遠くの方で、鈴虫が鳴く音がする。夏が過ぎ、気温もちょうどよくなった今、もう秋がすぐそこまで足を伸ばしていた。私がここへ来てから、数か月。色々なことがあったなと、昔の思い出に耽りながら、無意識のうちにふう、と小さく息をついていた。食事処の方から、何やらドタバタと音がする。私もさっきまであの喧噪の中にいたのだが、食事も終わったことだし、先に出てきてしまった。そうして、こうやって縁側に座って、夏の終わりの一夜を一人でゆったり過ごしていた。
「……はあ。」
別に、何か嫌なことがあった訳ではない。加州が畑仕事をしてくれないとか、長谷部が後ろに付き纏ってくるとか、それは毎日のことで、さすがに慣れた。最初こそ頭を悩ませていたが、今となっては二人を落ち着かせるのも日課となっていて、静かな方がむしろ寂しくなる。あの頃に比べればだいぶ刀剣男士も増え、本丸も賑やかになったものだ。昔のような静けさはない。賑やかすぎるのか、たまに一人でこうやって縁側に座って静かな時間を過ごしたくなるのだ。
遠くで微かに同田貫の気合いが入った怒鳴り声が聞こえてきて、それをBGMにしながら風に揺らされる池の水面に映った月を眺めていた。
「ゆらゆらゆら…」
ああ、なんだか気怠いな。体調が悪いとかではないはず。そんなことを考えながら、ゆらゆら、と水面と一体になったように効果音を口にした。そのとき背後で、ギシ、と小さく床が軋む音がして、私は弾かれたようにそちらを振り返った。
「…大倶利伽羅。」
月明かりだけに照らされた薄暗い廊下に立っていたのは、そのまま闇に溶けてしまいそうな、大倶利伽羅だった。たまたま通り掛かったのか、静かにこちらを見下ろしていた。暗闇の中からその黄金色の瞳にじっと、見つめられ、私も何を言えばよいのか分からず、口を閉ざしたまま見上げていた。ご飯ちゃんと食べた?とか、内番やってくれた?とか、手入れは済んでる?とか、色んなことを聞こうとしたが、あまりに真っ直ぐに見つめられ、どうしてよいか分からなくなる。私も彼も、何の言葉も紡がない、沈黙の空間に、鈴虫の鳴き声が入り込んできた。それを合図に、大倶利伽羅はふい、と視線をそらし、そのまま背後を通り過ぎて自室へと帰って行った。
他人を馴れ合うつもりはないと豪語する彼だが、それは私に対してもそうなのだろうか。話し掛けても素っ気なかったり、でもたまに優しかったり。それでも、大倶利伽羅との付き合いは長い方だし、多くを語らない彼は信頼できると思って近侍として仕えさせている。表情を出さない顔を見て機嫌をうかがうことはだいぶ出来るようになったとは思っていたけれど、今のはさっぱり分からない。なんであんなに見られたんだろう。首を傾げながら、さっぱり想像できない大倶利伽羅の心中に想いを巡らせた。
まあ、考えたところで何も分かりはしない。なんだか余計に気怠くなってきた気がする。心なしか、少し肌寒くもなってきたような。夏だと思って油断をしていると、風邪を引きかねない気温だ。それでも、まだここにいたい。どうしてかな、凄く、疲れた。はあ、とまた一つ溜め息をつき、私は地面に下ろしていた足を上げ、膝を折って腕で抱え込んだ。そして腕に額をつけるように、身体を丸くすると、更に気持ちが落ちていく。あ、このまま眠ってしまいたいかも。そう思って目を閉じたとき、肩に何かが触れた。突然のことにびくりと肩が震えて、ゆっくりと顔を上げた。
「…風邪を引くぞ。」
声と同時に視界に入ったのは、肩に掛かった黒いジャージだった。冷えた身体が、内側から熱が込み上がってくるのが自覚できた。一番熱を持ったのが、頬だということも。
「大倶利伽羅。」
縁側に立ち、月光に照らされた大倶利伽羅が姿を現す。わざわざ戻って、来たんだ。さっきと同様に上から見下ろされるだけなのに、その瞳に視線を合わせることが出来なくなって、私は顔を俯かせた。
「あ、ありがと。」
「…別に、大したことはしていない。」
そうは言っても、普段素っ気ない大倶利伽羅にこうやって優しくされると、やっぱり反動でどうにも嬉しく思えてしまうのだ。ずるい人。心の中で悪態をつきながらも、私は胸の前で腕を交差させ、ジャージの上から両腕を抱え込んだ。ドクンドクンと、小さく自分の鼓動が聞こえてくる気がした。そんなことをしていると、大倶利伽羅は私の隣に腰を下ろし、片足だけ地面に下ろした。予想もしていなかった彼の行動に驚いて、隣にちらりと視線をやって様子をうかがうと、地面に下ろしていない方の足を立て、その膝に腕を載せて怠そうに月を見上げていた。綺麗だなって、心底思った。
