三方宿儺



 むかしむかし、日ノ本のとある国の山奥に、三方宿儺さんぽうすくなと呼び伝えられる者がおりました。

 三方宿儺は、身の丈が七尺、腕は六本、脚は二本、瞳の色は薄い緑色、そして両の目の他にもう一つ、額にも目がありました。その姿から、人々からはひどく恐れられ、麓の里では「古くから山奥に住んでいる人喰い鬼だ」と語り継がれていました。里の大人たちは、言うことをきかない子がいると、よく、「お前を山へ置いていって、三方宿儺に喰わせるぞ」と言ってきかせました。

 ある年のことです。雨は降らず、川は乾上り、獣はやせ細りました。とうとう前の年の蓄えも底をつき、里の人たちは十分に食べる物がなくなり、困り果ててしまいました。
 口減らしのために、幼子や年寄りが次々に山奥に捨てられました。彼らの多くは森を彷徨い、空腹に倒れ、寒さに凍え、心細い闇の中で命を落としてゆきました。

 三方宿儺は、まいにち、住処の山を散歩します。

 木陰に、干からびた草を食む老爺がおりました。宿儺が声を掛けると、振り向いた老爺は目を見開き、すぐさま手近にあった木の枝で自らの喉を掻き切りました。血がたくさん出て、死にました。

 丘の上に、かすれた声で歌を歌う女の子がいました。宿儺が同じ歌を歌うと、気づいた女の子は金切り声をあげて走り、その先にあった急な土手から転げ落ちてしまいました。首の骨が折れて、死にました。

 川であったところに、泥を啜る老婆がいました。宿儺が肩をたたくと、顔を上げた老婆は宿儺に向かって泥の混じった唾を吐きかけ、逃げようとしましたが、足がもつれて倒れました。岩に頭をぶつけて、死にました。

 見晴らしの良い崖の上に、座禅を組んでいる男の子がいました。宿儺は歩み寄ろうとしましたが、やめました。しかし、男の子の上半身がふらついて崖から落ちそうになったので、走ってそばに行き、支えてやりました。


「ありがとうございます、親切な方。でも、僕はもう長くありません。放っておいてくださって良いのです」


 男の子は、落ち着いた声で言いました。恐がる素振りもありません。宿儺は不思議に思って、男の子の顔を覗き込みました。男の子の瞳は色が薄く、白く濁り、くすんでいました。


は、目が見えておらぬのか」

「いいえ、少しなら見えます。でも、薄暗くぼやけて、あなたのお顔はよく分かりません」

「そうか。ならば、が何者かも、よく分かっておらぬのだろう」

「それも、いいえ。三方宿儺は、黄金色の髪をもつと聞いたことがあります。いま、僕の目には、秋の稲穂のような黄金色が靡いて見えています」


 宿儺は、わけが分かりませんでした。これまでただの一度も、自分のことを恐がらない人間に会ったことがなかったからです。


「吾のことを知っていながら、何故恐れぬ」

「僕は、三方宿儺のお話を聞いたことはありましたが、会ったことはありませんでした。今こうして会ったあなたは、僕を助けてくれました。あなたは親切な方です」

「他者の言に惑わされぬとは、大した子だ。しかし、喰うために助けたとは考えぬのか」

「何を言います。あなたは、人を喰ったことなどないのでしょう。人喰い鬼が、人のためにお墓をたてるものですか」


 男の子は、少し怒ったような声で言いました。宿儺は驚いて、また男の子の顔を覗き込みました。男の子の目には、涙があふれていました。


「何故だ。何故、其が泣く」


 宿儺は、震えた声で言いました。そして、自分の声を聞いて初めて、自分も泣いていることに気が付きました。
 そのとき、天気雨が降りだしました。雨は、男の子と宿儺の涙に寄り添うように降りしきり、渇き切っていた世界を潤します。この崖に来るまでの坂道に並んでいる、幾つものお墓の石は、濡れて色濃くなってゆくのでした。

 それから何年かの時が経ちました。
 男の子は宿儺に拾われて一緒に暮らし、元気な青年に成長していました。


「宿儺、今日は良い魚が釣れたましたよ。夕飯はそれがしが作りましょう」

「ああ。ところで其よ、その“某”というのは何か。少し前まで“僕”と言っていたろう」

「読み書きを教わる中で、『己のことをいう言葉の一つだ』と言ったのはあなたではありませんか。それに、某はあなたに“”と呼びかけられるのが気に入っているので、“それがし”というのはどうもしっくりくるのです」


 青年は、はにかんで言いました。宿儺は「某とは其よりもっと歳のいった男が使うものだ」と教えてやろうかとも思いましたが、青年があまりに嬉しそうだったので、好きにさせておくことにしました。

