しびれ粉を浴びせられたように、身体中の感覚が奪われていく。背筋をピンと伸ばしたまま硬直した身体は、肩にダイゴさんの存在を感じながら身動きが取れないでいる。何も言わない私と彼の呼吸が、夜の波の音に重なる。私はダイゴさんがいる方とは逆の、モンスターボールを隠すように置いていた手を、ゆっくりと持ち上げた。その手は情けなくも震えを見せていて、それでも止まろうとはしなかった。

指先に伝わる柔らかな感触。弱弱しく伸ばした手は、触れるか触れないかの瀬戸際で、肩に額を載せるダイゴさんの髪を掠めた。色素の薄い髪に触れる手は、まるで自分のものではないかのようなのに、伝わってくる感触は本物だった。そのまま頭に手を載せてしまいたい。あわよくば、抱き締めてあげたい。そう思えば思うほど、不思議と持ち上げた手は固まっていく。

ダメだ。甘えてしまってはダメ。ダイゴさんは、どういうつもりでその言葉を発したのだろうか。彼にはきっと、多くの慕われる人間がいる。麗しく着飾った女性たちや強いポケモントレーナーたち、デボンコーポレーションの社員たち。どうしてその中で、私を選ぶ必要があるのか。

踊らされている。いつか頭に浮かんだ言葉が再び、思考の渦の中央へと沈んでいく。そうだ、そうに決まっている。チャンピオンで、御曹司で、何でも持っている彼が、こんな単なる街の花売りの私に本気になるはずがない。からかっているに違いない。暇つぶしでも、息抜きでも、退屈凌ぎでも、何だって良かったはずだ。ダイゴさんが会いに来てくれるなら、何だって。

けれど私は、その一言で夢をみてしまった。彼が世界でたった一人、私だけを必要としてくれる夢を。一瞬でも輝きを持ってしまった高望みの夢は、現実を突き付けられることで色褪せてぼろぼろに崩れ落ちていく。分不相応。身の程を知れ。誰かが私に後ろ指をさす声が聞こえた。

「…私、」

胸を張って隣を歩ける女性に、なりたかった。でも、なれなかった。頑張って花を売ったところで、ダイゴさんに相応しい肩書きを得られる訳じゃない。やっとの決意でチルタリスを捕まえても、ダイゴさんと肩を並べてポケモンバトルが出来る訳でもない。いつも迷って立ち止まって悩んでばかりの私が、ダイゴさんの言葉で背中を押してもらえた気がした。ダイゴさんに精一杯頑張って、前進していると思っていたそれは、一つも彼に近付けてなんかいなくて、一つも自信に繋がってなんかいなかった。

「……私は、」

ダイゴさんの頭に触れる直前で止まっていた手を、その場で一度ぎゅうと拳を握り締めた。そして、それは行きたかった場所へは向かわず、訣別の意志を見せた。上質なスーツに包まれた肩に置き、そのままぐっと力を篭める。自分の肩から離れて行く温度に、涙がじわりと浮かぶのを感じた。そんな私を見てか、視線が交わったターコイズのような彼の美しい瞳が、僅かに揺らいだような気がしたんだ。そして決意をするように一度息を吐き、肩の力を抜いた。

「もう会えないと思っていたから、ダイゴさんが会いに来てくれて、本当に嬉しかったです。また来てくれると聞いて、毎日が期待でいっぱいでした。ダイゴさんは、きっと誰から見ても素敵な方で、優しくて頼りになって…、私の憧れです。」

彼のスーツに添えた手が、情けなく震えている。ぽつりぽつりと語り始めた私の話を、ダイゴさんは優しく相槌をしながら親身に聞いてくれた。そんなところも、私を追い詰めている一因になっているだなんて、きっと彼は思いもしないだろう。

「そんなダイゴさんとも、一緒に洞窟に行ったとき、夢中で石の話をしているときは、おこがましいですけど、対等でいられる気がしたんです。素敵で憧れのダイゴさんに、少しは近付けている気がした。会えなくて、遠くにいる間も、色々、頑張ってみたりして、少しでも追い付けたらって。」

