ゲシ、と背中に衝撃を受けて私の身体は素直につんのめった。危ない、いくら液晶の向こうに行きたいからと頭から突っ込んでも、数万もするパソコンが割れるだけだ。地べたに座って作業に集中しているところへの衝撃で、驚きのあまり声を上げると、背中に重みが圧し掛かったまま耳を塞いでいたイヤホンが取られ、背後から低く篭った声を掛けられた。

「ちょっと、何してんの。」
「それこっちの台詞なんだけど!一松!」

無断で我が家に入ってこれるのは合鍵を持っている一松しかいない。漂ってくる路地裏の泥のにおいに私は顔をしかめる。振り返ると、マスクで半分顔を隠した一松が両手をポケットに突っ込んで、私の背中に足を載せていた。帰宅早々人の背中を足蹴するなんて、どんな彼氏だ。腹立つ。

「足どけてよ。」
「やだね。」

マスクをしていても分かる。今その白い布の下は意地悪く笑っているのだろう、片方の口角だけ上げたせいで頬に寄った皺がマスクに隠れきれずに出てきている。背中を足で押さえ込まれながら、手だけ背後に持ち上げてバシバシと叩くと意外とすんなりその足は離れて行った。背中には僅かに一松の素足の温度が残っている。もう、なんなんだ。せっかく集中していたのに。

「ほっぺ膨らませても可愛くないよ。」

機嫌を損ねて無意識のうちに私は頬を膨らませていたらしい。一松は立ったまま、ただでさえ猫背で曲がっている背中を更に丸めて座っている私の頬を人差し指でつついた。仏頂面を指摘されてぷいと顔をそむける。いいよ、どうせ可愛くないし。ほっぺ、とか言っちゃうキミの方が断然可愛いですよ。どこに対抗心を燃やしたのか、ちょっと自分でもよく分からない。

背中を蹴っていた足も無事に退かすことができたし、作業に戻ろうとコタツの毛布を膝に掛け直してパソコンのディスプレイに視線を向けた。完全にへそを曲げている私に気付いているのかいないのか、一松はその場で足を折って私の横にしゃがみ、何も気にせず頬をつつき続けた。

「もう!今作業してるの!邪魔しないで!」

つんつんうるさい。ちょっと声を張り上げると、一松は頬を指差したまま固まった。最近の一松はいつも私を小ばかにしたような威圧的で意地の悪い言動ばかり寄越してきていたから、少し厳しめに言わないと聞いてくれない。だからそれは全く予想していなかった反応で、あれ言いすぎたかなと少し申し訳なくなる。すると一松は私の頬をつついていた指を自分の口元に持っていき、マスクをくいっと下げた。

「ただいま。」
「えっ…、うん、……おかえり。」

全く予想の範疇を超えた言葉を掛けられ、豆鉄砲をくらったハトみたいな間抜けな顔で定型文を返した。すると一松はようやく満足そうに顔を綻ばせ、すっと立ち上がってコタツの脚を挟んで私の右隣りに身を落ち着かせた。マスクを外し、卓上に放り投げ、首元まで毛布を引き上げているところを見れば、3月と言えどまだ外が寒いということが分かる。背中を丸めこんでコタツに顎をのせ、ふぅと息をつく一松の頬は僅かに赤みを帯びている。そんな彼を観察していると、不意に首元を隠しているパーカーのフードが目に付いた。

「…あっ、ちょっと、猫!毛!」
「あ?」
「あ、じゃなくて、ねぇいつも言ってるじゃん!猫の毛つけたまま部屋入ってこないでって!」

フードに付着した白やベージュの細く柔らかい毛が、一松が身じろぐ度に少しずつコタツの毛布の上に落ちていく。潔癖症ではないけれど、さすがに室内にその毛を持ってこられるの嫌だ。さっきからなんか臭うし。

「こら、一松!着替えてきて!って言うかお風呂入ってきて!髪にもついてる!」
「…めんど。」

コタツから出て一松を立たせようと腕を引っ張ると、その反動でまた毛が落ちる。わああと悲鳴のような声を上げると、一松は怠そうに半目でこちらを見上げた。

「掃除機かけるの一松だからね!」
「なんで。」
「なんで!?当たり前でしょ!」

まるで反抗期の息子だ。がみがみと叱りつけても、一松は聞く耳を持たず何を考えているのやら無表情のまま変化を見せなかった。もしかして聞いていないんじゃないか。沸々と怒りが沸き起こり、一発ぶん殴ってやろうかと拳を握ったとき、一松は私が掴んでいるのと反対の手をコタツについてゆらりと立ち上がった。思いっきり力をこめて引っ張っていたおかげで、反動で尻餅をついてしまうのは必然で。