 またある日、宿儺は青年にこう言いました。


「其よ、里へおりるつもりはないのか。其の目は盲いているが、誰よりも広くものを見ている。その才、山奥に眠らせておくには惜しかろう」

「某に才があるならば、それはあなたの教えの賜物です。それに、他に行くあてなどありません。どうか、まだ多くのことを教えてください。まだ此処にいさせてください」

「そうか。ならば、まだいると良い。今日は歌を教えよう」


 そんな風に穏やかに暮らしていると、ある夏の暮れの日、ずっと西の国から行脚してきたという老僧が、二人の元を訪れました。


「これは驚いた。三方宿儺は、人間と暮らしているのか」

「自ら吾を訪ねてくるとは、数奇な僧め。何用か」

「拙僧は麓の里の者たちから『人喰い鬼の三方宿儺を祓ってくれ』と頼まれ申した。しかし此処まで来てみれば、いやはや、とてもそのようには思えぬ」


 老僧は、宿儺に突き付けていた錫杖をすぐに引きました。そして、隣にいる青年をじっくり見つめた後、問いました。


「そこな青年。おぬしの目に、三方宿儺はどう映る」

「はい。宿儺は、飢えて野垂れ死ぬはずだった某を拾い何年も育ててくれた、とても親切な方です。宿儺のことをよく知らない人々は、見目だけでものを見、恐れています。しかしこの通り、宿儺は決して人喰い鬼などではありません」


 青年は誇らしそうに言いました。老僧はゆっくりと頷き、納得してくれたようでした。もう陽が沈んできていたので、老僧は一晩泊まっていくことになりました。
 翌朝、青年が目を覚ますと、宿儺の姿が見当たりませんでした。青年が老僧に「宿儺は何処か」と尋ねると、老僧はこう言いました。


「昨晩おぬしが床に就いてからのことだ。三方宿儺は、拙僧におぬしのことを託された。もし、おぬしが共に行かぬと言うのなら、拙僧も無理強いはせぬ」


 老僧は青年に一枚の紙を手渡しました。宿儺からの手紙かと思って開いてみると、そこには大きな字で『謙知』とだけ書かれていました。


「これまで名もなかったそうではないか。それは三方宿儺からの贈りものだ。良い、実に良き名を貰ったな」

「はい。私は今より謙知と名乗りましょう。そして、貴方様について山を出ます。貴方様は、何と仰るのですか」

「拙僧は見坊法師と呼ばれている。では謙知、支度をなさい」


 謙知は、宿儺と共に長年暮らしたこの場所に別れを告げました。見坊法師と共に坂を下りていると、天気雨が降りだしました。麓で山を振り返ってみると、高いところにあるあの崖に、秋の稲穂のような黄金色が靡いて見えた気がしました。

 二人は西の国に行く途中の先々で、東の国の山に住む心優しい三方宿儺の話をしました。既に恐ろしい人喰い鬼として知れ渡っていたため、大人たちは鼻で笑ってまともに聞いてくれませんでしたが、子どもたちはそんな親の顔色を窺いつつ、心に留めてくれたようでした。
 西の国に着いてからは、謙知は見坊法師の元で様々な教えを受け、知識を深め、見聞を広めました。正式に仏門に名を連ねることはありませんでしたが、多くの人々から慕われ、かけがえのない友も得ました。

 ある年、海の向こうから異人の賊たちが日ノ本に渡ってきました。海沿いの町々は荒らされ、争いが起き、ひどい有様だといいます。風に乗って聞こえてくるその噂に、謙知も心を痛めていました。そしてある日、謙知の友であり、皆からは長元坊ちょうげんぼうと呼ばれる男が、慌てた様子で謙知を訪ねてきました。


「大変だ。其方の故郷だという東の国の山に、敗走した賊が隠れていたらしい。麓の里が襲われて、戦乱の渦中になってしまっているそうだ」


 その報せを聞いた謙知は、すぐに故郷に向けて発つ支度を始めました。行っても、着く頃には争いは終わっているかもしれません。できることなど、ないかもしれません。それでも、居ても立ってもいられなかったのです。
 長元坊は、そんな謙知を見て、憐れむようにこう言いました。


「賊は大柄な異人で、都の兵士でも束になって掛からねば勝てぬ相手と聞く。そのような者共が暴れ、戦いになっているならば、故郷といえども鬼の住むところと変わりがない。それでも、其方は行くのか」

