海燕さんを蹴っ飛ばしたい衝動に駆られたけど、どうか責めないでほしい。

 四日目。
 朝から赤火砲の特訓に打ち込む。仕事の合間や休憩の時間を使って、代わる代わる多くの隊士が様子を見に来てくれた。沢子からは「もうちょっと掌から離れたところに珠を作ると良いですよ」と助言をもらい、見坊さんは一言断ってから私の腕を支え、構えを修正してくれた。仙太郎さんは頼むと綺麗なお手本を見せてくれたし、清音さんは昆布茶と羊羹を差し入れしてくれた。
 この日はほぼ一日中、練習場で鬼道を放っていた。霊力の消耗が激しく疲労が凄い。明日は実践は少しだけにしようと考えながら、汗をさっぱり流しに大浴場に向かう。大きな露天風呂に浸かりぼうっと空を見上げていると、もう一人、誰かが湯に浸かった。


「こんばんは、楠山沙生さん」

「こんばんは。あなたは……都さん?」

「ええ、そうです。鬼道の練習は大変でしょう?それに、昨日は夫が酷いことを言ったそうで。頑張っている人にそんなこと言うんじゃないわよって、ちょっとシメといたわ」

「シメ……?でも、海燕さんには感謝していますよ。何だかんだ言いつつ面倒見てくれますし」


 都さんは、海燕さんの妻で十三番隊の第三席だ。長い黒髪が美しく、凛とした雰囲気をもつ女性である。昨日の恨みを込めれば「海燕さんにはもったいない」……と言ってやりたいところだけれど、お似合いの二人だと思う。


「私、貴方にずっと言いたかったことがあるの。……夫を、現世で助けてくれてありがとう。今もああして笑っていられるのは、すべて貴方のおかげだわ」

「都さん……はい。でも、私も助けられました。あのとき十三番隊の人たちが来なかったら、私はあっけなく虚に喰われていたかもしれませんし。死神を目指せって導いてくれたのも、海燕さんです。海燕さんのおかげで、私はこうしてここにいるんですよ」

「そう言ってくれるのね。貴方は寛大で廉直な人。きっと良い死神になれる……私も、応援しているわ」


 優しく笑いかけてくれた都さんは、女の私でも見惚れてしまいそうだった。夜風を頬に感じながら晴れた濃藍こいあいの星空を見上げ、静かな玉響たまゆらの時を共にした。

 五日目。
 午前中は参考書を読んで筆記の復習をし、午後は竹刀を使った訓練に誘われたので稽古場へと足を向けた。隊士たちに混じって、掛け声とともに足を動かし素振りを繰り返す。こういった鍛錬は少し懐かしい。爺様や弟子たちとの道場での稽古を思い出す。短い休憩を挟んだ後は一対一の組み合いが行われた。何人かの隊士に相手をしてもらい、竹刀を弾き飛ばして一本。喉元に突き付けて一本。背に一撃打ち込んで、一本。次々と現役の死神に勝ち道場内がどよめき出すと、他隊の隊舎まで仕事に行っていた海燕さんが帰ってきたようで、竹刀を担いで私の前に立った。


「鬼道はすかしっ屁みてぇなのに、剣の方は流石だな。っへへ、俺、一度オメーとってみたかったんだ」

「すかし……へぇ〜?副隊長殿が相手してくださるんで?」

「光栄だろ。手、抜くなよ」

「そちらこそ、後になって手抜いてたとかって言い訳しないでくださいよ」

「上等だ」

「「お願いします!」」


 竹の剣戟の音が木霊する。鍔迫り合い、圧し合って離れ、突きを躱し、払い上げの軌道を読んでなす。道場内にある目玉がみんな私たちを見ている気がするが、そんなことは気にしていられない。剣を振るっているときは、体の五つと、六つ目に心の感覚も研ぎ澄まされるから好きだ。普段は抑えている己の内がかれてあらわになり、魂が歓喜の声を上げて震える。


「やるなぁ!やっぱこれで一回生とか――ねぇな!」

「それは……、どうも!」


 どれくらい打ち合っていたかはよく分からない。びりびりと手が痺れ、お互いに息も上がってきていた。そろそろケリを付けようかと渾身の一撃を叩きこもうとしたとき、入口の方から声がした。


「おぉ〜〜〜い。もう夕飯の時間とっくに過ぎてるぞ?みんな道場に籠ってなにを……」


 間延びした気の抜ける声に、私も海燕さんも集中力が途切れてがっくりと体勢を崩してしまった。遂には二人して竹刀を放り投げ、込み上げるままに謎の爆笑で腹をひくつかせながらお互いの肩をばしばしと叩く。


「たっ、隊長ー!」
「今すっごくいいところだったのに」
「瞬きも忘れて観てたんですよ!」
「ほら、あれもう笑っちゃってる」
「決着つかないじゃないですか!」
「どうしてくれるんです!」
「あぁ、もっと観てたかったなぁ」

「す……すまん」


 そんな訳で勝負はお預けになってしまったが、やけにすっきりとした気持ちだ。机に向っての勉強と苦手な鬼道の練習で溜まっていた緊張と力みが吹き飛んで、良い気分転換になったのだろう。ぞろぞろと揃って向かった食堂では、この組み合いの話で持ち切りだった。