「あんた。」
横顔に見惚れていると、不意に声を掛けられ、さっきよりも大袈裟に肩をびくりと揺らしてしまった。顔は前に向けたままそう呼ばれたから、私も慌てて視線を前へと向けた。
「何?」
彼を見ていたことがバレていないか、内心びくびくしながら視線を庭中に泳がせていると、なかなか返事が返ってこなくてもどかしさで頭がいっぱいになる。何を言われるかと身構えていると、視界の端に、彼の顔が映り込んできた。恐る恐るそちらに視線をやると、彼は切れ長な目をこちらに向けて、やっぱりじっと私を見つめていた。ああ、綺麗な瞳。月のように輝く彼の瞳が、私は好きだ。真っ直ぐに見据えられると、飲み込まれそうそうだ。自然と私も見つめ返していると、次第に距離が詰められて、彼の顔が近付いてきた。なんだか甘い雰囲気だと誤解してしまいそうな距離に、胸の高鳴りも頂へと上る。至近距離で見つめられ、更には彼の大きな手が耳の上辺りに添えられてしまい、私はとうとう我慢が出来なくなって、目を瞑ってしまった。期待を、したのかもしれない。きっと、期待をしたのかと聞かれたら、否定は出来ない。
「…熱、じゃないのか。」
目を閉じたすぐ先で、彼の低い声が微かな息と共に届けられた。鼻の上に彼の長めの前髪が掛かったと同時に、額に大きな熱を感じ、震えながら目を開くと、すぐそこに睫毛を伏せた大倶利伽羅の顔があった。そしてすぐに離れていってしまい、何もなかったかのように、それだけ言った。まるで心に穴が空いたかのような喪失感に、私は自分でも信じられなくて、労わるようにそっと胸に手を添えた。何を、期待していたんだ。大倶利伽羅がそんなことをするはずがない。だから信頼できる近侍として傍に仕えさせているのだ。なのに、なのにどうして。私ばっかりこんなに心を掻き乱されて、悔しいな。
「大倶利伽羅ってさ、」
「なんだ?」
「本当に心配性だよね、顔には出さないくせに。」
からかうように、小さく笑いながらそう指摘すると、彼はどうしてか、少しバツが悪そうに後頭部を掻いた。照れているのかな、と胸が微かに温まったとき、その逞しい腕を上げられ、白いTシャツから伸びた褐色の肌に浮かんだ幾つもの切り傷に目を奪われる。思わず彼の腕を掴み、優しく指の腹で瘡蓋に触れた。
「これ…、」
大倶利伽羅は出陣から帰還しても、手入れ部屋に行きたがらない。そうやって小さな傷が増えていく。そんな彼に気付いてあげられない自分が、嫌になる。無理しないで。傷を見て、泣きそうになっている私を見てか、上からふっと、小さく漏れた声が聞こえた。涙の膜が崩れてしまわないように、大倶利伽羅を見上げると、少しだけ眉を垂れ下げ、柔らかい眼差しをこちらに向けていた。
「あんたもだいぶ、心配性だな。」
腕を掴んでいた手を、彼は逆の手で掴みそっと離した。大倶利伽羅の大きな手が、私の手首を優しく掴んでいた。大きな熱に、包み込まれる。普段は見せないような柔らかい表情に、落ち着きを取り戻したはずの胸が、再び騒ぎ始める。
「当たり前でしょう。」
そんなことは悟られたくないのに、私は大倶利伽羅と違ってすぐに表情に出てしまうから。これ以上ないほどに緩みきった笑みを彼に向けて、私は頷いた。今更否定することではない。私は大倶利伽羅が大切で、絶対にこの本丸に戻ってきてほしい。ずっと傍に仕えていてほしい。そう言っても、どうせ大倶利伽羅は「死ぬ場所は自分で」とか言うんだから、これは言ってあげないけれど。私は掴まれた腕を離し、今度はその手を、両手で包み込んだ。
「あなたは私の近侍なんだから。」
包んだ彼の手は、大きくてゴツゴツしていて、紛れも無く男性のものだった。この手を離したくない。そう思っていても、するりと擦り抜けて行ってしまうのが、大倶利伽羅という人物なのだろう。だから、心配くらいさせて。そういう意味を込めて。大倶利伽羅は一度目を伏せてから、再び私を真っ直ぐに見据え、微かに口角を上げながら、それも悪くないな、と小さく呟いた。