ああ、眩しい。意識が戻りつつあるまどろみの中で、 確かにそう感じた。薄らと目を開くと、少しだけ開いた襖の隙間から朝の日差しが入り込んできていた。重たい身体を起こして隣を見ても、そこには温度のない冷たいシーツの海が広がっているだけだった。無意識のうちにこぼれ落ちた溜息が、気怠さを加速させた。
「あ、主!おはよう!」
食堂へと向かうと、お味噌汁のいい匂いが食欲をそそってきた。こんな朝でも、お腹は空くのか。虚無感に囚われたまま食堂に入ると、加州が笑顔で挨拶をしてくれて、それになんだか救われた気がした。おはよう、と返事をすると、内番姿で台所に立つ光忠がこちらに振り向き、ばちりと目が合った。なぜだかとても罪悪感を感じ、咄嗟に目をそらしてしまった。事があった次の日の朝、光忠と気まずくなるくらいなら、大倶利伽羅と彼の部屋を別にしようかと考えてしまう。
「光忠、起きれなくてごめんね。」
朝食はいつも私が作るか、起きれなかった時は光忠が作ってくれる。そういう時は、光忠は優しく察してくれるが、全てを見透かすような鋭い瞳に少々萎縮してしまう。大倶利伽羅は多くを語らない人だけど、朝方部屋に戻ってくるのを見れば、同室の光忠は嫌でも察してしまうのだろう。
「ちゃんと休めたかい?」
「あ、うん…、大丈夫。」
そんな訳ありげな会話に、食事中の加州や安定は美味しそうな光忠特製ふんわり卵焼きを頬張りながら首を傾げた。
「主、体調悪いの?」
「え?ううん、元気だよ?」
私も自分でご飯をよそい、席につくと加州は心配そうに眉を下げながら、少し身を乗り出してそう言ってきたから、慌てて首を横に振った。すると彼は良かった!と歯を見せて笑ったから、再びもやもやとした罪悪感が胸を覆う。この感情が度々沸き起こるのは、きっと心のせいだ。私も大倶利伽羅も自分の気持ちを語らないのに、周りに隠れてああいうことをしている。彼に対する想いは確かにあるのに、拒絶されるのが怖くて打ち明けられないでいる、この状況のせい。大倶利伽羅はああいう性格だから、きっと私の気持ちなんか、興味はないのだろう。
「…はあ……」
彼のことを思って、この気怠い朝にお味噌汁を飲むのは何度目だろう。泥沼のような状況で、私は必死にもがいている。でも、本気でここから抜け出そうとは、していないことにも気づいている。
「ねえ、主。」
「なに?」
「ここ、どうしたの?」
加州は自分の首元を、綺麗に装飾が施された長い指で差した。普段は赤いマフラーで隠れているそこは、食事中など特定のタイミングでしか見ることが出来ない。加州に差されたところを見ながら、自分の首元に手を添えても、そこには何もない。何だろう、と首を傾げたところで、ふっと小さく光忠が背後で笑ったのが聞こえた。
「虫刺されみたい。」
赤く。そこまで言われて、脳裏に浮かんだ人物に思い当たるものがあった。いや、まさか。彼が、そんなことをするはずがない。何にも、身体を重ねるだけの私にだって興味を示さない彼が。
「き、昨日襖を少し開けたまま寝ちゃったみたいで、虫入ってきちゃったのかな?」
和装のせいで外気に晒された胸元を隠すように、その上で小さく拳を握った。適当に誤魔化すと、加州はふーんと言ってから味噌汁を飲み干し、席を立った。
「よっし、出陣の準備してくるね!」
元気よく言う加州を、やっぱり可愛いなあと思う。出陣か。その前に一度、大倶利伽羅に会いたいな。安定と共に加州は食堂から出て行き、残された卓で一人、光忠特製お味噌汁を口にした。この温かさが、じんわりと胸に浸透する。
急いで食べ終え、食器を片付けようと立ったところで、光忠が私の前に立ちはだかった。みんなの食事の準備も済ませ、途中から私と一緒に朝食を食べていたのだが。僕が洗っておくよ、と言う彼は、きっと何もかも見透かしている。でも今は、その言葉に甘えてでも、会いたい人がいる。
「ありがとう。」
