本当にずるい人だと思った。どうしてここまで私の心に入り込んできて、離してはくれないのだろう。弱ったり、迷ったり、立ち止まってしまう時に限って、優しく手を差し伸ばしてくるのだろう。
「何かあったのかい?」
私とは違った、大きくて骨ばった手が、濡れた目元を掠める。人差し指の温かさと、指輪の冷たさ。相反する温度を、私は今も覚えている。会いたくて会いたくて、でも会えなかったあの頃、私はミクリさんに一輪の花を託した。その花に秘めた私の想いを汲み取って、会いに来てくれたダイゴさんがくれた温度と、同じものが伝わってくる。
「……ダイゴさん。どうしてこんな所に?」
次第に涙は止まり、私は真っ赤になっているであろう自分の瞳を見られたくはなくて、せっかく来てくれたダイゴさんの顔を見れずに俯きながら問い掛けた。なんで泣いているのか、明確な理由は自分でも分からない。ヒザシさんのことなのか、ダイゴさんのことなのか、異動のことなのか。彼の質問には答えずに、質問で返すと、彼は私の気持ちを読み取ったのか、問い掛けを繰り返しはしなかった。
「ミナモには買い物に来てたんだ。そしたらロゼちゃんの姿を見掛けたから、驚いたよ。」
涙が止まったのを見て、彼の手は離れて行った。困ったように笑いながら、彼は頭を掻いた。その表情も、私は知っているものだった。何も知らなかったあの頃から、色んなことが変わって、色んなことを知った。それでも、変わらないこともある。
「…会いたかった、です。」
真っ赤なんだろうか。鏡を見ていないから、分からないけれど、真っ直ぐに見上げれば、お互いの視線がぶつかる。いつだって心の中にダイゴさんがいること、いつだって会いたいこと、それだけは変わらない。初めてだと思う、この本心を告げることは。緊張で自分の手が震え、喉の水分が枯渇していく。ダイゴさんは驚いたように目を見開いていた。今、どんなことを考えていますか。ただただ、沈黙の中で彼の反応を待った。
「……僕に?」
しばらくして開かれた口から出てきたのは、信じがたいと確認するような、小さな言葉だった。彼は珍しく目を白黒させながら、動揺を露わにしていた。
「ダイゴさんに。」
「…そっか。」
しっかりと目を見つめながら強く頷くと、彼は少したじろいで、そしてしばらくしてから、ありがとうと優しく微笑んでくれた。
「僕もだよ。」
別に同意を求めた訳ではなかったのに、彼はそう言ってくれた。それだけで、私の心が満たされていく気がした。もう、彼にしか。貴方が好きなのだと、慕っていると、言ってしまいそうになる。溢れてくる想いに無理矢理蓋をして、私は作った微笑みを貼り付けた。分かってる。きっと彼は優しいから、そう言ってくれるのだ。そうに、違いない。
「ロゼちゃん、ちょっと歩かない?」
時間は大丈夫なのだろうか。買い物は?でも、せっかく久しぶりに会えたのだから、まだ一緒にいたい。隣を歩きたい。浮かび上がる問いには気付かない振りをして、私は頷いた。
▼ ▲ ▼
沈みきった夕日。ミナモの街を街灯が照らし出した。少し肌寒い海風が髪を靡かせる。他愛のない話をしながら、ダイゴさんと歩く街並みは、以前とは何も変わらないものだった。
「最近もまた忙しくてね。参るよ、本当。」
だから最近もまたカイナに立ち寄らなくなったのか。チャンピオンなのだから、当然だろう。むしろ今まで来てくれていたことが、不思議なくらいだ。ダイゴさんの困ったような声と、波の音が重なる。歩きながら自然と向かっていたのは、以前二人で来た灯台だった。
「懐かしいな。」
明るく海を照らす灯台を見上げながら、ダイゴさんは呟いた。あの日のことを、憶えているだろうか。前に来た時も、夜だった。繰り返される波の音が、心を落ち着かせる。けれど視界の端に、ベンチが映り込んだ瞬間に、動揺に打ち負けてしまう。
「…そうですね。」
あの夜、私はあのベンチで彼に抱き締められたんだ。目を閉じれば、その場面を鮮明に思い起こせる。近付けたと思ったら離れて行き、離れたと思ったら近付いて来る。ダイゴさんは、私が手を伸ばしても届かない存在。
「座ろうか。」
今目の前に、届く距離にいるのに。いつまでたっても、心までは届かない。静かにそう彼に促され、私はゆっくりと彼の後を追った。
