窓際に飾られた花が、萎れて下を向き始めていた。そうか、あの日からまた、カイナには行けていないのか。部屋の片付けを終えて不意に視線に入った花瓶の中で枯れた花を見て、そんなことを思った。ロゼちゃんにランチをご馳走したあの日以来、タイミング悪く次から次へと仕事が入って、1ヶ月も自分の時間がなくなっていた。最後に仕事以外で人に会ったのは、ミクリが姪のルチアちゃんを連れて家に遊びに来たときか。

「お久しぶりです、ダイゴさん!」

ミクリとは、まあ旧友である訳だから、その姪ともミクリ繋がりで会ったこともあるし、僕からしても妹のような存在だ。けれど二人で遊びに来るのは珍しい。雑誌の記事を書く合間の久々の来客に、少なからず喜ばしく思う。

「今日はルチアのお披露目だそうだよ。」

僕が出したコーヒーを足を組み優雅に飲みながら、隣に座るルチアちゃんに話を促した。すると少し恥ずかしそうにしながら、モンスターボールをテーブルの上に出した。それを受け取って中を見ると、そこには麗しく綿の翼を羽ばたかせる、チルタリスが入っていた。

「綺麗だ…。捕まえたのかい?」

そう言ってボールを返すと、ルチアちゃんはふふふと嬉しそうに微笑みながら頷いた。きっと本当に欲しかったポケモンなんだろう。そういう強い想いが伝わってくる。

「ボールから出して、見せてくれないか?」

せっかくだしね。そう言えば、ルチアちゃんは待ってましたと言わんばかりにリビングルームに向かってボールを放った。赤い光線に乗って現れたチルタリスは、自分の翼を誇示するように一度ぐるりと部屋を飛んでから、床に舞い降りた。そしてルチアちゃんの隣に寄り添いながら翼を閉じた。

「凄く綺麗だね。」
「でしょうでしょう!」

ルチアちゃんは嬉しそうにその場でくるくると回った。彼女の喜びが伝わってきて、僕もミクリも可愛い妹を見るように微笑んだ。

「友達と一緒に捕まえたんです!名前はね、チルル!」

彼女は嬉しそうに顔を綻ばせながら、チルタリスをボールに戻した。ああ、僕も初めてエアームドを捕まえた時、こんな表情をしていたのかな。昔の自分を見るようで、胸が温かくなった。

「ルチアはこれから本格的にコンテスト制覇を目指すみたい。」
「そうなんです!私、絶対おじ様を超えるコンテストマスターになるわ!」

だからダイゴさんも応援してね、なんて可愛らしく満面の笑みで言われたら、応援しない訳にはいかないだろう。「はやくその男をマスターの座から引きずり下ろしてやってくれ。」と冗談めかしく言えば、「ひどい言われようだ」とミクリも笑った。それが、1週間かそれくらい前のこと。それからはもう、チャンピオンとして挑戦者を返り討ちにしたり、テレビの出演だとか雑誌のインタビューだとか。お忍びでカイナシティへ遊びに行けていた日々が夢だったように、多忙に追われる毎日を過ごしていた。そしてようやく午後だけ半休となった今日も、日用品の買出しでミナモデパートに行くだけで潰れてしまうのだろう。カイナシティの、もっとずっと西方に沈む日が視界に入ると、無意識のうちに大きな溜息がこぼれていた。

ミナモの街を歩くのも、だいぶ久しぶりな気がするな。思い返してみれば、何かあればすぐにカイナへと飛んでいた。冷静になって考えると、僕はロゼちゃんにだいぶ入れ込んでいたようだ。惹かれて、いたのかな。何を今更。ロゼちゃんと二人で歩いたミナモの街は、なんだか色褪せて見える。いつも彼女は黄昏の中から、振り返って僕に笑顔を向ける。そんな彼女がいないこの街の黄昏は、ひどく淀んでいるように感じた。

「あ、ダイゴさん!」

弾むような声に、僕は期待をしたんだ。彼女ではないこと、声を聞いただけで分かったのに。駆け寄ってきたのは、見たこともない女性だった。

「噂通り、素敵な方ね。」

艶めいた髪を揺らし、僕に近付く女性は、今までにもたくさんいた。チャンピオンになったことで、街を歩くだけで声を掛けられる程になってしまった。それはとても誇らしいことでもあり、同時に忌み嫌うことでもあった。僕を、御曹司として、チャンピオンとして、見ないでくれ。

「近くのバーでも、どうかしら?」
「お誘い、ありがとう。でも少し急ぎでね。またの機会にでも。」

そう言って柔らかく断ると、彼女も残念そうに立ち去った。確かに華やかで麗しい女性だ。だけど、なんでだろうね。汗をかきながら一生懸命花を愛でるロゼちゃんの方が、ずっと綺麗だと思うんだ。いつもいつも自分に自信がないように、迷ってばかりの彼女だけれど。どうしてか、悲しげに寂しげに僕を見つめる彼女だけれど。その儚さが、僕を魅了して止まない。別れる度に瞳を濡らして必死に我慢をする彼女だから。僕のことだけを想って泣けばいい。他の男なんて目もくれず、僕だけを。ああ、僕はいつの間に、こんなにも毒されていたのだろう。自嘲じみた小さな笑みがこぼれたとき、隣を飛んでいたエアームドが、僕の服の裾を優しく啄んだ。

「どうしたんだい、エアームド?」

服の裾を離すと、エアームドは首を横に向け、一度だけ、高い声を上げて鳴いた。珍しい行動に、僕はゆっくりとそちらに顔を向けた。

「……ロゼちゃん…?」

無意識に声に出していた名前は、ずっと会いたいと願った、カイナシティの花売りの女性の名だ。

「私がもしもミナモシティに異動になっても、来てくれますか?」

満天の星空が広がる、あの夜の言葉が頭に浮かんだ。恐る恐る、自信がなさそうに、彼女はそう言った。ロゼちゃんがいるところなら、どこへでも。確かにそう答えたはずだ。でも、本当に?

「ロゼ、そろそろ休憩入ったら?」
「ヒザシさんがまだなのに、私だけ先に入れませんよ!」

僕にも見せたことがないような、きらきらと輝くような笑顔を、その男には見せるのか。高まった感情が、次第に冷めていくのが分かる。違う。彼女は僕にしか見せない笑顔だってある。僕が今ここで彼女の名を呼べば、きっと駆け寄って来てくれる。ロゼちゃんは、きっと。満ち溢れるような自信の裏腹で、臆病になる自分が顔を出している。

花の様子を伺って、ロゼリアやヤミラミと顔を見合わせて微笑み合う。そんなロゼちゃんの姿を見ると、荒んだ心が落ち着きを取り戻して来ているような気がした。エアームドが軽く、頭で僕の腰を押した。何を迷うことがある。そう言っているのが、聞こえてくるような気がする。そうだな。この僕が、何を迷うことがあるんだ。他の男なんて今は関係ない。僕が、ロゼちゃんに会いたいと思ったのだから、そこに彼女がいるなら、ただ会いに行くだけだ。