「心配痛み入る。しかし今、我が身ばかりを案じて二の足を踏めば、きっと、後の某は己を恥じることだろう」


 寝る間も惜しみ、急いで辿り着いた故郷は、変わり果てた姿になっていました。地は赤く塗れ、無惨に切り裂かれた人がそこらじゅうに転がっていました。女も、赤子も、賊の異人も、都の兵士も、たくさん死んでいました。家々は焼け落ち、辺りの木々は今も目の前で燃え盛っています。
 謙知が立ち尽くしていると、崩れた家の陰から何か物音がしました。裏手に回ってみると、柱の下敷きになって身動きの取れない女の子がいました。


「しっかりしなさい。今、柱をどかします」


 ささくれた材木が体のあちこちを掻き、飛んできた火の粉で火傷も負いましたが、何とかして女の子を助け出すことができました。女の子の脚は折れていましたが、しっかりと視線を返し、息もしています。


「火の手から離れなければ。某が抱えて運びます。痛むでしょうが、辛抱しなさい」

「わぁ、う、うしろ」


 女の子が声を上げたので、振り向くと、異人の賊がまさに鉈を振りかぶっているところでした。謙知は、持っていた杖で受けようとしましたが、その前に、大きな人影が割り入ってきました。
 賊よりも大きなその人影は、何処かの家の大黒柱を、六本の腕で勢いよく振り回し、瞬く間に賊を倒しました。


「あなたは、」

「三方宿儺……助けに、来てくれた」


 謙知が言う前に、女の子が嬉しそうに言いました。


「ああ。向こうの洞窟に、他の子らもいる」

「よかった……お兄さんも、どうもありがとう」


 女の子がお礼を言っていると、宿儺が指差した方向から、何人もの子らが駆け寄ってきました。


「宿儺!」
「あの子は、大丈夫だった?」
「見て!生きてる、あの子も大丈夫!」
「でも、痛そう」
「宿儺の怪我も、手当てしなくちゃ」
「早く洞窟に戻ろう」

「危ないから出てくるなと言ったろう。まだ武器を持った輩がおるかもしれぬ。だが、来てしまったものは仕方ない。皆、吾から離れるな」


 宿儺は子らにそう言い聞かせてから、やっと、謙知と向き合いました。


「其よ。こんな時に帰って来ずとも、良いものを」

「某にも手伝わせてください。見るに、あなたも酷い怪我だ」


 宿儺は懐かしそうな顔をして、一歩、謙知に歩み寄りました。
 そのとき、謙知の頭のすぐ上で、風を切る音がしました。
 次の瞬間に謙知の目に映ったのは、辺りに赤い血を撒いて倒れゆく宿儺の姿でした。


「宿儺!嗚呼、なんてことだ。しっかりしてください。目を、」


 謙知は倒れた宿儺の体を起こし、近くで宿儺の顔を見ました。宿儺の額にある目には、深く深く、鋭い矢が突き刺さっていました。その目玉はみるみるうちに赤く染まり、血の涙を流しています。


「きゃあああ!」
「宿儺、宿儺が!」
「ええん、うわぁん」
「いやだ、いやだよぅ」
「死なないで、置いていかないで」
「誰が、こんなこと!」


 矢が飛んできた方を見てみると、そこの丘の上に、一人の男が呆然として立っていました。


「ち、違う。私は……そんな、そんなつもりでは」


 それは、謙知に報せを持ってきてくれた長元坊でした。目が悪いのに、無理を押して争いの渦中へ飛び込もうとしていた謙知を心配して、後をつけてきていたのです。
 宿儺を射たその矢は、守る為の善意で放たれたものでした。


「其よ。そこに、いるのか」

「はい、某はここにおります」


 宿儺には、まだ辛うじて息がありました。六つの手を伸ばし、謙知の頬にそっと触れました。


「嗚呼、立派になった。逞しくなった。其は良い男になったな」

「はい、某は立派になりました。逞しくなりました。その様を、あなたにはもっと長く見ていただきたい。ですから、どうかお願いです。まだ逝かないでください」

「泣くな、其よ。うつるであろう。額の目は既に血で見えぬ。そのうえ両の目に涙が浮かべば、吾には其が見えなくなってしまう」


 間もなく、宿儺の両の目に、涙が滲み始めました。


「それ見よ。嗚呼、涙とは分かりえぬもの。初めて其に会ったとき、何故其が泣いていたか……其を僧に託したとき、漸く分かった気でおったのに」

「それはどういう意味です。今、あなたは、悲しく辛いのではありませんか」

「今はそれらより、喜びが勝る。其の成長が喜ばしい。嘗て向けられもしなかった、子らの澄んだ眼差しが喜ばしい。あげく、其の腕の中で最期を迎えうるならば、これ以上に喜ばしいことはない」