隣に腰を下ろすと、ギシリと木が軋む音がした。あの日より、少しだけ近付けて座ったのに、彼は気付くだろうか。それでも、まだ遠い距離。いつか、追い付ける日が来るんだろうか。カイナだろうが、ミナモだろうが、私はただの花売りで、彼はチャンピオンであって、御曹司であって。このベンチには心を乱す魔法でもかかっているんだろうか。前も、自分と彼の住む世界の違いを目の当たりにしてしまって、このベンチで言葉も思考も荒んでいってしまった。
「ロゼちゃん?」
それを止めたのは、ダイゴさんだったけど。今も、変わらず止めてくれるのは彼なのか。
「えっ?」
「聞いてた?」
「…あ、ご、ごめんなさい。ぼーっとしてて…」
私が色々と考え込んでしまっている間に話し掛けられていたのか、名前を呼ばれて我に返った。君がぼーっとするなんて珍しいね、なんて軽く笑われてしまい、恥ずかしくなってしまう。
「ロゼちゃんはどうしてミナモに?」
「えっと…、今日は、ミナモの新店舗の搬入だったんです。もうすぐ、開店で…」
理由を説明すると、ダイゴさんは驚きを隠せていなかった。そしてその端正な顔を複雑そうに歪めていた。私が異動になったら、という話を出したときとは、全く違う反応に、私の胸に不安が広がった。
「ロゼちゃんがいるところなら、どこへだって行くよ。」
前はそう言ってくれたのに。今は、違うのかな。それとも、あの時は適当に言った、口から出まかせだったのかな。どっちにしろ、私はもう、彼の顔を真っ直ぐには見れなかった。
「……あの人と?」
珍しい、ダイゴさんの震えるような声。同時に、全く予想もしなかった単語に、首を傾げながら横目で彼の様子を窺うと、どうしてか、顔を俯かせていた。
「"あの人"?」
「…いや、何でもないよ。船の時間は大丈夫なのかい?」
もやもやとした、不明瞭な何かが心を覆い尽くす。ダイゴさんが何を考えているのか、私にはさっぱり分からない。どうして会いに来てくれるのか、どうして会いに来てくれないのか。彼の言うあの人とは、誰のことなのか。唇を噛み締め、私はゆっくりと目を閉じた。
「……大丈夫です。」
自然と片手を腰のベルトに付けられた3個のモンスターボールに向けていた。そして無意識のうちに、それを彼からは見えないように、身体の向きを少しだけ変えた。
自分に言い聞かせるような、大丈夫という言葉。船の時間は、確かに問題ではないかもしれない。けれど大丈夫だと口にしたって、私はもう"大丈夫"ではなかった。それでも、ダイゴさんには心配なんて掛けたくないし、迷惑にも面倒にもなりたくない。いつだって、ダイゴさんの前では笑顔でいたいのに。いつからか、作って貼り付けたような下手な微笑みしか、見せていなかった。
「ロゼちゃん。」
私の名前を呼ぶ声は、いつものとは違い、なんだか棘を感じた。苛立ちなのか、焦燥なのか分からないけれど、いつもの優しくて温かい声色ではなかった。
「無理に、笑おうとしないで。」
彼は全部分かっていた。私の作り笑いも、胸に隠した涙も。何もうまくいかないくて、でも笑顔でいれば乗り越えられる気がしていた。私はダイゴさんには相応しい女じゃない。本当はミナモに異動なんて嫌だ、ずっとカイナにいたい。ヒザシさんとではなく、カエデさんと一緒に働いていたい。今まで口にしたことのないような本心を全部、分かっているかのように、ダイゴさんは私を包み込んだ。
「…ダイ、ゴ、さん…?」
突然のことに、思考がぴたりと止まった。彼の大きな手の平が、私を包み込んだ。まるで握手をするように、握られた手。肌寒い気温の中、それだけが温かい。
「僕の…、前でくらい…」
ダイゴさんの、消え入りそうな声。私の手を握る、微かに震える手。こんな姿を、今まで一度も見たことがなくて、私は困惑以外の感情が浮かんでこなかった。何度かダイゴさんの名を呼んだが、彼は黙ったままぎゅっと私の手を握っているだけだった。そして、波の音だけが耳の奥に反芻し、しばらくしてからダイゴさんはようやく口を開いた。
「僕の前でくらい、自然な君でいて…」