そして、彼を離すように肩に置いた手を、自分の方に引いた。真っ直ぐな瞳を、もう見てはいられなかった。ダイゴさんの突き刺すような視線から逃げるように、私は膝の上で拳を握り、顔を俯かせた。

「でも、どんなに頑張っても、越えられない壁があって。やっぱり、私とダイゴさんは、住む世界が全然違う。」

貴方に相応しい人間に、そんな女性になりたかった。夢は、夢のまま。現実は違うの。

「……私は、貴方に相応しくない。貴方の側には、いられない…」

きっとダイゴさんは優しいから、そんなことないって、そう言うんだろう。そして簡単に私の心を掻き乱して、掌握して見せるんだろう。ダイゴさんは一緒にいる間は、きらきら綺麗な夢を見せてくれるんだ。だけど、それじゃあいけないの。彼がいなくなった瞬間に、私は弱く脆く崩れ落ちる。想像通り、ダイゴさんは切羽詰まったように「そんなことない」と否定してくれたけれど。私に自信がない限り、根本的なこの考えは消えることはない。引け目を感じて、劣等感に苛まれて、その背中を追い掛けて、恋い焦がれながらも、醜い嫉妬をする。そんな私じゃ、どうにも隣になんて立てないよ。

「僕は、」
「ダイゴさん。」

聞く耳を持たない私に、ダイゴさんは焦燥を見せた。わざと話を遮り、俯かせた顔を上げて視線を捉えた。何度も綺麗だと思った、ターコイズブルーの瞳。私を優しく見つめるその目が、とても好きだった。

「…ありがとうございました…」

私は、うまく笑えていたでしょうか。涙を零さぬように瞬きを抑え、重たい口角を無理矢理吊り上げた。僕の前でくらい、自然な君でいてと言ってくれたのに、最後の最後は、嘘と涙で塗り固めたボロボロの作り笑いを見せて。ベンチから立ち上がって、彼に背中を向けた。彼が心を開いてくれたこの灯台のベンチで、今度は私が心を閉ざすの。

「…どうか、お元気で」
「ロゼちゃん!」

絞り出した声は、震えを隠せてなんかいなかった。私は何も考えないようにぎゅっと目を瞑ったまま、薄暗い道を駆けていった。

ずっと幸せだった。カイナの海にぷかぷか浮かんでいるように、キラキラと輝く夢の中にいた。現実と言う名の錘が、私を海の底へと引きずり込んでいく。もうここには、ダイゴさんの光は届かない。夢から覚めた海の底は暗くて寒くて、一人ぼっちだった。

▼ ▲ ▼

何も手に付かなかった。休憩の時間を終えて仕事をしに戻ったのに、何も。ダイゴさんに会う前に、ヒザシさんに何か言われかけたのも忘れて、私の頭はいつも通りダイゴさんでいっぱいになっていた。

休憩を取って戻ってきてから、心ここに在らずな私を見兼ねてか、それとも単に時間の関係か、その後ヒザシさんはすぐに私を上がらせてくれた。終始何か言いたげな彼だったが、私は一度たりともヒザシさんに対して心を開くような態度を見せなかった。

その夜、チルタリスに乗ってムロに帰り、夕飯を食べてシャワーを浴びて、床に就く。カーペットの上でチルタリスがその柔らかそうな翼でロゼリアとヤミラミを包み込んでいるのを横目に、ダイゴさんのことを思い出した。忘れなきゃ、と言い聞かせながらもこうやって彼に想いを馳せるのは、二度目だろうか。

どうしてあの日、花なんて買いに来たんだろうか。どうしてキャモメに襲われた私たちに、あんなに親身になってくれたんだろうか。どうして洞窟に連れて行って、ポケモンバトルを教えてくれて。夢のように彩られた思い出は簡単には消えてはくれなくて、ダイゴさんの優しさがあちこちに鏤められていた。

「…っふ……うっ」

幾筋もの涙が、重力に従って枕に吸い込まれていく。ロゼリアたちが寝ている横で、起こさないように声を押し殺した。拭っても拭っても溢れてくる水分が、視界をぼやけさせる。こんなに苦しくて、不釣り合いな恋ならば、出会わなかった方が良かった。ずきずきと痛む胸を押さえ込みながら、何も考えたくなくて、全てを遮断するように目を閉じた。