 謙知と宿儺の涙は、目からあふれて零れ落ち、地の一点に染みて混じりました。その後に続くようにして、天気雨が降りだしました。家々や山林を焼いて燃え盛っていた炎が、鎮まっていきます。


「直に吾の命は尽きる。涙は止まらず、其を見ることも叶わぬ。ならばいっそ、この両の目は其にやろう」


 宿儺はそう言うと、薄い緑色の瞳がのぞく両の目を閉じ、謙知の両の目を覆うように掌をかざしました。すると、不思議なことに、二人をあたたかな光が包み込みました。暫くして宿儺が掌を離すと、光は少しずつ消えていきました。そうして次に謙知が瞼を開いたとき、いつもは薄暗くぼやけていた世界が、はっきりと色鮮やかに見えるようになっていました。


「吾が三方宿儺と呼ばれる由縁を教えよう。吾の目は、三界を見渡せる目であった。現世うつしよ尸魂界しこんがい虚圏うろがこい。吾は地球ほしの意思によって生まれ、三界を輪廻する人の子の営みの見守みもりであったのだ。だが、安心すると良い。吾から離れ其の物となった目に、それらの力が顕れることはないだろう」

「あなたが人と異なる命であるということは、分かっていました。しかし、見守というなら、永くその任を果たさなくて良いのですか。こうも儚く、某をおいて逝くのですか」

「もう、とくと見たと言わせておくれ。終わりに善き人の子と出会えて、幸福であったよ……謙知……」


 宿儺は、自らが贈ったその名を、慈しみを込めた優しい声で呼びました。そして穏やかに、満足したように微笑みながら、眠るように逝きました。

 それから数ヶ月が経ちました。

 謙知は、僅かに生き残っていた里の人々と共に、焼けた故郷を元の姿に戻そうと奔走していました。宿儺を射てしまった、あの長元坊も一緒です。悲しい思い違いだったとはいえ、せめてもの罪を償おうと、ここで人々のために尽くすと決めたのでした。
 やがて、謙知と長元坊は、西の国にいたときに世話になっていた寺に似た家を造りました。そして、親を亡くした子らと共に暮らし、読み書きや算盤も教えるようになりました。

 暮らしがやっと落ち着いてきたある春の日、謙知と長元坊は、宿儺の墓参りに行きました。その墓は、かつて宿儺と謙知が共に暮らしていた山奥の森の中に、ひっそりと建てられています。その場所で、二人は不思議な光景を目にしました。


「おや、あんな所から木が生えてきている。なんの木だろうか」

「あれはくすのきだろう。西ではよく見かけるが、こちらでは珍しい」


 宿儺の墓の真後ろに、前に来たときにはなかった楠の若木がありました。方々に枝を伸ばし、青々とした葉をつけています。
 てっぺんの枝には、二羽の鳥が留まっていました。一羽は、二人の気配に気付くとすぐに飛び立っていきました。真っ白な羽根がひとつ、ひらりと舞い落ちました。もう一羽は、そこの枝から滑空し、長元坊の頭の上に留まりました。隼に似ていますが、少し小柄です。


「ずいぶんと人懐こい鳥だな。長元の頭の形が気に入ったのだろうか」

「いて、いてて。坊主にはちときついものがあるぞ」


 鳥は、嘴でこつんと長元坊の頭をつつきました。


『悪意はなかったにしろ、お前のしたことは神殺し。人の身でその咎を受けるのも辛かろう。この儂が、少しばかり肩代わりしてやろうではないか』


 謙知の耳には、聞いたことのない声が聞こえました。今、鳥が人の言葉を話したのでしょうか。謙知は驚いて目を見張りましたが、長元坊は驚いている様子がありません。どうやら、謙知にだけ聞こえていたようでした。


「長元。その鳥、粗末に扱ってはいけないぞ。もしかすると、神木に降りた神使かもしれないからな」

「さっきの白い鳥ならともかく、そう神々しさは感じられないが。いた、いたた。そうつっつくな、分かったから。後でお供えでも持ってくるから、許してくれ」


 長元坊がそう言うと、鳥はつつくのをやめました。まるで、人の言うことが分かっているようです。鳥はやっと長元坊の頭から飛び立ち、優雅に空を旋回してから、また楠の枝の上に戻っていきました。
 二人が笑うと、爽やかな風が森の中を吹き抜けていきました。楠も、さわさわと音をたてながら揺れて、一緒に笑っているようでした。


 むかしむかしの、三方宿儺のお話でした。

 今ではその楠も大きく育ち、それは見事な神木になっているといいます。
 どこかの山の、どこかの森の、小さな神社の真ん中で。




あとがき(memoの追記に飛びます)


前頁 -  - 次頁
2/3
表紙