俯かせていた顔がゆっくりと上がり、私の目を捉えた。エメラルドのような美しい瞳の中に、自分が映っている。その瞳は、責めているのではなく、まるで懇願しているようだった。どうしたのだろう、こんなダイゴさんは初めて見る。どうしていいかも、何が原因なのかも分からず、ただただ胸の高鳴りを感じていた。
「…僕が、チャンピオンになんてならなければ…」
「そ、そんなことっ!」
ダイゴさんの紡いだ言葉を、咄嗟に否定した。なんで、どうしてそんなことを言うの。彼に握られた手に、今度は私の方が力を入れてしまった。
「光栄なことなのに、そんなふうに言わないでください…」
ダイゴさんが見えないところでどんなに頑張ってきたのかとか、私には分からないけれど。きっと、そこはかとない努力があったのだろう。それを、どうしてそんなふうに言ってしまうのか。
「…ロゼちゃんは、ないの?」
「えっ?」
「僕が、チャンピオンじゃなければ、って…、思ったこと、一度もない?」
真っ直ぐに合わされた視線から、私は逸らすことが出来なかった。波の音だけが、脳に響いた。しばらくしてから、やっと心拍の音が押し寄せてきた。ドクンドクンと嫌な高鳴りが胸を襲い、喉の水分を全て掻っ攫っていった。
「そんなこと……」
そんなこと、考えたことも、ない。訳がない。ダイゴさんがチャンピオンじゃなければ。御曹司なんかじゃなければ。私はもう少し自然に彼の隣を歩けたかもしれない。そんなふうに、考えないことなんて出来なかった。住む世界が違うということに、こんなにもコンプレックスを感じているのに。「そんなこと、ないです」というたった一言が、どう頑張ってもそんな戯言を紡ぐことは出来なかった。
「…やっぱり。」
気付いていたのか、ダイゴさんは納得したように小さく呟いた。でも、私はそれを否定することも出来ない。むしろ肯定してしまおうか、とも思ってしまう。色んなところに泳いでしまう視線が、きっと彼に答えをもたらしてしまったのだろう。
「……ごめんなさい。」
「どうして謝るんだい?」
確かに、嫌になるほどコンプレックスは感じてしまう。だからと言って、ダイゴさんがチャンピオンを降板すると言ったら全力で引き止めるだろう。そしてダイゴさんがチャンピオンでなくても、御曹司でなくても、結局私はダイゴさんという存在に憧れ、嫉妬し、そして恋をするんだろう。だから、きっと。
「関係ないんです。」
「ん?何が?」
「ダイゴさんがチャンピオンでも、そうでなくても、関係ないんです。」
ああ、落ち着きが戻ってくる。心が穏やかになっていくのを感じて、私はダイゴさんの手に、そっともう片方の手を添え、両手で包み込んだ。会いたいのも、隣を歩きたいのも、ダイゴさんの地位は関係ない。
「私は…、ダイゴさんのようになりたい。」
弱く脆い自分を捨てて、憧れる貴方のように、強くて逞しい女性になりたいの。そう告げると、ダイゴさんは本当に驚いたように目を見開き、でもじっと私から視線を逸らすことはなかった。そして、握っていた手を、ゆっくりと引っ張った。
「…ロゼちゃん。」
頬をくすぐった、色素の薄い彼の髪。抱き締められるかと、思った。前にそうされたからかもしれない。しかし背中に腕の感触は感じられず、代わりに、肩に重力を感じた。
「ダイゴさん…?」
私の手を握り締めたまま、彼は私の肩に額を載せ、顔を俯かせていた。彼の呼吸で上下する身体の振動が、肩から直接伝わってくる。こんなにも弱々しいダイゴさんは見たこともなくて、正直困惑を隠せない。でもそれと同時に、今まで表に出さなかった彼の弱さを見せてくれたのかと、嬉しく思えてしまう。
「…側にいて。」
ぽつりと吐かれた言葉が、全ての思考を奪っていく。ぽかんと開いてしまった口に、容赦なく風が吹き込む。更にからからに乾いた口を、潤す術を私は知らない。彼が何を言っているのかも、理解が追い付かなかった。
「僕はロゼちゃんに、側にいてほしい。」
今度ははっきりと、私の名前を呼んで数秒前と同じことを口にした。肩にもたれ掛かっているせいで、彼の表情が窺えない。彼は今、何を考えているのだろう。分からないことだらけの中で、でも何も考えられない頭からは何の言葉も浮かんではこなくて。ただこの状況で確かなものは、それは今までみたいな、優しくて温かい、私の大好きなダイゴさんの声と、肩に載せられた彼の温度だけだった。