 六日目。
 午前五時にすっきりと目が覚めた。涼しく気持ちの良い気温で、天を仰げば澄んだ空色が瞳を染め上げる。自分以外には誰もいない練習場の真ん中に立ち、遠くの藁的に右掌を重ね、左手は添える。


「君臨者よ。血肉の仮面・万象・羽搏きヒトの名を冠す者よ。焦熱と争乱、海隔て逆巻き、南へと歩を進めよ――破道の三十一『赤火砲』!」


 丸く赤い珠は、ちょうど中央をキューで突かれたボールのようにトンと正面に進む。狙い通りに目標の藁的を穿ち、虚の胸の穴みたいな綺麗な円が空いた。できた。ようやっとお手本みたいな赤火砲が撃てたのだ。


「や……やった!」

「――お見事。今の赤火砲を試験でも発揮できれば、鬼道の実技は問題ないでしょう」

「見坊さん!おはようございます」

「はい。おはようございます」


 少し離れた背後にいつの間にか見坊さんがいて、ぱちぱちと拍手している。普段から穏やかな表情……というか糸目の見坊さんだけれど、今はいつも以上に優しい眼差しな気がする。


「皆さんが起きて来る前にもう一度やってみましょう。今の時間帯は集中して何かするには最適の時間です。さあ、さっきの感覚を忘れない内に」

「はい!」


 朝食の時間になるまで、見坊さんはかたわらに立って指導してくれた。簡潔で的確な彼の助言は、しっくりと脳内に記憶されていく。見坊謙知。やはり彼は、名が体を表していると思った。おかげで、私はまぐれの一発ではない赤火砲を習得することができた。

 七日目。
 十三番隊舎居候もとうとう最終日だ。今日寝て明日起きれば、私は護廷十三隊入隊試験を受けに行く。試験前にあまり疲れてしまっては仕方がないので、実践訓練はほどほどに、縁側に座り足をぶらつかせながら参考書を読む。勇音さんが持ってきてくれた御厨さんからの贈り物であるこの本は、これまで学んできた事柄の要点がうまくまとめられている。これを暗記してしまえば筆記はばっちりだろう。してしまえばね。
 三食とも食堂でゆったりといただいて、会う人みんなから「明日の試験がんばってね」や「十三番隊をよろしく」と声を掛けられた。前者はともかく後者は受かる前提みたいで、少しばかり精神的重圧を感じないでもない。この七日で隊風は十分に体感したから、できればそうなったら嬉しいな、とは思うのだが。

 夜の十一時。何という種類かは分からないが「あまり認知度の高い虫ではない」ということは分かる虫が、綺麗で聞いたこともない声で鳴いている。そろそろ寝ないと明日に響いてしまう。脳はもう休めることにして復習は一時間前には止めたのだが、なかなか寝付けないのだ。子どもか、と自分で自分を鼻で笑うと、草を踏む静かな足音が近付いてきた。しかしまるで、私を驚かせないように態と音を立てているかのようだった。


「眠れないのかい?」

「……浮竹隊長……?」


 足音で誰かまでは分からなかったので、僅かに動揺した。二度目の予想外である。浮竹隊長は、廊下ではなく庭を通って来た。夜中の散歩でも楽しんでいたのだろうか。


「少しの間だけ。隣、いいかな」

「……はい。どうぞ」


 私の隣にゆっくりと腰を下ろした浮竹隊長は、暫く星々をじっと眺めてから、口を開いた。


「ここでの七日は大変だったろう。部下はみんな、一日の仕事の報告と一緒に君のことも教えてくれたんだ。とても頑張っていたんだってね」

「六年間学んでから受けるはずの試験をたったの七日で、ですからね。鯉伏でも何年か独学で勉強はしていましたが。でも、皆さん良くしてくれて……ありがたかったですし、楽しかったです」

「……そうか」


 そうして、また虫の声だけが空気を震わす沈黙。しかし気まずさは一片もない。この夜の穏やかさと、浮竹隊長の雰囲気がそうさせるのだと思う。


「……君は、命を張って誰かを護れる。自己の危険を顧みず誰かの危機を救って、それを誇示しない。だが、戦うときは少し――楽しそうに笑う。俺の友人にも、そんな人がいたんだ」

「……いた、のですか」

「ああ。いたんだ。……沙生。君は、その友人みたいになってはいけないよ」

「…………?」

「いた、なんて言わせないでくれよってことさ」


 星を見上げていた視線を今度は私に向けてそう呟く。笑っているのに、どこか哀愁が漂っていた。


「……分かりました。善処します」

「それ、はぐらかすときに使う言葉だろう?駄目だよ。約束してくれないとな」

「無責任にしたくないだけなんですけど……んんー……」


 浮竹隊長は、小指だけを立たせた右の手を差し出してきた。指切りしろ、ということか。なんともまあ、子どもじみた約束の仕方であるのに、有無を言わせないという内心は汚い大人のようだ。


「……負けました。約束します」

「ああ、ありがとう」


 どうして私は隊長と指切りなんてしているのだろう。何だか雰囲気に流されてしまっているような気がする。


「さあ、明日になる前に休みなさい。寝不足は試験の大敵だよ」

「はい……浮竹隊長、おやすみなさい」

「ああ。おやすみ、沙生」


 何かしら問い詰めてみた方が良いのではないかとも思ったけれど、この夜の冷たさと、浮竹隊長の後ろ姿が、それはまだ許さないと告げていた。


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