お礼を言ってから、まずは急いで自室へ向かった。手鏡で首元を映すと、鎖骨の辺りに数ヶ所、赤が滲んでいた。思わず手に持った鏡を落としてしまいそうになる。昨晩、この部屋で、この布団の上で、起きたことが夢ではなかったと思い知らされる。夜だけの関係は、いつからか気付いたときにはもう始まっていて、何度もあった出来事なのに、こんなのは初めてだ。鬱血の痕に指を添えると、自然と高鳴る胸に、彼への想いが膨らんでいく。彼は、どういうつもりでこんなものを。私のことなんて興味もないくせに。好きでもないくせに。それなのに、この痕ひとつで、こんなにも嬉しく思ってしまう。ああ悔しい。まるで、私は大倶利伽羅のものって言われているみたい、なんて感じてしまうなんて。ぐっと拳を握り締め、私は立ち上がり、その襖を開いた。
「大倶利伽羅!」
彼の自室へ走ると、途中で鶴丸に走る私を見てか、これは驚いたと、さほど驚いていないような言い方ですれ違いざまにそう言われた。けれど、それに立ち止まっている時間はない。本丸の朝はもう始まっていて、みんなが至る所で出陣の準備を進めている。待って、まだ行かないで。切羽詰ったような表情のまま会いたくないのに、気が付いたら彼の部屋の襖を開いていた。けれどそこには綺麗に畳まれた布団が二つ並んでいるだけで、大倶利伽羅の姿はなかった。
「主?大倶利伽羅なら、庭の方に行きましたよ?」
突然かけられた声に思わずビクリと肩を揺らしてしまった。振り返ると、出陣準備を済ませた長谷部が立っていた。刀装を作っていたのか、片手に金色の玉を載せている。特上作れたんだね、おめでとうという言葉は割愛し、ありがとうとだけ言ってから、私も庭に向かった。
カランコロンと下駄を鳴らしながらきょろきょろと辺りを見渡す。本丸の屋敷から少し離れると、もうみんなの話し声は聞こえなくなった。出陣前の慌ただしい時間に、ここはこんなに静かなのか。風が草木を揺らす音だけが耳を支配する中、その揺れた木の幹に寄り掛かって座っている彼の姿が目に入った。
「大倶利伽羅…」
会ってどうしようというのか。この紅は、所詮彼の気まぐれでしかないのに。名前を呼ぶと、ゆっくりと振り向きこちらを見上げ、そして瞳が私を捕えた。
「…あの、これ。」
自分で指摘するのは、とても恥ずかしい。それでも放置は出来ない。淡白な彼が、これを、どういうつもりで。私と彼の間を風がすり抜けていく。口の中の唾液が全てなくなってしまったかのように、カラカラに乾くのを感じて、身体中に緊張が走った。大倶利伽羅に黙ってじっと見つめられると、何も言えなくなってしまう。胸元で抑えるように握った拳が微かに震えた。そんな私を見ても、大倶利伽羅の表情は変わらない。知ってる、そんなこと。二人の夜でさえ、いつも余裕そうで、無表情で。でも額に汗を浮かべ、余裕を無くした顔も知っている。どっちの表情も、私の好きな大倶利伽羅のもの。
「……ふっ、」
不安を隠せない私の顔を見て、彼はようやく反応を示した。それは予想したものとは違って、ほんの僅かに口角を釣り上げていた。急激に感じ始めた熱。こんなにも鼓動が速まるのは、私だけなのかな。
「ああ、俺も考えていた。」
彼はゆっくりと立ち上がり、自然と目線が上へ向く。今度は私が見上げる番。その身長差にすら、ドキドキと胸が高鳴ってしまう。そんな私の胸元に、大倶利伽羅は左手を伸ばしてきた。龍が彫られている、紛れも無く大倶利伽羅の腕。まるで金縛りにあったかのように、身体が動かなくなったのをいいことに、彼は薄らと笑みを浮かべたまま、鎖骨に咲いた紅い痕に指を這わせた。こんな朝から彼に触れられることなんて初めてで、緊張と動揺とで頭が真っ白になってしまう。
「…綺麗だ。」
更に追い討ちをかけるのか。鎖骨に感じた感触と、その柔らかい声色に、私はもう限界を迎えている。いったい彼は、私をどうしたいんだろう。欲望のままに抱いているだけでしょう?気持ちなんてないんでしょう?だったらそんなこと、言わないで。
「な、んで、こんなの…」
「…嫌だったか?」
