開店前に泣き腫らした目で出勤し、カエデさんに驚かれるのも、何度目かな。確かなのは、これが最後であるということ。大丈夫かと心配してくれるカエデさんにあははと愛想笑いで流しながら目を泳がせた。

「カエデさん、今まで本当にありがとうございました。」
「どうしたの、ロゼちゃん。何も一生の別れじゃないでしょう?」

そうだけど、心持ちはそんな感じだ。私は今日からミナモの花屋になる。今まで良くしてくれたカエデさんと再び働くことも、今のところ予定は無い。変な子ね、とくすくす笑っているカエデさんはやっぱり優しくて、私にとっては最高の店長だった。

「ミナモの新店舗のこと、本当にいいの?」

不安げに尋ねるカエデさん。本当は行きたくない。誰も知らない、太陽に恵まれないミナモの街なんて、行きたくない。でも、カエデさんの、店長のお願いなら聞かないと。私がここで、この街で出来ることは、もうないんだ。

「…はい、お任せください。」

嘘の笑顔には、もう慣れた。最後までカエデさんは何か物言いたげだったけれど、ミナモに向かう途中に立ち寄っただけだったから、挨拶を済ませてすぐに飛び立つ。彼女の言う通り、一生の別れではないんだし、チルタリスのいる今となっては、いつだって会いに来れる。空から見るカイナシティは新鮮で、私の知らない場所のようだった。重たい気分のまま、ミナモシティの方角にチルタリスを向かわせた。

▼ ▲ ▼

ミナモシティでの勤務も、個人的な気分の差異があるだけで特に変わることはない。お客様の予約電話を受けて、約束の時間までに花束を準備して、空いた時間で花の調子を確認する。当日の来客には適宜応答して、お花の説明やお勧めをして。違うのは石造りのカイナほど太陽は眩しくなく、波の音が静かだということだけか。お昼休みの定番であったベーカリーも、定位置であったベンチも、ミナモシティには無くて、それからダイゴさんも現れることのなくなった昼休みは、全然心待ちではない。憂鬱な気分は晴れることなく、溜息ばかり漏らしていた。

「溜息つくと、幸せ逃げちゃうよ?」

この声は。ふふ、と可愛らしい笑い声が背中に掛けられ、作業の手を止めて振り返った。そこには想像通り、ふわりとポニーテールを揺らすルチアちゃんの姿があった。どうしてここに、と問い掛ける前にルチアちゃんは店先に出してある花に近付き、この花とってもグロリアス!と笑顔を見せていた。そんな明るく振舞う姿に、陰鬱な気分が少しだけ和らいだ。

「聞いたよ、ミナモシティに異動になったんだってね!店長さんが教えてくれたの。」
「お店、来てくれたんだね。ありがとう!」

ルチアちゃんとは、一緒にチルタリスを捕まえに行って以来だ。チルタリスも彼女のことを覚えているのか、腰に付けているモンスターボールの中でかたかたと小さく揺れた。その時、レジカウンターの奥でお客様の電話対応をしていたヒザシさんが陰から顔を出した。片手にペンを持ち、受話器を肩と耳で器用に押さえている。

「ロゼ、友達?休憩行ってきていいよ。」

それだけ言ってすぐに電話に戻った。途中で私に声を掛けるなんて、お客様からの電話じゃなかったのかな。それからすぐに話し声が聞こえてきて、首を傾げていると、ルチアちゃんはキラキラとした笑顔を見せて、お昼一緒にどう?と笑顔をくれた。

ルチアちゃんはコンテストで何度かミナモに来たことがあるらしく、美味しいお店があるのと言ってオシャレなカフェに連れて来てくれた。海沿いのこじんまりとした隠れ家カフェらしく、カイナとは違う静かな波の音が店内のBGMとなっている。オープンテラスのこの席では、カイナのよりも濃い青の海がよく見える。

「ここ、おじ様に連れて来てもらったの。」

ミクリさんとも、久しく会っていないな。運ばれてきたアイスコーヒーに口を付けながら、昔のお得意様のことを思い返した。ミクリさんとは、花を託して以来だ。私を忘れないでと想いを込めて、クリスマスローズなんて勧めたんだっけ。でもその想いはきちんと本人に届いて、会いに来てくれたんだっけ…。

「ロゼちゃん、溜息ばっかりだね?」

アイスコーヒーの水面に淀む自分の顔をぼんやりと眺めていると、向かいに座ったルチアちゃんはアイスティーのストローを指でいじりながら、じっと私を見つめていた。そこでようやく、無意識のうちに溜息をこぼしていたことに気付く。見透かすような真っ直ぐな視線にドキリとして、意味もなく背筋を正した。

「そうかな?」
「うん。さっきも、声掛ける前に何度も溜息ついてたの、見ちゃって。何かあった?」

それは本心から心配してくれているような、優しい声色だった。ミクリさんといい、ルチアちゃんといい、この家系は洞察力と言うか、どこか鋭い気がする。私で良ければ話聞くよ、とルチアちゃんは微笑んだ。