「名前が悪い。」
「えぇ!?」

一松は私を見下ろしながら、なんだか不機嫌そうに言った。何が悪いって言うんだ。と思っていると、一松はコタツの上に開きっぱなしだったノートパソコンをぱたんと閉じ、そのまま何も言わずに洗濯して新しいパーカーを手に脱衣所へと向かっていった。彼の意図が全く理解できず、疑問符ばかりが浮かんでくる。

「ちょっとー、一松!意味わかんないんだけど!」

不機嫌の理由も分からず、脱衣所まで追い掛けてドアの前から声を掛けると、返事はないが中で布生地が擦れる音がした。すると数秒も経たずにドアが開いて、一松が顔を覗かせた。

「なに?見たいの?」

ニヤリといつもの意地の悪い笑みを浮かべながら現れた一松は、さきほど着ていたパーカーは脱いだようで、上半身を隠すものを何も着ていなかった。思わぬ光景に、私は咄嗟に顔を背けた。何度も見ている姿ではあるけれど、明るい下でそのいやらしい笑顔を向けられると、どうにもペースを崩される。

「お、お風呂入っちゃえば!」

慌てて強気の口調を戻して、居間に戻ろうと背中をくるりと向けると、不意に腕を引っ張られて身体が後ろに傾いた。引っ張ったのはもちろん一松で、私の身体を受け止めたのもやっぱり、彼な訳で。背中に彼の温度を感じたと思えば、一松は両腕を私の身体に回し、気が付くとすぽりと彼の腕の中に収まっていた。

「一緒に入ろ。」
「なんで!?いいから、早く入っちゃいなよ!」
「…なんで?」

ぐっと力をこめられ、ぎゅうっと背中から抱き締められる。耳元で低めの声を出しているのは、絶対に故意的だという確信がある。胸の前に回された腕をじっと見つめていると、俯かせていたせいで露になったうなじに一松は躊躇なく顔をうずめた。

「いちっ、一松!」
「…俺、寂しかったな」

なんて棒読みだと言い返す暇もなく、一松はうなじをぺろりと舐め上げた。予期せぬ生温かな感触に、情けないことに悲鳴のような甲高い声を上げてしまう。背後にいて様子をうかがえないが、見なくても分かる。たぶん今ヤツはこれ以上ないほどに楽しげに嫌な笑みを浮かべていることだろう。身をよじって抵抗をしても一松のがっしりとした逃がさないとでも言うような抱擁からは脱出することが出来ず、されるがままの自分が不甲斐ない。ぎゅっと目を瞑ってうなじを這う舌の感触に耐えていると、突然そこに歯を立てられたのか、今までになかった痛みに襲われた。

「いたっ!え、なに?」
「ただいま。」
「…?うん、おかえり。」

すると意外にも一松はすぐに腕を解いてくれて、私は晴れて自由の身となった。満足したのか飽きたのか分からないけれど、私を離すと一松は速やかに脱衣所に戻って扉を閉め、あれよあれよと言う間に私は廊下に閉め出されることとなった。ああ、もしかして、私が作業に夢中になっていたのが原因なのかな。集中していたからと言って彼が帰ったことにも気付かないなんて。そのせいで帰って早々背中を蹴られたのだとしたら、納得がいく。

「一松、ごめんね?」

ドアの向こうにいるであろう一松に声を掛けると、再びドアが開いた。さっきとは違って控えめに、顔だけ覗かせている。

「一緒に入りたいの。」
「えっ、違うけど。」
「……そう。」

しゅん、と顔に書いてあるのがまた可愛らしい。最近の一松は生意気で自己中で初々しさのカケラも感じなくなっていたが、こういうふうにたまに見せる表情に心をしっかり掴まれているんだろうな。

「お風呂入ったら、今日の話聞かせてね!」

ドア越しに言うと返事の代わりにパチンと電気が消され、中からシャワーの音が聞こえてきたから、私はそっと脱衣所を離れた。今度から気を付けよう。しかしただいまを言ってもらえないからとヘソを曲げるなんて、可愛いヤツめ。原因が分かってからさっきまでの一松のいじけた顔を思い出すと、自然と笑みがこぼれた。

しかしさっき噛まれたところは痛かったなと鏡で確認すると、そこにはしっかりと歯型がついていて、シャワーの音に混ざった一松の控えめな鼻歌を聞きながら私は静かに肩を落とした。