そんな訳あるわけない。心の底から嬉しいと思う。でも同時に、これが大倶利伽羅の独占欲の現れなんじゃないかって、期待もしてしまうの。
「……悪かった。」
素直に謝られてしまうと、その期待も全て打ち砕かれてしまう。彼は先ほどまで浮かべていた僅かな笑みを消し、いつもの無愛想な顔に戻ってしまっていた。そうやって、私の気持ちも聞かずに、興味ない、馴れ合うつもりはないって言って、拒絶しないで。くるりと向けられた背中がやけに大きくて、なぜだかとても切なくなった。行ってしまう。行かないで。私の想いを、聞いて。
「……?」
「ま、待って。」
咄嗟に、彼の上着の裾を握っていた。ざわざわと草木が揺れる爽やかな朝に、私の鼓動だけが大きく高鳴っている。大倶利伽羅は顔だけこちらに振り返り、じっと私を見下ろした。
「嫌じゃ、ない。」
羞恥で顔が熱い。こんなこと、大倶利伽羅の目を見て言えるほど精神的に強くない私は、思わず顔を伏せてしまった。そして彼の裾を持ったまま私はもう一度、嫌じゃなかった、と震える声で呟いた。
「嬉しかったんだよ…」
本当に、本当に嬉しかったんだ。数日も経たないうちに消えてしまう痕かもしれないけれど、ずっと残っていればいいと願ってしまう。心がそう叫んでいると、ぎゅっと掴んでいた布の感触が離れて行った。顔を伏せていたから、突然大倶利伽羅に肩を掴まれ、もう片方の手を顎に添えられ、ぐっと力を込められたら簡単に顔を上に向けられてしまった。黄金色の瞳が、真っ直ぐに私を捕える。息をするのも忘れてしまいそうな雰囲気に、肩も顎も掴まれてしまって、逃げられそうにない。
「…そうか。」
肩を掴んでいた手が、次第に首へと近付いていき、再び鎖骨を優しく撫でられる。固定された顎のせいで視線は彼以外に向けることは出来ない。グローブの滑らかな感触に居ても立ってもいられなくなるのに、大倶利伽羅はいつものように口を閉ざしたまま、そこを見つめていた。僅かにずれた視線が、ゆっくりと上がってくる。鎖骨、首、唇、そして目。全てを視線で犯されているような感覚に陥ってしまう。そんな視線に抗うように目を合わせると、彼はなんだかご満悦そうに、再び微笑を浮かべていた。
「俺の、だな。」
彼は確かにそう言った。それはそれは嬉しそうに。普段とそんなに変わらない表情なのに、声色だとか、口元だとか、こんな些細な変化が分かるようになっている。彼のことを目で追い過ぎたかな。ああもう、騒ぎ立てる心臓も、彼の声を捉える耳も、高鳴る鼓動も、全部が彼を好きだと叫んでいる。私の愚かな期待を肯定してくれているような発言に、思わず泣いてしまいそうになる。
「…ずっと前から、そうだよ。」
私の心はずっと、大倶利伽羅のもの。本心すら曝け出してそう告げると、彼は驚いたように少しだけ目を見開いた。そんな顔もするんだね。無愛想で無表情な彼が少しずつ表情を変えるのが嬉しくて、私はこれからも色んな彼を見て行きたい。その中に、私にしか見せないものがあればいいな。
「ああ、手離すつもりはない。」
しれっと、何でもないように簡単に言ってのけてしまう。でも、でも。大倶利伽羅にしてはなんて甘美な言葉をくれるのだろう。言葉足らずの無愛想な男が。私に対しては、そうとう心を開いてくれているようだ。状況を飲み込めていない私を見て、彼はやっぱり無表情のまま口を開いた。
「夜、会いに行く。大人しく待っていろ。」
「……待ってる。」
いつだってあなたを待っている。余裕そうな彼には、そんなことを言ってはあげないけれど。今夜こそは、もしかしたら、気持ちを通わすことが出来るんじゃないかって、淡い期待が胸を覆う。出陣に向かう彼の背中を行ってらっしゃいと送り出す。私だけがドキドキして、私だけが楽しみに思っているのかもしれないと不安が過ぎったとき、彼の背後に桜の花びらが舞っているのが見えた気がした。私だけじゃない。きっと、そう。朝日も完全に昇って、今日も一日が始まる。でも今日という日は、最高の日になるだろう。彼と約束をした夜を胸に秘めながら、私は今日も審神者としての任務に励むことにしよう。