「お仕事のこと?」
「…それも、あるかな。私、本当はカイナにいたかったから…」

今まで誰にも打ち明けなかった本心を、ルチアちゃんにはポロリとこぼしていた。手持無沙汰になって指でストローをいじると、カランと氷が解ける音がした。

「確かに!ロゼちゃん、あのお店すっごく似合ってた!そっか、カイナシティいいところだもんね。でも、どうして?今ならチルタリスで一瞬で帰れるし!そんなにミナモシティって悪いところかな?」
「悪いって言うか…」

畳みかけるようなルチアちゃんの悪気のない質問は、確かに私を追い詰めていた。どうして、ミナモシティじゃなくて、カイナシティじゃなくちゃいけないんだろう。カエデさんがいい人だから?好きな街だから?常連さんが好きだから?確かにどれも当てはまるけれど、理由としてはいまいちピンとこない。じゃあ、ダイゴさんと歩いた街だから?それなら、ミナモだって一緒に来たことがある。そもそもダイゴさんはもう、関係ない。ぐるぐると答えの出ない迷宮のような謎が渦巻く。

「私はコンテストマスターのことしか考えてないからこういうこと分からないんだけどね、ロゼちゃん、お花が好きでそのお仕事してるんじゃないの?」
「…そうなのかな?」

そんなこと、考えたこともなかった。どうして花屋をやっているかなんて。花は好き、何よりも好き。でも、だから花屋になったんだっけ…?煮え切らない私を余所に、ルチアちゃんは「だってロゼちゃんパートナーもロゼリアだから、やっぱりお花大好きなんだね」なんて一人で納得して、満足したようにちゅるちゅると艶やかな唇でアイスティーを啜った。

「あ、そういえば!」

何かを思い出したようにルチアちゃんはパッと表情を変え、ストローから唇を離した。

「“会いたい人”には会えた?」

ほら、この間言ってた。なんてルチアちゃんは楽しげに言葉を続ける。チルタリスを捕まえに行ったときに言ったことを、彼女は覚えていたらしい。脳裏に浮かぶダイゴさんの顔。ルチアちゃんの真っ直ぐな視線は、ダイゴさんを彷彿とさせる。私は咄嗟に顔を逸らして、右手の傍にあった御手拭に視線を落とした。

「ルチアちゃんは、その……憧れの人とか、好きな人、いる?」

誰かとこんな話をするとは思ってもみなくて、ドキドキと速まる鼓動を感じながら、話を振った。するとルチアちゃんは首を少しだけ傾げて考える素振りを見せる。氷がもう一つ、カランと音を立てて解ける。

「うん、いるよ。」
「そっ、そうなんだ…」
「好きかは分からないけど、憧れの人。」

彼女は力強く、そう言った。こんなに可愛らしいルチアちゃんなんだ、きっとお似合いな素敵な方なんだろう。勝手にルチアちゃんの隣に立つ長身の男性を思い浮かべた。ルチアちゃんでも、誰かに憧れることあるのか。

「どんな人なの?」
「とっても素敵な人なの。とても格好良くて、私の目標。」
「目標…」
「うん!今は背中追い掛けてばかりなんだけど。いつかね、いつか胸を張って隣に立てるように、頑張ってるの。」

照れたように笑うルチアちゃんは、今までのどんな彼女よりも可愛らしくて、強い意志を感じた。憧れの人の話をする彼女は眩しいくらい輝いていて、一生懸命な努力がひしひしと伝わってくる。それに比べて私は。大好きなダイゴさんに劣等感なんて感じて、一人で勝手に憧れて、勝手に僻んで、勝手に無理だと諦めて。せっかくダイゴさんが会いに来てくれても、心を開いてくれても、好きだと言ってくれても。私は殻に閉じこもって聞く耳なんか持たなかった。ただ直向きに誰かを追い掛けるルチアちゃんを前にしていると、自分が酷く醜く感じて、唇を強く噛み締めた。

どうしてルチアちゃんはそんなに強いんだろう。どうして私はこんなに弱いんだろう。せっかくロゼリアたちをモンスターボールに入れても、チルタリスを捕まえても、私はダイゴさんの背中に向かって歩むこともなく、その場で足踏みをしているだけだ。一緒に捕まえたチルタリスで、ルチアちゃんは自分の目標に向かってまっしぐらに進んでいることだろう。私は?会いたい人がいると言って仲間になったはずなのに、一度だって自分から駆け寄ったことなんかない。何のために?何のためにチルタリスを捕まえたの?殻に閉じこもるためじゃない。その殻を破って、その羽根で、彼に会いに行くためじゃなかったの?

「お待たせしました。魚介のパスタと、ナスのアラビアータです。」
「わっ!凄く美味しそうだね、ロゼちゃん!」

頼んだパスタが運ばれてくる頃には、最後の氷が音も立てずに解けて消えていた。